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第2話
何かを話すでもなくクレイズは運転手の傍を離れなかった。運転手は遠く海を見つめていた。潮風が吹く。運転手の鳩尾ほどまでの高さの堤防に殆ど守られた。
「あんたはずっとここにいんの」
仕事ですからね。
運転手は海からクレイズへ振り返った。口元の皺がどこか穏やかな印象を受ける。エミスフィロとは正反対な温和な顔立ちをしていた。
「ふぅん。じゃあオレもここにいよ」
風邪を引いてしまいます。
運転手を見て、それから無言で砂だらけのアスフォルトを見下ろした。
「どうぞ、煙草吸って。あんたは休憩中、オレはここに好きでいる」
父が仕事から母の元へ来る時に漂わせる匂いだった。おそらく銘柄は違う。だが近い。煙草とはそういうものなのだろうか。
そういうわけにはゆきません。私にも娘がおりますから、躊躇われます。
運転手は困惑しながらも柔和に苦笑した。クレイズは運転手の娘を空想した。妻を無くした職業運転手を父に持つ娘。父親想いで、温厚柔和で清楚な美少女、母親似。
「何歳くらい」
18です。
運転手はクレイズが関心を持っているのが意外というような様子だった。息子ならば興味はないが娘ならば興味はある。父親にかわいいか否かを聞いてもいずれにせよ答えはつまらない。妄想の世界で済ませることにした。
「あのエミスフィロってどういう人」
問うと、穏やかに微笑を浮かべていた運転手の土気色の顔がほんのり赤く染まった。俯いて帽子を深く被る。クレイズは疑問に思いながら下から眺める。
若くして州知事になった、優しい御方です。
出される情報は言われずとも分かっていることだった。仕事で雇われている以上下手なこと言えない。事情は分かっているつもりだ。
「怖くない?変だよ、あの人。言ってることが。気が狂ってると思うんだけど。健康状態に難がある人が州知事なんて大層な任に就いてていいわけ」
神託のお力のことでしょうか。
クレイズは、「ああ」とか「え、うん」とか適当に返事をした。エミスフィロだけが奇妙奇天烈なのではないのか。あの気が触れたことを言った妖しい美男に話を合わせているだけだろう。そうでなければクレイズはセントロ合衆国ではやっていけそうにない。
「帰るわ」
運転手は深くお辞儀をした。クレイズはどこから来てどこへ戻ればいいのか道順を忘れていた。だがあれだけ大きな邸宅だ。適当に歩き回っていればいずれは着くだろう。白い壁と白い壁に挟まれた坂になった路地は薄い影を落としていた。視線を感じて2、3歩戻ると猫が尻尾をゆらゆら揺蕩わせ不機嫌な顔でクレイズを睨んでいた。手を伸ばすと今までの呑気さが嘘のように素早く前足を立てる。なんだよ。拗ねてまた歩き出す。住宅地の中はガーリックの匂いやシーフードの匂いが漂い時折果物の甘い香りもした。洗濯物の匂いもする。目に入る物を眺めて、行き交う人々を観察した。小さな広場にはアイスやクレープがワゴンで売られていた。ハトが徘徊するモニュメントの台座に作られた腰掛けに座った。目を瞑ると眠ってしまいそうだった。あの変梃な美形が気の狂った理論で見つけ出すに違いない。運転手はそれを「神託の力」とおめでたい言葉で片付けていたがクレイズには胡散臭いことこの上なかった。少し休憩し、また歩き出す。階段を上ったから土地の高い方へと行けばいい。溜息を吐いて広い邸宅を探す。
「こちらだ」
背後から怪奇で秀麗な男の声がした。行こうとした方向とは違った道から現れる。
「よく分かったもんです。地神様だかなんだか様とご相談でもしたんです?」
「仰せの通り」
クレイズは眉間に皺を寄せてエミスフィロを見上げたが、首を傾げられただけだった。
「貴方は方向音痴と見える。次からは護衛を付けさせていただきたく」
「土地勘が無いだけだって。何でもかんでもほいほい1回で出来たら教師なんて要らないでしょ」
