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第7話

「どういうつもりだ!」  パパはクレイズを庇うように腕を回すとママを怒鳴った。 「クレイズと一緒に寝ましょう、家族3人で。安心してください、ママは隣で寝ます。流石に耐荷重を越えていますから」  クレイズは首を振った。一緒に寝たいと言ったから引き裂いてしまったのだ。ベッドとベッドの距離が、空に浮かぶ星々の実際の位置よりずっと離れたもののように感じさせる。 「クレイズが隣で寝る!ママとパパが一緒に寝て、クレイズ…」  パパはクレイズに近付くママを睨み続けたまま追った。腕に回る手が強まる。 「クレイズはいい子だね。でもパパと寝たいのだろう?ママはいつでもパパと一緒に寝られるから、今日はパパとお休み」  隣のベッドにママが腰掛けた。パパはクレイズを見下ろす。 「パパ、クレイズと寝るのイヤ?」  パパはシャンプーの香りが残る前髪に唇を落とす。 「パパ、ママのこと()ってごめんなさい」 「クレイズ…お前は何も、…悪くない」  前髪越しの額を啄ばまれる。パパは待っていろ、と言ってベッドから降りる。パパは鈴の付いた首輪がベッド柵に繋がれているために室内を満足に歩けなかった。使っていた布団とシーツを剥がし、ママに頼んで新しいシーツを出してもらっていた。 「パパとどこか行きたいのならママも一緒に行こう。仕事も休もう。クレイズがしたいようにしていいんだ」  シーツをパパが掛け直している間にママは言った。パパの胸の中で眠る。胸の縫合痕の辺りがじんわりと熱を持った。  お母さん、幸せってこんな、錯覚じみてるの。  ふっと目が覚める。微かな鈴の音だったような気もしたが、夢の中の音だったような気もする。あまり広くはなかった部屋が広い。ママもパパもいない。パパがいるはずの真横には肌触りの良いローズファーの白いぬいぐるみ寝ている。夢。何が。どれが。どこまでが。砂嵐。寒くて仕方がなかった。胸の縫合痕だけがじんわりと熱を持っている。ママもパパもいないが、ドアノブに手を掛ける。1人で廊下を歩いてはいけない。静電気が発生したみたいに指先が弾かれる。 「……ぁ、っあっ、ぅ、く、…んン、…」 「あまり大きな声を出すと、クレイズが起きてしまいますよ」  パパとママはすぐ近くにいる。断続した物音。手叩きに似た音だった。拍手をしているのかと思うほど。 「っあ、ぁァ、……ッは、ぁ…も、や……め、」 「君も頭に電流通しますか。何もかも忘れて、私とのセックスのことだけ考えて…」 「ッ、…俺は、……っ、クレ、イズの…奴隷だ……っ、ァ、ア、」  クレイズの話してるの?クレイズは扉をそっと開けた。何かぞわりとした寒気に似たものが、扉を勢いよく開けることを拒んだ。さらにはママに1人で廊下を歩かないよう言われている。 「ッあ、…はンっ……ぁ、」 「君と家族になれて嬉しい限りです。こんな素敵な人、もう離せませんよ」  窓を見ながらパパの後ろにママが密着していた。2人は大きく揺れた。ちりん、ちりんとママがパパに衝突するたび高い音が鳴る。 「あっ…あっ、だめ、だやめ………っ!触る、な、ぁっ!」  窓から身を乗り出すパパの背にママが沿う。くちゅくちゅ濡れた音がした。パパが掠れた声で叫ぶ。クレイズは自分の下半身が重苦しいことに気付いた。 「いいですよ、前で達してください。よく頑張りました。このまま快感だけ追って、たくさん出すといいです」 「や、ぁ、やめ…っぁぐ……ぅン!」  ママとパパの会話、合いの手のような鈴音と手叩き。段々と寝間着の下が腫れ上がる。どうしよう、どうしよう。