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第3話

 案内版を探しているうちに広場へ辿り着き、暫く足を休ませながら組み立てられた舞台でやっている芝居を観ていた。おかあさぁん、おかぁさぁん。泣き声に芝居から意識が逸れた。どうやら迷子らしい。仲間に迎え入れようとしたところで茶髪の女がその子供へ寄っていった。白いカーディガンにパッチワークのロングスカート。あの娘だ。鉢合わせる。娘は、げ!と言った。 「あっ、え…、子持ち?」  子供と娘を見比べる。娘は不機嫌な顔をした。  違う!ほら、お母さん見つけるよ!  娘は怒った調子のまま子供の手を引く。  なんでアンタまでついてくるの。 「え、あのさ、レストラン街まで行きたい…んだけど」  じゃあちょっと待ってなさい!  やはりキュリンドラなのではないかと思ってしまう。似過ぎている。子供が迷ったという広場周辺の道を探し回るのを共について歩く。青い風船を泣き止みはしたが弱気でいる子供に手渡す。駆け回る娘の後を追うように子供の手を引き、聞き込みの末、思ったよりもあっさりと母親は見つかった。  で、レストラン街だっけ?すぐそこなんだけど?  娘は怪訝そうに指を差して歩く。2本小さな路地を抜けるとアーケードのあるレストラン街が見えた。日が傾き始めている。海も少しずつ色を変えているようだった。 「ありがと。何かお礼に、」  なんかいやらしっぽいから要~らない。もう迷わないでね。  娘は背を向けてすぐに帰った。その後姿が人混みに消えるまで見つめる。幻か。キュリンドラの若い頃の幻影。まさか。なんだか混乱した。帽子を被り直してレストラン街に向かう。アーケードに入ったところで肩を叩かれた。 ◇ 「わんぱくでよろしい」  水都の領事館に連行され、客間で待っていたエミスフィロはやはり無表情で声音からもその感情を類推することは難しかった。フィールカントの腕がクレイズの頬を打つ。背凭れに身を委ねていたエミスフィロは跳び起きた。 「…なんだよ。こっちはあんたと違って、代わりはいないんだよ。大事に扱えって」  フィールカントカントは昏く影を落とす。 「フィルク氏」 「すまない。クレイズは貴方の保護下にある。だが保護者として、見過ごせないことがある」 「よく言うよ。保護者?どういうつもりなんだか。そうだ、州知事殿。あんたの運転手さん、オレにちょうだいよ」 「クレイズ!」  フィールカントの腕がまた持ち上がったが足音なく近付いたエミスフィロによってその腕は押さえられる。クレイズも気配を悟れなかった。 「彼か…彼は今回の件で謹慎に入ってもらったからな…」 「じゃあ辞めせて、オレにちょうだいよ。こんな義父よりずっといい」  フィールカントを顎で差す。穏和なのか呑気なのか状況にそぐわない悠長な仕草で考え込む。 「簡単におっしゃいますな。彼もまた掛け替えのない家族のため働く身。…口ではそう言っても、貴方にもいらっしゃるだろう、そういう存在が。たとえばフィルク氏」 「あんた7、8割オレの話聞いてないでしょ」  エミスフィロのあどけない目がクレイズを冷たく見下ろす。彼の空色の瞳は、光に照ることを知らない。 「そういうお考えなら、貴方のお義父上は私がいただく。よろしいか」  いとも簡単に、自身と同じくらいの背丈の男をエミスフィロは抱き上げる。ブネーデンの公爵家の騎士だったフィールカントが目の前で膝裏を掬い上げられる様は妙な威圧感を放っていた。 「好きにしたら。よかったな、死んじまった好きな女にくりそつな美男子で」 「好い(ひと)がいらしたか」  ぺちりと掌で額を叩いてクレイズは顔を背けた。