エミスフィロの後をついていく。随分と離れていたらしい。緩く長い階段へと戻ってくるとそこからの道順は単純だった。
「貴方のお義父上も心配していた」
「心配?冗談やめてよ。贖罪だよ、贖罪。付き合わされてんだって、こっちは」
「複雑な事情がおありか。申し訳ない」
歩くのが遅れたクレイズを振り返って手を差し伸べる。幼子扱いに顔を逸らす。
「おたくらの国の所為ってことだよ、要するに」
「背負わせていただく」
簡単に言ってのけられ口を噤んだ。邸宅に戻ってくると腕を組んで相変わらずつまらない顔をしたフィールカントがエントランスに立っていた。常に何か気に入らなげな顔をしているが、実際に今怒っているらしかった。
「クレイズ」
「犬のお前がご自慢の嗅覚でご主人様を探せっての」
怒る気力も失せているようで銀髪を撫で付けながら頭を抱えるだけだった。
「全く。あんな珍奇な男と一緒にすんなよ」
「珍奇と受け取られたか。善処いたす」
聞いていたらしい――聞こえても無理はないどころか確実に聞こえる距離にいたエミスフィロがそう言って、フィールカントの眉間に刻まれる皺は深まる。何か不満か、と問おうとしたところで先にエミスフィロが「ところで、」と話を振った。
「お義父上は…フィルク氏は人狼でおありか」
突飛な質問にクレイズは顎が外れたかと思うほどに口を開ける。フィールカントも珍しく困惑していた。
「なんで?」
「どうも私には人間に見える」
「そりゃね、人間だから」
もうこの人嫌だな、と思った。キュリンドラに似ているが、彼女とは違った方面で正気ではない。
「クレイズ氏、貴方がご寵犬の失踪で気を病んでいるのかとばかり」
「寝る。部屋どこ」
エミスフィロは使用人に合図する。フィールカントがエミスフィロに何か言っていたが聞いてはいなかった。
◇
青く光る月に照らされる広い部屋で目が覚める。早くに寝てしまったため、頭は冴えてこれ以上の眠りを欲していない。寝心地は良かったが慣れない枕に髪が跳ねたい放題跳ねる。水のせせらぐ余計な音がない睡眠がここまでいいとは思っていなかった。無駄としかいいようのない実用性もなかったガラスの壁もない。何を仕切っているつもりだったのか。"変態部屋"では取れなかった疲れが一気に解消された気がした。跳ねた前髪を手で押さえつけながら外へ出る。廊下は青く陰る。調度品が置かれ、絵画が壁に掛けられている。公爵家もそうだった。フィールカントもエミスフィロももう寝ているだろう。否、あの奇天烈怪々な色男が寝ているとは思えない。とにかく腹が減って案内を断った邸内を歩く。横に広く縦は天井が高いだけだったが古城のようだった。エントランスに着く前に通った扉の前で話し声が聞こえた。面妖な変態美青年の声だった。地神と相談した。神託のお力。また頓痴気 なこと吐 かすつもりか。怖いもの見たさだった。扉を軽く開ける。発見されても構わない。果たしてあの奇妙奇天烈な男がどう転ぶのか。
「…っは、…ァ…っン、く…」
クレイズは扉の隙間から漏れ聞こえた音に目を丸くした。 薄気味悪いあの男の声かと思った。だが違うらしかった。
「こちらのほうも優秀でおいでだ」
クレイズのよく見える位置へ、2つの身体が縺れ合いながら傾き、大きな机の奥に落ち着く。裸体が凝りもせずガラス張りの壁から入る光りに青白く浮かんだ。銀髪。クレイズの頭は思考を停止した。フィールカントがいる。少なくとも上半身は裸で。机に両手をついて、後ろから抱き込まれ、両胸を弄られていた。
「ぁ…ァ、ぁぁ…く、ぅ…」
どうなっている?どういう状況?解決の糸口を手繰り寄せることはないまま疑問だけが浮かぶ。
「貴方が1人抱え込むものではない…共に考えてゆきましょう。私も協力させていただきます」
フィールカントの艶やかな声に合わせて低い声がした。
「……ぅ、ふ…ぅン、」
「貴方はよくやられています。とても…」
頭を垂れた不機嫌面の持主は小さく身を引攣らせる。クレイズは両腕を抱く。一体どうなっている?
