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第4話
そうこうしている内に、気付けばカブを乗せてからかなりの時間が経っていた。
日付が変わるまで、もう30分程度しか残っていない。
カブはいつのまにか、やけに静かになっていた。
こいつが本物のお化けにしろ、引きこもりのホモにしろ、さすがにそろそろお開きにする時間だろう。
橋爪の意を汲んだかのようなタイミングで、カブはマントの胸元をぐっと握り締めた。
「もう時間ないからさ、あの……触らせてくれないかな?橋爪さん、すごくいい体してるよね」
かつては何度も耳にした褒め言葉だ。だが、筋肉は現役の頃より遥かに小さくなり、いくらか贅肉もついている。多少のトレーニングは続けているが、自信をもって脱げる体だとは言いがたかった。
「別に触るのは構わんが、実は昔膝をやってな。今はあまり鍛えられてないんだ。マッチョ巡りの仕上げにはかなり物足りないと思うぞ」
情けない言い訳を口にした橋爪に構わず、カブは真剣に言い募る。
「そんなことないよ!僕にとって橋爪さんの筋肉は、プロのボディビルダーの筋肉より価値があるよ!」
そんな風に言われれば、嬉しくないはずがない。
橋爪は大型公園の駐車場にタクシーを停め、無言で後部座席に乗り込んだ。車内灯が消えても、公園の照明のおかげでカブの顔はよく見える。
だが、じっと覗き込んでも、くり抜かれた目の奥には深い闇が広がるばかりだった。
「ほら、好きなだけ触っていいぞ」
そう言いつつも、落胆されないかという心配があった。
だが、橋爪がワイシャツとランニングシャツを脱ぎ捨てると、カブから「あぁ……」と感嘆の声が上がった。
「見せる用に整えられてない筋肉も、イイ……」
どうやらお気に召したようだ。多少自信を取り戻し、橋爪はさり気なく体の前面に力を入れて筋肉を浮き出させる。
「か……っこいい……!」
カブは遠慮がちに、手の平で胸筋を撫で回し始めた。
「おぉぉぉ……」
感動と思われる音声が、暗くて細長い切れ込みから漏れている。
「固いのにほどよい弾力が……おぉぉぉ……」
強く優しく熱心に揉み、撫で擦り、手の平全体で感触を確かめている。
最初は驚くほど冷たかったカブの手の平は、橋爪の熱が移ったのか、本人の体温が上がったのか、汗ばんでいないのが不思議なほど熱くなっていた。
カブの手の平は胸だけでは飽き足らず、首、肩、腕、腹と、橋爪の上半身を隈なく撫で回す。
感嘆と興奮に満ちたその手つきに、橋爪の体は自分でも予想だにしていなかった反応を見せ始めていた。
「あの……ここもマッチョっぽいんだけど……見ていい?」
カブは橋爪の臍の下からズボンの中へと広がる濃い繁みに指を絡ませながら、盛り上がった股間を凝視している。
「そこは筋肉じゃなくて、海綿体だけどな」
言いながらも、なるようになれと自分でズボンのベルトを外した。マッチョ好きのホモだったとしても、体格差を考えれば何の脅威もない。
そして、唯一衰えを見せていない男の証は、橋爪にとって密かな自慢でもあった。
ズボンのホックを外してやると、カブは震える手でジッパーを下ろし、トランクスのゴムに手をかけた。そしてそっと下に引っ張る。
その慎重な手つきと溢れ出る期待感に、橋爪も正直興奮を覚えてしまった。
かなり固く、勇ましい太さになったペニスが、顔を出した途端に跳ね上がる。
「あっ!……あぁ……どうしよう……」
カブはまるで自分の方が性器を晒してしまったような驚きと興奮に満ちた声を上げ、そろそろと手を伸ばした。
火傷を怖がるように指先でつんと触れ、ぱっと手を引く。だがすぐに我慢できなくなったように再び指先で先端を撫で、幹の血管を辿った。その刺激に、海綿体の固まりはみるみると雄々しい角度でそそり立つ。
「わ……あ……わぁ……すごい……」
あそこがすごいと言われて喜ばない男はいないだろう。相手がカブを被ったハロウィン野郎でも、心からの賛辞であれば心地いいものだ。
カブは固くなった肉塊を熱心に撫で、指先で確かめている。そして控えめな力で握り、小さな動きで上下に扱き出した。
さすがにその動きはまずい。
けれど、そんなに一心に求められたら、常識的な判断がつかなくなる。
「ったく。はっぴーはろうぃーん、だからな。好きにしろ」
そう言ってカブ頭をぽんぽんと撫でてやると、ぱぁっと表情が輝いた。今度こそ本当にそう見えた。
もしかして、微妙に穴が動いていないか?
