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第6話

◇ 「クレイズ。俺は、…本気だ」  天井を眺めたままクレイズは動かなかった。糸が切れたように放心している。フィールカントの声も聞こえなかった。胸が熱い。抑制剤だろう。ただあの女医のものとは違う。胸から何か飛び出てきそうな熱。痛みはない。不快感と倦怠感と無気力感が次々と訪れてはクレイズの頭を撫で摩って去っていく。 「どこがいい」  目だけをフィールカントへ動かした。翠の瞳にがっちりと捕まえられる。唇を動かすのも億劫で重い瞼も開きたくなくなっている。 「海の見える街か。内陸部もいい。村でも、町でも空気の綺麗なところのほうがいいだろう」  不機嫌げな表情が和らいでいる。あの男に未練があるくせに。 「俺はお前の父親になりたい…」  身体が縛り付け押さえ込まれているのかと錯覚するほど気怠くなければ殴っていた。蹴り上げていた。 「蓄えはある。足らないならすぐにでも働きにでる。ここにいるのがつらいなら…」  普段は険のある声音が優しい。節くれ立って剣や銃を手にしていた堅い手が髪を梳く。忌々しい男の肌を撫でただろう手で。娼婦が慈母の手をして。娼婦と慈母は必ず二極化したものではないのだと知る。 「お前といルのが一番つらイよ」  喉仏に何か乗っているような重さを感じる。声量の調節が分からず裏返った。自他共に厳しく上下関係に縛り付けられず堅実な男が、尊敬の眼差しを向けられていた男が、明らかに傷付いた顔をした。後ろ暗い悦びに頭が冴えていく。白狼の騎士、白狼のフィールカント、貴公子、白銀の王子様。州知事の前ではとんだ淫乱だ。分からなくなる。この男があの女医を二度も捨てるのが許せない。捨てられたから、捨てるのか。  握られて、鉛玉を巻かれているような手首でフィールカントの手の甲に掌をのせ、爪を立てる。薄い皮膚を爪が抉っていく。 「クレイズ…ならば消えよう。お前の前から。それが望みならば仕方がない…」  愉快だ。仄暗い喜びに浸る。公爵家に保護さえされなければ、この男はあの女医に出会うこともなく、勘違いもせず、騎士として公爵家に仕え、終戦した今頃は遊び惚けていられただろうに。歯車を狂わせてしまった。この男に会わせさえしなければあの女医は。くだらない仮定で妄想が盛り上がる。吃逆に似た痙攣がした。進行のせいか、それとも投与されたものが不出来なのか。 「奴隷なら空いてる」  構わない。そう聞こえた。気に入らない答えだ。 「お前の何かになれるのなら」 「性奴隷」  フィールカントは普段の不機嫌な面に戻る。身を強張らせ、唇を噛む。大仰なことを言ってもそのようなものだ。期待はしていない。 「俺はお前の傍にいたい」  目を開けているのが容易でなくなって瞼を下ろしたままになった。口が動くようになったが眠気が増していく。 「じゃあ暇だし、そこでオナニーしろ」 「な…っ、クレイズ…!」  はい、やりますなどという答えが返ってくるとは思っていない。見ているつもりもない。あのカラス野郎とは違う。 「覚悟もないくせに。おやすみ。また明日、生きてたらね」  面影を追って男に抱かれる淫売になった堅物で厳格な戦士には分からないことだろう。クレイズにも分からないことだ。買った女とそういう遊びもしなかった。侍らせて、座らせて、枕にして、抱きながら撫でられる。それで十分満たされる。大きく息を吐いて傾斜のついたベッドに深く身を任せる。胸が熱い。当分女を抱く気にならない。抱く気が起きるその前におそらく命が尽きるだろう。何より身体が持たない。ベッドが軋んだ。誰か乗り上げている。