「もうお眠りになれ」
「あっ…!ぅ…、くぅ…ぁ、ァ、あ…!」
押し殺した吐息に混じるようだった声が大きくなった。揺さぶられて、白い肌からあの不気味な美男の茶髪が落ちた。クレイズは扉を開けたまま、その場を立ち去る。顔が熱くなっていたが身体は冷えていた。変態趣味丸出しの部屋に一晩泊まり、珍妙な色男と関わったせいだ。変な夢を見ているかもしくは寝呆けている。壁を辿りながら明るいエントランスに着く。何も見ていない。夢だ。フィールカントとはこれから2人で上手くやっていかなければならないというのに。厨房を探す。公爵家と構造は大体同じだろう。歩き回る。中庭に出たり、外に出たりした。エントランスの戻り方も分からなくなった。腹が鳴る。厨房でなくてもいい、何か食べたい。夜食はやめなさい。女遊びはほどほどに。コンドームはきっちり着けて。全部守った。全部守って、だが彼女は死んだ。これからは誰も口煩く言わない。彼女が言わなければ守るつもりなどないのだから。況 してや彼女を殺したこの国の方針になど。邸内を一周しそうになったところで厨房に辿り着く。キュリンドラに似ていれば男でもいいのか。苛立った。厨房に入ったところでクレイズは足を止める。電気が点いた。
「どうかなさったか」
エミスフィロが背後に立った。陰で分かった。足音もなかった。
「…」
「よく休まれている様子だったから、起こさないでいた。夕食を届けず申し訳ない。今用意しよう」
クレイズは黙ったまま厨房の奥へ消えるエミスフィロを目で追う。ディナーボウルを被せた皿を持って出てくる。苛立った。
「あんたさぁ」
エミスフィロはあどけない顔で首を小さく傾けた。フィールカントと同じ年の頃ということを考えればクレイズより10は上のはずだ。
「…別に」
厨房の中心にある大きなテーブルに座らせられ、目の前に皿が置かれていく。ディナーボウルが外されていった。保温されている。
話しかけたはいいもののどう切り出すかは考えていなかった。ナイフとフォークを並べられ、それから グラスに深い紫の液体を注がれる。葡萄酒か。条例違反がどうだと言ってはいなかったか。エミスフィロを見る。
「クレイズ氏は覗きがお好きと見える」
「…それも例の地神から訊いたわけ」
「ご名答」
グラスに手を掛けぐいっと飲んだ。渋味が広がるはずが、強い甘味と酸味と微かな渋味。葡萄ジュースだ。隣に座るエミスフィロを睨む。
「覗きは好きじゃないんだけど。あんた、あの負犬が好きなの」
「負犬…」
空色の目が宙を見上げた。また的外れな回答をもらうのは面倒になり、「フィルクのことだよ」と言い直す。
「不眠の傾向がおありだったが。貴方のことで悩んでいらっしゃるご様子」
「悩む?オレのことで?あんたの地神 にでも訊いた?」
野菜とレバーのテリーヌを口に運んだ。エミスフィロは肯定も否定も示さず無表情をクレイズに向けるだけだった。
「だったら信用できないね、あんたもあんたの地神 も」
ガーリックラスクのカスを皿に舞い散らせながらクレイズは喚いた。ベーコンときのこ、葉物が浮いた玉子のスープを呷る。
「何をそうお怒りになっている」
「怒ってない。何か誤解してるよ、あんた」
「そうだろうか。もう少しお義父上を省みても、」
「あんたには分からん事情があんだよ。っつーか8割9割おたくらの所為」
パンプキンパイをフォークに刺して口に放る。細かく剥がれたパイ生地が落ちていく。
「そうであるなら…尽力いたす。関係の修復に」
「頼んでない。少なくともあいつと乳繰り合ってるやつなんかに頼めるかっての」
海鮮と野菜の伸びたパスタをフォークに絡める。エミスフィロは相変わらず表情を出さないまま小さな溜息を吐いた。
「貴方の母代わりの者を助けられなかったとか」
「あんたの言葉を借りればご名答…といいたいところだけど、ちょっと違うかな。逃げたんだよ、オレを背負って、あいつ。助ける助けないじゃなくて、逃げたの」
どう説明したのか。エミスフィロの意訳にせよ多少の差異が気になった。
「そうおっしゃっていたな。貴方を連れて逃げるように言われ、そのまま従うしか出来なかったと悔いておいでだった」
「あの言葉足らずが。ぺらぺらよく喋る」
トマトスープに煮込まれ小さく切られたチキンを口に入れる。
