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第1章−8

いつもなら、柊は時計を高頻度でちらちらみるほど、終業時間が来るのを待ち構えていたのに、今日だけは時計の針が止まって欲しい、と切に願っていた。 それだというのに、タイムリミットを超えても平気で残業させる職場は、今日に限って、22時になるから、と無情にもさっさとタイムカードを切らされてしまった。 レストランの従業員通用口の脇で、榎本は、ぽつん、と佇んでいた。またも顔が帽子のつばで隠れていて、感情が読み取れない。 コーヒー一杯だけで店に居座って、柊が上がる五分前には、わざわざ退店して裏口に回ってまで、待ち伏せていた。 22時に終業の従業員は、柊のみだった。橘は、シフトの都合上、1時間早く帰っている。 『あの客、あたかも俺に親でも殺されたかの形相で俺のこと、睨んできてさ。すっげー怖かった』 ただコーヒーを給仕しただけの橘が、そう評した榎本と、夜の路地裏で、2人きりで対峙しなければならない。不運続きだった。柊にどんよりとした重圧がのし掛かった。榎本は何の目的があって自分のことを待っていたのだろう。 柊は、できるだけ酸素を肺に大きく取り込んで、深く息を吐いた。そうして、話しかけた。 「榎本さん、お待たせしました。何か、俺に話が…」 「あの男は、誰」 開口一番、榎本は、柊の言葉を遮って、予想だにしなかった質問を飛ばした。 「あの男」 誰を指しているのか、柊には皆目見当がつかない。榎本は、場所が悪いな、と静かに呟いて、急に歩き出した。柊は慌ててその後ろを、少し距離を置きつつ、自転車を押して歩いた。 榎本はただでさえ、痩せているのだが、夜の街灯が背中を照すと、更にその病気のような痩躯を際立たせた。 目的地が分からぬまま、沈黙が暫く続いた。 分かるのは柊の家の方向に向かっているということだ。ほぼ、帰路に使っている道だった。疑問が解消されないまま、不安は増大するばかりだ。 榎本は、急に住宅街の道端で立ち止まった。柊も立ち止まる。榎本は、振り返った。底知れない淀んだ湖のように暗い目を合わせてきて、柊の肌が毛羽立った。 「秋崎くんはさ、最近、僕と会ってくれないし、お話すらしてくれないよね」 「すみません。何度も言ったかもしれないけれど、俺はテストで忙しかったんです」 「うん、知ってる」 柊は、榎本の言いたいことを一向に掴めない。すると、榎本の瞳の奥が発火したかのように鮮やかになる。榎本は、秘めていた激情を露わにして、一気に早口で捲し立てた。 「確かに、秋崎くんは、まだ高校生だから色々忙しいのだろう。それは仕方がない。目を瞑っていたさ。でも、僕がこの一週間どんな思いでいたか、知っているかい?そもそもこの3日なんて、音沙汰すらなかった!君にも事情があるのは知っている。だから、今日こそは大丈夫だろう、と待ちきれずに、君に会いに行ったんだよ。そうしたら、何を話しているか分からないからもどかしい!あの男と楽しそうに話しているのを見るだけでも腹ただしかった!それだけでは、飽き足らず、僕の眼前で、あの男とハグをしていた!どうしてだ?!おかしい!君に会うのを楽しみにしていただけで、なぜこんな仕打ちを受けねばならない!こんな目に遭うなんて思わなかった!僕は、まだ!君と手を繋いだことすらないのに!」 言い切った榎本は、じりじりと、柊に詰め寄った。柊は唖然としすぎて、発声の方法も、後退りの方法も一瞬忘れてしまう。ついには、気が動転していて、持っていた自転車のハンドルバーを離してしまう。重力に従って、自転車が倒れた。静かな住宅街にがしゃん、と音が響き渡る。 榎本は、橘に嫉妬していたのだ。 彼は、榎本春樹の顔をした、違う人間ではないか、と疑いを抱いた。憧れすら抱いていた榎本春樹はここにいない。あの、大人の、年上の余裕は、どこにも見られない。 橘なりの友情表現1つでここまで激昴するなど、本当に別人ではないのか。 「あの男は、誰」 もう一度、問い詰められる。柊は、恐る恐る答えた。 「同僚で、友人です」 「本当に?やましい関係じゃない?あんな楽しそうに話して、ハグをしていたのに?」 やましい関係が具体的になにか、柊には分からない。迫ってきた榎本と柊の距離はすでに30cm。今にも掴みかかられそうだ。榎本の興奮気味の息遣いが、容易に聞こえる。後ろに下がっても、コンクリートのひんやりとした触感が柊の手を伝って、背後は電柱が通せんぼしていることが分かった。逃れられないという、軽い絶望感があった。 「だから、ただの同僚で友人です。あれは、彼なりのコミュニケーションで…」 柊は、声帯から声をどうにかひり出した。これ以上機嫌が損ねられないように一語一語、言葉を慎重に選んで、できる限り友人であることを強調した。柊が身を守る術はそれしかない。 榎本は何か考えるような仕草をした。 「ふーん。まあ、いいか。君がそう言うならそうか。そうだな」 榎本の手が、柊の両肩に触れた。それだけで、恐ろしくて身体が微妙に跳ねた。榎本の声が穏やかになる。 「秋崎くん、ここがどこか分かるかい」 「えっと…」 唐突な話題転換だった。 「僕と君が出会った場所だ。2ヶ月と12日前、ここで君は僕の財布を拾ってくれたね」 詳細な日付や、場所を覚えている榎本に柊は少し慄いた。榎本はそんな柊を、不意に抱き寄せる。体温を直に感じ取った柊は、予想外の榎本の行動にひどく当惑する。 「あ、あの、榎本さん……」 身をよじって、下手に逃げ出そうとすると、何をされるか分からないので、柊はされるがままになっている。榎本は柊の背中を撫でる。撫でられたところがぞくり、と鳥肌を立たせた。 「ここで、君を一目見たあの日。あの日から、僕は君のことだけを四六時中、考えてきた」 2人を見守るのは、異様に大きく青白い満月のみだった。柊は榎本の腕の中で硬直している。榎本は、優しく柊の耳元で囁く。 「君は、運命の人なんだ」 愛の告白ともとれる発言だった。その発言を受けて、柊の思考回路はぐちゃぐちゃに混線した。感情を欠落させたかと思えば、激昴し、ついには愛情を吐露する。 百面相の様に、ころころと感情を変える、榎本春樹という男が、異世界の住人のようにしか思えない。 「突然、そんなことを言ったから、今の秋崎くんは困惑しているだろう。つい、気持ちが昂ぶってしまった。でも、これで僕のことは意識してくれただろうか」 榎本の抱擁は解かれた。解放されて、身体の軽くなった柊は、ようやくまともな呼吸をした。榎本は、いつもの温和な微笑を浮かべた。 「急いてはいけない。僕らには僕らなりのペースがある。秋崎くん、これからも僕と仲良くしてくれるかい?」 柊は、否応無しに、首を縦に振らざるを得なかった。

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