クレイズの足元で止まり、またベッドを軋ませた。布の音がした。金具の音。焦った呼吸。ベッドの軋み。荒れた呼吸。衣擦れの音。そして深呼吸。大きな物音ではなかったが眠りに入っていくには邪魔だった。耳障りだとばかりに瞑目したまま眉を顰める。 「…ンッ、ふ……」  鼻にかかった声はおそらくフィールカントだ。 「ふ、…ん……っ、ぁッ」  浅い呼吸と断続的な物音。連続していき、そして音も激しくなる。クレイズは瞼を通した陽射しが眩しく目元を覆う。 「ッ…、ぁ…はっ、……」  艶を帯びはじめた。クレイズは何してんだと鉛を巻かれたような腕を放り投げ、目をゆっくり開ける。足元にフィールカントがいる。大きく股を開いて、自慰に耽っていた。寄せられた眉と伏せられた睫毛。そこから覗く翡翠の瞳。目元を赤く染め、普段は怒ったように引き結ばれた唇がだらしなく開いた荒い呼吸を繰り返す。まだきちんと勃ち上がってはいないが少しずつ芯を持ってきているようだった。そこでオナニーにしろ。そう言った。冗談だった。 「…っは、ぁ……ぅ……ふ、」 「ばか犬で負犬で雌犬か」  潤み赤らんだ貌で睨まれる。怠さに棒切れと化した重く軋む脚を布団から出す。フィールカントの哀れな雄から手を蹴って退かし、足の裏を当てる。膝の関節の感覚がないため身体ごと小さく動かして不思議な感触のする軟らかくも固い肉を刺激する。 「ク……っレ、イズ……ッ」  足の指でくすぐってみる。踵を震わせる。瞼が開けていられずまた目を瞑る。足の裏で硬さを確かめながら爪先や指、土踏まずや踵、足の裏全体で性奴隷志望の肉塊を育てていく。 「ぁ、…あぁ……」  白く細い足に中心部を踏み付けられている。後ろに手を着き、両膝を大きく開くその姿には焦燥と唖然と陶酔が混じっている。 「恥ずかしいパパだな」  喋るのも気怠かった。二度と投与されたくない。クレイズは唸った。脱走を阻止するためだったのか。 「ぁっ…、っく、う…ンっ」  もう片方の脚もどうにか布団から出す。痺れる膝をゆっくり曲げて、両足で蜜を零しはじめた躾のなっていない雄犬を挟み込む。だが動かす気力はなくなっていた。 「寝る」  爪先の皮膚が固い陰茎を挟んだままクレイズは眠る姿勢に入る。足だけ少し力を入れて両側から圧迫した。呼吸を整える音がした。やめる気か。すでに黙って落ち着かせられるほどの勢いではなくなっている。足の裏から肉感が抜けていく。先端部の括れが引っ掛かった。片付ける音がする。懲りただろう。生温い理想を諦めさせたという実感は甘く美味かった。 「さようなら」  ベッドが軋んで重みが消える。言ったはずだ。そして選んだ。 「良い人生を」  目を瞑ったまま、重く寝返りをうつ。肘を枕にした。浮腫んだ感じがあった。母とあの医者と父。十分過ぎるほどだ。負犬の入る余地はない。早く出ていけ。壁を向いたが人の気配はそこに在ったまま。 「背負ってでも連れていく」  本格的に、抗えないほどの倦怠感と眠気に襲われた。意識と肉体が乖離していく。 殴りつけたい衝動を丸く呑み込まれ、研がれ、どうでもいいことへと変えられてしまう。怒りも精神論もくだらないと切り捨てられ、あの茶けたカラスのことも取るに足りないことのように思えた。  コノママ、ヤスラカニ、ネムラセテ… ◇  からからと腰の下が軋んだ。連続した振動。揺りかごよりも風を感じる。包み込む暖かさと頬を撫で髪を梳く微風が心地良い。ずっとそうしていたかった。 「…ん、」 「すまない、起こしたか」  親しそうな男だった。草と土の匂いがする。眩しさに閉じたままの瞼を固くする。目は開かない。そういった気力はなかった。 「み、ず……」  紙袋の音がした。