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第一話

 六月のその日は梅雨時ということもあって午後になって雨が降り出した。  昼休みを過ぎたころ、教室の窓から見上げた空に急に真黒な雲が広がり出したかと思うと、ザァアア……とはっきりとした雨音が窓を閉めていても聞こえてくるくらい激しく降り出した。  窓から見えるグラウンドはみるみる大量の雨を吸収して泥濘(ぬかる)み始め「ああ、今日はさすがに部活休みだな」なんて俺は心の中で呟いて、手にしたシャープペンシルを指でクルクルと回転させながら、黒板に軽快な音で文字を書いている英語教師の背中を見つめた。  午後の授業が終わると案の定部活中止の連絡が入り、同じクラスで同じ陸上部の友永(ともなが)に促され帰り支度を始める。 「渋谷ー! 帰ろうぜ」  友永が後ろから俺の肩をガッと掴みながら言った。 「ああ。俺一回部室行かんと」 「は? なんで?」 「傘、置きっぱなんだよ」  少々の雨ならわざわざ傘を取りに行くまでもないが、俺は窓の外を眺めて小さく息を吐く。雨は相変わらず降り続いていて、とてもじゃないが傘なしでは帰れそうにない。  教室を出て友永と共に部室に向かい、部室のロッカーの扉を開けたが、置いてあったはずの黒い折り畳み傘がなぜか忽然(こつぜん)と消えていた。 「──っれ? おかしいな。確かここに……」 「パクられたんじゃねぇのー?」 「はぁ⁉」 「宮田も前、ここに置いといた傘とか漫画無くなったって。部室、鍵も壊れてっし物騒なんよ? 傘なんかこんな雨じゃすぐパクられんじゃん」 「マジかー」  たかが、傘。されど傘。()られたことに対する腹立ちはさほどでもないが、必要なものが必要な時にないとは何の為の置き傘だ、という話だ。  部室の隅には骨がむき出しになったビニール傘が何本か放置されていたが、さしずめビニール傘を目当てに部室にやってきて、それが使い物にならないと分かった先輩たちがロッカーを家捜しして、偶然見つけた俺の傘を持って行ったというところだろう。  友永が言ったように、数カ月前から部室の入り口の鍵が壊れている。実際のところいつ誰が俺の傘を持って行ったかなど分かるはずもないのだ。 「──マジかぁ」 「まぁまぁ、俺が入れてっちゃるし。な?」  友永が笑いながら俺の背中をバシン、と叩いた。  そのまま友永と共に部室を出て下駄箱に向かう。下校時間はとうに過ぎていて、下駄箱でうろうろしている生徒はほんの数えるほど。そんな生徒たちも次々に靴を履き替えると傘を広げ下校していく。  先に靴を履き替えて外に出た友永が、誰かに声を掛けるのが聞こえた。同じクラスのやつだろうか、と俺も靴を履き替えて外に出ると、友永と同じクラスの柚木(ゆずき)が俺を振り返る。その瞬間風が吹いて、柚木の肩までの髪と制服のスカートがフワと揺れた。 「ん? どうしたん?」  俺が訊ねると、柚木の代わりに友永が「柚木。傘、ないんだって」と答えた。と、同時に投げ掛けられた友永からの意味ありげな目配せ。瞬時に俺は友永の思惑を察し、奴にだけ分かるように大きく頷いた。 「じゃあ、柚木。友永に送ってもらえば? 確か方向一緒だろ?」  俺がそう言うと、柚木が「え」と一瞬戸惑いの表情を見せたのに対し、友永は嬉しそうに口の端を上げた。  友永が柚木に想いを寄せていることを俺は以前本人から聞いて知っている。  賑やかな性格の友永とは対象的な控えめで大人しい柚木。クラスの中は自然と派手組・地味組に分類され、同じクラスにいながら彼女と話す機会もないと、以前から友永がぼやいていた。  ふいに巡って来た友永にとって絶好のチャンス。  友人としてその恋路を応援してやるべきだと考えるのはごく自然な事だろう? 「傘、ないんだろ? この雨じゃさすがに風邪ひくぜ?」  そう口添えをしたのはもちろん友永の為。俺は去年も彼女と同じクラスだったし、委員会も一緒だった。友永と比べれば大いに接点はあるし、クラスメイトとしての信頼度も友永よりは高いはず。 「そうだよ、柚木。遠慮しないで入ってけって」  友永も言った。 「……でも。渋谷くんは?」 「俺は傘忘れたからさ。親に迎え頼んでんだ。あと十五分くらいで着くっつーから」  (もっと)もらしい嘘を吐いて微笑むと、柚木の表情がほっと緩んだ。 「つーわけだから。行こうぜ、柚木」 「ありがとう。