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第1話

 16の時、身柄を引き渡されることで世界は終戦を告げた。  暗闇に似た黒だが白く照る車の後部ドアが警戒な音を立てて開いた。車体と同じ色のスーツを着たサングラスの男が恭しくクレイズを車内へ促す。クレイズの肩を抱いていた頭2つ分ほど背の高い男はクレイズを無愛想に見下ろした。クレイズの保護者であったキュリンドラという美しい女の恋人―になりたかったが叶わなかった負犬―とクレイズは呼んでいる・フィールカントだ。淡雪に似た銀髪を揺らし、澄んだ海に似たグリーンの瞳が陰る。 「フィルクは行かないのか」  これからセントロ合衆国の知事に会いに行く。そこで今後のことを話す。住む場所のことやその他のこと。 「自分は、後から」  そうか。つまんな。クレイズは態度でそう示し、車内に入っていく。ドアが閉められ、窓に肘を着いて遠く外の風景を眺めた。空気に色を失ったビル群が小指ほどの大きさで建ち並ぶ。  母は幼い頃に長い風邪を患ったという。大人になっても治らず、それでも父と結ばれた。当時まだ新しい機械を使って検査をし、その結果、心臓に深紅の結晶が巣食っていたことが分かったらしい。それを聞かされた時、まだ小さかったクレイズは童話か何かだと思っていた。  何かお飲みになりますか  随分と遠くに離れた運転手が何かスイッチを押したらしく、運転手と後部座席との大きく開いたスペースの両脇が開いた。青く光り、冷気が漂う。様々な飲み物が立て掛けられている。上等げな茶、洒落た軟水、濃縮オレンジジュース、貧しい町にも普及している骨まで溶かすと噂の炭酸飲料、他にも何十種類も置いてある。幼少期に村に回ってきた移動式の店のようだった。 「アルコールとかないの」  は、クレイズ様の年齢ですと州の条例に違反しまして… 「はぁ、なるほど」  生まれは貧しい村だった。だが国で保護された。戦火を逃れ、明日か明後日、もしくは今日にはセントロ合衆国の仲間入りをする故郷・ブネーデン公国で。深紅の結晶を胸に宿した母に目を付けたのがキュリンドラという美しい医者だったというのは全て母から聞いた。クレイズは冷蔵庫から炭酸飲料を取って呷る。口内で炭酸が弾け、強い甘みが喉を通り過ぎていった。ということはこれからは酒のない日々になる。おそらく軟禁状態の生活で、考えただけでも憂鬱だった。戦争すると脅してきた国のために命をくれるのだ。例外くらいは認めさせる。金属の箱に運ばれながら炭酸飲料を減らしていく。  ブネーデンの公爵の家では何ひとつ不自由なく過ごした。酒、女、他にも面白そうなものは全てが優先的に手に入った。キュリンドラがそう手配した。国のために死ぬのだからと。胸に深紅の結晶を宿すものは地神の贄となるのだと。そのために育てられた。ブネーデン公国も地神の恩恵に(あやか)れる、というところでキュリンドラは殺されてしまった。クレイズの目の前で。撃ち殺された。端麗な姿を以ってしても好きな女に振り向かれもしない負犬の目の前で。呑気で平和に呆けたセントロ合衆国によって。  何か召し上がりますか。 「いや、いい。添加物だらけだよね、ここんちの。別にいいけど」  セントロ合衆国はとにかく添加物の国だとキュリンドラは言っていた。腹に入れば何でもいい。ただ彼女を殺めた国の何かに、彼女の言葉で文句を付けてみたくなった。  は、手配することも可能ですが。 「そんな遠いの?なのに車で来たの?飛空挺みたいなのあったでしょ」  窓ガラスを指で叩く。 「現におたくら、それで来たじゃん、うち」  まだ空気を掻くうるさい金属製の蜻蛉に乗っているブネーデンを嘲笑うかのように無音の浮遊物がキュリンドラの研究室に来た。クレイズは毎日の身体測定をしている時だった。  気が利かず申し訳ございません。 「いいよ、謝罪は。どうせあんた下っ端でしょ。お偉いさんに頭下げてもらうから、別に」  運転手は帽子を被り直す。 「せめて女乗っけてくる気遣いくらいみせてくれてもよくない?別にこれただの愚痴だからあんたは謝らなくていいんだけど。そんな長い道中なら気、回せって感じ。