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第三話

「んも~‼ ずぶ濡れじゃない‼ 何やってたのよ、あんなとこで」  あれからどれくらい経ったのか。  車で迎えに来た姉貴が、車に乗り込んだ俺をみるなりあからさまに嫌な顔をした。姉貴がそんな顔をするのも頷ける。事実、俺は全身ずぶ濡れだったのだ。 「──ん。傘ねぇから、雨宿り?」 「何言ってんの! 雨宿りしてたら、こんな濡れないでしょう? バカじゃないの? 風邪ひくわよ?」  あの時の姉貴からの電話は、俺が傘を持っているかいないかの確認電話。  家に俺の傘が置きっぱなしになっていた事から、母親がさすがにこの雨の中の傘なしの俺を心配して、ちょうど早めに帰宅した大学生の姉貴を迎えに寄こしたのだ。 「ほらぁ! タオル! ちゃんと拭いて」 「ん」  姉貴に無理矢理押し付けられたタオルで髪と顔を拭った。ふと鼻をかすめた柔軟剤の香りに、吾妻の匂いを思い出す。    姉貴との電話中に忽然と姿を消した吾妻を追うように、俺は吾妻が置いて行った折り畳み傘を握りしめたまま雨の公園の中を探し歩いた。  せっかくの雨宿りも、まるで意味がなかったほどずぶ濡れになるまで。 「……ねーちゃん、寒みぃ」 「当たり前よ。こんな濡れて! ほんともう、バカなんだから」  姉貴がハンドルを握ったまま、大きくため息をつく。口は悪いが、こうして迎えにきてくれたりする、こう見えて意外と弟想いのよき姉だ。 「……それにしても、」  なんだったのだろう、アレは。 「え? なぁに?」 「いや。なんでもね」  俺は姉貴に適当な返事を返すと雨で冷え切ったずぶ濡れの身体をシートに預け、静かに目を閉じた。  あれは夢か、幻か? ほんの少し湿った唇の上にまだ吾妻の唇の感触が残っている。    *  *  *  次の日いつものように学校に行くと、普段と変わり映えしない見慣れた教室の風景が目の前に広がる。  クラスの中にいくつかできたグループが固まって、たわいのない話をしている。  派手で騒がしいグループが教室のど真ん中を陣取り、その他グループが空いているスペースに固まっていた。吾妻は教室の一番後ろで数人の友人と話していて、俺の存在などまるで気にも留めていないようだ。 「……んだよ」  昨日、あんなことをしておいて。  あの行為が何だったのか、ぐるぐる考えて眠れぬ夜を過ごしていたのは俺だけだったのだろうか。 「渋谷~‼ 昨日悪かったな」  少しウザイくらいの高いテンションで後ろから声を掛けて来たのは、友永だ。  そういえば、あのあと柚木とはどうなったのだろうか。 「いいけど。あのあとどうだった?」 「それが‼ けっこうイイ感じに話せたんだよー‼」 「そっか。そりゃよかったな」 「どうしよう? 俺、このまま柚木と付き合えたりして」 「……それは図々しいだろ、さすがに」  友永のあまりのポジティブ発言に苦笑いを返すも、事実そうなればいいな、とは思う。友永は悪い奴じゃない。調子がよくて軽くみられがちではあるが、根は真面目でいいやつだ。 「まー、頑張れや」 「えー、なにその上からな感じ。そーいや渋谷のそういう系の話聞いた事ねぇけど」 「俺は、いいんだよ」 「うわ。秘密主義⁉」 「そんなんじゃねぇけど」  秘密主義というわけではないが、言えるはずもない。  自分は女の子に興味がないんだ、などとは口が裂けても。    接点のないグループの者同士は、何か特別なきっかけでもなければ本当に言葉を交わすこともなく、あっというまに一日が過ぎ去っていく。  授業中、休み時間。隙あらば吾妻に視線を送ってはみたが、その視線が交わることはたったの一度もなかった。  今日も午後になって雨が降り出した。  長く降り続いた雨の影響でグラウンドがさらに泥濘み、今日の雨自体は小雨ではあるがとても使えるような状況ではない。  案の定、今日も部活は休みで、体育館の使えない運動部の連中が連れ立って下校していく。 