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第0話 賽は投げられた

「やあ周藤君! 男前が上がったんじゃないか?」  久し振り、とまるで長年の友人のような気さくさで少年は朗らかに微笑む。  周藤岳嗣(すどうたけつぐ)は困惑した。ここは大学の研究室であり小学生と思しき少年が来るような場所ではない。  更に言えばこの研究室は大学教授たる自分の部屋だ。鍵をしないまま部屋を空けたのは自分の責だが、まさか教授でも学生でもない見ず知らずの子供が立っているなんて誰が想像出来よう。  岳嗣は腰に手を当て眉間を強く押さえた。論文の締め切り間際に急な発掘調査が入り徹夜続き、しかし手抜きなど論外とばかりに最後にはハイなテンションのまま駆け抜け最高傑作を提出。そうして仮眠も取れぬままつい先程鬼のような形相で教壇に立ってきたばかりだ。  尚、この時の講義を受けた学生達が「怖かった」「殺されるかと思った」はたまた「あまりにもえろい」などと語っていたのはまた別の話である。  と、こんな有様なのでやれやれついに幻覚でも現れたか立ったまま寝ていたか――などと考えていたのだが。 「聞こえてる? 何だ、もしかして寝不足かい?」 「うわっ」  擦った目を開いた瞬間少年の声が間近で聞こえて思わず背後の扉にドンと背中をぶつける。見下ろすと目の前で異色の大きな瞳と視線が交わった。どうやらこれは現実らしい。 「ええと……僕、迷子かな?」  教授ともあろう者が間抜けな質問をしたものだ。激務を完遂したこの頭はとうにエネルギー切れで立っているのもやっとだった。若い頃は研究に没頭したり夜遊びをしたりと徹夜をする事も少なくはなかったものだが、半世紀を生きた身体に二徹は過酷過ぎた。  屈んで視線を近づける岳嗣に少年はおよそ幼い体躯に似つかわしくない妖しげな表情で目を細める。 「随分薄情な事を言うんだね。君ならば気づいてくれるんじゃないかと期待していたんだけれど、当てが外れたかな」  その瞬間、ぼやけた思考が一気に開かれる。 (何だ、この子は)  空気が凍りつく。ガタガタと窓が揺れ室内は暖房が効いている筈なのに背筋が冷える。感覚が冴え渡っていく。  何かがおかしいと感じた。  綺麗な少年だった。異国の血を感じさせる青みがかった灰色の瞳。灰色と水色が混じったようなその瞳は力強く、初めて会う筈なのにまるで岳嗣の事をよく知っているかのような顔をする。 (知らない、筈だ。子供の知り合いなんて――)  端正な顔立ちにふわふわと揺れる薄茶色の細い髪の毛。色こそ日本人離れしているが恐らく血が混ざっているのだろう、顔立ちだけを言えば日本人のように見えるその子供をまじまじと見つめてぎくりとする。 「有り得ない」  ぽつりと、それは無意識に零れ落ちる。 「やはり君は聡い」  岳嗣の反応に満足するように少年は大きな瞳をゆらりと細めた。岳嗣は信じられないものを見るように眉を寄せ少年を凝視する。 「改めて挨拶をしよう、周藤岳嗣。およそ十年振りの再会だ。何、僕の顔を忘れていたとしても咎めはしないよ。人の記憶の脆さを僕はよく知っている。とはいえ、この年齢の僕を君は知らないだろうから気づかなくても道理ではあるんだけど」  でも、だろう。  薄情だと罵ったその口で少年は艶やかに唇を弓なりに曲げる。  何故すぐに気づかなかったのだろう。瞳の色が違っていてもこの少年はこんなにも〝彼〟に似ているのに。 (ああ、そうだ、髪の色だって)  光の加減で淡く色を灯す飴色の髪は息を呑む程美しい。金糸の混じったようなその色には見覚えがあった。  脳裏に浮かぶはひとりの男。それは一番記憶に新しい姿ではなく岳嗣の知り得る最も気高く美しかった頃の――出会ったばかりの彼の姿だ。  けれど、ああだからといって彼本人である筈がないのだ。血縁者――あるいは信じ難いが他人の空似。それにしたってこの口振りでは、まるで――。 「有り得ない」  一瞬頭を過った憶測を振り払うように再び同じ言葉を呟く。こんな事、酷い冗談だ。  どくんどくんと心臓が早鐘を打つ。 「君は今必死に様々な仮説を立てているんだろうから答え合わせをしようか」  じわりと掌が汗ばむ。  灰青の瞳が深く色を滲ませた。 「白岡霞(しらおかかすみ)。それが前の僕の名だ。――また会えて嬉しいよ、ガク」  どう、当たっていたかな。  窓を打つ風はいつの間にか吹雪へと変わる。月替わりを目前に控えた一月の終わりに、小さな嵐がやって来た。  白岡霞――それは忘れもしない、十一年前に死んだ男の名前である。

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