「あの若さでいきなり気の難しい16の息子を持つとなれば大変だ」
「不純な動機だよ」
そうだろうか。エミスフィロはそう言って、テリーヌを齧りながらクレイズは頷く。目の前で撃たれたキュリンドラはまだ助かったかも知れない。フィールカントに背負われ逃げなければ。その後何十発もの弾丸の音が床に伏せた彼女の肉体に消えていくのを見て、助からないことを知った。その腕から逃げ出して、動かない母代わりの亡骸を見て捕縛された。結局こうなるならもっと早く。
「容易いことではない。私にも養女がいた。分からないわけではない」
「はぁ、あんたの養女。何歳」
「もうすぐ19になるかならないかだな」
この男の養女が好き勝手に形成されていく。顔は美しいかも知れないが、雰囲気は物騒だ。抱けるかといえば抱ける。好けるかといえば否。そのままこの男の印象を引き継いでしまった妄想に首を振った。血の繋がりがないとすればもう少し期待は高い。
「今日のところはひとまず疲れさせて眠っていただいた」
疲れさせて。その響きがあの光景を目にし、あの声を耳にした後だと嫌悪するほど生々しく、咀嚼していた魚を戻しそうになる。
「それはそれはパパンがお世話になりマシタ」
パンプキンパイを口に入れ、葡萄ジュースで流し込む。
「貴方が態度を改めず彼が心を痛める日々が続くのであれば、次は今日とは別の手段を取るかもしれない」
「お好きにどうぞ。なんならペットにでもしてやれば」
残った料理を腹に収めていく。空いた皿を重ねていく。
◇
「クレイズ」
「朝の挨拶はいつからオレの名前になったんだよ」
食後にシャワーを浴びてまた少し寝て朝を迎えた。身支度を整えて廊下を歩くと書斎と札のかかった扉から出てきたフィールカントの不機嫌そうな顔が少し驚いたようであまり表情に出ない狼狽を不意に見出してしまった。
「…どこに行く」
「朝の散歩。何かあったらあの奇天烈美青年に探してもらえばいいだろ」
片手を振ってエントランスに出る。冗談じゃない、やってられるか。書斎から出て来る姿に、あれはやはり現実だったのかと確信へ変わる。まだ寝呆けていた、見ないふりをする、で済ませる気でいた。認めてもいないが書類上勝手に保護者になった男とこれから環境面で保護される男が爛れた関係で結ばれているのはどうにも居心地が悪い。男同士で何を乳繰り合っている。それはまだひとつのいい歳した奴等の戯れとしておけばよかったが、何より気に入らないのはあの美男へ面影を馳せていそうなところだった。軽蔑以外の何に値しよう。
「クレイズ氏」
エントランスに出たところで突然どすりと顔面から質量のあるものにぶつかった。
「十分お休みになられましたかな」
年齢の割りにあどけない無表情で小さな唇が問う。本当に気味が悪い。心地良い晴れた天気に温まっていた身体が底冷えするようだった。
「あ~あ~どこかの変態趣味丸出しデザイナーズ建築と違ってね!脳細胞が半分死ぬくらい休めたよ」
廊下の真中に突っ立っているエミスフィロの脇を通ろうとしたが阻まれる。
「遊び相手ならパパンに頼んで。乳首当てゲーム、またしてくれるかもよ」
「どちらへ向かわれる。車の手配をいたす」
「乳首当てゲームがイヤなわけね。なら場所当てゲームしよ。オレは今どこに行きたいと思う?」
エミスフィロは眉を下げた。あどけない無表情が困惑に染まる。クレイズはあからさまに顔を顰めた。顔は眉にしか筋肉がついていないのか。
「私は人の気持ちを推し測るのが苦手だ」
「自己分析はお得意なようだね」
再び脇を通ろうとするがエミスフィロの腹と胸に阻まれる。筋肉の固さとしなやかさを感じる。
「クレイズ!迷惑をかけるな」
背後から義父、目の前に胡散臭い男。クレイズは舌打ちする。嫌なところで挟まれた。
「すぐに朝食をお持ちする。親子で召し上がってはいかが」
「断る。朝から負犬と飯食えって?砂の味でも噛み締めてろってか」
腕を乱暴に捻り上げられた。エミスフィロの手に違いなかった。振り払おうとしても力強く、敵わなかった。
「人の味覚はそれぞれでしょう…が、栄養には気を付けさせている。中身は砂ではないのでご安心なされよ」
「そういうイミじゃねぇんだよ!」
きぃきぃ喚くも空しくエミスフィロによって与えられた部屋へ連れ戻されていく。フィールカントは唇を噛んで俯いていた。