最悪だよ初日から」  喋る相手がいなくなり、クレイズは溜息を作りながら文句を重ねていく。母の顔はよく覚えていない。話は覚えている。むしろキュリンドラが母親で、実母は祖母、そういった認識に近かった。母は結局胸の結晶に押し潰されるかたちで死んだ。キュリンドラに何度も謝られて、でも助からないことを日に日に弱っていく姿を見て知っていた。父親もまた一緒にいた。突然何も言えず死別する情報が飛び交う外の世界から比べてみれば主観的に幸せだったとクレイズは思っている。父と共に弱りきった手を握って、息絶えていった。その様は穏やかだった。幸せです、と最期に言って死んでいった。母さんに会えてよかった、父さんと結婚してくれてありがとう。それだけしか言えないでいた。だが他に言いようがない。今になっても、他に思いつく言葉はない。キュリンドラとのほうが長く居たが、やはり実母は母親だったのだとまた炭酸を飲み下して思った。2人母がいたと割り切れる。どちらも母親だった。どちらのほうが母親だったのかというのも無意味だ。若さに差があろうとどちらもクレイズにとっては母親だった。2人いて、2人とも死んだ。  お気分が優れませんか。  突然黙ったため運転手が問う。 「いや、別に。運転に集中してくれていいよ、こちとら毎日しつこいほど健康診断受けてんだから。ここで事故死しちゃ全部ぱぁだけど。ここんち、戦死者より事故死者と生活習慣病死者のほうが多いらしいじゃん」  少なくなった炭酸飲料の瓶の尻を運転席へ向ける。キュリンドラに言われたことをそのまま吐いて、運転手は失礼しました、と黙った。運転手がこの国の全てではないことは分かっている。分かっているがこのセントロ合衆国の民であることに変わりはない。クレイズは嫌味を言う口を閉じる。沈黙と退屈の車内で新しく瓶を開けた。甘味料の過剰摂取してやるつもりでもなければ、好きなわけでもなかった。暇だ。外を見るにせよ乾燥地帯と密集したビル群しかない。 『空気が汚いのよ、あそこ』  キュリンドラの声が聞こえてくる。もう新しい声を聞かせてはくれない。 『キュリンドラ先生の言葉をよく聞くこと』  母親が常々言っていた。 ―母さん。 ◇  着いた先は大きくうねる角のような巨大なモニュメントに囲まれた空中庭園のような建物だった。青空によく映える。運転手が開けるより先に車から降りる。 「はぁ、随分と金がかかっていますな」  白金と白と淡い青を基調とした建築物を見上げる。入り口まで通路が引かれ、その下は水が流れている。せせらぎの音を聞きながら、青々と繁った芝生と柵が建物を囲っているのが見える。クレイズが勝手に進んでしまい、運転手は慌てた様子だった。入り口から数人の護衛を侍らせたい青年がやってくる。ミルクティーのような色をした豊かな長い髪が艶やかに照っている。近付いてきて、クレイズとの距離は縮まっていく。背が高い。首に巻いたストールが揺れる。暑くないのかとクレイズは思った。運転手の男が帽子を外し、すっと姿勢を正す。 「この国ではある種のハラスメントに引っ掛かる。気を付けてくれたまえ」  クレイズの前で、話すには少しを距離を置いて茶髪の青年は足を止めた。手に機械を持ち、車内での我儘がクレイズ自身が思っていたより少し高い声で再生される。 「誰あんた。いきなり何。道の真ん中大人数で歩くなよ」  整った顔をしていた。どこかで見覚えがあるが、知らない顔だ。だが見覚えがある。かなり近しい人。目元が似ている。淡い青の瞳が柔らかくクレイズを見下ろした。 「訪問、心から待っていた」  心にも無さそうに青年は近付いてきた。クレイズはなんだなんだと眉を顰める。 「挨拶が遅れたな。クレイズくん、君を保護する。エミスフィロだ、よろしく」  表情の無い顔で取って付けた柔らかな態度にクレイズは嫌悪した。 「クレイズくんはやめろ」 「クレイズ氏、でいかがかな。難しい方とは聞いていたがこれほどとは」  中へどうぞ。促される。複数人の護衛たちが両脇に割れ、その間を通った。ガラス張りのエレベーターに乗り、建物裏の美しい水の施設を眺めながら上へと引っ張られる。この感覚がクレイズは苦手だ。最上階まで連れられると直接広間へと繋がっていた。天井が開いてるため直射日光が当たる。腕を翳した。 