「帰るか……」  ぼんやりと窓の外を眺めながら呟き、いつの間にか誰もいなくなった教室を見渡した。  吾妻の席にまだ鞄が掛かっているが、何か用事があるのかHRが終わるとすぐ、慌てたように教室を出て行ったきりだ。 「ほんと、声かける隙もねぇ」  俺の鞄の中には昨日吾妻が置いて行った紺色の折り畳み傘が入ったまま。  実際、きっかけなんていくらでもあった。声を掛けることができなかったのは、公園でのあの出来事があったから。 「……」  吾妻は一体どういうつもりで、あんな──。  そんなことを考えていたところに、ふいに吾妻が姿を現した。  教室に入ってきた途端、驚いた顔をしたのは、まさかまだ教室内に人がいるとは思ってもみなかったせいだろう。 「──渋」  俺を見た瞬間、吾妻の顔が引き攣った。──が、それは一瞬のことで、吾妻は少しズレかかった眼鏡を押さえると、無駄のない動きで帰り支度を始める。 「今日も日直? ──なわけないか」 「……いや。今日は委員会の件でちょっと呼ばれて」  日直だの、委員会だの。そういう少し煩わしいと思うことも連日真面目にこなすところが吾妻らしい。  俺は鞄の中から折り畳み傘を取り出して、吾妻に差し出した。 「これ。昨日サンキューな」 「……ああ」  少しの間のあと、吾妻がその折り畳み傘を受け取ると、窓の外でまたザアアアア、と雨の音が激しくなった。 「──俺、今日一日吾妻のこと見てたんだけど。一回も目ぇ合わなかったな」  俺の言葉に吾妻が動きを止めて真っ直ぐこちらを見た。 「もしかして。わざと避けてた?」 「……」  吾妻がグッと言葉に詰まる様子が窺えたが、頭の中で何か言葉を整理しているかのように、少し間を開けてから口を開いた。 「渋谷、変わってるな」 「は?」 「渋谷こそなんで話かけてくんだよ。昨日、俺に何されたか忘れたわけじゃないだろう?」  吾妻が少しだけ感情を高ぶらせた。  夢でも幻でもなかった。吾妻のその言葉こそが昨日俺たちの間に確かにあった出来事が紛れもない事実だという事を物語っている。  もちろん、俺は忘れてはいない。  忘れていないどころか、昨夜から何度も何度も味わうように思い出している。  降りしきる雨。狭苦しい傘の中。掠めた前髪、触れた唇。その温かさも、弾力もすべて。 「覚えてるよ。当たり前だろう? あんな衝撃的な事忘れられるはずがないだろ」 「渋谷は──その、引かないのか?」  吾妻が慎重に言葉を選びながら訊ねた。 「引いてたら、とっくになかったことにしてシカトしてるよ」  たぶん、ごく普通の男子高校生ならそうしているのかもしれない。けれど、俺はそのごく普通には当て嵌まらない。他はともかく【恋愛対象】という点に関していえば。 「それより、あんなことした意図を教えてくれよ。あれは好意? それとも新手の嫌がらせ?」  俺はただ、それが知りたい。  吾妻があんなことをしたその理由が、俺の考えている事と同じならいいのになんて、さすがに期待し過ぎかなのかもしれないが。  もし、万が一にでも、千が一にでも、その理由が同じなら──。 「──渋谷の」  吾妻が迷いながらも、静かに言葉を発した。 「ん?」 「渋谷の頭ん中、俺でいっぱいにしてやりたいなって。……本当はあんな事するつもりじゃなかったんだけど、隣に渋谷がいんだな、近いな…って思ったらつい……」  吾妻の言葉に、無意識に頬が緩んだ。それはつまり──。  これは大きな、けれど俺にとってはとてつもなく嬉しい誤算。  吾妻が、少し躊躇いながらも言葉を繋ぐ。 「前から、渋谷の事気になってて。でも、男相手にそんなのって変だろ? だから、確かめてみたかった。渋谷と話したらどんなか、傍にいたらどんな気持ちになるか──」  普段あまり表情の変わらない吾妻の顔が、はっきりと分かるほど紅潮している。  ああ、こんな顔もするんだと新たな発見に、俺の胸も妙に高鳴った。 「で? どんな気持ちんなった?」 「……どんな、って」  下校時間をとうに過ぎた人気のない薄暗い教室。  