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第1章−7

一発で榎本と、判断できなかったほど、この時の榎本は柊の知らない顔をしていた。温良でにこやかな青年の顔からは、全ての人間らしい表情という表情が欠落していた。 まるで、木彫りの人形に簡素な目と鼻と口を彫っただけの様な。 ただ事ではない様相に、柊は酸欠の金魚のように口をぱくぱく開閉させて言葉を発せなかった。震える手をなだめながら、ハンディの入力内容を厨房に送信するボタンを押して、榎本に背中を向け自分の持ち場に戻ろうとする。 「バイト、いつ終わるの」 氷柱のような冷たい榎本の声が柊の背中を狙って投げられる。答えないとその氷柱に背中を貫かれて殺されてしまいそうな気がした。 「22時、です」 「そう。じゃあ待っているね」 ホール担当の従業員は、ドリンクも担当することになっている。柊は、散々慣れている作業だというのに、覚束無い新人のような手つきで、コーヒーサーバーに、コーヒー粉をセットした。 「柊、大丈夫か?あの客に、なんか変なことでもされた?」 橘は、接客から帰ってきた柊が、傍から見ても様子がおかしいのを心配して、顔をまじまじと覗き込んだ。 「大丈夫、なんでもない…」 その場を取り繕う為、柊は強張った笑顔を浮かべた。 何故榎本がここにいるのか。 仲良くなったとはいえ、勤務先の具体的な情報を話したことはなかった。 寸秒、柊は榎本と目が合ってしまった。 心臓が止まりそうになる。 無表情の割には、強い眼力があって、その視線にはなにか、柊には、敵意や怒りのようなものさえ込められているような気がした。 柊は、榎本のあの様子が自分の悩みの種と関連づけられるような、関連づけられないような気がした。 この1週間は、学校のテスト期間で忙しかった。勉強していて、スマートフォンを極力触りたくなかった為、榎本とのメッセージのやり取りもおざなりになっていったし、会う約束も断っていた。確かに榎本と話すのは楽しいが、四六時中やり取りをするのは流石に疲れる。 成績が悪いのを親に咎められているのもあって、遊び歩く訳にも行かなかった。 『君は今、何をしているの』 返信に時間が空くと、榎本に、会話の流れを断ち切ってまで、事細かに、何をやっていたかを聞かれるようになることが増えた。テスト勉強をしていました、と逐一報告すると、一応は納得してくれてはいるのだが。 まるで、浮気を疑う嫉妬深い恋人に束縛されているようで、段々と榎本が鬱陶しくなる。 テスト本番のこの3日間は、完全に返信を滞らせていた。 『何をしているの』 読んでいようが読んでなかろうが、1日に1回は、榎本から送られる一行のメッセージ。無機質な文字の並びに柊は少し怖くなる。ひとまず、テストが終わった翌日から、やり取りを再開しようと思ったところだった。 「柊、あの客ちょっと怖いね。凄いこっちを見てくる」 橘が小声で柊に囁いた。榎本は遠くから、なりふり構わずこちらをじっと観察している。柊は、榎本と目が合うのが恐ろしくて手元だけをじっと見ている。榎本に出来上がったコーヒーを給仕するのが怖くて、トレーを取ったまま中々足を踏み出せない。 察知した橘は、柊を気遣った。 「大丈夫。俺がコーヒー運ぶから。変な客には慣れてる」 「ありがとう…」 友人の気遣いが、柊の心に沁みる。 同時に別の客が柊を呼び止めたので、様子が気になりながらも他の客の対応をした。幸い、榎本に背を向ける位置の客席だったが、背中に視線を感じた。 返信が滞っていることに対して、榎本がわざわざバイト先に現れるほど、憤りを覚えているのではないか、と柊は仮説を立ててみたが、突拍子も無い思考だった。 柊は頭を振った。 そうだとしたらあまりにも、榎本は大人気ない。 今までの榎本は、年上の余裕を見せて柊に接してきた男なのだ。そんな幼稚な理由で怒るほど、精神が未熟な筈がない。 きっと、榎本がここにいるのもまた、偶然によるものだ。 別の、柊とは関係ないことで、たまたま、虫の居所が悪いのだ、と思うことにした。

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