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第二話
「渋谷、もっとこっち」
ふいに吾妻が俺の肩を引き寄せた。コツンと肩と肩がぶつかり合い「あ、悪りぃ」と謝ると、吾妻がまた眼鏡のブリッジを押さえた。ふいに顔を近づけた吾妻がボソと呟くように言葉を吐く。
「近寄んないと濡れる」
吾妻は特に運動部に所属しているわけではないが、背が高く、一見細く見える身体のわりに筋肉質だ。
黒髪に黒縁の眼鏡。一見、ガリ勉タイプに見えるが運動神経が悪いというわけではない。
「はは。狭いな、さすがに男同士は」
そこまで言ってハッとした。厚意で傘に入れてもらっているのにこれじゃまるで文句を言っているように聞こえなくもない。
「悪いな。傘貸したのが、俺で。渋谷なら、女の子のほうが良かっただろう?」
「ばか。そういう意味じゃねぇって。むしろ──」
そう言いかけてその言葉を飲み込んだ。むしろ、吾妻で良かった──などと言ったらさすがに怪訝な顔をされるに違いない。
バラバラと相変わらず傘に当たる雨音は大きく、その音の分やはり雨脚は強くて。校門を出て数メートルのところですでに制服のズボンの裾は大量の雨水を含んでビチョビチョになっていた。
「やっべー! すげー濡れてる‼」
「……俺も」
二人同時に足元を見、それから顔を見合わせてふは、と吹き出した。
「渋谷、あそこ見て」
そう言った吾妻が指さした先に、普段は気にも留めずに通り過ぎている古い小さな公園があった。
ブランコと滑り台のほかに小型のアスレチック風の遊具が数個。その奥に公園に遊びに来た人々がちょっとした休息を取るためのベンチと日よけの屋根が見える。
「とりあえず、あそこ避難」
「だな」
吾妻が指さしたほうに二人肩を寄せ小走りに駆け出すと、水溜まりを踏んだ足元にさらに泥が跳ねた。
避難した屋根の下は思いのほか狭く、風に煽られた雨が足元に降りこんでくる。
おまけに老朽化が進んでいるのかところどころ雨漏りがあり、屋根の下だというのに所々雨水が落ちてくる箇所がある。
「ここも結構濡れるな」
俺の言葉に、吾妻がふっと笑った。
「まぁ、傘ん中よりはマシってことで」
確かに男二人狭い傘にみっちり収まっている図に比べれば、幾らかマシだ。吾妻が傘を畳むと、下に向けた石突の先端にあっという間に水が溜まる。
相変わらず雨は激しく降り続いている。俺は屋根の下のベンチに腰掛けて、制服のズボンの裾をくるくるとまくり上げた。足元にべったりと張り付くような布の感触が気持ち悪い。
ゆっくりと身体を起こすと、隣に座った吾妻がぼんやりと雨を眺めていた。その横顔に思わず見惚れてしまう。
今までにも何度かこの男の横顔に見惚れたことがある。特別美しい顔立ちか、といえばそこまででもないし、一体何がそうさせるのか──。
ふと見ると、吾妻の制服のシャツの肩先が雨に濡れていた。自分の肩先と見比べても明らかに吾妻の肩先の濡れ方のほうが酷い。白いシャツが濡れて、中に着ているシャツごと身体に張り付いているのが分かる。俺が濡れないよう傘を傾けてくれていたのだろう。そんなさりげない気遣いに胸が温かくなる。
「ん? どうした?」
吾妻が俺の視線に気づいてこちらを見た。
「いや、なんでも……」
見惚れていたなどと、言えるか。こちらを見た吾妻の眼鏡が雨で濡れ、小さな水滴がいくつも付いているのが少し気になった。
「吾妻。眼鏡、すげーことなってる」
俺が言うと、吾妻が思い出したかのように掛けている眼鏡を外した。それからおもむろにシャツの腹の辺りでその濡れた眼鏡を拭く。
そこで拭くのかよ、と一瞬気にはなったが、それよりも眼鏡を外した吾妻の横顔のほうが余程気になった。
「眼鏡ないと大分雰囲気変わるんだな……」
俺の言葉に吾妻が少し首を傾げた。
「そうか?」
「モテそう」
「……はは、初めて言われた」
事実、眼鏡を外した吾妻は学校で見るどちらかといえば堅い印象は和らいでいる。首元までかっちり留めたボタンを一つ二つ外して、濡れた前髪を上げて、にっこり微笑んでやればクラスの女の子たちが喜ぶレベルだ。
「──けど。眼鏡あったほうがいいよ、吾妻は」
こんな吾妻は、誰にも知られなくていい。俺だけが知っていれば。
制服はもちろん着崩してはなくて、シャツのボタンは一番上まできっちり留められていて、ネクタイも曲がってなくて。いつも背筋がシャンとしてて、俺の周りの騒がしい友達とは明らかに違う雰囲気を持つ。
「渋谷は、モテるよな」
吾妻が外していた眼鏡を再び掛けた。
「それこそ、初めて言われたわ」