懐かしい音だと思った。母と買い物に行く時によく聞いた。手を握られ、冷たく濡れたボトルを握らされる。支えられたまま口元で傾き、喉を潤す。口の端から溢れて、柔らかなタオルが顔に当たった。 「腹は減ってないか」 「う、ん」  優しい声に小さく頷いた。どこかへ向かっている。それ以上は考えられなかった。だがひとつだけ色濃く残った疑問を口にせずにはいられなかった。 「なんで…」  答えられたところでおそらく耳を通って虚空に消える。 「俺はもともと反対だった」  花の甘い香りがした。くしゃみをして、首元に柔らかな布を巻かれる。小さく開いた視界にはアスファルトが見えた。ゆっくりその上を滑っている。腰の下から伝わる揺れ。跳ねる小石と、時折鳴る靴音。 「おじさん…」 「パパ」 「パパ…、パパ…」  何かを考えようとして、思い出せそうになって、引っ込んでいく。大事な話だった気もしたが、些事だった気もする。左肘が痒くなって柔肌を掻くと、右手を取られてアスファルトは止まる。動いてるのはどちらだろう。自身の側だ。ミルキーな匂いに混じる薬品臭。クリームが塗られ、ひりひりと沁みた。硬い指の腹だった。 「パパ、」  言い慣れない言葉だった。このような単語を使っていただろうか。知らない言葉ではない。 「お父さん…?」 「クレイズ」  指先の体温で溶けそうなほど繊細な声音に恐ろしくなった。何故、撫でてくれないのか。 「こんな思いさせて、すまない」 「お父さんは、悪くない…よ、母さんも……何も、悪くない……」  口がなぞっていく。言葉でなぞっていく。これは今思った言葉で、だが違う。父さん。父。何故。会わないはずだ。絶縁した。顔を見たくない。声も聞きたくない。気持ちも本音も知りたくない。言葉をもらいたくない。 「誰だよ、アンタ…」  空を仰ぐ。逆光。銀髪が煌めく。負犬だ。父と母とあの医者で十分と思ったくせ、結局自分に残ったのは。負犬だ。 「調子は戻ったか」  雑草が青々と生い茂る空き地と山々が広がり、舗装道路を挟んだ反対側には並木の奥に海が見える。 「この先の町でアパートを借りる。そこで暮らそう。新しく端末も買うか。お前はすぐ道に迷うから持っていたほうがいいな」  銀髪が揺れる。左右の大きな車輪が回る。 「屋敷は…」 「あそこにいる必要はもうない」  清々しく言われ、まだ夢の続きを見ている気がした。 「あの州知事殿のこと、好きだったんじゃないの」 「だが俺にとって、お前に代わるものはない」  車椅子は進んでいく。町の建物が見えてくる。 「アンタは大丈夫なの。点滴も機械もないでしょ」  小さな町の診療所にあるような設備ではなかった。フィールカントは黙る。大事なことは教えないのか。 「…いつから…知っていた」 「つい最近。州知事殿が教えてくれそうだったけど、アンタの口からじゃないと聞く気ない」 「そうか…」  やはり教えはしなかった。町に入って、アパートを借りに行く。2人で暮らせる部屋。フィールカントに任せてクレイズは眠っていた。即日入居で、1階、角部屋。希望は全て通った。大きな花壇のあるアパートだった。クレイズの目が覚めたのは柔らかな布団の上だった。古いベッドのマットレスに新しい敷き布団が乗せられている。天井の隅に蜘蛛の巣が張り、壁紙は焼けている。レースカーテンから入る日差しによく当たる位置だった。 「カーテンの色にはこだわらないだろう?」  アパートで渡されたらしきカタログを眺めてフィールカントが笑う。やはり夢の中にいるのだと思った。 「ライトグリーンがいい。青っぽいやつ」 「分かった」  慣れない面だった。 