20 / 63

第19話

†  †  †  † 「……――黄色い線の内側までお下がりください」 地下鉄のホーム内に、注意を促すアナウンスが響き渡る。 その少し後、結構な強さの風を巻き起こして電車がホームに到着した。 乱れた前髪を片手で適当に直した那智は、開く電車の扉に向かって足を進める。 18時という時間帯のせいか、通常の下校時刻に乗るより更に混んでいる車内を見て辟易するも、だからと言って乗らないわけにはいかない。 こんな時間まで引き止めてくれた先輩を恨むだけだ。 帰り間際に用事を言いつけてくれた藍学の先輩を脳裏に思い浮かべ、溜息を吐きたいのを堪えながら人ごみに流されるように電車へ乗り込んだ。 走行を開始した途端、荷重移動による乗客の動きによって、閉じたドアにギューギューと押しつけられる圧迫感。 とりあえず今日は荷物が軽くて良かった…と、ショルダー掛けにしている通学用バッグの薄さに多少の安堵を覚えた那智だが、いかんせんこの状態は苦しい。 それでも、車内の真ん中で人間サンドイッチになるよりましだ。 目の前のドアガラスに映る背後の状況を見て、ホッと短く息を吐いた。その時。 …ん…? 気のせいか…、何やら腰辺りでモゾモゾと動く感触がある。 ここまで混んでいれば、誰かの荷物や手が当たっていてもしょうがない。 中には、痴漢の冤罪を掛けられないように両手で吊り輪を掴んでいるサラリーマンもいるくらいだ。 けれど、そう言う『偶然触れてしまっている』という感じではない。明らかになんらかの意図を持っているかのような動き。 まさか、痴漢? いや、そんな馬鹿な。自分は男だ。制服も着ているし性別を間違えられるような外見はしていない。 それなら何故この背後の手は、腰から下へ移動して尻を触り始めたんだろう。 那智の眉間に皺が寄る。 気持ち悪さの反面、怒りも湧いてくる。 このまま大人しくしているような可愛らしい性格は持ち合わせていない。 ドアに押しつけられながらも、なんとか左手を動かして背後に伸ばした。そして件の手を掴みとろうとその位置を探る。 …が、探り出す前に、逆に那智の左手首がグッと強い力で握りしめられた。 男だ。 手の大きさと握力で、ハッキリと性別がわかる。尚更眉間に皺が寄った。 左手を背後で掴まれているため身動きが取れなくなったこの状態に、那智の脳裏で警鐘が鳴る。あまり良い状況ではない。 そう思ったのも束の間、案の定その手は、那智の予測通り更に大胆に動きを開始した。 腰や尻を撫でまわしていた手が滑るように移動し、制服の裾から直に脇腹へ入り込む。 直接肌に触れてきたその感触に、さすがの那智もビクリと肩を揺らした。するとその反応が嬉しかったのか、極々間近でクスリと笑う若そうな男の声が聞こえた。 周囲に誰もいなければ、無理やりにでも相手の胸倉を掴みあげてその顔面に遠慮なくストレートをお見舞いしてやりたい。 だが、誰もかれもが密着しているこの満員電車の中ではそれも出来ない。 声を上げて罵る事も出来ない。 あまりの苛立たしさに、那智にしては珍しく「チッ」っと本気の舌打ちをした。 「ガラ悪いよ、那智」 「……え…?」 何故この痴漢野郎が名前を知っている? そしてこの声。…どこかで聞いた事が…。 囁くような小声の為、たぶん普通に話すのとでは多少声色が変わっているのだろう。もしくはワザと声を変えているか…。聞いた事があるのに、脳内に残る記憶の誰かとうまく一致しない。 その内に電車は次の駅に到着し、目の前のドアが開いた。 出ていく人波に押しだされるようにホームに降り立ち、いまだ自分の左手を掴んでいる痴漢を振り返る。 そこにいたのは、ミリタリー調のロングコートに付随しているフードを目深に被った背の高い青年。 フードの隙間から、ベビーピンクの髪の毛がチラチラと見え隠れしている。 …やっぱり…。 もしかしたらという予測はしていたけれど、本当にこの人だったのかと思うと、遊ばれていた情けなさに深い溜息が零れた。 そんな那智を尻目に、目の前の人物はご機嫌な様子でホームを歩きだす。もちろん腕を掴まれている那智はそれに追随するかたちとなる。 ここで降りる予定ではなかった那智は、さすがに慌てた。 「ちょっ…、セイさん!どこに行くんですか」 「内緒」 抗いたくとも、さっきまで乗っていた電車の扉が閉まって走り出してしまえば諦めるほかなく。 この人に捉まった時点で逃れる事は無理か…、と、仕方がなく引っ張られるままに歩きだした。 改札を出てサラリーマンが闊歩する歩道を突き進むように歩き、そのうちに気がつけば人通りの少ない住宅街へと入りこんでいた。 