許可を得たカブは遠慮なく、そして熱心に手を上下させ、思うまま感触を楽しんでいる。
橋爪は漏れそうになる呻きを堪え、腹に力を入れた。
「あっすごい!腹筋も一緒にビクビクなってる!かっこいい!」
はしゃぎ、うっとりしながら、カブは片手で橋爪の腹筋を撫で、もう片方の手で休まずに勃起を扱いた。まるで、愛しくてたまらないとでもいうかのように。
かと思うと、唐突にその重そうな頭を橋爪の口元に寄せてきた。
瞬間、瑞々しい野菜の香りが橋爪の鼻腔に広がる。
そのリアルな野菜感に、橋爪は思わず吹き出してしまった。
「ははっ、それ被ったままじゃキスは厳しいって!」
雰囲気を壊されたカブも、釣られて笑い出す。
「ふっ、ふふっ、確かに無理があるかも。あーあ、ほんと邪魔だなぁこのカブ」
しかし、外そうとはしない。
外したくないのか、本当に外れないのか。
だが橋爪は、こんなに面白くて一生懸命なカブの素顔を、どうしても一目見たくなっていた。
「全くだ。俺もキスしたかったのにな」
顔が見たい気持ちが九割だが、本当にキスをしたい気持ちも少しはあって、橋爪が大げさに溜息をつく。
するとカブの動きがぴたりと止まった。
次の瞬間、笑いで萎えかけていた橋爪の半勃ちを放し、ものすごい勢いで運転席と後部座席を隔てる強化プラスチック板にへばりついた。
「時間はっ!?残り5分!?嘘でしょ!?」
メーターのすぐ下の時計を確認したらしいカブは、目に見えて慌て出した。そして一生懸命頭を両手で掴み、持ち上げようとする。
「うぅっ!痛いぃっ!顔もげちゃうぅっ!」
腕がブルブルと震えるほどの力を込めているのに、本当に外れないらしい。悲痛な声はとても芝居とは思えない。加えられる力に抗おうとするように、首には筋が何本も浮いている。
「やめとけ!怪我すんぞ!」
両腕を掴み、カブの動きを力づくで封じた。
「もういいから。な、ほら、キスはまた今度な」
宥めようとしたが、掴んだカブの腕はぶるぶると震えていた。
「どうしよう……消えちゃう……もう消えちゃう……」
カブは本気で午前0時に脅えているようだった。
橋爪は一旦体を放し、すっかり萎えてしまった性器をズボンにしまうと、カブの震える体を包むように抱き締めた。
「今年は残念だったけど、理想のマッチョ探して、来年キスしてもらえよ。楽しいことしてたら、一年なんてあっという間だって」
慰めるつもりで発した言葉に、カブは強く反発した。
「やだ!僕は橋爪さんとキスしたいんだ!橋爪さんじゃないと……嫌なんだよ……」
最後は完全に涙声になっている。
相手も男とはいえ、細っこくて弱っちくて明るくて健気な子にこんな風に縋られて、心を動かされない奴は男じゃないだろう。
「わかった、わかったから、な。一年かけてがっつり体鍛えとくから。来年は隅から隅まで好きなだけ触らせてやる。だから泣くな」
そんな慰め方があるかと思うが、カブには効果があったらしい。
お人よしすぎる、と呟いた声は、僅かに笑っている。
「そんな約束しちゃってさ。言っとくけど、僕は実体が無くなっても側を離れないからね。ずっと見張ってるんだから。僕がこんなにキスしたくてもできないのに、他の奴としたりしたら呪うんだからな」
カブのお化けの呪いとは恐ろしい。酷く禁欲的な一年間になりそうだ。
「便所には入って来るなよ。後はまぁ、好きにしろ」