クレイズは腫れ上がった下腹部を押さえる。弱すぎる痺れが広がって、目の前がちかちかする。やったこともないことを知っている。銀髪のお兄さんが目の前で膝を広げていた。銀髪のお兄さん?砂嵐。 「も、……や、め、奥…、アぁ…っ…」 「奥、っ好きですか…いいですよ。奥に注ぎま、す」 「ァぁ…ッ、そ、と……そと…に、ぁああッ!!」 「化物の子供を、身籠ってください……っん、」  ママの後頭部がパパの背に埋まった。パパの身体が激しく震えて、ママは強く抱き締め、さらに密着した。ちりんちりんちりんちりん鳴り響く鈴に考えていたことは滅茶苦茶に掻き回される。痛くもない腫れを早く治そうとクレイズは下腹部を撫で回す。ママとパパが心配する。パパの背中から腰をゆっくり押したり引いたりするママと、その奥でぐったりしたまま肩で息をするパパから目を逸らせなかった。 「パ…パ……」  パパのことを考えると、股間がさらに熱を持つ。 「パパ、パパ……パ…パ…」  扉から後退る。怖い。身体が熱くなった。ベッドに寝転んで、盛り上がった股の中心をどうしていいのかも分からず、身悶える。くすぐったいようでむず痒い。 「パパ…っあっ」  パパのことを考えると、ダメだよイケナイよと思うくせ、手が知らない動きをする。寝間着の中に手を入れて、直接触れると背筋が勝手に動いた。 「パパ、…パパだめ…ぇ、」  ママと重なりながら話していた姿が焼き付いて、手の動きが止まらない。腫れ上がった茎を擦る。扉が開いてママが入ってくる。 「パパは、ママのだ」  ママは入り口でクレイズを見下ろした。 「ママ、クレイズのおちんちん腫れてるの…っ、ママ、ママ、怖い…!」 「クレイズ」  クレイズの傍に寄ると、薄い肩を抱いた。上体を起こさせ、後ろから抱き竦める。 「ママのことを考えて」  寝間着と素肌の間に骨張った手が入っていく。 「で、も…」 「パパはママのだ。パパもママがいいと言う。だからパパはいけない」 「う、ん…」  ママはそう言ったが、ママを浮かべることは出来なかった。鈴を鳴らしながら叫ぶパパと一緒でないと、ママを浮かべられなかった。悶々としてしまう。ママの手が窮屈な欲を掌で擦り上げている間もママには秘密でパパのことを考えた。 「ぅ…ん、うっ、ん、ん、やっぱり、パパのことしか…、出てこない……」 「困ったな。それではパパに頼んでみるか」 「で、も…パパに、ママがいいって言われたら、クレイズ……」  ママは、そうだね、と言った。 「ママ…ママ…」 「何だ?パパはあげられないぞ?」 「ぅ、う、ン、ぅ…ぁ、」 「ママも混ぜる?」 「ぅん、ママも、」  根元から激しく扱かれて、目の前が真っ白くなる。パパへの希求が迸る。搾り取られて、寝間着が少し汚れた。白い粘液を纏わせたママの長い指や骨の浮いた手が抜かれる。 「ん、…ぅ、眠い…」 「おやすみ」  汚れていない手でクレイズの真横にぬいぐるみを近寄らせ、腹まで布団を引っ張る。 「パ…パ…、」  呟きながら、二度寝へ沈んでいく。 ◇  朝から具合が悪かった。ママは寝ていろと言ったが、パパの部屋にも行けず、使用人は外で待機となると部屋に1人というのが怖かったためママの仕事場についていった。ガラス張りの寝室は心地良く眠れたが、昼頃に突然胸が苦しくなって、腹から何かがせり上がってきた。カエルの鳴き声に似た音を立てて、クレイズは異物感を吐き出す。重く鈍い音を立てた。喉が焼き付く痛みに首を押さえる。シーツに転がったの深紅の石だった。見覚えがあるようでない。どこかで見たジュースの色に近い。どうなっている。クレイズは石におそるおそる手を伸ばした。体液を纏って濡れて光る。質量のある石だ。