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第5話

 昨夜も受け入れたばかりで粘膜に指を挿し込む。フィールカントは隣のベッドを気にして首を振った。青白い光が射し込んで、寝ているのだから寝たふりをしているのだか分からない隣のベッドの膨らみが影絵の小山のようだった。可愛らしい拒絶は聞き入れられないとエミスフィロも首をゆっくり振り返す。キスをしようとしたが先程咥え、飲んだものを思い出し鼻先だけが触れ合って、また下半身に顔を埋める。 『そ…ん……なところ、……舐め、…っ、』 『綺麗です、君は』 『…ぁ、あ…』  淡い色をした蕾に舌を伸ばす。薄布を丸めて腰の下に入れた。月光の下に曝け出される。ひとつひとつを伸ばすように慎重に唾液を(まぶ)す。求め急かしているのか収縮するのがいじらしい。  同じ体勢で疲れたのか派手に衣擦れの音を立てクレイズはフィールカントとエミスフィロのいるベッドへ寝返りをうった。 『ク…レイ……ズ……』 『お眠りなさい』  エミスフィロは自身の下腹部で燻った熱を何度か擦り上げ、フィールカントの窄まりに当てた。両手を口に当て、潤んだ片目に貫かれる。悩ましげに寄った眉間に内部からめがけて楔を打つ。 『ぁ、あっ……ぐ、く…っぅ、ぅぅ、!』  痙攣する引き締まっているくせ弱った身体を抱き締めた。根元まで難無く呑み込み、エミスフィロを引き込んで絡み付く。 『達してしまいましたか』  浅く息を吐く胸を吸う。鎖骨を噛んで、首筋を舐め上げる。 『ぁ、はっ……ぁ、ぅ、ん…』 『まだいけそうですか」 『知事殿…もッ』  深いキスをして、フィールカントを四つ這いにさせる。背中に覆い被さり、腰を打ち付けた。胸と前を刺激しながら、最奥を穿つ。 『ぁ、…あ、っぅん、…は、っ』 『フィルク…』 ◇  隣が静かになってからクレイズは起き上がる。少し寝た。だが深くはない。寝ている2人の姿を見て、茶色に変色したりんごを齧る。食感は劣ったが味は変わらない。静かな部屋にしゃりしゃりと音が響いて、それから自室に戻ることにした。まだ早い朝日が窓の奥のレモンの樹園を照らしている。 「どこに行かれる」  クレイズは頭を抱えた。 「絶倫州知事殿、朝は早いね」 「お早いお目覚めですな」  ずれた会話に「あ~、おはよ」と返して借りた部屋に向かって歩く。 「朝食をお持ちいたす。それから部屋はそちらを左に曲がって突き当たりの…」  エミスフィロは長々と道順を説明し始めた。小鳥が遠くで鳴いている。 「はいはい」  ほぼ聞いてはいなかったが何となく分かった。雑に返事をしたがエミスフィロにその手を掴まれる。クレイズは目を剥く。何を掴んで何を擦り上げて何に触れていたのか。間近で見て聞いた。 「放せよ」 「今の貴方を1人邸内に放るわけにはいかない」  エミスフィロに引かれながら廊下を歩く。メイドや使用人に微笑まれた。 「父を探していた。貴方は」 「はぁ?」 「お父上を、探していた」  クレイズは気恥ずかしくなって俯いた。16の男だ。エミスフィロに揶揄の色はなくても、冴えた頭では突き付けられたくないことだ。 「オレを知ろうとするなって言ったろ」 「私は貴方をただの使い捨てなどと思いたくない」 「それは州知事選挙演説か何かの使い回し?」  あんたはオレから何を奪った?故郷と先生と父を奪った。ブネーデンのために使えた命だったはずなんだよ。先生は出来るだけ長く生かしてくれようと必死だったのに。でもあんたらに全部台無しにされた。 「二度と言うな」  唇を噛む。言いたいことは山ほどある。だが二言で纏めた。人の感情を類推するのが苦手だと言ったこの男には分からなくていい。理解されなくていい。そうさせるだけ疲れる。虚しくなるだけだ。鏡となって、実感と追体験に不快感が付加されるだけだ。 「いいえ」  無言を了承だと受け取っていたがエミスフィロは拒否した。 「何度も何度でも申し上げる。私は貴方を1人の――」 「あんたは州知事で、神託のなんちゃらとかいうすごいやつってことは分かったよ。でもそれ以上に残酷なやつってことはもっと分かった。優しさも慈悲もない。あんたは――優越感に浸ってるだけだろ」  やっと静寂が訪れる。