もう陽も落ちて、辺りは暗闇に包まれている。 那智の腕を掴んだまま前を歩くセイは、駅を出てから一言も言葉を発しない。 いったいなんなんだと聞きたくても、目的の場所に着くまでは何も答えてはもらえないだろう。今までのセイを知っているだけに、それがわかる。 壁面にスプレーで落書きされている短いトンネルを通って、その先の細い路地に入る。 ここまで来るともう人の気配はまったくと言っていいほど無い。 そして暫く進むと、小さなビルの間を抜けた先に真っ黒い4階建てのビルが姿を現した。 どうやらセイの目的地はここらしい。 やはり無言のまま黒いビルに歩み寄り、壁面に沿った地下へ続く外階段を下りていく。 明かりが何も無い為に視界が悪く、那智が唯一頼れるのは腕を掴んでいるセイの手だけ。 真っ暗なコンクリートの階段を、まるで全て見えているかのように下りていくセイに続いて、地下へと向かった。 階段を降りきった先に見えたのは、ビル壁面をくり抜いた形で更に奥まった位置に存在している分厚そうな鉄の扉。 その横にある指紋認証セキュリティーにセイが指をかざすと、ピピっという小さな音と共にカチャンという解錠された音が響いた。 重そうな見た目の割には軽々とした動作でその扉を開けて中へ入ろうとするセイへ、さすがの那智も強引に立ち止まる。 「セイさん。ここが何か教えてくれなければ、俺は入りませんよ」 テコでも動かないつもりで踏み止まり、掴まれている腕を自分の方へ引き寄せる。 そこでようやくセイは、頭に被っていたフードを後ろに取り払った。 現れた顔には口角が引き上がった不敵な笑み。完全に目の覚めきっている夜バージョンのセイだ。これは一筋縄ではいかない。 数秒、お互いの腹の内を探るように見つめあう。…と言っても、セイが何を考えているのかは那智にはさっぱりわからない。 「……セイさん?」 「ボクの隠れ家の一つだから安心しな。お前が欲しがってる情報をほんの一欠片だけくれてやるよ」 「……それって…」 裏高楼街に侵入し始めている売人の事か。その情報は、どんな些細な物でも喉から手が出るほど欲しい。 「…わかりました」 それまでの警戒心を解き、小さく頷きながら肩の力を抜くと、セイの目が優しく微笑んだ。 「いい子だ」 満足そうに呟き、那智の腕を掴んだまま今度こそ鉄扉の中へ足を踏み入れた。 「す…ごいですね」 鉄扉から内部に入り、黒く塗装されたコンクリートの通路を抜けた先にあった黒の扉。そこを開けて部屋に入った瞬間の那智の感想。 20畳ほどあるだろう広い室内は、やはり全体的に黒い。 その中で那智の目を引いたのは、あちらこちらに置かれている複数のコンピューターの存在だ。 さすがトップクラスの情報屋とでも言おうか。 全てに電源が入れられ、絶えず何かの情報が送られてきているようで、ディスプレイには忙しなく移り変わるデータが映し出されている。 感心しながらそれらを眺めていると、少し離れた位置に佇んでコンピューターを操作していたセイが、不意にその手を止めてジーッと食い入るような視線をこちらに向けてきた事に気が付いた。 なんとも居心地が悪くなる視線。 …今にも舌舐めずりしそうに見えるのは、気のせいか? 捕食者を思いおこさせるようなその表情に、眉を顰める。 「………なんですか?」 「征服欲が刺激されるよね。その格好」 「はい?」 冗談っぽく言ってるわりには目が本気だ。 学校指定の制服に、フェイクでかけている眼鏡。あとは、通学用の黒のスポーツバッグ。そして黒の皮靴。 「…………どこに刺激する要素があるんですか…」 頭が痛くなりそうだ。 脳裏では、微弱ながらも危険シグナルが鳴り始めている。 セイから醸し出される空気に、本能的な何かを感じ取った。 「制服姿だけでもヤバイのにねぇ。ボクの事誘ってんの?那智。さっきもお前が誘惑してこなければあんな事をするつもりはなかったんだよ」 口元に笑みを刻みながら徐々に近づいてくるセイ。 逃げても意味が無い事を悟っている那智は、その場に佇んだまま。 それでも、セイの動きを見逃さないように神経を尖らせる。 「…さっきのって、痴漢の事ですか」 「痴漢じゃない。抑えきれない欲望の末の行動って言ってほしいな。本当はあんな事する予定は無かったんだ」 それを痴漢行為と言うんですよセイさん。 そんな言葉を飲み込む。 どこまでが本当の事かわからないが、今のこの状態があまり芳しくない事だけは確かだ。 情報に釣られてここまで来てしまったけれど、それを補ってあまりあるほどの損害を被るような気がしてならない。

ともだちにシェアしよう!