どこか醸される雰囲気が甘い。噎せそうになる。 「州知事がホモ野郎はマズイんじゃないの」 「そうだろうか。もうすぐ同性婚が法整備される。その時に籍を、」 「勝手にしたら。ただその時は、ホントにあんたとオレはただちょっと国が同じだっただけの赤の他人だからな」  フィールカントはエミスフィロの腕を抜け出し、おそるおそるクレイズへ近寄る。 「来るなよ、インポ野郎。サイテーだよアンタ。どこまで負犬なんだ」  足を止めたフィールカントの肩に手を置き、代わりにエミスフィロに追われる。領事館の廊下も入り組んでいた。エミスフィロはどこまでも追って来る。行止りになって、2人で止まった。 「迷っておられる?」 「黙れよ」 「貴方のお義父上に陰萎(いんい)の様子はない。"インポ野郎"というのは誤りだ」 「それ態々(わざわざ)言いに来たの?随分と人のこと小馬鹿にしてるね」  エミスフィロは首を傾げるだけだった。巨大なシマリスに似ている。あの娘を見てからだと似ていたはずの目元がどこか違って見えた。まさかこの男の妹か。だがまるで住んでいる世界が違う。ホラー映画と幼児向けアニメーション映画の登場人物くらいに雰囲気が異なっている。 「私はどうしても貴方の癪に障ってしまうようだ。申し訳ない。善処いたす」 「それは何、未来の養子に向けて言ってんの?そんな甘い考えやめて。あれとは縁切って、それで改めてあんたの世話ンなるから」  エミスフィロは大きな瞳をクレイズに真っ直ぐ向けるだけだった。怒っているのか悲しんでいるのか、まるで分からない。人の感情を類推するのが苦手と言っていた本人は類推させることも苦手らしい。 「もっとやり方、あるじゃん。オレが死んだ後にやればいいだろ。焦ることある?」  胸の結晶が育ち、皮膚を突き破突き破って尚も成長した頃、クレイズは死ぬ。地神の贄になって。そうでなくとも。 「貴方はもう少しきちんとお義父上と話し合うべきだ」 「話すことないのに何話せってんだよ。罵倒しか浮かばないね。あれの好きだった女、オレの2人目の母みたいな人だったんだから。そんなんで、許せる?」  そうではなく。エミスフィロの顔にわずかに戸惑いが浮かんだ。 「そうではない、そうではなく…」 「あんたはどこからガチでどこから冗談なのか分からない厄介な人だからさ、言っておくわ。マジにならないほうがいいよ。ただ顔がちょっと似てるだけだから。それでちょっと聞き分けてくれてるから甘えられてるだけでしょ。虚しいよ、中身は」  脇を通り抜け、また長い迷宮を歩く。館内の者にあれこれ場所を聞いて、教えられたとおりに歩くが出入り口が見つからない。 「エントランスはこちらだ」  似た廊下を選びかけた。まだ行っていない廊下を進む。話を聞いていたのかいないのか、何も感じていないのか、エミスフィロはまだ後を追ってきていた。中途半端な距離を置いて。 「なんなんだよあんた…」 「またお迷いになられると困る」 「別に迷ってない」 「はぁ失敬」  領事館を出て日が暮れた水都を歩いた。水面が赤く染まる。ゴンドラが客を乗せて横切った。エミスフィロは呑気に手を振り返している。水の広場に向けて設置されたベンチに座った。腹が鳴って、腹部を撫でた。 「何も召し上がっていない?直ちに…」 「いや、いいよ。それよか、運転手のおっさん、飯食えた?」 「朝は把握していない…が、昼は食べただろう。愛娘が作っているからな」 「ふぅん、そっか」 「随分と気に掛ける」  エミスフィロは柵に腕を上げ水上広場対面の街並みを望んでいた。橙に染まる淡い茶髪が肩を滑り降りる。 