雨はまだ降り続いている。時々強い風が吹いて、築ウン十年の老朽化が進んだ教室の窓をカタカタと揺らす。 「気持ち悪りぃって思って避けたの? それとももっとヤバいこと考えた?」  そう訊ねた瞬間、吾妻が手の甲で口元を隠し、視線を泳がせた。  表情があまり変わらないと思っていたのは単なる俺の観察不足のようで、近くで見る吾妻は意外に分かりやすいのだということを知った。 「同じだな」 「──え?」 「なんか知らんけど。俺も吾妻の事気になってて、前からおまえのこと見てた」 「……は?」 「好きんなったのは、たぶん俺が先だ」  そう言った声は、外の雨の音と瞬間轟いた雷鳴によってかき消されて吾妻の耳に届いたのかどうか。  ただ覚えているのは、驚いた吾妻の顔と、掠めた前髪。少し強引に押し付けた唇から差し込んだ舌で吾妻の舌を掬うと、確かに吾妻の味がした、ということ。  その味覚も、触覚も、言葉ではうまく説明できる気はしないが、まるで特別だった。  やはり、吾妻は俺の五感をどこまでも鋭く刺激する。     *  *  *    あれから一年。  端から見れば毛色の違うように見える俺たちも、何かと一緒にいるようになれば、それも自然と周りに受け入れられ馴染んでくる。最初の頃は「珍しい組み合わせだな」なんて面白がられたりもしたが、今ではそんなふうに面白がられることもなくなった。 「吾妻、もう帰れるのか?」  俺は吾妻の座っている席の前にドカッと鞄を置き、椅子の背もたれを前に跨ぐように座った。  今年も俺たちは同じクラスになった。三年間続けていた部活は六月の大会を終え、俺はついこの間正式に部を引退したばかりだ。ある程度部活が落ち着いた同級生たちに急に受験ムードが漂い始める。 「ああ。日誌出したらな」 「は? 今日は何だよ? また日直? ホントクソ真面目なー」 「……真面目で何が悪いんだ」  吾妻が眼鏡を押さえながら俺を小さく睨む。そんな表情も今ではすっかり見慣れたものだ。 「──あ、また雨かよ」  やっと七月に入ったというのに、まだ梅雨は明けそうにない。今年の梅雨は長雨になるようだと少し前に見た朝の情報番組で言っていた。 「傘、持ってねぇや。吾妻入れてって」 「──分かったよ」  日誌を提出し終えた吾妻と共に下駄箱に向かう。靴を履き替えて外に出ると、後ろから追いかけて来た吾妻がいつものようにボン、と傘を広げ、二人歩調を合わせて歩き出す。  ポツポツと傘に当たる雨。身を寄せるようにして傘に入る背の高い男二人の図は、端から見れば少しシュールかもしれないが俺たちは案外これを気に入っている。 「毎度だけど、ホント──狭いな」 「はは。当たり前だろ」  コツンとぶつかり合う肩と肩。  雨の日は俺たちにとって特別だ。俺たちがこんなふうな付き合いができるようになったのも雨の日がきっかけだったのもあるが、何よりこうして大の男二人が寄り添って歩いていても誰にも気に留められない。 「渋谷、もっとこっち寄れ。濡れるから」  こうして傘をさして歩くとき、吾妻は俺の方へ多めに傘を傾ける。そんな相変わらずの気遣いに大事にされているんだと嬉しくなるが、それはこちらも同じこと。 「傾けすぎだっつうの。吾妻が濡れんだろー?」  黙って傾いた傘を吾妻が濡れないように指の先で押し返すと、傘の中で吾妻が照れくさそうに笑う。  そんな吾妻の表情に堪らない気持ちになって、俺はそっと傘で周りの視界を遮った。 「雨の日は、いいな」 「あ?」 「こんなことしても、バレねぇもん」  そう言って俺は傘を引き寄せ、去年より少し背が伸びて男らしくなった吾妻にそっと唇を寄せた。  その瞬間、吾妻の顔が林檎のように赤く染まるのを見るのが、俺の密かな楽しみとなった。   -end- *最後までお付き合いいただきありがとうございました( *´艸`) 涼暮 つき

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