どうしたらいい。どうしたら。クレイズは石を握り締める。ママを呼ばなきゃ。ママに言っちゃいけない。パパはお薬作るの痛いんだ。ママ…パパ…。胸の縫合痕が熱を持った。左肘の注射痕が痒い。怖くなった。ばたばた部屋の奥から足音がして運転手が誰かに何か慌てて叫ぶと部屋を飛び出していった。寝ていて気付かなかったが訪問者がいたらしかった。だが半狂乱になって左肘の内側に爪を立てる。助けて、助けて。ママ…パパ…。違う。違う。あの2人ではなかったはずだ。こういう時に一緒にいたのはパパだ。違うママだ。でも。  ちょっとアンタ、何してんの!  掻き毟る右手を掴まれる。少し日に焼けた手。引っ掻き傷をその手が撫でた。  ダメ!引っ掻いちゃ!  顔を上げる。女の子だった。ママに少し似ている。顔面を殴られた衝撃。この人だ。焦りがすっと消えていく。 「先生…?」  白いロングシャツとデニムのスカートの女の子はクレイズに顔を顰めた。  アンタはそればっかり言うね。 「先生…っ」  はいはい、先生でいいよ。ほら、掻かない。  先生は掌でぺちぺち注射痕を弱く叩いた。 「先生…、結婚するんでしょ…?おめでとう」  柔らかく少ししっとりした掌がクレイズの皮膚の上で跳ねる。 「あ…ぅん、ありがとう」 「嬉しくないの?」 ――オレは何より嬉しいのに。  先生は、う~ん、と少し迷いを見せた。嬉しいよ?と疑問符で返されてクレイズは首を傾げる。 「嬉しいけど、ちょっと訳ありで。アンタには分かるかな。いつか、分かるね…分からないかも知れないけど、」  先生は困った顔を崩さずに笑う。 「本当はしたくないの?」 「そんなことないよ、ずっと好きだったんだから。でも生まれ変わったら、会いたくないな。その時は1人で生きる」 「なんで?好きなんでしょ。生まれ変わったら生まれ変わっただけ結婚しないの?」  ママとパパだってきっとそうする。 「あら、元気になった?」  指輪の嵌った隣の隣の指がクレイズの額を小突く。不思議な感覚がした。ママもパパもそんな真似しないくせ、知っている。この感覚を。 「先生…、先生……っ」  ママ…?パパ…?ママって誰?ママ?誰。呼吸が乱れる。先生が焦っている。先生の声がする。誰、違う。先生。ママ。パパ。パパはママのこと。手が震えた。 「大丈夫なの?ほら、横になって。仰向けはだめ」  肩を支えられながら寝かされる。静かに涙が溢れていく。先生がどこかに行こうとする。袖を引く。腕部にプリントされたテキストが光った。『神は無言』。 「先生、やだよ…先生、注射怖いんだ。父さんとお(うち)帰りたい…母さんなんで死んじゃったの…オレも死ぬの…?あとどれくらい生きられるの…?」  先生は驚いていた。先生の白い袖を放せない。先生は知っているはずだ。先生は何でも知っている。 「父さんが可哀想なんだ、死にたくない……笑って死ぬなんて無理だよ、怖い…先生…!」  何故先生は答えをくれないのか。これ以上言ってはいけない。言ってはいけないのだ。先生の答えは顔を見れば分かる。無理なものは無理だった。 「先生ならオレを、治せるって……あれ、オレ…死ぬの…?」  クレイズは顔を覆った。何だったっけ。何でここにいるんだっけ。扉が蹴破られて、州知事が入ってくる。手にした注射を凝視した。怖い。あれは嫌。痛い。怖い。怯えて頭を抱え、膝を抱く。注射は嫌だ。 「待ってください、おじ様」  先生が前に立つ。その光景がさらにクレイズを追い詰める。目を閉じる。彼女の身体から赤い霧が散るのだ。歯が鳴った。耳鳴りがする。手が震えて仕方がない。 「君は下がっていなさい。クレイズ、おいで」 「おじ様、彼は注射が怖いそうです!