「奥さん亡くしたって言ってた」  肩越しの横顔だったが眉を上げて、意外だと言わんばかりだった。 「オレの父さんも、母さん亡くしたしさ、なんとなく」 「実のお父上が心配か」 「心配だよ、そりゃね。1人なんだもん。母さんは穏やかに死んでいったし、オレはこのザマだし。父さんを1人遺すのがさ、なんか。新しい家族がいたら同じ形じゃなくても、押し付けがましくても、可能性、あるじゃん。幸せになってくれないとオレは死ぬに死にきれないね」  鼻で笑って、少し止まった。何を話しているのだか、ふと冷静になった。 「母さんは死んだけど、幸せそうだとオレは思ったね、だから割り切れた。その女は死んだ。割り切れないけど死んだ。でも父さんは生きてんだわきっとこれからも。そうじゃなくちゃ、困るんだけど」  赤みを帯びた空が水上広場には広がって流れる薄ピンクの雲を追っていた。 「貴方は親の愛をご存知だ。では何故、義理のお父上にそう厳しく接する」  空になった胃がきゅるきゅると軋んだ。風が運ぶ美味そうな飯の匂いのせいだ。カニに近い形をした雲が流されながら溶けていく。変なことを聞くものだと思った。 「好いた女が弟同然、息子同然に世話して命懸けた研究材料を引き取ることで、その女の何かにでもなれた気がするんじゃないの」  問うたのはエミスフィロのくせ、聞いているのだか、いないのだか分からない。クレイズからしてみればぼやぼやした瞳はレンガの敷かれた歩道を泳ぐ。 「分かり合えはしないものか」 「分かり合えないでしょ。実の両親とだって分かり合えたか微妙だよ。忖度して、押し付けて、疑って、結局独り善がりかもって思うわけ」  エミスフィロが隣に腰を下ろした。クレイズは立ち上がろうとしたが、冷たく骨張った手に肩を抱かれる。 「なんだよ」 「全て分かり合うことは不可能でも、少しずつ似通った部分を分かち合いたいと思った。似通わない部分を尊重してゆきたいと…」  帽子越しに頭を撫でられる。 「内側から囲っていく感じ?やめてよね、あんたはオレを"使う"んだから。消耗品の道具を可愛がる必要はないよ」  エミスフィロの手を掴んで払った。ばかばかしい。すると力強く引っ張られる。固い腹に収まり、背に両腕を置かれた。 「貴方がご自身を"道具"というのなら否定はいたさない。"道具"は愛情を注いでこそ目的に辿り着けるというもの…だが私は1人の人間として貴方と接してまいりたいのだが?」 「あんた、家畜にひとつひとつ名前付けるとどうなるか知ってる?」 「家畜…?何故いきなり…」  またつまらない呆けをされる前に捲したてる。 「喋りすぎたわ、反省する。あんたはオレを知るべきじゃない。オレもあんたを知る必要はない。それだけのことだった。じゃあな、可哀想なおっさん」  腕からすり抜ける。領事館に向かって歩く。 ◇  フィールカントとエミスフィロを置いて先に知事邸に帰った。新しい運転手との車内は無言で、使用人に邸宅まで案内される間も何か話す気は起きなかった。食事は部屋に運んでもらい、あとは寝るだけ。筋肉が痛み、踵がすり減ったようだった。扉がノックされた。寝たふりをする。チェーンも鍵も掛かっていた。名乗りもしない者に出るわけにはいかない。暫くしてからまたノックがした。うつらうつらとした意識が覚めてしまう。苛々としながら体温の篭った布団から這い出る。またノックがした。 「何だよ。つか誰?フツー名乗らない?」  扉に叫ぶ。エミスフィロかフィールカントが様子を見に来たか。また抜け出してはいないかと探られているのか。  は、すみません。  運転手の声だった。チェーンと鍵を外す。エミスフィロの罠に掛かったかと一瞬思った。 