「建築デザイナー、お洒落重視のド素人でも雇ったの?」 「気に召さないか」  エミスフィロと名乗って青年はクレイズから離れて奥の大きな机と回った。付き人が革張りのソファをクレイズの後ろに運んできた。無言で座る。 「眩しくて仕事が捗らないんじゃない?」  腕を翳したままでいるとエミスフィロといった青年は天井へリモートコントローラーを向けた。天井のガラスが不透明な板で覆われていく。 「いかが」 「荷物届いた?」 「はい。あれで全てお揃いか」  エミスフィロは広間の脇を差す。ブネーデンから送った私物が重厚な雰囲気を持ったローテーブルに置かれている。 「いや犬がまだ来てない」 「犬?そういったものが送られるとは聞いていない…が…」  側近と思われる者に確認する。手帳を広げて2人で目を通してから、側近らしき者は首を振る。 「あ~、多分自分で来るよ」 「はぁ、承知いたした。ご寵犬(ちょうけん)らしき犬が来たら通すように伝えておこう」  クレイズは足を組んで、肘をつく。最上階のバルコニーにまで水の施設があった。そしてガラス張りだ。洒落ている。 「今日からここで暮らしていただく。よろしいな」 「全部ガラス張りなわけ?トイレとバスルームも?ここやったデザイナー辞めさせた方が世のためだよ」  エミスフィロは数秒黙っていたが側近を再び呼んで耳打ちする。 「考えておこう。とりあえずお荷物が到着するまではここで待っていただきたい」  クレイズは大きく溜息を吐いた。解けた靴紐を結び直す。 「ところで、義父の姿がお見えにならないが」 「遅れて来るよ。っつーか、あんたンとこの知事は。遅くない?来いって言ったのおたくだよね。州知事様はお忙しいの?こんなガキの接待は出来ませんって?あ~あ、やってらんないよ、おたくらが実力行使してくるから遠路遥々やって来たっていうのに」  それでもって先生を殺された。 「遠路遥々お疲れ様でございました。紹介が遅れて申し訳ない。州知事は私だ」  クレイズは片眉を上げる。嘘こけ。そう思った。 「随分と若くない?やっぱ生活習慣悪過ぎて平均寿命40歳くらいなわけ?それともそんな若造で治まるほどお利口な国民なの?」  エミスフィロはふん、ふんと幾度か頷きながら羽根ペンで記している。黙っていると表情のない美貌がクレイズを捉え、羽根ペンが止まる。 「質問は以上ですかな」 「あと酒飲めるようにして」  なるほど、とまた羽根ペンが動く。側近が資料の束をせっせと纏めてエミスフィロに渡した。指サックを嵌めて眼鏡を掛けるとスタンドライトに電気が灯る。 「答え易いものから順でお許しいただきたい。まず当国の平均寿命の最新調査では…」 「いいって。興味ない。いいから、酒。それしか楽しみないでしょ」  飲酒のためだけに健康に気を遣っているのだ。キュリンドラも飲酒だけは禁じなかった。国のため、人のために死ぬのだ。それくらい。 「当州では20歳満たない者の飲酒は禁止している。すまない」 「それは聞いた」 「ならばそういうことで」  表情の無いままエミスフィロは眼鏡を外し、スタンドライトを消す。 「入国早々に条例違反したらごめんね?書類送検で世話になるかも」  肩を竦めてエミスフィロに背を向ける。ここで暮らすのか。気は進まない。エレベーターに向かおうとしたがまだ話は終わっていないらしい。 「他に何か要件は」 「親父…ああ、血が繋がってる方の…暮らしを保証して。簡単でしょ、オレを使った後の利益考えれば」 「承った。どちらに行く」 「だだっ広い別荘の見学」  エミスフィロは送れと小さく周りの者へ言った。ガラス張りのエレベーターで下へと降りる。施設の案内を、とやってきた者に言われたが断った。人工的な清潔感と水々しい内部を歩き回って逆光したラウンジのソファに腰掛ける。  もう1人の母のようだったキュリンドラが殺されてまだ4日しか経っていない。実感がなかった。目の前で撃たれても。どこか出張に出掛けているような気がしてならない。ここにいたら心配する。胸の結晶が生活に支障が出るまで実母は放任だった。その代わり徹底した管理の下、父が面倒を見た。キュリンドラと実母は正反対だったが、やはりどちらも母だ。妻を失い、子を面倒看る女も死に、手間のかかる子も手厚く保護される。