何もそんな無理矢理…!こんな怯えてるんですから…!」 「お黙りなさい。これが最善なのです。怖いこともつらいことも忘れられる。もうそれ以外に道はない」  先生の細い腕は掴まれ、ひょいと退かされる。 「怖くない。ほら、おいで。手を出して」  クレイズには聞こえなかった。小さくなって震えた。 「おじ様、もう少しだけ待っても…こんな状態で…力ずくというのは…」 「医療というのはそうも言っていられないのです。感情と思い遣りだけでは助からない人がいるのです」 「だからって!」  先生が前に出ようとした。歯が鳴って、声が出ない。目の前で白い布上で栗色の毛先が揺れる。あの時、どうしても、自分は。 「彼女を押さえて」  絶叫と共に針が皮膚を貫いた。 ◇  頭からヘッドギアを外され、よろよろとクレイズは歩いた。エミスフィロが受け止めて髪を梳く。 「イーミス…」  頭をエミスフィロの腹へ押し当てる。 「クレイズ、どこか痛むところはないか」 「少し左肘が痛みます」  そうか。エミスフィロは微笑んで、床に膝を着く。クレイズの左肘を診た。掻き毟った痕がある。 「きちんと言えてクレイズはいい子だ」  髪を撫で、軟膏を塗った。クレイズはエミスフィロを見つめる。どうした?無言で問う。クレイズはにこりと笑う。 「イーミスの瞳が美しくて、見惚れてしまいました」  エミスフィロはクレイズを抱き締める。 「もう何も怖いことはない。私の傍から離れてはいけないよ」 「はい。もちろんです」  エミスフィロの背に腕を回す。 「さぁ、帰ろう。フィルクが待っている。分かるか?」 「はい。フィールカント様。銀髪のお美しい方だったかと」 「クレイズにとって、どんな人だ」 「イーミスの恋人です。ぼくも早くお会いしたいです」  よく出来たな。エミスフィロに頭を撫でられるのは気持ちが良かった。エミスフィロに肩を抱かれて、邸宅へ向かう車に乗った。中年の男性の運転で、白い服の女の子も一緒だった。青く暗い視界で彼女のロングシャツは光って見えた。何度か声を掛けられそうになって、けれど女の子は気の強そうな顔を困惑に染めて何も言わなかった。 「あの子はどなたですか」 「私の親戚の子だ。可愛いだろう。惚れてはいけない。結婚が決まっている」 「はい、とても…ということは、ぼくの…親戚なんですね。失礼な態度をとってしまいました」  助手席に座る栗色の髪を見ていると、胸が痛んだ。 「結婚ですか。おめでたいな」 「好きな人ができたらすぐに紹介するといい。盛大にもてなそう」  隣に座るエミスフィロに表情は無いが声が浮ついていた。ありがとうございます。クレイズが笑う。邸宅に着いて、白い服の女の子はクレイズを目で追っていた。失礼な態度を取ってしまった負い目からクレイズから声を掛ける。 「あの…結婚するんですね!おめでとうございます」  女の子は顔をぐしゃりと歪めて、クレイズの腹に拳を柔らかく入れた。  アンタ、あたしの結婚式来るんだからね…!  女の子は怒っていた。栗色の髪を揺らして背を向ける。知らない約束に、稲妻の如き痛みが走る。  こら、お前。クレイズ様になんてことを…  知らない!レモンケーキただで食いやがって!知らない…!友達だったのに…!  頭が痛い。何かが引き出せそうで、阻まれる。あの女の子を知っている?レモンケーキ…口の中に残るレモンの皮。3人で映る写真立て。思い出せなかった。 「世話になった。気を付けて。…行こうか」  エミスフィロに支えられて邸宅に戻り、書斎に通された。照明は点いていなかったが、ガラス張りから入る月の光で十分明るかった。書斎の中を歩いた。高く本棚が積まれている。