小鳥の囀りと絨毯を踏む音がした。  20歳までは生きられない。そう宣告されたのはまだ10歳にもなっていない頃だった。40代で死んだ母よりやはり進行が早い。キュリンドラが早期治療に出てみても。死とは何かをまだ理解しないまま、概念だけを理解して、そして母は死んでいった。悪くないものだと思った。穏やかで、暖かった。最期まで。恨み言でも悔いでもなく、今後を託して、思い出に浸って、もう消える今を喜んで、死んでいったから。だが何となく考えてしまう。生きたかっただろう。息子が結婚し、子を抱くところ。結婚せずとも、どう生きていくか。どう成長し、母と父の面影をどれだか強く残していくか。命のことなど考えずに、口喧嘩して、明日には会えないかもなどと心配せず、言いたいことを言って。父がどのように老いていくか。まるで想像もつかない可能性。母のことはこの国のせいではないけれど。  自室に送られる。鍵は付いていたがチェーンは金具ごと外されて扉には日に焼けていない跡と穴が残っている。部屋奥の押窓は開け放しだ。シャワーを浴びて着替え、その押窓から庭園へ出た。やはり気分は最悪だ。体調は良い気がしたが、気分だけが上がらない。この街の天気や風景に馴染みはしてきている。散策しながら辿り着い裏口を出て、大地いっぱいに広がるレモンの樹園を通っていく。わずかな甘みを帯びた柑橘類独特の酸味が潮風に吹かれて爽やかな香りに包まれる。住宅街に入り込み、身体が向くまま道なりに歩いた。  あれ!アンタ!  眼球の裏が絞られるように沁みた。先生の声がした。 「あ、」  白のデニムジャケットを着た、あのキュリンドラの生き写しがいた。ボーダーのカットソーに、ボーダーに合わせたネイビーのロングスカート。首に赤のスカーフを巻いていた。  おはよ。偶然じゃん、どうしたの? 「お…は、よう…ざぃマす…ちょっと、散歩」  娘は溌剌としている。朝から元気がいいところも似ていた。  朝から?元気だね、なんか意外。 「…ちょっと考え事だよ。誰にでもあるだろ」  娘のひとつひとつの仕草に胸がざわめいて、目の裏がきつくなっていく。  若いね~、悩みかぁ。 ――いっぱい悩みなね。それが生きていくってことなんだから。  項垂れる。エミスフィロとの諍いをまだ引きずっているとはクレイズ自身も思わなかった。この娘の姿、声、喋り方、言動のせいだ。  ちょっと、ちょっとどうしたぁ。かなり深刻な話?  娘は無遠慮にクレイズの肩に触れて顔を覗き込む。顔を逸らして拒んだ。  そうだ、昨日レモンケーキ焼いたの。今帰るところなの、朝の仕込み当番終わったから。お昼ご飯も食べにおいでよ。お父さんも1人で閉じこもってさ、誰か話し相手になってくれたら、きっといい気分転換になるからさ。  娘は情緒の安定していなげなクレイズの背けていく顔を追いながらそう提案した。行く場所もないクレイズは頷いた。何より腹が減っている。バスに乗って水都に向かう。終戦記念にバスが期間限定で無料になっているらしい。それから水都でもレストラン街や商店街が割引や特典で賑わっているのだと娘が話した。レモンケーキもつい材料が安くて買い込んでしまったという。バス停留所から水都入口まで歩きながら、陽気な娘が俯きがちに口を開く。  男の人ってさ~、なんか、言わずに黙ってるのがカッコイイ!みたいなところあるじゃん。色々カッコ悪い事情があるんだろうけど、言ってくれなきゃ分からないよ。  娘越しの柵と消波ブロック、水平線を眺める。 「言っても仕方ないことなんじゃないの」  あ、アンタも男の子だったよね、ごめん。 「信用されてないとか」  娘の表情が固まって、クレイズはまずいことを言ったのだと知った。だが娘は怒るでもなく、弱く笑う。諦めたような、どうしようもないと頭だけで割り切った風な姿がこの娘に重ねていたものと離れて、気に喰わなかった。  お父さんとあたし、血、繋がってないんだ。だからかな、そっか、信用か…じゃあ、仕方ないね。 「…心配させたくないとか、あるじゃん。言ったら負担になることとか」  なんか、あたしが慰めるつもりだったのに、あたしが慰められてるんですけど。 「そんな話だっけ。レモンケーキ食わせてくれるんじゃなかったの。あとお父さんの話し相手」  そ!