「なんでそこまでしてくれんの」 「長く顔を合わせれば情くらい移る」  カタログを閉じて、まだ何の家具もない床に置く。 「オレの望みは聞いてくれないんだ」 「もう投薬は受けさせない。市販の薬を使え。好きな物を好きなだけ食べたらいい。一晩中女を買う金もある。俺が看取って埋葬もする」  生贄になんてなるな。普段よりもラフな格好をしている後姿をベッドから見つめた。 「呑気だな。あの生活間近で見てた、アンタが言うのかよ」 「確かに間近で見ていた。不条理だと思った。理不尽だと思った。何故お前が全て背負わなければならないのかと。歯痒かった」 「人生なんてカードゲームだからさ、オレにジョーカーが回ってきたんだろ。それでも貰った札は最高だった。オレに残ったのは、アンタだけだな。まだ上がれないってことかよ、しんどいな」  フィールカントが大きく溜息を吐く。くだらないと言われているようだった。 「そうやって割り切らねばならないところが、俺は、歯痒くて歯痒くて仕方がない!」 「アンタは意外と直情的な人なんだな。他に打開策があれば別だけど、もうどうしようもないからさ。割り切った言い訳して、誤魔化して誤魔化して誤魔化して、せめて気持ちくらい、楽にさせてくれよな」  ぼやぼやとした頭で、今言うことでもない気がしたが、今しかないような気もした。今朝打たれた分の鎮痛剤と抑制剤が切れたならまた苦痛と死への実感に喘ぐしかないのだ。胸に手を乗せ天井を見上げる。馴染まない匂い。フィールカントが近付いて視界に割り込む。逆光した翠の双眸。 「痛むのか」 「別に。鎮痛剤、効いてるから」  銀髪に囲われ、悲痛な顔をしている。鎮痛剤が必要なのはフィールカントのほうだと揶揄したくなった。 「土に還るならさ、右目、くれよ。それでオレが右目、照らしてやるよ、はは…」  意識の波が沈んでいく。突発的な眠気。フィールカントがぼやけた。何か残したいなら、この男に擂りこんでいくしかないのだ。湧き水が染みていくかのように。刻み、記し、刷りこんでいくしか。穏やかに生きた母と、懸命に堪えた父と、理想と望みに散った医者を自分ごと消してしまいそうだった。 ◇  フィールカントはクレイズを抱き上げ町から少し離れた陸地の果ての野原を訪れた。雑草が踊る。黄色や赤、青の小花が咲いている岬だった。  腕の中の身体は痩せ衰えていた。シャツの前を閉められなくなるほど結晶が隆起し周りは瘡蓋が張り、血が滲んでいる。言葉は2日前から発していない。肋骨が浮き出て、結晶がその合間を突き抜けたことが見て取れた。骨と皮だけになってゆっくりと腹が上下する。食事を与えても戻すだけだった。フィールカントは草の上に腰を下ろし、軽すぎる身体を抱き締める。今日か、明日だ。白くひび割れた唇の間にストローを挿し込む。ブネーデンにもあったリンゴジュースだけは受け入れたらしく、ストローに琥珀色が通っていく。ブネーデンに帰るには間に合いそうにない。まだ整備が進んでいない関所を通ることにもなる。フィールカントは艶を失った髪を撫でた。口の端から落ちていくリンゴジュースを拭う。深い赤を反射する橙の結晶が美しく日に照った。容態は安定している。モンシロチョウが目の前を見舞い、近くの花にミツバチが止まった。 「クレイズ」  はっ、はっ…  呼吸が浅くなって、少し止まってはまた安定する。 「これで、いいか。こんなことしか出来ない。すまない…キュリンドラ、許せ…」  クレイズが身動ぐ。硬い脚の上では骨張った背が痛いようだった。 「もう国のためとか、誰かのためとか、考えるな。安らかに眠ってくれ。お父上にはこの身の続く限り詫びよう」  草を踏み分ける複数の足音が聞こえた。