大きな机の奥に、突然ベットが置かれている。月光に照らされた裸体にどきりとした。クレイズには背を向けている。逞しい肩をと締まった腰。しなやかな臀部に長く伸びる脚。息をしているがあまり元気そうではなかった。観賞しているとエミスフィロに背後から肩を叩かれる。 「美しいな」 「月も恥じらうほど」 「そうか。月も心を持っているのだな…」 「あぁ、いいえ、そういう意味では…」  エミスフィロは革張りのソファに腰を下ろし、その上にクレイズを抱き上げる。 「早く起きた姿が見とうございます」 「クレイズが惚れてしまわないか心配だな」 「え…っ」 「遅かったかも知れないな」  顔を掌が撫でていく。 「破廉恥です!兄様の恋人に慕情を抱くだなんて、そんな…」  顔がカッと熱くなる。 「兄の物はクレイズのものだ。この命もくれよう」 「そんな…ぼくはイーミスがいれば…でも…」  場にそぐわないベッドの上の裸体に吸い寄せられてしまう。 「素直な子だ」  ベッドの上の男が寝返りを打つ。大きく息を吐き、苦しそうに顔を歪める。手首から血液を吸引されているらしくコードが刺さっていた。右目には眼帯を付け、首に包帯が巻かれている。 「首を怪我していらっしゃるんですか」 「どうしても大量の血液が必要になってしまった」 「右目はいかがされたんです」 「私と会う前に(めし)いたと聞いた」  クレイズはベッドに近付こうとしたがエミスフィロに抱き止められて叶わなかった。 「欲しいか?兄に遠慮するな」 「…、欲し……くな、いです…」 「クレイズ。いいんだ。本当のことを言いなさい。誰もお前を怒ったりしないよ」 「…でも、イーミスだけでぼく、十分なのに…」  だが目の前で苦しげに眠る凛々しい男に満足の底が抜ける。 「撫でてごらん」 「起こしたら、悪いです」 「きっと彼もクレイズを気に入る」  おそるおそる銀髪に触れてみる。指先が冷えそうな氷の糸。呼吸が変わる。過敏な人だ。気怠るそうに切れの長い二重瞼を開けた。月光が溶ける左の瞳にクレイズは生唾を飲んだ。 「クレイズ…、体調はどうだ…」  掠れた声に名を呼ばれると目眩がした。寝呆けていらっしゃる。かわいらしい方。クレイズは目を眇めた。 「初めまして、フィールカント様。兄がお世話になっております」  恭しいく辞儀と挨拶をする。月光に輝く瞳が揺れる。あまりの美しさに残った左目も抉り取ってしまいたかった。 「エミスフィロ…!貴様…っ」 「そんな、フィールカント様。兄が何かしましたか」  突然声を荒げた美獣とエミスフィロの間に入る。だがエミスフィロが前に出た。 「フィルク。君は独善的なお人だ」  エミスフィロに顎を掴まれて唸る。空いた手が臀部へ伸びた。 「やめ…ろ、クレイズの前……では、よ、せ……」 「クレイズ、選ぶといい。どうしたい」 「え…ぁ、その…」  優しい声で選択を迫られ、クレイズは目を泳がせる。どうしたいと問われると、分からない。 「クレイズ…、俺はお前の、奴隷だ」 「えっ!ち、違います!イーミス、誤解です!」 「クレイズはいい子だな」  フィールカントという気の触れているか寝呆けた男は歯を食いしばってエミスフィロを睨む。兄が選んだ男ならば、後者だろう。 「とてもいい弟と素敵な恋人を持って、私は幸せだ」 「クレイズ…!目を覚ませ……!お前に兄などっ……っぁ、」  兄の恋人は身を反らした。月の光の下で胸が露わになり、性器が揺れた。クレイズは両手で顔を覆う。 「ぼくも優しくて聡明な兄を持てて幸せです…が、あの…はしたのうございます…」  指の隙間から強調される胸やその奥の麗しい男体に戸惑いながらも眺めてしまう。 