「はは。気づいてないのか」
相変わらず雨は降り続いている。時折公園の前を車がバシャ、と豪快に水溜まりを跳ねながら通過していく。
「つか。これ、いつ止むんだ?」
「や。止まないだろ。明日まで降り続く感じらしいし」
「マジか? んじゃ、雨宿りも無駄か! さっさと帰ったほうがよくね? あんま付き合わせても悪いし」
このままここで雨宿りをしていても埒があかないのなら、あまり吾妻を巻き込んでしまっても申し訳ない気がしてそう言うと、吾妻がこちらを見て口の端を上げた。
「俺はいいよ。せめてもう少し雨脚弱まるまでここにいよう。俺は渋谷とこうしてんの結構楽しいし」
そんな吾妻の何気ない言葉が嬉しくて、俺は照れくささに意味もなく前髪をかき上げた。
ふいに強い風が吹いて、吾妻の髪がフワと舞った。普段見えない額や、耳の後ろが一瞬見えただけのことに心臓がリアルにドキ、とする。
不思議だと思う。クラスでなんだかいい匂いを振りまいてる女の子たちの髪がなびいても、スカートの裾が捲れようとも、こんな風に心臓がその存在感を主張してくる事などないというのに。
この男、この吾妻にだけ俺の視覚・聴覚が反応する。
こうしている今も小さな吾妻の動きを無意識に目で追っている。こんな酷い雨の中にいようと吾妻の声だけはしっかりと耳に入ってくる。
「髪、濡れてんな」
吾妻が鞄の中から取り出した小さなタオルを俺の頭にそっと乗せた。その瞬間香るなんとも清潔感溢れる吾妻の家の柔軟剤の香りに俺の嗅覚が反応する。
「……」
五感、って何だっけ? ふとそんな事が頭をよぎった。
視覚・聴覚・嗅覚、それから──ああ、そうだ。残りは味覚・触覚。
探究心に心が疼く。吾妻に触れたらどんなだろう。我妻はどんな味がするのだろう。
雨はまだ降り続いている。
屋根の中にも雨が降りこんで、いつのまにか屋根の下のコンクリートにも降りこんだ雨によってできた黒い染みが広がっている。辺りは少し薄暗くなり、公園の近くを走る車のライトがちらほら灯り始めた。
「吾妻」
「ん?」
「そろそろ行くか。なんか暗くなってきたし、雨、全然止みそうにねぇし」
そう言って立ち上がった俺を吾妻が見上げた。
本当はもう少しこのままでいたかった。降り続く雨の中、まるで俺と吾妻の二人だけが取り残されたかのような雨音によって遮断された静かなこの空間に。
「……そうだな」
そう答えた吾妻がゆっくりと立ち上がった。傘を手に取り広げると、傘についていた雨粒がまるで小さな水晶玉のようにあちこちに飛び散った。
「これ。サンキュ、な」
ついさっき吾妻が貸してくれたタオルを返そうとそっと手を差し出した瞬間、ふいに吾妻にその手首を掴まれハッとする。
一瞬、交差する視線。沸き上がった感情の疚しさからか、慌てて視線を逸らすと、吾妻がその腕に力を込め、ふいをつかれた俺の身体は図らずも吾妻のほうへ引き寄せられた。
「俺はもっと一緒にいたかったけど」
そう少し意味深なニュアンスを含んだ言葉を放った吾妻の顔が、傘の中近づく。
相変わらず屋根の向こうは大粒の雨が降っていて、外の景色はその雨に霞んでいる。
傘の下という密着した二人きりの空間の中、お互いの髪が触れるほどの至近距離に、心臓がさらにその存在感を主張してくる。
「渋谷」
「……」
いまだ降り続く雨。吾妻の差した黒い傘の影と、目の前の吾妻の影が俺のその視界に迫る。
口元を緩ませた吾妻の顔がさらに近づき、そっと唇に触れる生暖かな感触に俺はただ目を見開いたまま身体を固くした。
それはほんの一瞬のことか、それとも数秒あったのか。
ぬるりとした温かなその感触に驚くと同時に、額に吾妻の眼鏡が小さく食い込む感触。吾妻の伏せた長い睫毛が目の前で揺れたかと思うと、やがてすっと離れていった。
「え」
一体何が起こったのか──。
その時、プルルルル、と電話が鳴った。
「電話。渋谷だろ」
「あ……うん」
目の前の吾妻に聞きたいことは山ほどあったが、とりあえずスマホを取り出し電話の主を確認する。
「姉貴だ」
こんな時になんの用だと、一瞬煩わしく思ったが、口うるさい姉貴の電話を無視することのほうが後々厄介なことを俺は知っている。
「もしもし、姉ちゃん? ……何の、──は?」
ほんの束の間。一分にも満たない短い時間の事だった。
姉貴からの電話を切って辺りを見渡すと、そこにはもう吾妻の姿はなく、座っていた湿ったベンチの上にさっきまでなかった未使用の紺色の折り畳み傘が一本、ただ静かに置かれていた。
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