苦笑しつつも承諾したのに、カブの嗚咽はぶり返し、さっきまでよりかえって大きくなってしまった。
「うぅ、やだよ、消えたくない。消えたくないよ。橋爪さんともっと一緒にいたいよぉ……」
うぅ、えっく、と、カブはもう完全にしゃくりあげていた。
ちらりと時計を見遣れば、11時59分。残り一分だ。
きっとカブの中は涙やら鼻水やらでぐちゃぐちゃだろう。
橋爪は、涙の味がするキスを想像した。
カブの本当の顔もわからないのに、泣きながらも嬉しそうに笑う様子が思い浮かぶ。
あぁ本当に、キスしてやりたい。
泣きじゃくりながらしがみ付いてくる体を引き剥がし、見つめあう。くり抜かれただけの顔が、この世の終わりかと思うほどの悲嘆に暮れて見える。
その奥の素顔にキスしてやりたくて、橋爪はそっとカブ頭を両手で掴んで持ち上げた。
すぽん
と、何の抵抗もなくカブが抜けた。
ふっ
と、胴体もカブ頭も掻き消えた。
一瞬見えた黒い髪の毛の残像だけを残して、カブは跡形も無く消えてしまった。
橋爪はカブ頭を掴んだ形で固まっている自分の両手を呆然と見つめる。
たった今まで泣きじゃくっていたカブが、消えてしまった。
「おい……嘘だろ……」
出て行ったはずなどないとわかっていながら、タクシーの周囲を見回す。照明に照らされた駐車場には、カブ頭はもちろん人影もない。
そんな馬鹿なという思いと、やっぱり本物だったかという思いが交互に襲ってくる。
だがどちらにしろ、カブがいなくなったということだけが、圧倒的な事実だった。
「マジかよ、キスは来年までお預けか?」
ショックを誤魔化すように無理矢理苦笑を作り、ふと思い出す。
消える直前に、カブ頭がすぽんと抜けたことを。呪いだから外れないと言っていた、あのカブが。
「まさか、呪いとけて天国行ったとか言わないよな?」
橋爪と出会ってから、天国に行けるようなきっかけはなかったはずだ。
だが、確かにカブ頭が外れた感触があったし、中に隠れていた髪の毛も一瞬見えた気がする。
「嘘だろ、おい、俺が頭外したから天国いっちまったなんて……言わないよな……?」
問いかける声は、徐々に呆然と小さくなる。見えないカブが透明な声で何か答えているような気配もない。
「なぁ!……!」
名前を呼ぼうとして愕然とした。
「嘘だろおい……俺、お前の名前も聞いてねぇぞ」
さっきまで確かにここにいたはずなのに、顔も名前も知らないと気付くと、一瞬で印象が不確かになってくる。
カブのお化けは、本当にこのタクシーに乗っていたのだろうか。
「行っちまったのか……?」
問いかけに答える声はない。
大きな塊が後悔に似た苦さを伴って、橋爪の胸をぐっとせり上がってくる。
天国に行けたなら、いいことだ。もう先の見えない孤独に苦しまずに済む。
けれど、耐え忍んだ放浪の果てが、自分とのあんな些細な時間でいいのだろうか。
わかっていれば、彼にとって最後の一日になるとわかっていれば、もっとしてやれることがあったはずなのに。
「おい!……この馬鹿っ!!」
拳を叩きつけた衝撃はシートに吸い込まれ、乾いた音を立てた。
橋爪は悔しさなのか悲しさなのかわからないぐちゃぐちゃを吐き出すように咆哮すると、深くうな垂れた。
カブが座っていたシートに手をつき、そのまま長い間、うな垂れていた。
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