「今すぐお召し物をお持ちします…」 「私が持ってこよう」  兄は恋人を話して弟の背を押す。 「イ、イーミス…」  兄は、頼むぞと残して書斎を出て行ってしまった。 「クレイズ……お前、どこまで覚えてる?」 「っ、どういうことですか…?」  兄の恋人は額を押さえて、すまんと言ってから顔を逸らした。すまん、とまた呟いて鼻を啜った。泣いている?クレイズは近付いた。何か傷付けることを言ったらしかった。 「あ、の…えーと、ぼく、あまり話すの得意じゃなくて…ごめんなさい…」 「いいや。お前は何も悪くない」 「あ、でも…その、ぼくがしっかりしてないのがいけないんです。ぼくはこんなですけど、イーミスのことは、その、嫌いにならないでください」  兄の恋人は顔を逸らしたまたクレイズの方を向き直ることはない。機嫌を取らねばまずい。兄の顔に泥を塗ってしまう。 「フィールカント様、お気を悪くしたらすみません…もしどこかでお会いしていたなら、とんだご無礼を…」  兄の恋人は何も話さなくなった。項垂れて、青白い光に照らされた首や肩甲骨や背骨に見惚れる。 「フィールカント様…ごめんなさい」 「そうか、分かった。だがもう謝るな。君は、兄が好きか」 「はい。とても。優しくて真面目な人です。厳しいところがありますし、感情表現が苦手なようなので、怒っていると誤解されがちですけど。好きな人を見る目はやっぱり違います」 「そうか。ならば仕方ないな。ここで健やかに暮らしてくれ」  何故急にそのようなことを言い出すのか分からなかった。変な人だ。 「は、い」  戸惑いながら返事をする。何か間を持たせなければいけない。適当な質問を投げかける。 「兄とはどこでお知り合いになったんですか」 「旅の途中で、宿を借りた」 「ご出身は」 「北西部の田舎町」 「何をされている方なんですか」 「今は無職だ。前は…警備員だな」  目が覚めきったのか、落ち着いてきている。応答もしっかりしていた。ほっと胸を撫で下ろす。兄に恥をかかせていないだろうか。 「弟」 「はい」 「もう何も訊くな。俺に面を見せるな。失せろ、子供は嫌いなんだ」  書斎に響いた。静かな憎悪。クレイズは一瞬何を言われたのかすぐに理解出来なかった。だが考えてみればその通りだ。嫌いだから怒鳴り、追っ払うつもりで奇妙なことを口走ったのだ。何故気付けなかった。 「ご、ごめん…なさい…早く気付くべきでした。イーミスを呼んで来ます」  書斎から逃げ出して、扉を閉める。突然の既視感に立ち眩む。ここで焦ったく開扉も閉扉も出来なかったことがある。何だったっけ。思い出そうとして、もやついて、思い出せる気配が失せた。イーミスはどこにいるだろう。ここは自邸のはずだが、まるで構造が把握出来ない。どっと汗をかく。どこに何があるのか分からない。だが自宅だ。イーミスはどこに行った。どの部屋に何がある。分からない。鼓動が早くなる。何も分からない。扉に背を預ける。鼓動がうるさい。胸に手を当てる。大きな縫合痕に熱が篭っている。健やかに暮らせ。兄の恋人が言った。兄が話したのか、健康体でないことを。自分は健康体でないのか?何故胸に縫合の痕がある。心臓を病んでいた?記憶にない。何故、記憶にない? 「クレイズ、どうした?」  衣類を手にした兄が走り寄ってきた。兄の顔が見られない。ブラウンの毛先が揺れる。クレイズは首を振った。 「ごめんなさい、イーミス。フィールカント様の不興を買ってしまいました」 「どういうことだ」 「子供は嫌いなんだそうです。失せろとおっしゃられましたので、そのまま出てきてしまいました」  兄と話すと落ち着いた。あからさまな嫌悪と拒否をぶつけられた精神的な衝撃が発露してしまう。