「あんた謹慎中じゃないの」  本日は大変なご迷惑を… 「そういうのいいから、入って」  周囲を確認して運転手を室内に引き入れる。チェーンと鍵を掛けた。制服ではなかった。運転手は躊躇い、戸惑い、警戒した様子で促されるままに奥へと進む。運転手の衣服を上から下まで確認する。 「脱いでくれる」  運転手は、何を言われたのか分からないようだった。重ねて脱衣を命じる。運転手は狼狽した。何故ですか。あの、怪しいことは何も。お怒りならば謝ります。クレイズは父親ほどの運転手の衣服を掴む。ベッドに着き飛ばし、膝の上に乗った。変な位置に座ってしまったか、小さな悲鳴が上がる。 「盗聴器か何か仕掛けられてない?どうせあの人の差金でしょ、余計なことするよね」  運転手は抵抗した。だが相手が賓客であるためかその力は弱い。容易に運転手の衣服を剥く。前開きのシャツとその下のインナーも乱暴に脱がせる。 「あの人の変な力、怪しいんだよ」  トラウザーズにも手を掛けた。ベルトを外す。運転手は首を振った。 「あ、州知事殿から聞いた?あんた、オレの負犬とトレードしたから、今日からオレのパパなんだわ」  運転手はさらに強く首を振った。 「州知事殿に恥をかかせるわけ?それもいいね、ちくちく嫌味を申し上げるのもさぞ愉快でしょ。あの崩れない美貌の下で何思ってんだか。大して人の話なんて聞いちゃいないんだから。案外あんたのことなんて些末なことだったりしてね」  やめ…てくださ…い、おやめ、くださ… 「ねぇ、パパ。何を探れって言われたの?」  そんなつもりでは…そういうつもりでは… 「州知事殿と何企んでるの、パパ」  トラウザーズと下着を一緒に引き抜き、床の上で振った。ポケットにも何も入っていない。  クレイズ様に直接謝罪しなければと思い… 「なるほどそれが建前ね、こんな夜に?普通、日、改めない?もう眠気覚めたんだけど」  運転手の身体に乗る。中年にありがちな肥り方はしていないが痩せていながら少し弛みは出てきている。 「ってことは夜伽か、監視でしょ。あんたならオレが強く出られないとでも思ってんだ!あんたは!父さんじゃない!」  運転手に怒鳴る。実際の父親と息子ほど歳の離れた賓客に男は怯えた。 「あの気色悪い力で、あんたを助けにも来ない」  あのお力は…身を蝕みます…こんなつまらないことに、使うわけにはいかない… 「へぇ?そうなんだ?じゃあ黙って共寝するんだね」  運転手の身体に腕を回して枕元まで引っ張る。クレイズは強張った抱き枕にしがみつく。青白い光に照らされた男の項を見て、クレイズは、えっと声を漏らした。肩や首回りに散る鬱血痕。クレイズもよくやった。口が暇になって、抱いた女の肌を吸った。 「あんたこれ、どういう…州知事殿と、もしかして、デキてる?」  何故そういう思考回路になったのかクレイズは自身を疑った。妻を亡くしたというのだから新しい女の可能性もある。だが男の背の、そして首回りとなるとどういう体位をとったのか。否、こうして寝ている間にならば可能だ。運転手は肯否を示さず震えているだけだった。 「オレの前パパも今頃好き放題されてるよ」  鬱血痕を舐め上げた。男の肌は滑らかだった。湯上がりなのかボディソープの香りがした。本当にトレードのつもりか。喧嘩を吹っ掛けられている。だが男と寝る趣味はない。運転手は黙ったまま時折息を詰め、全身を舐め回されていた。腰を舐め終えたあたりから意識が朧げになり、途切れ途切れになった。眠気に勝てなくなり、先が痛む舌をしまう。背を丸め、布団を掛け直される。少し冷えた体温混じりの風にふわりと包まれた。  