分かってるならよろし。 ――そう、分かっているのならよろしい! 「オレも、血の繋がってる親父と血の繋がってない…親父っていうか、親父ぶってるというか、なんか兄貴みたいなのがいるんだよ」  親父ぶってるの?大変ねぇ、口煩いとか?必死なんだよきっと。  娘は興味津々だった。水都に着いて、海を眺めながら少し休んだ。熱がまだあるらしいが歩けそうだ。胸を押さえる。弱く痛んだ。  ちょっと、アンタ大丈夫?この辺り慣れてないんでしょ。  娘が肩を掴む。痛みが引いていく。代わりに入り込んでくる、喪失感。木道と靴、柵に引っ掛かったパンフレットが映る視界が滲む。乾くまで俯いた。  ご飯何がいい?サーモンのバターパスタか、シーフードレモンか…とにかくレモンが余ってるのよね… 「ごめん、落ち着いたわ。行こ、腹減った」  あんまり無理しないことね、観光客ばたばた倒れていくから。  娘とともに住宅街に入っていく。狭く複雑な構造をよく覚えられるものだ。  お父さん、お帰り~。友達連れて来た~。  先生と君は、先生と患者だけど、先生は君と友達みたいに関わっていきたいな。  娘に通され、邪魔しますと言って中に入る。リビングにいた娘の父親には見覚えがあった。運転手だ。素肌を舐め回した相手だ。  ただいま…クレイズ様…? 「…あ~、」  クレイズと運転手は見つめ合う。知り合いだったんだ、と娘は意外そうに言ってキッチンに立った。  このことは、知事は知っているのかい?  運転手はクレイズと娘を交互に見る。娘は、え~?と訊き返すだけだ。  なんで?あ、そっか、おじ様の邸宅にいたもんね。 「おじ様?」  エミスフィロおじ様。  クレイズは額に手を当てた。 「19になりそうな18歳の養女がいたって、」  あたし?  レモンケーキと茶を出され、クレイズは脱力しながら椅子に座る。運転手は固い笑みを浮かべるとキッチンに行き、娘の肩を抱いてこそこそと話しはじめる。レモンケーキを食べながら室内を見渡した。写真立てだ。おそらく亡くしたと話していた妻と運転手と娘が写っているものが何点か、それから娘と知らない女の写った写真。  散らかってるからあんま見ないで!  運転手が右隣に座り、娘は対面にいる。  お前、この方は… 「ああ~いいって、友達、だろ」  レモンケーキは甘く煮込まれたレモンの輪切りがのっていた。スポンジ生地にもレモンの皮が練り込んであった。甘すぎない味付けでレモンの風味はしたが強い酸味はなかった。 「っつーか、戻ってきて」  テーブルの上に置かれた運転手の腕を摩った。娘はレモンが浮かんだ紅茶を啜りながら運転手とクレイズとを見ている。大袈裟なほどに運転手が動揺した。  少しクレイズ様と席を空けるよ。  うん、あ、クレイズ様?ちょっと体調悪いみたいだから気を付けてね。 「大丈夫だよ」  運転手の積極的な姿勢に驚きつつも娘を残して家の外に出た。逸れた苦い経験のせいか家の入口すぐだった。自宅入口から歩道までの間が水路で橋が架かり、ゴンドラが通る。  娘がとんだご迷惑をおかけしました。 「特に迷惑はかけられてない」  水路のグリーンに濁った水面を眺める。運転手はクレイズを向いたまま畏まった態度を改めることはない。  知事はここにクレイズ様がいらっしゃることをご存知なのですか。 「さぁ。知らない、あんな人。大丈夫じゃない。なんでも、お見通しなんでしょ。身を蝕むんだっけ」  では、連絡だけはさせてください。 「ふん」  運転手は端末を出して電話を掛ける。柵に背を預けクレイズは会話を聞いていた。妙な心地がした。電話が切れて運転手は溜息を吐く。 「娘さん、あんたが閉じ篭って相談してくれないって言ってたけど」  疲れた顔をした運転手はまた溜息を吐いて、柵に両腕を上げ遠くへ視線を投げた。  知事と関係を持って、そしてクレイズ様と関係を持ってしまった。知事に会うのがつらい。そんな話を娘に出来ますか。 「関係は持ってないでしょ」  ですが… 「持ってないって。やめてよ、オレの名誉のために」  運転手はまた大きく溜息を吐いた。クレイズは横顔を観察していた。父と同じか少し上だ。  知事が好きです。妻を亡くして鬱いでいた私に良くしてくれた。子宝に恵まれなかった私たちに素晴らしい出会いをくださった。 