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第2話

†  †  †  † 9月下旬。まだ残暑が色濃く薫る。 行き交う人の姿は、夏そのものの格好の人もいれば秋物の長袖を着ている人もいる、そんな季節。 夕方であるにも関わらず、外はいまだにアスファルトから熱が消えず、蒸し暑さを漂わせている。 そんな中、授業が終わったあと、そのまま駅ビルの大手書店に立ち寄った那智(ナチ)は、通りすぎる女子高生からの憧れの眼差しをものともせずに雑誌を立ち読みしていた。 那智が着ている制服は、この近辺では知らぬ者はいないと言われるほどの有名高校、『藍桐学園(あいとうがくえん)』、通称『藍学(らんがく)』のもの。高校卒業後の進路で、某有名大学への進学率を日本一として誇っている学校のものだ。 季節柄、今はまだ濃紺色の詰襟は着用せず上は半袖の白いシャツのみだが、そんな制服を着ている本人も、一目を引く原因の一端を担っているだろう涼しげな容姿をしている。 艶のある漆黒のストレートの髪は、僅かに長めではあるものの、清潔感と多少の冷たさをその容貌にプラスさせ、目元にかけられたシルバーフレームの眼鏡が、頭の良さそうな雰囲気を更に強調する。 まさかその眼鏡が伊達だとは、誰も思わないだろう。 雑誌コーナーに立ち、何気に手にしたのは経済誌。男子高校生が読むにはいささか渋いのでは?と思われるものでも、那智にとっては大事な戦略を生み出す道具の一つだ。 …上に行けば行くほど汚い行動が目につく…か…。善人は成功しないってね。 ページをめくるままに経済界のゴシップに目を通し、納得しながらもその表情にはどこか冷め切ったものが浮かんでいる。 続いて目に飛び込んできた記事に興味深いものを見つけ、真剣に読みだそうとした時、隣に誰かが立った事に気がついた。 相手に気付かれないように視界の端で確認すると、那智の在籍している高校とは別の有名進学校『静廉高校(じょうれんこうこう)』の制服であるチャコールグレーを基調とした制服が視界に入った。 こちらはもう秋仕様なのか、長袖の白いシャツに暗い臙脂色のネクタイをしている。ちなみにこの学校はブレザータイプだ。 その手にあるのは、那智と同じく経済誌。 自分自身、この年代でこんな物を読むなんて似合わないな…などと思った事がある手前、同じような雑誌を手に取った同年代の相手になんとなく興味を覚えて視線を上げた瞬間、驚きに声を出しそうになった口元をグッと噛みしめ、なんとか堪えた。 隣に立っていたのは、思いもよらぬ人物だったからだ。 (レン) それは、この高楼街(こうろうがい)裏世界(アンダーグラウンド)を拠点として動いている者ならば誰もが知っている名前。 裏高楼街の二大派閥のうちの一つ『Moonless(ムーンレス)』。普段は隠語通称として『(やみ)』と呼ばれるチームの筆頭だ。 ただし、蓮の名前は知られているものの、顔をハッキリと知っている人間はそう多くない。知っているのは、各派閥の幹部クラスと、ある程度名の売れている者だけだろう。 180㎝前後はあるだろう長身。黒いストレートの髪は若干襟足が長め。少し釣り上がり気味の二重の双眸は、冷たさを感じさせるほど。 何故そんな相手がここに? そう考えた瞬間、フと笑いが込み上げてきた。蓮だって表の世界では単なる高校生、普通に立ち読みをして何がおかしいのか。 最近は裏の方で過ごすことが多いせいで、考え方もそっち寄りになっていたらしい。 そんな自分に少しだけ溜息を吐くと、隣の存在を気にしないように手元の雑誌に意識を戻した。その時、 「那智さん見つけた!」 嬉しそうな声と共に後ろから誰かに肩を叩かれた。 聞き覚えのある声にゆっくり振り向くと、昔ながらの金ボタンに黒い学ランという制服姿の小柄な人物が、カラコン装着で常にグレーとなっている瞳を思いっきり緩めて笑いながら立っていた。ツンツンに立たせたプラチナ色の短髪が目を引く。 那智よりも1つ年下の、馴染みのある相手。 いつもならここで普通に言葉を交わしたのだろうけど、今は隣に立っている人物が人物なだけに舌打ちをしたい気分だ。 「和真(カズマ)…、人の名前を大声で呼ぶな」 「あっ、すみません!」 目を細めた那智から漂う冷たい空気に、和真が慌てたように頭を下げた。そして、今更ながらに周りをキョロキョロと確認している。 そのうち、遠くに向けていた視線を那智の横に移した瞬間、目を見開いて大声を上げそうになった和真の足を那智が踏む。 優しい笑顔で、遠慮なくグリグリと。 「痛っ!…痛いですよ…、ヒドイ…俺だってそこまで馬鹿じゃありません」 涙目で訴える和真を見て、また小さく溜息を吐く那智。 もうここを離れた方がよさそうだと判断し、手に持っていた雑誌を元に戻した。 