父さんがどこかで生きてるから、惜しくない。  きっと悲しむだろう。今も悲しいのではないか。愛されていることを知らないでいたなら、きっと痛くはなかった。 ◇  日差しで目が覚め、隣の抱き枕は散らかした衣服とともに消えていた。温かい夢を見た。水上都市を家族で歩く夢。父と自力で立てるほどに回復していた母に手を引かれて。これが母の遺したものだ。また寝るか、起きようかというところで二度寝を選ぶ。布団が泥沼となって、背中から呑み込み、寝返りをうてばまた呑まれ、だが感覚は柔らかく朗らかだった。足音で意識だけが引き戻される。心地の良い眠りが、虚無と化す。 「起きろ」  布団を剥がされ、開目した。銀髪と翡翠の瞳を捉える。 「誰だよ、アンタ」  フィールカントだ。朝から対するには気が滅入る不機嫌げな面構えに大袈裟に溜息を吐く。 「いい加減にしろ。いつまで臍を曲げているつもりだ」 「どういう立場で物を言ってんの?」  クレイズは、嫌になるよな、と溢して肩を竦める。 「朝食の時間だ」 「部屋に運べって言った。あんたは好い人と食ってれば」 「クレイズ!」 「もうさ、やめよ。お互い面倒臭いじゃん。アンタはアンタの人生歩めばいいんだよな、悪かったよ、茶化して。もう死んだ人間のことまだ引き摺ってろだなんてアホな話だった。反省してる。それでもうすぐ死ぬ人間のことなんて決着して離れた方がいいね」  クレイズの中で尤もらしいことを並べるとフィールカントの眉間の皺が緩んだ。はいそうですね、と言ってさっさと立ち去ったらいい。いい加減に面倒臭いのはクレイズもだった。フィールカントを邪魔者扱いでしっしっと手を払う。朝食が届き、立ち尽くすフィールカントの脇を通って運ばれた朝食のワゴンを室内に入れた。 「州知事には話通したし、結婚するとこまで進んでんだろ。保護者はあの州知事で事足りてるから。向いてないよ、アンタが、父親とか、保護者とか」  部屋を出て行くとエミスフィロがちょうど来室するところだったらしく鉢合わせになった。ばつが悪くなって無視して通り過ぎようとするが肩を掴まれた。 「フィルク"さん"はどうなさった」  近しくなった呼び方にカチンときた。昨晩はさぞお楽しみだったのか。監視役のような夜伽まで付けて。 「さぁ?」  肩に置かれたままの手を叩くように払った。気持ちが悪い。あの白く骨張った手で昨晩誰のどこを触ったというのだろう。フィールカントが部屋を出ていくまで顔も洗えないではないか。 「どこに行かれる」 「あんたらのいないとこ」 「では、邸内には留まっているようお願い申し上げる」  ふん、と鼻を鳴らしてどこかへ向かう。寝間着のままほっつき歩いてもメイドや執事は恭しい挨拶を欠かさない。エントランスホールの交差した階段から2階へ上がり、床に窓型の光を写す廊下を通った。共同バルコニーが開け放たれて薄桃色のレースカーテンが小さく風に踊っていた。真っ白ぐ太く厳しい造形の手すりから庭園を見下ろす。小鳥が囀り、吹く風は心地良く、日差しは強いが暑くはなくむしてもいない、清々しい朝のはずだ。腹が減った。フィールカントのインポ野郎のせいだ。それから、うそ寒い淫奔(いんぽん)州知事の。バルコニーで少しの間暇を潰し、また邸内を歩き回って道を失う。脹脛が痛み、踵をどこかに落としたような昨日の負担がまだ残っている。昨日。キュリンドラが生きていた。瞳の色と年代だけを変えて。あの娘を見ればフィールカントも目を覚ますだろう。それとも、優しい包容力のある見せかけだけの冷たい雰囲気と美貌ばかりで素っ頓狂な州知事のほうが、身も心もよくなってしまったか。名を知りたいとは思わなかった。