「放せ」
「子供は空腹や眠気を自覚出来ず情緒不安定に陥るらしい。至らぬ点が多々あろうが誠心誠意努めてまいろう」
扉を開けると、丁寧な言動に反し乱暴に部屋へ放り込まれる。そして静かに閉められてしまった。数秒、扉の前で沸点に達しそうな熱を放置する。内側から鍵を掛け、チェーンも付けた。ならば室内から抜け出すしかない。頭に友を飼っている怪々な男がどうにかするだろう。窓から出て、広い庭を歩いた。螺旋状に仕上げられた背の低い木々や、肩に掲げた壺から水を溢す女の彫像を眺めながら敷地外へ出る方法を探す。何の囲いもなく突然溜池になっている石畳では転びそうになって危うくびしょ濡れになるところだった。魚が泳ぎ、色の付いたタイルが模様を描いている。夜に訪れたなら間違いなく落ちると思った。清々しい庭園の評価はクレイズの中で一気に下がり、早く外へ出たくて仕方がない。暫く探索し、裏門と思しき小規模で簡単に開く鉄柵から外へ出る。丘になっていた。潮風が吹いて、濃い影と木漏れ日の強いコントラストの下で、街を見下ろした。柑橘類が成った木々の間を通り、降りていく。宛てはない。気が済んだら、気が済んだところで気が済みそうな場所に帰ればいい。おそらく勝手に迎えが来る。長年そうだった。白く照り返す眩しい住宅の並びを眺めて、行き交う娘たちや女性を観察する。同年代以上であるなら母くらいの年齢を少し過ぎた頃まで肉体的滾りを覚えた。顔の美醜に全く頓着しないわけではなかったが大したこだわりもない。ある程度の清潔感と健康的な肉付きをしていればそれでよかった。キュリンドラが死んでからは、女の肉を触りたくない。丸みを帯びた身体に弾丸が突き抜け、床に叩き付けられ、白衣と膝丈のスカートが血の海に沈んでいくのを見てからあまり抱く気が起きない。関わりさえしなければ。遠く若い女を眺めた。買い物袋を持つ女、子の手を引く女、犬を散歩させる女。男と腕を組む女、ハイヒールを鳴らす女。インポ野郎。フィールカントの態度に腹が立つ。受け入れてはくれなかった女を見捨て、受け入れ思い遣ってくれる少し面影のある男に逃げる気か。堤防沿いに歩く。街の所々にある共同駐車場に停まった真っ白のショーファードリブンカーが目に留まる。車体脇に立つ運転手の指に挟まった煙草が燻 る。
「暇~」
肩を跳ねさせ、慌てて携帯灰皿を探す運転手を制する。だが磨り潰されていった。もう少し嗅いでいたかった。
おはようございます。では、どこか行きますか。
「いいの?あの奇天烈州知事に怒られない?」
は、いいですよ。水都を案内しましょう。
運転手は微笑み後部座席の扉を開く。クレイズは促されるままに乗って、運転席に座る前に自身にスプレーをかける運転手を眺めた。車が動き出し、白い街並みが遠くなっていく。左は海が煌めき、右は黄色が眩しい柑橘類の樹園が車窓いっぱいに広がる。
「あれは何?」
レモンです。この辺りの特産物でして。
大した揺れもなく静かな機械音で車は進む。クレイズは暫くレモンの果樹園を眺めていた。
「ふぅん。水都には何があんの」
観光地ですから見応えのあるものは揃っているかと思われます。大統領にお会いしますか
「いや、いいよ。また変なやつ出てこられても困るし」
十数分程度の走行で水都と思しき建物が見え始めた。水上に聳える荘厳な雰囲気のある建物や、水上の商店街。クレイズの瞳も車窓一面に映る大海原同様キラキラと輝く。うずうずしながら、車が入口の駐車場に泊まるのを待つ。都外からの交通手段は主に船らしく、都内はゴンドラか徒歩で移動するらしい。運転手に開けられるより先に降車した。
同行いたしますがよろしいですか。
運転手は白の手袋を外す。クレイズは頷きも首を振りもせず、少し固い手触りの制服を掴んで歩く。
お買い求めの際は何なりとお申し付けください。
歩道から、水路を進むゴンドラや鮮やかな花が飾られている住宅を眺めた。裏口を開けたらすぐに水路といった構造をしている。裏通りに見えた柵のない狭い歩道は夜と酔っ払いには厳しそうだった。柵にしがみついて、まるで水上の広場のような湖を観ていると住宅地から運ばれてくる香ばしい小麦や肉の匂いが朝食を思い出させた。
「腹、減ったな」
呟きを傍にいた運転手が拾った。