友永くん」  友永が開いた傘に、柚木がちょこんと入った。振り返った友永が片手で「悪いな」と合図したのに対し、俺は握った手を上に伸ばし、そっと親指を立てて激励の意を表した。  くしゃっと照れながらも嬉しそうに微笑んだ友永が、柚木をエスコートしながら歩いていく後ろ姿を見送る。 「……青春だな」  ボソと呟いて、はは、と笑った。  ああいうのが正しい青春の形というものだ。そういう普通のことを謳歌できる友人たちを俺はやはり少し羨ましいと思う。恋愛に興味がない訳ではない。それなりに気になる奴だっているし、誰かを想い心が浮き足立つ感情だって知っている。  ただ俺にとってのその対象が、世間一般の同じ年頃の人間と比べて、ほんの少しばかり【特殊】だというだけだ。 「さぁてと!」  そう声に出してから、息を吐いた。下駄箱を出た所の屋根の下で、降りしきる雨をぼんやりと見つめる。  雨は止むどころか、さっきよりさらに雨脚を増している。この雨じゃ、この屋根を出てものの数分でびしょ濡れだ。傘はないし、流石にどうしたものかと考えあぐねていると、ふいに物音が聞こえ俺はハッとして音のした後方を振り向いた。    上靴を脱いで下駄箱から取り出した靴に履き替えているのは、これまたクラスメイトの吾妻(あずま)。  当然顔見知りではあるが、話したことはほとんどない。なぜならさっきの友永と柚木同様に、お互い接点というものがないからだ。  かといって俺が吾妻の事を知らない、というわけではない。向こうが俺を知らなくても、こっちは相手を知っているという場合もある。なぜなら、俺がこの吾妻に興味があるから。  靴を履き下駄箱から出てきた吾妻が、屋根の下で立ち尽くしている俺に気づき掛けている眼鏡のブリッジを指でそっと押さえながら生真面目な視線を向けた。 「渋谷、ここで何してんの?」 「あ──いや」  少し驚いた。どちらかというと人にあまり関心のなさそうな吾妻が、俺の名前を知っていたことに。 「吾妻こそ何してんだよ。やけに遅くねぇ?」 「俺は、日直。職員室行ってて……」  その言葉に、ああ…と素直に納得した。クラス委員長なんかも任され、殊更真面目な印象の強い吾妻らしい。  ふいに風が強く吹いて、雨が屋根の下にまで降りこんで来たのを慌てて避けると、吾妻が俺を見てクスと笑い、手にした紺色のジャンプ傘をボンと音を立てて広げた。 「入ってく?」 「え?」 「その感じ。……傘ないんだろ?」 「はは、バレた?」 「分かるよ。そうでもなければ、渋谷さっさと帰ってそうだもん」  普段あまり表情の変わらない吾妻の口元が少し緩んだのを見て、こんな顔もできるんだとなんだか少し得した気持ちになった。  吾妻が広げた傘をこちらに少し傾け、俺にそこに入るよう促した。俺が素直にそれに従うと、歩調を合わせ歩き出す。  大きな雨粒が傘に当たり、途端に傘の中が賑やかになる。バラバラと傘に落ちる雨音は、どこかリズミカルで意味のない音楽を奏でる。 「こんな日に傘忘れたのか?」  こんな日、と吾妻が言ったのは、天気予報が昼過ぎから大雨の予報を出していたからだ。朝の情報番組のお天気コーナーでも、しきりに雨具の準備を促していた。 「いんや。置き傘パクられた。……んで、友永が入れてってくれるっつーからその気でいたら、土壇場でキャンセル」 「えー?」  吾妻の不思議そうな顔を見つめながら、俺は、ははと小さく笑う。 「いや、な? ここに友永の好きな子が俺とおんなじように傘なくて困ってたってわけ」 「──ああ、分かった。人がいいんだな。渋谷は」 「え?」 「分かる。傘、譲ってやったんだろう?」  そう言って笑い返した吾妻が、まるで俺のことを理解しているような素振りを見せたことになんだか胸の奥がムズムズとした。ムズムズと言っても不快な感じでは決してない。どちらかといえば、吾妻がそんな素振りを見せたことに対する嬉しさでむず痒いような感覚。 「……なんで、そう思ったんだよ」 「渋谷、そういうとこあるから」  その言葉に不思議な気持ちになった。  吾妻とは、この春初めて同じクラスになり、この数カ月でまともに話をしたのはほんの数えるほど。同じクラスで毎日過ごしていながら接点という接点はほとんどなく、ただ同じ空間を共有しているというだけだった。    

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