キュリンドラと名乗られねば、きっと落ち着かなくなる。小言と数値と研究結果と時折私事の弱音を吐く、オレンジの唇から違う名が出てきたら、きっと立ち上がれなくなる。あの人は長期出張に行ったのだ。何より母とクレイズを優先すると言ったくせに。日向とは反対のバルコニーに出て裏のレモン果樹園を眺めた。白い街並みは青空から白雲が滴り落ちているようにも思う。そろそろ与えられた部屋に戻るつもりで来た道を辿るが違うまた別の方角のバルコニーに出るだけだった。近くを通りがかったメイドにエミスフィロ様がお待ちです、と声を掛けられる。しかし2階の迷路から抜け出せないでいた。使用人に聞く気も起きず、また同じバルコニーに出たり、使用人も歩いていない空き室が並ぶ廊下を通ったりした。戻ることを諦めレモン果樹園の広がる小山の斜面を窓を開け放って見つめた。この街は、山の斜面に作られている。白い街に干される白に混じった色のある洗濯物が視界で綺麗に調和した。母にも見せたかった。シーフードとガーリックの混じった匂いや、レモンの香り、洗濯物の匂いに包まれた街。父はいずれここを訪れるだろうか。父との連絡手段は絶っている。最近の主な連絡手段である端末も持ち歩かなくなって、まだ荷解きもしていない。何より壊れている。場合によっては父に訃報は届くかも知れないが、淡い期待を持たせたまま生きていてほしい感もある。踊るレースカーテンに包まれながらレモン果樹園と海を眺めた。溜息を吐いた。空は同じだ。よろしくやっていればいい。1人遺すことだけが嫌だった。忘れてしまって構わない。そこに寂寞も孤独もなかった。父は十分に母と自身を守ったと思う。悔いはない。多少のぶつかり合いはあったが、聞き分けのいい子どもは虚しいだけだと、父に母のことをたまに吐露されて思う。言いたいことを言って、赦されて、無条件に。何を悔い、どこを寂しがり、何故憂うというのかが却って分からなくなる。国の家畜には過ぎた日々だった。 「…っ!」  窓の桟に手を着く。胸が苦しくなる。皮膚が張り裂けそうだった。キュリンドラが死んでから十数日間、一度も鎮痛剤と抑制剤を受けていない。鼻の下が冷たくなって、鼻血だと思った。体調を崩したりすると、普段通りの鎮痛剤と抑制剤でも効かずに時折こうなった。手の甲で拭った。息が浅くなる。窓の下に座って呼吸を整えようとした。だが呼吸するたびに内側から突き刺さる鋭い痛みが走り、床へと蹲る。酸素を求めながら、呼吸を嫌がる。少しずつ息を漏らし、止めながら吐く。身体が熱くなったが段々と痛みが引いていく。視界が色褪せて見えたが段々と回復してまた外を眺める。鼻血は寝間着に滴ったが少量で止まった。痛みの次は空腹だった。いらっしゃいましたわ!メイドの声が静かな廊下に響いた。 ◇  辛気臭い。ベッドに寝かせられて脇にいる男を見上げながら思った。大袈裟だ。鼻にティッシュを詰め込まれ、甲斐甲斐しくメイドに口元へ飯を運ばれる。 「飯が不味くなるから消えてくんない」  黙って立ち去ろうとする辛気臭い面の肩を胡散臭い男が抱いて止めた。それが苛々とした。額に乗せられた生温い濡れタオルがシーツへ落ちる。 「お咎めを受けるならば私だ。貴方をお1人にすべきではなかった」  フィールカントを遮ってエミスフィロが前へと出る。メイドは白く冷たい手で千切ったパンをクレイズの口元に運んだ。喉に詰まらせないように細かいため、あまり食べている気がしない。熱があったらしく、安静にしてほしいという要求と腹が減ったというわがままの折衷案だった。 「そういや話あったんだろ」  エミスフィロはメイドを一瞥する。部外者には話せないことらしい。