は。では水都名物をお召し上がりいただきましょう。
運転手がそう言ってレストラン街へと案内される。観光地というだけあってまだ昼前だというのに混雑していた。団体が運転手とクレイズの間を通り、引き裂かれそうになった。運転手が慌てた顔で振り返る。だが人波に消えていく。一瞬見えたその表情に、クレイズは酷く切ない気分になった。
「父さっ…、」
伸ばした指先は横断していった者の荷物に弾かれた。別の人波が押し寄せて、クレイズは流される。何度か瞬きをする。先程とは違う風景。どこから来たのか分からなくなって、レストラン街を出る。水路の柵に寄り掛かり座り込んだ。あまり動くべきではない。行き交う人々を1人ひとり目で追う。運転手は制服姿だった。探そうと思えば探せる。父さん。胸が少し苦しくなった。会いたい。俯く。だが会わない。顔を上げてたまたま視界に入った1人の娘へ目が釘付けになった。栗色の長い髪と白のカーディガン。パッチワークのロングスカート。動かない方がいいという思考がどこかへと消え去り、追ってしまう。また別の地域の住宅地、レストラン街とは別個にぽつぽつと点在するレストラン、陶器や模型や置物が並べられた土産屋、海産物や果物が叩き売りされている商店街などを彼女は通った。狭い路地に入って見失う。
「先生っ、」
周囲を見回す。
「先生…」
どうかしている。目の前で死んだではないか。どこかで生きていて、それで会えないだけなのだと都合のいい妄想が組み上がったまま。気分は長い出張で不在。
アンタ、ダイジョーブ?
背中から声を掛けられて咄嗟に振り向いた。するはずのない声。やはり生きていた。
「先生…、」
はぁ?
キュリンドラがそこにいた。だが見知ったキュリンドラよりも若い。髪色は同じだが瞳の色は違った。
「え…」
勝手に期待して、勝手に落胆しないでくれる?
キュリンドラによく似た娘は、眉を上げてエミスフィロよりも性別のせいかよく似ていた。
「待って!先生…じゃ、ない…の…?」
こっわ…変質者?いくら美少年でも引くわ、そんなの。
娘はあからさまに不快な顔をして急ぎ足で狭い路地を抜けていった。揺れる茶髪と翻る白いカーディガン。似ている。妹か。妹がいるなどという話は聞いていない。娘ならば大きすぎる。17、18といった年頃だった。キュリンドラは30代入ったか否かという歳だ。結婚の話ならしていた。結婚を急かされていると。上司から。だが好きな人はいないのだと言っていた。製薬会社の御曹司との縁談を幾度か溢されたことがある。いい人で話も合い価値観も似ていたが、家庭に入って欲しいという部分が飲み込めなかったから断ったと言っていた。フィールカントにその話をしたのかと問うと、子供だね、と額を指で小突かれ、内緒だよ、と言われた。
我に返って、運転手に探されていることを思い出す。レストラン街まで戻らなければならない。来た道を辿る。何かの個展会場、昼からミュージカルがあるらしき劇場、コーヒーの香りがする専門店の前を通り、明らかに違う道を来ていることに気付いてから、近くのベンチに座り込む。この辺りはあまり水路が引かれていないらしく陸路が広く敷かれていた。風船を持つ子供が親に手を引かれて歩く。カップルもいる。女同士、男同士で語らい歩く姿もあった。老夫婦が近付いてきてベンチから立ち上がる。日が雲に陰り数秒薄暗くなり、近くの店を眺め歩く。レストラン街に向かわなければ。案内板を見つけ貼られた地図でレストラン街を探す。現在地と随分離れていた。溜息を吐いて地図で示された方角へ歩く。足の裏が痛み始めた。日差しが強くなり、近くの服屋で帽子を買った。入国時に全額換金された。これからはブネーデンの貨幣も統一される。金は父が別れ際に沢山渡した。大して長くもない息子へ。値札もタグも切られた帽子を抱き締めて、胸がキッと痛んだ。薄汚れたウサギの着ぐるみから青い風船をもらい、陽気な口上でパフォーマンスをする男から胸元にライトブルーのリボンが垂れ下がったロゼットを張り付けられた。路上の小規模な花屋ではフラワーウィークと称して帽子と耳の間にアルメリアという淡いヴァイオレットの花を挿し込まれる。潮風が吹いて目が沁みた。
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