「ふぅん」  その娘を売春婦同然に扱ったではないか。この男は騙されているのか。騙されている。フィールカント同様に。弱った男に付け入っているだけだ。  知事は孤独な方だ。私に出来る事は限られていますが、力にはなりたかったのです。  運転手からエミスフィロの話を延々と聞かされた。理解出来ない感情をのせて。不思議な顔をすると思った。楽しそうに話し、そして突然憂う。華やかな顔をして、恨みがましく暗くなる。話によるとエミスフィロは古代にこの周辺にあった集落の末裔だったらしい。神託の村と呼ばれ、地神と意思疎通が図れるという。なんとも奇妙奇天烈な話だ。そのため若くしてエミスフィロが州知事とならざるを得ず、地神に意向を訊ねるという。早くから親兄弟と引き離されていたが、紆余曲折を経て母方の叔父の娘が戦災孤児となったところを引き取ったらしかった。 「くっだらね。ここは誰が住んでる土地だよ、神か?人間か?」  そうおっしゃられましても。我々は地神と自然の調和の元に生きていますから。  運転手は信心深そうなことをまるで信じていないように言った。  地神とか自然とか私にはどうだっていい事なんです、大きすぎて。娘が犯罪にも事故にも巻き込まれず、幸せに生きてくれたら。娘のところにだけは津波も地震も竜巻も疫病も飢饉も戦争も起きないでいてほしい。それだけのための、信仰ですよ。  運転手の疲れた目元や口元の皺が目立った。制服を着ていないと情けなく見える。母の元にやってくる父は仕事着のままで、そして情けない顔をしていた。 「自分の幸せ掴んだほうが娘さんも多分幸せでしょ」  人間は、利己的な生き物です。だから幸せを願う相手が出来たことは、もしかしたら、人の宿命を捻じ曲げることなのかも知れませんけど、私には妻がいました。娘もいる。こんな幸せがあっていいのかと、たまに思うほどです。 「…宿命ねぇ」  胸が小さく軋んだ。あの医者は信じないだろう。宿命なのか、この胸の痛みは。宿命なのか、父から母が奪われたことは。誰が決めた。何によって。変わるかも知れない。期待を抱くことでしか反抗出来ずに。反抗出来ずに、あの医者は死んだのか。母は死んだのか。そしてこれから、死ぬのだ。 「ごめん、帰るわ。娘さんによろしく言っといて。レモンケーキ美味しかった。あんたと話せて良かったわ。楽しかった。と…パパン」  運転手に止められるのも聞かず、クレイズは娘の家へ背を向ける。迷いやすい場所だということも忘れて人混みに呑まれる。ただ人混みに呑まれだけだ。どうということもなかった。どこか突き進んで行けばどこかしらには出るのだ。どうということもなかった。知っている者はいないのだ。涙が止まらなくなった。ただ今日この場所に居合わせた人間に情けない面を晒すだけだ。どうということもなかった。そこに宿命だの縁だの因果だのはなかった。ただ物理的なものの流れで、偶然に同じ瞬間、同じ場所にいる流れに乗っただけだった。父と母の出会いもそのようなもので。水上広場まで出て、水面と空、遠く山の斜面を飾る黄色の点々を望みながらベンチに座る。頭ががんがんと疼き、胸が鋭く痛んだ。肋骨を押し、間から切っ先が伸びる。張り裂ける。シャツの胸に小さく血が滲んだ。目の前がちかちかした。もうすぐだ。生唾を飲む。死が迫っている。呼吸が荒くなり、落ち着かない。死は怖くなかった。6年間、7年間、8年間、もう暫くは、まだだ、もうすぐかと覚悟させられたことだ。身近なものだった。鼓動のたびに大きく皮膚を突き破ろうとして、シャツに赤い染みを広げていく。先生。舌が結ばれたように動かなかった。先生…。痛みを解放してくれる者はもういないのだ。 ◇  デート断ったんだから、ありがたく思いなさいよ。  あの医者によく似た娘が言った。隣に座っている。目の前の水上広場に花火が上がった。水上から竜を模したオブジェが現れた。竜の型に組まれた鉄パイプから水が噴き出している。水飛沫が飛び、水上広場は人で囲まれていた。クレイズと娘は特等席にいる。喋る気も起きず、ひび割れた唇を舐めた。乾いた瞼が重く、水竜が何度も潰れていく。コマ送りになって動く。  よく頑張ったね。痛かったでしょ。  聞いたのか。娘の元気だった声が沈んでいる。あの医者と同じトーンだ。