クレイズはその音が嫌なようで頭を力無く振った。フィールカントを囲む。車の扉が軽快に開く。ひとつ堂々とした足音が近付く。少し距離を置いてやんだ。潮風に草がさざめく。 「やめてくれ。このまま死なせてやってくれ」 「相応しい治療を受けるべきです」  茶髪を揺らしたエミスフィロが冷たく吐き捨てた。 「アナタまで何のために苦しんできたのです」 「無に帰して構わん。この子は渡さない」  フィールカントは座り込んだまま。安定した呼吸が乱れはしないかと、胸や口から目を離せないでいる。 「暗黙の犠牲を払おうとする男をその少年が父と認めるとお思いですか」 「父でなくていい。負犬で結構。クレイズは1人の人間として死なせる」 「誰が為に…」  エミスフィロはゆっくり目を閉じた。スーツの者たちへ合図を出す。フィールカントは捕らえられた。腕の中に弱った生き物さえいなければ、返り討ちは容易いことだった。 「パパ」  ママに手を引かれ最果ての部屋へ連れて行かれる。扉を壊す勢いでノブを捻るが開かず、隣から鍵を差し込まれると軽い力で開いた。クレイズはベッドに横たわる銀髪の裸体に駆け寄った。 「パパ、起きて」  白い肌に点々と散る鬱血を気にすることもなくクレイズはなめらかで引き締まった肌を叩く。パパは起き上がろうとしたが、腰を押さえて枕へ埋まる。首から下がった大きな鈴が鳴った。 「クレイズ…?」  パパの目線に合わせて床に座る。エミスフィロが遅れてやってきて横に並んだ。 「パパ、怪我してる。転んじゃったの?」  背や腕に走る蚯蚓腫れを観察する。パパはクレイズの両肩に触れる。胸に水晶はない。前開きのシャツはボタンで留められている。 「エミスフィロ!」 「パパ、どうしてママを怒るの?」  クレイズは目を見開いた。水の膜が張る。パパ?クレイズは首を傾げる。 「クレイズ…俺は、」 「パパはお疲れだから、クレイズは下でママと遊ぼうか」  頭を撫でられる。ぽわり、ぽわりと浮遊感に襲われる。パパが呼んだママの名前に頭が痛くなりながら手を引かれて自室に向かう。広い屋敷であるため1人では絶対に歩くなとママに言われている。海とレモン樹園の見える部屋に着いて、ママは少し怖い貌をした。 「ママ?」  呼べば、空と海の境界に近い優しい色がさらに優しくなる。 「もうパパと2人だけでどこかへ行ってはいけないよ。ママ、寂しいから」  茶色の長い髪が頬に当たった。ママが何について悲しんでいるのか、クレイズには見当がつかなかった。だが謝るしかなかった。悲しませてしまったのだから。 「うん、ごめんママ…」 「分かればいいんだよ。クレイズはいい子だね」  屈まれて前髪を撫でられる。心地良さに目を眇めた。 「ママはお仕事があるから、一緒に行こうか」 「う…うん…」  パパも一緒が良かったが、怪我をしていて、疲れているようだった。使用人やメイドが控えめに視線を寄越す。運転手が助手席を開けてから、クレイズを預かろうとしたが、断ったママに抱き上げられて車に乗せられた。シートベルトを締められ、隣に座ったママに手を握られる。ローズファーのぬいぐるみを渡される。葡萄みたいな目をした白い猫のぬいぐるみだった。パパと同じように首に鈴のついた首輪を付けていた。 「パパ…」  無性にパパに会いたくなり俯いた。身体が痛そうだった。可哀想だ。パパの手伝いをしたほうがいいのではないかと思った。動きはじめた車の窓から屋敷を見上げる。 「パパは大丈夫だよ。クレイズはパパ想いのいい子だ」 「うん、パパもママも大好き」  ママの仕事先は大きな角が地面から生えていた。水が通路の下を流れている。ぬいぐるみを抱き締めながら水流を眺めていると、落ちたら危ないと手を引かれた。