父親はそろそろ解放されていい。誰より渋った。あの負犬に縋って、頼んで、情けない姿をさせたことが情けなくなった。クレイズは選択を迫られているという気は全くなかった。ただそのままに父親がその方が楽という考えで。血縁者がいなくなるのなら新しい居場所を探せばいいのだ。妻子のことは忘れていい。重荷になりたくないのだ。居なかったことにしたっていい。妻は死に、子も長くは生きられない。だが父親はまだ長い先の可能性がある。  外に出て水の流れるオブジェと溜池を眺めた。水面が緩やかな蜘蛛の巣を底に揺らす。靴と靴下を脱いでその中で足を冷やした。特別暑い日ではないが日差しが強い。そして反射する白い壁と趣味の悪いオブジェの反射に眼球が痛む。じゃぶじゃぶ音を立てて歩いた。川遊びはしたことがない。海を見たことはあるが近付いたことはない。建物と道路を繋ぐ通路から離れて敷地を囲う芝生へ腰掛ける。女がロングスカートをはためかせ建物に入っていくのが見えた。クレイズが好きだったちょうど良い甘さと苦さのチョコレートに似た長い髪をクレイズは見つめた。キュリンドラもそういう髪色だった。だがキュリンドラより若い。まだ娘といった年代だ。小さな手提げを持っていた。キュリンドラをその娘に重ねた。関わりさえしなければ。水を蹴る。あの負犬だってやりきれないだろう。ここで生きていく。故郷とあの病室と父のことは忘れて。 『次は健康的な女と結ばれてさ、長く幸せに暮らしたらいいじゃん』  半分本音で半分は欺瞞。父が家族想いなのは知っている。失わせるのが怖い。だから何かを得させなければいけない気がして。取って替わる存在ではない。母を失って知っている。キュリンドラと深く関わってさらに身に染みた。 「あまり日にお当たりになるな」  視界が薄く陰り、パラソルを立てられる。キュリンドラと同じか少し淡い空色の瞳が無表情にクレイズを見下ろした。 ◇  フィールカントは翌朝に到着した。変わった環境にあまりよく眠れず、不機嫌な顔で…普段のさらに不機嫌な顔でフィールカントがいるというガラス張りの大広間に向かう。宿泊したのはエミスフィロが時折寝泊まりしているという部屋だった。だが公爵家で保護されている時とあまり変わらない。しかしトイレはきちんと不透明な扉だったがバスルームと脱衣所を隔てるのはガラス扉だった。 「じゃあこの変態建築とはお別れだね」  黙ったままエミスフィロの前にいるフィールカントを一瞥する。 「まだ荷物がお揃いでないようだが」  フィールカントはクレイズを見て確認を促すが無視した。 「どういうこと」 「ご寵犬が来るのではなかったか。一応運輸サービスにも問い合わせたのだがそう…」  跳ねた髪を掻く。この男はどこまでを本気にしてどこまでを冗談と受け取っているのか。 「もう来た。さっさと案内して」 「クレイズ」  フィールカントに睨まれる。だが負犬には噛まれようと引っ掻かれようと痛くも痒くもない。 「承った。ではご寵犬は届き次第丁重にお連れする」 「いいよ、多分そういう犬は来ないから」  エミスフィロは表情の無い顔で首を傾げたが特に気にした様子もなく資料を手にしてクレイズとフィールカントのもとへやってきた。 「では案内いたす」  表情のない美貌をフィールカントがいつもは見せない隙だらけの眼差しで追った。クレイズは背の高い2人のやり取りを逃さず見上げる。誰かに寝ていると思った。それが判明した、フィールカントによって。キュリンドラだ。美しいが男性的な骨格と僅かな髪色と瞳の色の差異ですぐには合点がいかなかった。3人で乗るエレベーターは居心地が悪かった。フィールカントはエミスフィロをじっと眺めて、暫くはクレイズもそのフィールカントを見ていたが段々と飽きがきた。だがフィールカントは飽きないようだった。今日は真っ白く長いショーファードリブンカーに乗せられる。昨日クレイズを運んだ運転手が帽子を取って扉を開く。クレイズの後をついて来ない。フィールカントは立ち止まっている。腕を引いた。 「自分は…」  荷物が次々と運ばれ積まれいった。量は少ない。 「あんたも来るんだよ、パパ」  エミスフィロはフィールカントに無表情を崩して苦笑してから助手席に乗る。