クレイズは背凭れに身を預けたまま花火を見上げる。火薬の匂いがした。 「あんたん家で、やっと…名物食えた…よ…」  娘は黙った。何を言っていいのか分からないのだろう。扱い方が分からないというのは慣れている。だから自ら喋らねばならない。 「美味かったわ……レモンケーキ」  あんた、名前は。 ――あれ?知らないの?クレイズくん。キュリンドラ先生。ほら、言ってごらん。 「キュリンドラ…先生…」  隣には誰もいない。花火がうるさく上がり、水竜のオブジェが機械音と鉄パイプの軋みを伴って水上広場で噴水のパフォーマンスを披露する。  やっと見つけた!ほら、行くよ。  息を切らした娘が背後からクレイズの肩を叩いた。人混みなどなかった。その場その場で道行く人は立ち止まって花火を見上げていた。  領事館まで歩ける?おぶってあげようか。 「デート…は…?」  なんで知ってんの?いいよ、今は恋人より友達なの。 ――なんてね、今は見合い相手より、友達なの。  見合い相手との食事をキャンセルして、容態が急変してしまったクレイズのもとに戻ってきたのだった。 「…待って」  娘に手を引かれていたが立ち止まった。きちんと言わねばならいい。置いて行かれた側から、置いて行く側になる前に。手を放し、対峙する。シャツに染みた血を目にしても何も訊くことはない。無言のまま娘は待った。 「ありがとな、案内とか、色々」  娘は下唇を噛んで、クレイズと目を合わせなかった。一言、行こ、とまた手を差し出して領事館へと連れられる。担架を断りエミスフィロが待つ応接間へ行った。部外者は入れないから、と娘と別れて待合室にいた運転手と並んで帰っていった。その背中を見つめる。向き合わなければならない。漠然としたゴールだった。もうすぐだった。走らずとも、蹴らずとも、ドリブルせずとも近付いていく。ゴールの方から。むしろ追われているといってもいい。  応接間の扉を開ける。茶髪が1人いるだけだった。 「すまなかった」  先に口を開いたのはエミスフィロだった。胸に広がる血痕を見て、無表情な双眸が驚愕に見開いた。 「…何が」 「貴方の気持ちを踏み躙った。すまなかった。お許しいただきたいとは思わない。ただ、すまなかった」 「いいよ、あれが本心なら、本心で。オレも喋り過ぎたわ、ごめん」 「違う、そういうことではなくて…」  帰ろうよ。こう言うのが精一杯だった。フィールカントがいないのも気になった。全く知らない運転手のショーファードリブンカーよりもずっと小規模な車で邸宅へと運ばれる。この車だと、街中の隅にある緩くカーブした坂を上れるらしかった。そのまま車に乗って邸宅前で降りる。エミスフィロに連れられながら自室に送られる。やはりフィールカントの部屋の前からは呻き声とも悲鳴とも絶叫とも言えない痛々しい声が小さく聞こえた。 「フィルクさんのことをやはり話しておきたい」 「必要ない。フィルク本人から言いに来ない限りは聞く気ないし」 「フィルクさんは貴方に知られたくないご様子」 「なら尚更、あんたの口から聞く気ないよ」  エミスフィロの引き締まった腰を押して部屋から追い出した。鍵を掛けるがノックされる。まだ何か話すことがあるのか。 「鎮痛剤と抑制剤が生成された。今すぐお持ちする」 「いいって。もういいって。このまま、行くところまで行くわ」  シャツを開けて皮膚を突き破っている異物を確認する。血に塗れてよく分からない。もともと深みのある赤い結晶だと聞いている。母の亡骸から摘出するかと問われた時、あまり刃を入れたくなかったために断って、埋葬した。だからあくまで話に聞いただけで本物を見たことはない。 「クレイズ氏…!」  明日か明後日か、明々後日か。エミスフィロが扉を叩く。無視してシャワーを浴びに浴室に向かった。この身体が過敏なほどの管理が必要などとは考えもせず、あの医者の住処に鉛玉を浴びせたではないか。何日分、もしかしたら寿命より多かった薬やそれらを作る薬品や資料を荒らして踏み付けて蜂の巣にしたではないか。  ぬるま湯が裂けた皮膚に沁みた。先端を覗かせる結晶を押すと胸全体に鈍い痛みが広がった。身体を洗いながら今日あったことを思い出す。あの亡霊のような娘と話し、レモンケーキを食べ、運転手と語らった。