入り口の回転扉では抱き上げられた。ガラス張りの建物を忙しなく見学する。 「綺麗」  ママは少し困った顔をして、そうだね、と言った。 「クレイズはこの部屋にいてね。何かあったら大人の人に聞くんだよ」 「うん」  手を引かれ、大きな一室へ案内される。水の音がした。ガラスの壁に覆われた広くふかふかのベッドと、その周りを流れる小川。枕側の壁から水が落ちている。ママはクレイズを白い制服の中年男性に預けた。先程まで同乗していた運転手だった。辞表、やはり取り下げました。運転手は笑った。誰かと話しているようだが相手はいなかった。居心地が悪くなって話し掛ける。 「この部屋に住みたい。ね、おじちゃん!」  ベッドの上に飛び乗ってはしゃぐ。ぬいぐるみの手を持って一緒に寝た。運転手は控えめに、そうですね、と言うだけだった。暫く経つと、部屋にママと知らない人々が来て、注射を打っていった。注射の針を見た途端にクレイズは怖くなって泣き喚いた。パパが作った大事なお薬だから痛くないよ。ママに抱き締められながら左肘に針が刺さった。よくできました。運転手が口に棒付きのキャンディを咥えさせてから、クレイズの頭は悶々とした。運転手は舐めきるまで紙製の棒の部分を摘んでいた。気を付けてくださいね、と言って。グレープ味だった。皺の寄った穏和な顔を見ていると頭の内側をどこからか捲られるような変な気分になる。 「クレイズのパパ、何してる人なの。お薬作る人なの?」  頭が張り裂けそうだ。う~ん、う~んと唸る。運転手が焦った様子で部屋を飛び出した。考えると堰き止められる。扉がノックされて、苦悶する思考から解き放たれる。  お父さん?入るよ。  扉が開いて、白いスウェットシャツパーカに淡いブルーのロングスカートの女の子が入ってきた。クレイズを見て立ち止まる。潤んだ瞳と赤くなった目元にクレイズは首を傾げた。女の子は口の両端を吊り上げる。  よく会うね。今日はこっちなんだ。…元気してた? 「お姉ちゃん、泣いてるの?」  女の子は少し黙って顔を伏せてから、聞いてよ、と言って手にしていた小さな包み物を部屋の奥に置いてからクレイズのもとに戻ってきた。  おじ様、あたしの結婚式、来られないんだって。忙しい人だから仕方ないけど。―少し普通の結婚式と、違うから。  目元を拭って女の子は話しはじめる。  でも感謝してるの。おじ様のおかげだから。でも席余っちゃうし、アンタ、来る?  女の子を知っているような気がした。だが名前が出てこなかった。それでは気のせいだろう。  なんてね。…元気そうでよかった。じゃあね。  女の子は帰って行く。扉の隙間から女の子を眺めた。ブラウンの毛が揺れる。見覚えのあるものが多すぎて、だが知らない。目や耳に入るもの全てに刺激を受けてしまう。頭が痛い。 「クレイズ、大丈夫か」  ママが部屋に入っくるなり力強く抱き締めた。後頭部を何度も何度も撫でる。 「ママ、お仕事は…?」 「そんなことは心配しなくていい。クレイズより大事なものなんてないよ」  茶色の毛先が揺れる。 「うん、ママ…」  ママの肩越しに見えた厳しそうな人々がクレイズを気まずそうに見ては目を逸らした。抱き上げられて仕事場へと連れて行かれる。天井の開いた大広間だった。ママが座る大きな机の少し離れた小さなソファで青空をじっと見上げていると首と肩が疲れて横になる。対面に座っている運転手が、気分が優れませんか、と訊ねて、クレイズは首を振る。白い猫のぬいぐるみを抱き締めて、霞がかかった思考を青空に馳せる。 「何かやることがあった気がする」  運転手は困った顔をした。お母さんのお手伝いですか。