キュリンドラの面倒を看ていた子供なら、などという理由だろう。実父を説き伏せて保護者になっていた。実父には慣れ親しんだ地域で自由に暮らしてほしい。1人で行くつもりだったが知らぬ間に手続きされていた。 「パパンと一緒に住んでいいんだよね」 「そのつもりで手配いたした…が、ここが気に召さないとなると私の自宅だ。構わないだろうか」  フィールカントの凛々しく整った顔が僅かに戸惑った。 「は?じゃあ何、また変態建築に住むの?」 「ガラス張りではない…が、気に召さないようであればリバーサイドホテルを、」 「ガラス張りじゃないならあんたン家でいいよ」  フィールカントの腕を引っ張り、車に乗せようとしたが、腕を振り払い自力で座った。筋肉質な腕や肩に身体を預ける。 「昨晩はお休みになれなかったか」 「枕変わると寝られないし壁から落ちてくる水うるさすぎ」  壁に水が伝って、ベッドを囲むように流れるインテリアがとにかく落ち着かなかった。さらにガラス張りだ。 「リラクゼーションを見込んだとデザイナーは言っていたが、なるほど参考になる」  革張りのシートと肩や腕では身体の収まりが悪くフィールカントの固い腿に頭を預ける。 「済まない。態度には気を付けよと日頃から言ってはいるのだが…」 「お構いなく。神経質な方に対して配慮が至らず申し訳なかった」  エミスフィロの後ろ姿を見つめているフィールカントをクレイズは観察する。そのままキュリンドラが男になったというほど酷似した容貌ではなかった。雰囲気や性格や印象は正反対だ。ただ目元が似ている。フィールカントには瓜二つに見えるのだろうか。母として見たクレイズと、女として見たフィールカントではまず抱いた印象もまず目に入った場所も、見ていたものも違うのだろう。だがエミスフィロは男だ。面影はあろうと。下ろした髪を結い上げたら何か見え方が変わるかもしれない。フィールカントが髪留めを贈ってからキュリンドラは髪型が変わった。美しかったが、それ故か、あまり装飾に頓着する様子がなかった。 「3人で暮らすの?」 「メイドと執事がいる…が、気になさるなら下げる」 「そのメイドって喰っていいの?」  車内が無言になる。静かな走行音。フィールカントは頭を抱えている。この無言はおそらく拒否だろう。 「女人の肉がお好みとすると…そうですな…出来るだけお応えはし、」 「違う。好き放題セックスしていいのかって訊いてんの。しっかりしてくれ州知事さんよ」  フィールカントは苦々しい顔で仰向けのクレイズの額を軽く叩いた。 「はぁ、合意の上であるなら…ただ勤務時間中となるとお答えしかねる」  鼻先と動く唇が茶髪の奥に見えた。フィールカントを下から見ながら、ふぅんと返す。 「ここはブネーデンとは違う。自重せよ」 「嫌だね。来いって言われたから来てやってんだろ。要求がめないなら帰る。アンタは残れば、パパン」 「呑もう。お義父上、そうお怒りになるな。この程度の要求など随分と可愛いもの」  珍妙さはキュリンドラに似ているかも知れない。フィールカントにとってはそれが酷く華やかなものに映るのかも知れないが。顔を顰めて起き上がる。 「やっぱり最小限の戦争しかない御国は余裕ですな。戦争っていうか実力行使?死者1人、人質1人に負犬1匹」 「手荒な真似をしたことは謝罪の申し上げようもない…が、条件を呑んでくだすったことは厚く御礼申し上げる。それからご寵犬の輸送が滞っていることも、重ねて…」 「やめてよ、辛気臭いツラの大男2人も乗せてたら運転手さんも大変だ。ある種のハラスメント…だっけ?」  車窓からつまらない風景を眺める。あまりビル群の目立たない港町に車は着いた。自宅というから職場からはそう遠くはなかった。断崖絶壁に作られた街のように見えた。走っている道も海沿いだ。キュリンドラは海が嫌いだったように思う。 「海沿いに住んでんの?津波来たらどうすんだよ」  キュリンドラより淡い空色の瞳がクレイズを捉えて音がしそうな睫毛を何度か瞬かせる。美貌は美貌でも、知事に就くような年齢にしてはは外見的に若いというより幼い顔立ちをしている。 「貴方がいる間は来ない」 「は?確証なくない?だから災害なんじゃん」  キュリンドラが海に近付くなと言った。