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第1章-9

「柊、柊ってば!曲もう始まってるよ!」 前奏はとうに過ぎていた。画面を誰にも歌われない字幕が、空虚に流れる。 「えっ」 我に返った柊は、慌てて歌い出そうとするが、アップテンポな曲だからか、タイミングが掴めない。ごめん、と橘に謝って、リモコンの演奏停止ボタンを押した。静まり返った室内には、外から別の客の、下手な歌声がこもって聞こえてきた。気まずい空気が流れていた。 「柊、今日だいぶ上の空だけど…」 「ごめん…」 「俺と遊ぶの、つまらない?今日ずっとこの調子だし、そもそも最近、俺と遊ばなくなったのは、俺のことを嫌いになったからじゃ…」 今にも泣き出しそうな勢いで、口を分かりやすくへの字に曲げて、目を潤ませる橘。柊は、大急ぎで弁明した。 「違う!そんな訳じゃなくて」 くだらないことで、友情にヒビを入れたくは無かった。柊は、物思いに耽っていた原因、全てを橘に打ち明けてしまおうか、と悩む。 ―――――――――――――― 榎本が豹変したあの日から、嘘のように平穏な1週間が過ぎていった。 柊は、後世に素晴らしい作品を残した芸術家たちの性格はたいてい奇抜で、その性格から来る変わった逸話が多数存在するのを榎本からいくつか聞いた事があった。皮肉なことに、そのエピソードを教えてくれた人間も、その類に当てはまるのだろうか、と柊は考えた。 とはいえ、どんな作品を残そうが、一時期好意を抱いていようが、あんな出来事があった以上、榎本とは、距離を置いていたい、というのが正直なところだった。 「君は、運命の人なんだ」 言われたその言葉が柊の胃の底にずっしり来る。榎本に抱擁されたときの感触も身体から抜けずに覚えていて、それほどにもあの日は強烈だった。 柊の榎本の見る目はすっかり変わってしまった。 だからといって、邪険に扱えば、何が起きるかわからない。 『秋崎くん、こんにちは。』 榎本とのメッセージアプリのやり取りは、以前と変わらず、日常の取り留めのない話題に終始していた。誰も先日の出来事には言及しない。違うところを挙げるとするなら、柊は、どこに地雷が埋まっているのか分からない男に、下手なことを言えなくなった。返信の際の言葉選びには、細心の注意を払っている。無理して普段通りを装うおかげで、柊の精神的な疲労は増すし、スマートフォンを凝視しながら、難しいことを考えているので、肩が凝るようになってしまった。 『そういえば、今までちまちま描いていた絵が溜まったから、秋崎くんに見て欲しいんだ。こうやって見ると、結構壮観だな。』 その日の榎本は、そんな文章と共に画像ファイルを送信してきた。今までのやり取りでも、大学の課題だ、という描いた風景画や静物画の写真を送られてくることが時折あった。 柊は、榎本の描く絵に関してだけ、素直に好きだった。実際、以前榎本に貰った肖像画は、大事に自室に飾ってある。卓越した色彩センスや、細部まで見逃さない観察眼、繊細そうに見えて実は大胆なタッチは本人の人柄とは何ら関係ない。作者と作品は別物だと割り切っていた。 柊は、期待を膨らませて添付ファイルを開く。 鉛筆で描かれたであろう、十数枚の人物画が、木製の机にランダムに広げてある写真だった。作品同士が重なって、細部が見えないものや、画面の外にはみ出ているものもあるが、それでもぱっと見ただけで出来に圧倒される。 モデルは誰だろうか。 ポーズは様々、若い男の日常風景をそのまま切り取っている。今にも動き出しそうな躍動感があって、細部のディテールまでもが丁寧に描きこまれていた。今まで見せられた絵よりもずっと、熱意を持って描かれたものに違いない。 暫く感心しながら、眺めていると、柊はようやく気づいた。 絵の人物の顔は、全て自分の顔だった。

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