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第1部 第1話

放課後の数学準備室にノックの音が響く。 下校する生徒たちもひと段落ついたころ。 教室で自習でもして時間をおいてきたのか。 週の半分は聞くだろうそのノックの主が誰だかすぐにわかる。 「失礼します」 丁寧に頭を下げて入ってきたのは教科書とノートを抱えた一人の男子生徒だ。 染めたことなど一度もなさそうな黒く艶のある髪に色白の肌。 二年になったばかりのときにあった身体測定では162センチだったはずだが、とくに伸びた様子もない。 女だったら高過ぎもせずにちょうどいいくらいの身長かもしれないが男にしては低め。 まぁまだ高校二年だから伸びる可能性はある。 それにしても筋肉がつきにくいのか華奢な身体。目も大きく二重。 ごくまれにだが女と間違われることもあるらしいわりと綺麗な容姿をしている―――澤野遥。 俺が受け持つクラスの生徒の一人だった。 「……葛城先生」 澤野は室内をさりげなく見渡してから俺に視線を止め歩み寄ってきた。 その目が隠してはいるがほんの少し落胆を浮かべているのは確認するまでもない。 「なんだ」 「あの……今日の授業でわからない部分があったので教えていただけますか」 大人しく真面目な澤野は教師たちの受けもいい。 授業中も真剣に耳を傾け、きちんととられたノート。 それを俺のデスクに置き澤野はわずかに逡巡し言ってきた。 「どこだ」 「あ、あのここなんですけど」 教科書を慌てて、わざわざ付箋紙を貼ってきたページを開く。 そのページに視線を落としながら俺の耳は準備室に近づく足音を拾っていた。 そしてノックもなしに準備室のドアが開く。 「お疲れー……って、澤野、また来てたのか」 欠伸混じりの声がし、そのとたん澤野の身体が微かに震えた。 ちらり視線を向ければ頬を染め緊張している様子が見て取れる。 「は、はい。わからないところがあって」 上擦った声で視線を泳がせながら遥は微かに耳を朱に染めている。 「勉強熱心だなぁ」 快活に笑うのは同じ数学教師の鈴木浩二。 歳も俺と同じの同期。 たまたまその年、数学教員に二名の空きがでて、俺達二人が採用された。 無駄に明るく元気な鈴木と、無愛想な俺は教師3年目だ。 二年の澤野は一年のとき鈴木が担任で、そして今年は俺だった。 「俺のときもいっつも聞きにきてたもんな。澤野は理解力あるし教えがいあるよ」 鈴木の言葉に澤野ははっきりと顔を赤くさせて「そんなことないです」と首を振っている。 そう、去年もこいつは準備室まで勉強にきていた。 一年のときから、二年になったいまも、ずっと目当ては―――鈴木、だけだ。 今年は俺が担任で教科も数学だから俺を差し置いて鈴木に教わることはできないんだろう。 それでも"鈴木に会えるだけでも幸せ"なんだろうと澤野の笑顔を見ればすぐにわかる。 「鈴木先生、澤野に少し教えてやっててもらえません? 俺、急ぎの仕事があるんです」 気を利かせてやったわけでもなんでもない。 生活指導の中年教師小城から雑用を押し付けられていた。 それに俺が教えても教えなくてもどうでもいい話だ。 真面目な澤野はちゃんと俺の説明を聞きはしているが、意識は全部鈴木に向けられているんだから。 だから、どうでもいい。 ―――今は。 「え、でも」 「しょうがないなぁ。ま、俺は今日とくになんもないし、いーですよ。ほら、澤野。どこだよ」 予想外だったのか慌てる澤野にたいして鈴木はなんの気負いもなく頷いて俺のデスクに置いてあった澤野の教科書を持っていく。 「……あの」 戸惑うように、だが嬉しそうに澤野は俺に背を向け鈴木と話しだした。 それを眺め俺は俺の仕事を始める。 俺と喋るときよりも、わずかに高く弾んだ澤野の声をパソコンを打ちながらぼんやりと聞いていた。 ―――――― ―――― ――

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