波に呑まれる可能性を排除したいからと。だがここでもし何かあっては。 「そのように相談した」 「誰と」  無責任だ!と詰る直前に、進もうとしたがエミスフィロはクレイズの元に戻り、屈んで目線を合わせた。屈まれたのが不服だった。エミスフィロは大きく双眸を見開く。なんだよ、と見てしまった。空色の瞳の奥に真っ赤な炎のようなものが走っていく。 「地神」  寒気がした。珍妙どころか奇態だ。美男というのがさらに奇矯さを助長する。気味の悪い男の瞳から逃れ、傍に立つフィールカントに寄った。フィールカントはクレイズの肩を抱き寄せたが払われた。 「とんだ失礼を」 「いいや、不躾なことをしたのはこちらだ。申し訳ない」  エミスフィロはフィールカントだけにまた苦笑する。クレイズはエミスフィロを睨む。気味が悪い。胡散臭い。果たして信用に足るのか。運転手を残し、邸宅に案内される。潮風が吹く。フィールカントの丈の長い上着を被せられる。風邪に気を付けろとキュリンドラもよく言っていた。母を救えなかったことを悔やんでいる様子だった。風邪に衰弱し、母親は死んだ。 「慣れなければ別の場所を手配いたす。潮風は何分慣れないとおつらかろう」  白く丸みを帯びた石と白いセメントで出来た広く緩やかな階段を上りながらエミスフィロは振り返った。 「心遣い感謝します」  風に靡く茶髪を眺めて、フィールカントは頷きながら断ち切る。これから一緒に暮らす相手だ。邸内が気に入らなければ新しい場所を手配させるが、それでもエミスフィロの世話にはなる。長いというほど長くはないだろうが短期間というわけでもないだろう。フィールカントは上手くやっていけるのだろうか。全く同じことをフィールカントに案じられているとも気付かずクレイズは階段を上がっていく。白と淡い石の色で作られた壮美な街だった。砂が階段の段差段差の隅に積もっている。靴の裏にじゃりじゃりとした感触があった。  邸宅に着く。白い壁や柱や床に白金の装飾。噴水や薔薇園がある。 「ご寵犬も飼う設備はある」  理解した上で言っているのか本当に犬がいると思っているのか分からないが、おそらく本気にしている様子でエミスフィロは言った。クレイズは舌打ちした。 「あ~あ~遠慮しておくよ」  エミスフィロは相変わらずの無表情だったが残念そうな声音でそうか…と呟いた。犬好きか。犬に限らず動物好きか。邸内に入る。使用人達が並び、道を作る。大きなエントランスはまだ母が動けた頃に家族で行った美術館のようだった。意識が逸れて、あんなこともあったこんなこともあったと全く関係の無い方向へと展開し、碌に話も聞いていなかった。興味のない話だ。 「もうお休みになるか」  エミスフィロが視界いっぱいに入る。やはり屈まれている。クレイズはまだ成長期にいた。実父は抜きん出て背が高いわけではないが低いわけでもなく、平均といったくらいだった。高い背と薄気味悪いほどに整った顔、州知事という肩書きとこのやたらと広い邸宅が気に入らない。人形かと思う。人形なら可愛がってやる気でいた。だが人形にしては珍しく男性的な骨格をしている。 「ガキ扱いするな」 「失礼。お義父上はどうなさる」 「散歩行くわ。じゃーね」  父として扱うには若過ぎるフィールカントの返答を聞く前にクレイズは来た道を辿った。後ろから吹くカントの呼び戻す声が聞こえたが知ったことではなかった。真っ白く長いショーファードリブンカーのもとまで戻ると運転手は煙草を吸っていた。潮風が酸味を帯びた苦みを漂わせる。思わぬところで受動喫煙の被害に遭った。 「暇」  運転手はクレイズを認めると素早く制服から携帯灰皿を出してすり潰した。 「吸ってていいのに。休憩中だったんでしょ」  クレイズ様は健康診断をお受けになっていると聞いたものですから。 「ふぅん。別に数分くらい大した害出ないと思うけど。奥さん煙草のこと何も言わないの」  細君(さいくん)は他界していて。それからです。 「へぇ。じゃあオレの親父と一緒だ」  運転手の隣に膝を開いて座る。道路に撒かれているのかそれとも運ばれてくるのか白い砂利がアスファルトを覆っていた。

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