その瞬間、隣にいた蓮が那智をチラリと見てきた事に気がつく。 …和真…、バレたらお前のせいだぞ…。 そう言い出したいのを飲み込み、和真を無視して歩き出した。 突然歩き出した那智に気付いて、和真が慌てて後を追う。 そんな二人の後ろ姿を、蓮が何かを考えるように見ていた事など気付くはずもなく…。 ここからゆっくりと事態が動き出した。 †  †  †  † とある都市に存在している高楼街(こうろうがい)と呼ばれる地区は、一種の特別区とされている。 昼と夜の顔が180度変わる街。 太陽の光が降り注ぐ日中は“表高楼街(おもてこうろうがい)”と名付けられ、繁華街を中心に普通の一般人が堂々たる足取りで街を闊歩する。 そして太陽が地平線の彼方に沈み月が主役へとって代わる頃になると、健全だった街は一気にその姿を変える。 …血の香りが漂う獰猛な街、“裏高楼街(うらこうろうがい)”へと…。 そしてその裏高楼街には、アンダーグラウンドで活動する数々の派閥(チーム)が存在している。 その中でも二大派閥と言われているのが、蓮を筆頭とする「Moonless[隠語通称:闇]」と、那智が籍を置いている「Blue rose[隠語通称:ゼロ]」。 Blue Roseの筆頭は、現在のアングラ界で最強のカリスマと呼ばれている男、(ジン)。 那智は、Blue Roseの参謀として神の次の位置に値するNo2の立場にある。 但し、蓮同様、神の姿も那智の姿も、各派閥の幹部クラスか上位に名を上げている者しか知らない。下の小競り合い程度の出来事には、幹部以外の者が動くからだ。 特に那智はほとんど表に出ない為、同じ派閥の中ですら会ったことが無い者もいるくらいだ。 この2大派閥には、それぞれ『No持ち』と呼ばれる人間が4人ずつ存在している。 No1は言わずもがな、派閥の筆頭がそれにあたる。 そこからNo2.3.4と呼ばれる三人が最高位幹部となっている。 裏高楼街は実質、この『No持ち』と呼ばれる彼ら8人がすべてを取り仕切っていると言っても過言ではない。 和真を従わせ、いつものようにBlue Roseの拠点とされている高楼街東区にある地下のショットバー「Trinity(トリニティー)」に足を踏み入れた那智は、そこで思い思いに過ごしている人影に視線を向けた。 Trinityは、地下の雰囲気を色濃く醸し出す独特の雰囲気と、間接的な照明がほの暗く辺りを照らした落ち着いた空間が作られている。 カウンター前のスツールに浅く座って煙草を吸っている人物は、時々神と行動を共にしている高志(タカシ)。 壁際のソファに深々と座りこんでいるのは、那智の次に位置するNo3の宗司(ソウジ)だ。 あとは、Blue Roseの中でも上の立場にいる者が数人、店内で過ごしている。 那智が店内を確認してから中に足を踏み入れたのを見届けた和真は、一礼してまた街中へ戻って行った。 扉の閉まるほんの僅かな時間その後ろ姿を見ていた那智に、店内から声がかかる。 「あれ?那智。お前がこんな時間に来るなんて珍しい。何かあった?」 興味深々に話しかけてきたのは、明らかに立つ気がないと思えるほど深くソファに座りこんでいる宗司だった。 神と同年・同校で、インターナショナル校の高等部三年生。那智よりも1歳上。普段はおちゃらけた軽そうな雰囲気の男。 いつもと違わず、今日もその顔には緩い笑みが浮かんでいる。 「いえ、特に何かあったわけじゃないです。和真に声をかけられたからついでに来てみただけで」 ゆったりとした歩みで通り過ぎながら答えると、ヒラヒラと手を振りながら「お疲れさん」なんて返事が返ってきた。 良く考えると、宗司も那智と同じく高校生のはずなのに、何故『すでに、ここに座って数時間経つ』という空気を醸し出しているのか不思議だ。 雰囲気だけなのか、本当に数時間ここにいるのか…。 …あまり深く考えるのはやめよう。 無表情のまま会釈を返して店内を横切り、カウンターの横、『STAFF ONLY』のプレートが貼られた扉を静かに開けた。 扉をくぐると、その先にはコンクリートが打ちっぱなしになっている通路が現れる。人間が二人並べる程の幅だ。あまり広くはない。 そして、その通路沿いに三つの部屋が並ぶ。 那智は、そのうちの1つ、何の装飾も無い真っ黒の扉に手をかけた。 「入るよ」 開けると同時に、中にいるだろう相手に向かって声をかける。 何も反応が無いのはいつもの事で、気にせず室内に足を踏み入れた。 この部屋は、通路と同様、全面がコンクリートの打ちっぱなしになっているスタイリッシュな雰囲気で、那智のお気に入りの場所だ。 そして、今いるこの部屋の住人も、それに見合う人物。 Blue Roseのトップであり、現アングラ界のカリスマと呼ばれている男、神。 