問われ、深い芯の部分が揺れた気がした。 「お母さん…」  茶髪で瞳が淡いブルーで背が高く力持ちで綺麗な男性よりも先に弱いウェーブのかかった弱々しく目の窪んだ白髪混じりの女が浮かんだ。そして先ほど見た、白い布の上を揺れる栗色の髪の若い女。誰かの母親を攫ってきてしまったような、いけないことをしちゃったんだ!といった感に苛まれてぬいぐるみを強く抱き締める。 「おじちゃんのお母さんはどんな人だった?」  運転手は数秒止まる。妻のことですか、と問い返された。 「妻って何?」  お父さんが好きな人のことです。  運転手に言われて、ママとパパを思い浮かべた。パパはママが好きなのだろうか。ママはパパのことが好きなのだろうか。もう考えるのはやめろ、とセーフティがかかる。 「クレイズ、よく分かんない…」  運転手は、少し難しかったですね、と言った。 ◇  髪を乾かされ、寝間着を着せられる。胸元に走る縫合痕をなぞるとママの表情の無い顔に憐憫が浮かんで抱き締められる。 「ごめんな、クレイズ。かわいいクレイズ」 「ママ…、ごめん。お胸悪くてごめんね。ママ…泣かないで」  ママの両頬を挟んでペタペタと触る。 「クレイズが謝ることではないよ。誰も悪くない。この胸もこの目もこの髪もクレイズをここまで育てて守ってくれたのだから」  ママは順に唇を当てていく。うん…。クレイズは俯いた。 「今日はママはパパと寝るけれど、1人で眠れるか」 「うん…ママはパパのこと、好きだよね?」 「クレイズと同じくらい大好きだよ。ママがパパを好きだと、嬉しいだろう?」  うん…。目を擦ったクレイズを抱えてベッドに移動し、布団を掛けられる。パパの作ったお薬のせいか、パパに会いたくて仕方がない。だが1人で廊下を歩くことは許されず、ママが付きっきりだった。食事も入浴も、パパだけがいない。パパと2人だけになるとママが悲しむ。それは何か得体の知れない恐怖だった。 「ママ…クレイズもパパと寝たい…」  ママを困らせてはいけない。分かっている。大変だから。わがままは言えない。一緒にいたいと言えない。離れたくないと言ってはいけない。置いて行かないでなどと絶対に口に出来ない。 「クレイズ、ごめんな、クレイズ。一緒に寝よう。泣かないで」  溢れた涙が止まらず、ママは指で目元を撫で、抱き上げてはリズムをつけて揺らした。しゃくり上げながらママにパパのいる部屋へと連れて行かれる。パパはベッドの上でぐったりしていた。やはり裸だった。 「パパは寝てるから、静かにするんだ」  床に下され、パパの目の前に行く。怖い夢を見ているのか、眉間に皺が寄っている。う、と呻いて、口から太いパイプが落ちた。辿っていくと沢山の機械が部屋の隅に並んでいて、真っ赤なチューブがパパの手首に繋がっていた。 「これは何?」 「パパがこうやって、クレイズのお薬を作ってるんだ」 「でもパパ、痛くないの…?」  安らかな寝息を立ててはいるが、短い呻きが混じる。 「クレイズのことが大切なんだよ、パパも、ママも」  だが納得出来ないでいた。パパが痛めて作った薬を使っていることが。自分はどこも痛くないのに。 「…ぅ、ん…、クレイズ…?」  虚ろな翡翠の瞳が開く。ゆっくりと状態を起こした。鈴がちりんちりんも煩わしく鳴った。訝しんで眼差しでクレイズを見る。 「パパ…、パパ…」  ベッドに乗り上げてパパの傍に寝転ぶ。パパはママを睨んだ。ママは表情の無い顔で応える。 「パパ大好き」  蚯蚓腫れが走る腰に手を回され、ひくりと身を引攣らせる。

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