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第1章-1
午後11時。
新月で、街灯だけが頼りの夜だった。
車通りすらない閑静な住宅街、どこかを通り過ぎていった救急車のサイレンだけがドップラー効果で低く唸っていた。
アルバイト帰りの秋崎柊 は、スマートフォンを弄りながら、大きく欠伸をする。
本来、18歳未満の青少年は労働基準法によって、午後10時以降の就業は禁止されている。ただ、今日だけは予想外のタイミングで多くの客がやって来た。
万年求人募集を立てている、常に人手不足気味の職場は、一度に来た大量の客を捌こうにも捌けない。
だからまだ、高校生だというのに柊は、10時を過ぎても上がれなかったのだった。
激務で低賃金、法令無視の定時に上がれないファミリーレストランのアルバイトを辞めようかと、柊は悩んでいる。
普段は自転車で通る夜道を、今日は不運にも自転車のタイヤがパンクしていて、歩いて通っているため、些か不安だった。人の気配がすると、思わず振り向いてしまう。
今も、自分以外の足音がして、思わず柊は後ろを見てしまった。
足音の主である、なんの怪しげもない痩せた、長身の若い男が、柊の横をただ通り過ぎて行っただけだった。
「あっ」
柊は小さく声を上げた。
男のスラックスの尻ポケットから、黒革の長財布が落下するのを見たからだった。当の男は、気づく素振りを一切見せない。男は早歩きで先を行くので、柊は慌てて財布を拾って追いかけた。
「すみません、あの、財布落としましたよ」
肩がぴくり、と跳ねて、男は立ち止まる。柊は男の正面に回った。
「はい、これ…あなたのですよね」
「ああ」
男は、柊と目も合わさず、母音二文字だけ並べて、礼すら言わず財布を受け取った。
男の顔立ちが鼻筋が通っていて、暗闇の中でも端正なのがわかるが、目がうつろで唇を真一文字に結んでいるせいでひどく不機嫌そうに見えた。
夜道に唐突に声を掛けたのだから、自分のことを警戒されているのかもしれない。
柊はそう考えて、あまり、この男に関わってはいけない気がして、軽く会釈をした。そうして、先程より歩調を若干早めて、歩き出す。
「君!」
今度は柊が男に呼び止められる番だった。生き生きとして、張りのある声に柊は、理由もわからない少し不穏な予感がしながらも、もう一度、後ろを振り向いた。
「ありがとう!」
どういう訳か、無愛想な男の顔は、仮面を被ったような、顔だけ別人になってしまったような。兎角変貌していた。表情筋を微動だにしなかった男が今は、口角を大きく上げて、白い歯まで見せていた。
万人受けしそうな甘いマスクの男がそこにいた。
無表情な男の顔を知っていた柊は、むしろ不気味だ、としか思えない。
「いえ…」
男は意味もなく微笑したまま、つかつかと柊に歩み寄る。
柊の腰は、引けていた。二歩、三歩と後ずさりしてしまう。
「君に、財布を拾ってくれたお礼がしたい」
男はなんの前触れもなく、骨ばった手で柊の両手首をやんわりと握ってきた。柊の顔がこわばって、引き攣る。自分のパーソナルスペースを侵してくるどころか、身体に触れてきたのだから当然だ。
「もう夜遅いですし、礼なんていいですよ」
「遠慮しなくていい、僕の家はこの近所にあるから、すぐだ。そこでお茶でも一杯」
「いや、俺は財布を拾っただけなんです」
「いいから、いいから」
柊の手首を握った男の手に段々、力が籠る。
頬に冷や汗が伝った。どうにか、ここから逃げ出さないと不味い気がする。
「お、俺、明日朝から学校あるんで!失礼しますっ!」
柊は、自分の手首を捻って男の手を振りほどいた。明日は、日曜日で当然学校など無かったのだが、咄嗟についた嘘だった。柊は稚拙な嘘が露見する前に、慌てて駆けた。
「待ってくれ!まだ、僕は君の名前すら何も…!」
犬の遠吠えと共に男の声が聞こえてくる。
柊は、ひたすら全速力で走る。男が万が一ついてきているのがわかってしまったら、足が竦んでしまうような気がして、後ろは見なかった。
家の近くに来たところで、自分の息遣いだけが周囲に反響するのを聞いて、柊はほうっとため息をついた。
男は柊の後を追いかけてこなかったのだ。それとも、幼い頃から自信のあった柊の足の速さに、男がついてこれなかったのか。
「マジかよ」
安堵から一転、家に辿り着いたときに、家の鍵をどこかに落としたことに気づいて、柊の気分はどん底に落ちた。
こんな目に遭ったのだから、夜にアルバイトのシフトを入れることを避けようかと柊は思案した。
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