部屋の中央にある黒の皮張りソファにゆったりと座り、ボーっとした様子でタバコをふかしている。 レイヤーウルフが伸びた少し長めの琥珀色の髪は、いつ見ても神に似合っている。一見ホストに見えなくもないが、その鋭い眼差しと圧倒されるオーラに気付いてしまえば、近寄りがたい畏怖の気を感じるほどの危険な獣だと本能が訴えてくる。 普通の高校生が持てる気ではない。 カリスマ性と極上の容姿、強さと統率力。神様と同じ漢字使ってるからっていろいろ与えすぎだー…と、笑いまじりに宗司が言っていた事を思い出した。 そんな相手にチラリと視線を向けた後、那智は特に何も言わずにその向かい側のソファに座った。 通学用のバッグから、今日の授業で出された課題を取り出してそれを片付ける事にする。 「…本屋で何か収穫は?」 紙をめくる音とシャープペンを走らせる音。そこに割り込んだ声。 咥えタバコのまま、神がどうでもいいような口調で問いかけてきた。慣れない人間には不機嫌に聞こえるらしい、低音のハスキーヴォイス。 那智が本屋にいた事を何故神が知っているのか…。和真が連絡したのだろうと想像はつくけれど、時々、GPS機能でも使われたのかと本気で驚かされる事がある。 「あったような無いような」 「って事は、何かあったって事だな」 「何もなかったけど、…蓮に会った」 那智のその言葉で、今までダルそうにしていた神の気配がスッと研ぎ澄まされたものに変わったのを肌で感じとった。正面から感じる空気に硬質さが混ざりこむ。 見ないまでも、きっとその双眸が細められているだろう事は今までの経験からわかる。 「気付かれたのか」 「まさか。大丈夫だよ、…とは言い切れないな…。和真が俺の名前を思いっきり呼んだから」 その言葉に、小さく舌打ちをする音が聞こえた。 本当に蓮に俺の事がバレたのなら、舌打ちしたいのはこちらの方だ。 そう思いながらもソファの背もたれに深く寄りかかり、課題を片付けようとシャープペンを片手に意識を集中させる。 課題を始めて暫くしてから、座っていたソファの重心がフワッと僅かに傾いた。何事かと教科書から視線を上げて横に向けると、神が隣に移ってきていた。 「……」 だからと言って何か意味があるようでもなく、相変わらず視線を遠くに飛ばしてボーっとタバコを吸っている。 そんな相手に、いつもの事だと那智も気にせず課題に意識を戻した。 だが少し経ってから、タバコを吸い終わったのだろう神がこちらを向いた気配を感じて、さすがに手を止めた。 「……なに?」 「そうしてると、とてもアングラに生きる奴には見えないな」 「それはどうも」 その反応の何がそんなに楽しいのか、クッと笑い出す神。 こんなやり取りもいつもの事だと、やはり全く気にも留めずにシャープペンを動かしだすと、今度は横から伸びてきた手にメガネを奪われる。さすがにこれには反応せざるを得ない。 こちらの不満気な眼差しに気がついたのだろう、フンッと鼻で笑う相手に、思わず眉を寄せた。 「…なに…」 「ダテなんだから邪魔だろ?ここにいる時くらいは外せ」 相変わらずの俺様ぶりには溜息を吐くしかない。 こういう時の神に何を言っても聞いてくれたためしはない。しょうがないとばかりに奪われたメガネはそのままに、さっさと課題を終わらせる事にした。 神は、那智から奪ったメガネを自分にかけて背もたれに深く寄りかかっている。 お互いに口を開かず、室内にはペンを走らせる音だけが響いていたが、そんな静かな空間も二人でいる時は心地良い。 30分ほどで課題を終えると、それを通学バッグに戻してから両手で前髪を後ろに撫で付けた。そんな事をしても癖のないサラサラの髪は元に戻ってしまうのだが、先程までのキッチリした感じよりも幾分気が抜けたような気がする。 「…で?…あいつは何をしてた?」 課題を終えるまで待っていたのだろう、唐突に質問をぶつけられた。あいつとは、もちろん蓮の事だ。問いかける神の瞳には揶揄めいた色が浮かんでいる。 「特に何も。…俺が経済誌を立ち読みしてたら隣に並んだのが蓮だった…ってだけ」 「そしてあいつも立ち読みか?」 「まぁ…表にいる間は蓮も一般人だし。顔も幹部クラスにしか知られてないし…。普通に立ち読みくらいするんじゃない?」 「お前の横に立たなければそう思ったけどな。…あいつがどこまで故意的に行動してるのかは俺にも判断がつかない」 「…確かに…。でも、名前はともかく、俺の顔は知らないはずだしね…、闇の……例え蓮でも」 「…だといいけどな…」 思わせぶりな返事に内心少しだけ杞憂が生じたけれど、言葉とは裏腹に神の表情がいつもとなんら変わらないのを見てしまえば、小さな不安はホロリと抜け落ちた。

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