大粒の涙が溢れた。 「クレイズ。そうか。よくやった。いい子だ」  唇を噛む。泣いて困らせてはいけない。だが涙は出てきて止まらない。せめて耳障りな嗚咽だけは噛み殺さなければならない。 「お泣きなさい。唇を噛まない」  下唇に指を当てられた。後頭部を抱き寄せられる。それでも喚けなかった。 「こんなにいい子はどこにもいない。クレイズ。気にしなくていい」 「イーミス」  髪を撫でられて、エミスフィロにしがみつく。 「少しだけ待て」  エミスフィロは頭を2、3度柔らかく叩くと書斎に入っていった。 『君も理解しましたか。何が彼のためなのか』 『手前の無力さがよく分かった。つまらん現実の亡霊になど会わせてやるな。地下牢にでも放れ』 『困りましたね、君が私の恋人であることは変わりませんが』 『その前に、あいつの薬品製造プラントだ…ッぅん、』 『君という人は。舌を噛み切ろうとしたんですね。立場が分かっていてよろしい』  兄が書斎から出てきて、クレイズを胸に招く。 「クレイズ」 「はい、イーミス」 「今、幸せか」 「はい、とても。イーミスのおかげです」  クレイズは迷いなく答えた。涙が乾いた目元を拭いなおされる。 「クレイズ。ずっと続くものではないかも知れないが、かといって一度去ったら二度と来ないものでもない。二度目でも三度目でも、私の傍で幸せを感じていてくれ、私と共に」 「はい…当然です。どうしたんですか…?」  急な話題に不安になった。兄は微笑んでクレイズを抱き上げる。どこか行ってしまうのか、置いて行かれる不安に兄を抱き締め返す。 「不安にさせてしまったか」 「…ううん、大丈夫です。イーミスのこと置いて行きません。置いて行ってしまっても大丈夫ですけど、ぼくはイーミスを置いて行きません」 「残されるのはつらかろう。自ら選ばなくていい。遠慮するな。クレイズ」  首を振る。違うのだ。同じ思いをさせるのが怖いのだ。同じ思い。何の話だ。クレイズは兄を見つめた。捕らえられた空色の瞳に、些事なのだと纏まらない考えを投げ捨てる。 「可哀想って思うと、胸がつらくなるんです、イーミス。貴方を哀れむとつらくて、つらくて…」 「いい子だ、いい子だと言って呪いをかけてしまったな。クレイズ。いいんだ。誰も哀れむな。自分も哀れむな。大事なものだと、尊べ。大事なものだとずっと思っていればそのうち自分が自分でなくなる」 「自分じゃ…なくなるんですか?」 「厳密には自分だ…が、人はそれを成長という。クレイズはどのような大人になるのだろうな」  大人。何か縁の遠い響きがする。大人にはなれないものだと思っていた。18歳になっても、20歳になっても、50歳、100歳になっても。 「ぼく、大人になれる…?」 「なれる。大人にする。何を言っている。子どもが何を心配している…」  兄は幼い顔をした。唇を尖らせて、眉を下げて。それが嬉しくなった。当然のものとして考えていいことに、クレイズは兄を強く強く抱き締めた。手が震える。喜びだった。 「いい子だ。…いい子でなくてもいい。笑わなくてもいい。憎んでもいい。私の傍にいなくても。ただ追い求めたいものを見つめていてくれ。叶わなくてもいい。何をしろとは言わない。絶対に生きろとは言わない。私の要求に応えろとも言わない」  初めて見せる兄の顔にクレイズは戸惑った。 「それを望んでる人がいる。私とは相容れなかったが。背負いたい。貴方は気付かなくていい。忘れていい。いや、知らなくていい」  兄の悲痛に歪む眉間の少し上をクレイズは人差し指で小突いた。

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