何もなかったが良い日だった。父親の背中と娘の気遣い。あの亡霊には上手く、あの亡霊には、叶わなかった押し付けがましい平穏を送りたい。あのしがない父親にも。あの2人だけにでもいい。石ころの痛みは無為ではない。  大丈夫、ちょっと緊張するだけ。 ◇  腕を掴まれている。手を握られている。身体が重かった。起き上がれそうになかった。首だけが動く。銀髪がシーツに散らばっている。 「何ここで寝てんの」  施錠したはずだが外されたらしい。日差しにキラキラと銀の毛が照る。タンポポの綿毛にも、蜘蛛の巣にも似ている。何となく撫でてみる気になった。飼い犬を撫でるのに何を遠慮している。『白狼のフィールカント』など、名前負けも甚だしい。 「お前はよくやってるよ、か」  白髪か地毛かも分からない白く光る毛を何本か見つけた。まだ20代後半だったはずだ。若白髪か、そういう年の頃なのか。寄せられて盛り上がった眉間に指を当てると、さらに眉が歪んで目が開く。右目も翠色を見せた。 「眼帯は」 「……麦粒腫(ものもらい)だ。もう治ったから外した」 「ふぅん。麦粒腫(ものもらい)、ね」  見た目で分からないほどの軽度の麦粒腫で眼球を抉り取るなどとはクレイズは聞いたことがなかった。本人がそう言っているのなら追及はしなかった。 「それよりも、大丈夫か。熱は下がったのか」  フィールカントは立ち上がってテーブルの上に置かれた身に覚えのない救急箱から体温計を出した。あちらこちら擦り切れた木箱だ。 「大分楽になってるけど」  熱があったことも忘れていた。腕を上げられ、体温計を挟まれる。なんとなく見た左肘内側に注射パッチが貼ってある。剥がした。 「…っ、!」  怠い身体を無理矢理起こした。壁際まで後退った。体温計がシーツに落ちて、フィールカントが顔を顰める。 「どうした」 「オレは人形か…?オレは…オレは、あの州知事の人形なのかよ!」 「クレイズ?」  フィールカントは事情を飲み込めていないらしく困惑と疑問を浮かべている。だがこの男はあの州知事側の人間だ。少し気が緩んでいた。 「最低だ…なんだよそれ…生殺与奪権はあいつにあんのかよ…オレはテキトーに生かされて、テキトーに用済まされんだな…?」  それで良かったはずだ。やることは変わらない。果たす役目は変わらない。だが、本当に、この国にとって自身は家畜の扱いと変わらないと言われているようだった。現実として突き付けられているようだった。 「クレイズ、どうしたんだ?」  フィールカントがベッドに乗り上げる。味方のふりをした敵だ。 「来るな…!触るな…!失せろ!」 「クレイズ!」  カラス野郎にべたべた触られてよがり狂った色情魔の腕が伸びる。噛み付く。引っ掻いてもその腕はクレイズの華奢な身体を包んで離さない。 「放せ!薄汚いんだよ、色狂い」 「クレイズ、落ち着け!」  叫び、喚いた。 「あのろくでなし!とっとと死んじまうから何してもいいと思ってんのかよ、クソ!」  フィールカントの力強い腕に押さえ込まれ、駆け付けた執事や使用人、メイドの見世物になる。エミスフィロ様は。すでに知事本局に。至急連絡を。しかし大切な会合が。已むを得ますまい。内密に済ませたほうがいいのでは。自分もそう思います。 「2人で、出て行くか」  耳元でフィールカントが囁いた。まだ衰えていない筋肉に爪を立てる。何を言っている。 「お前がつらいなら、ここを出る」 「バカやろう!」 「何も心配するな」  右頬を張る。フィールカントは力のまま首を曲げた。左目が瞠る。 「そんな身体で何言ってんだ!人をコケにしやがって!」 「クレイズ…、お前…」  暴れたせいで胸が熱くなった。痛みがない。熱だけだ。弄ばれている。仕方ないと思っていた。人として扱われて、人として接したいと言われて浮かれていた。奴隷の扱いではないのだから、感謝するべきだ。耐えられなくなって、取り繕うことも出来なくなって泣き喚いた。震えた手で強く抱き締められる。あのカラス野郎を裏切れるのか。コードに繋がれたら身体で。苦しみ咆哮するほど何かを抱えた身と、この爆弾の植わった身2つで何が出来る。

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