とするとクレイズの中に浮かんだのは(しも)の話だった。 「メイドさん、ありがと。そこの負犬にやってもらうから、いいよ」  メイドは困惑した表情をして、辞儀をすると退室していった。フィールカントがアルコール消毒をしたペーパーで手を拭いて代わりにパンを千切る。 「で?」 「昨晩のことだが、誤解なされている」 「ああ夜伽のおっさんだろ。オレはどこかの州知事と違って手当たり次第手を出すホモじゃないんだよなぁ」  意地悪くフィールカントを見ると、さっと目を逸らされた。パンを摘まんだ指が止まり、クレイズ自ら首を動かして食べに行った。 「気、遣うならもっと若い女いたでしょ。メイドさんいっぱいいるし、あの運転手の娘とか。ビョーキ持ってなきゃオレ許容範囲広いよ?あんたの養女でもいいけど」  エミスフィロは返事をしなかった。 「辞表が出された」 「へぇ、本格的にオレのものになるって?これで負犬も御役御免だ」 「おやめになれ…彼は私の元から離れる。貴方の傍にはいられないということだ」 「ふぅん。まぁ、運転手って昨日も代わりいたじゃん。札失うのはオレだけ、あんたはプラマイ0」  困ったものですな、とエミスフィロは小さく呟いた。 「困ってるのはこっちだよ。夜伽に送られたのが男でしかも州知事殿の御手付きだったなんてね」  フィールカントを唇を噛む。本気か。この男に本気なのか。眉間に寄った皺をさらに深めてみたい。 「否定はいたさない」 「ふぅん。とりあえずさ、アンタも辞めたかったら辞めたら。それとも誰かに雇われてる?違うよね、飼われてるだけでしょ。オレに?州知事殿に?あの女に?それとも公爵?」  身体を起こしてフィールカントの手からパンを奪った。半分ほどになったそれに齧り付く。 「望み通りになされよ」  フィールカントの肩を抱いてエミスフィロは出て行った。あの男が負犬に親しく優しく触れるのが気に入らない。あの負犬が、キュリンドラを忘れてしまうのが気に入らない。濡れたタオルを扉へ叩きつけた。  遅れた朝食を平らげ、清爽な外と反して気分は悪かった。部屋でやることは何ひとつない。ぼうっとしていると、扉がノックされた。昼食にはまだ早い。クレイズ様、いらっしゃいませんか。聞き覚えのある声にクレイズは扉を開けた。目を疑う。茶髪に、オレンジの唇、白い上着にロングスカート。互いに目が合った瞬間、訪問者は鋭く眉を吊り上げた。 「せ、んせ…」  頭が真っ白になる。失礼します。水都にいた娘だ。怒った様子でクレイズの脇を通り抜けた。 「な、に…なんで…」  そういうプレイがお好み?いいわ、あたしが先生ね。  娘はやはり不貞腐れていた。白い上着を脱いで床に落とす。 「何しに来た…ん、デスか」  アンタが呼んだんでしょ?あたしを指名してるって…  娘はまたロングワンピースのボタンを外そうとして、クレイズは拾い上げた白の上着を羽織らせる。知らないわけではないが、まずい。この女は無理だ。鳥肌が立った。 「な、それ、部屋間違ってんじゃ…でもクレイズ様って言ったよな…?え、あんた、売春婦だった…んデス?」  娘の冷たい眼差しに、クレイズは固まる。死んだ母代わりと同じ顔に歯向かえない。  仕方ないじゃない…!お父さん、仕事辞めそうなんだから…  娘はロングワンピースのボタンをまたひとつ外した。クレイズは顔を背ける。無理だ。勃たない。勃たないどころか吐気すら覚える。鳥肌が止まらない。 「ちょっと待っ、…話そう。何か食べる?」  娘は手を震えさせて、ボタンを留め直した。

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