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第1話 霞

 白岡霞(しらおかかすみ)。昔の名を、鷲宮霞(わしみやかすみ)。  岳嗣と同じく大学教授だった霞は岳嗣にとってかけがえのない友人であり、かつて心から心酔し想いを募らせた男でもあった。  出会いはまだ岳嗣が思春期を拗らせ不良になっていた頃に遡る。当時中学二年生だった岳嗣は三つ年上の高校生である霞の並外れた強さに圧倒されすっかり懐いていた。  すらりと伸びた背に雰囲気のある綺麗な面立ち。透き通るような美しい飴色の髪とそれより少しだけ深みを帯びた瞳。  尊敬する霞に『ガク』という特別な愛称をつけてもらいその名を呼ばれるのはこの上ない悦びだった。そして毎日のようにつるんでいるうちにそれがただの憧れだけで済まなくなったのはきっと必然だったのだろう。  何故なら岳嗣はゲイだから。女ではなく男に欲情する自分の性に気づいたのは霞が切っ掛けだった。  それでも傍に居られたらそれで良かった。この頃にはもう強すぎる憧憬と執着ゆえに卑しい恋心は邪魔でしかなかったのだ。  けれど岳嗣の健気な願いは虚しく散る事となる。  岳嗣が霞に会いに行くといつものように霞の隣にいた青年、前野太樹(まえのたき)。霞の親友であり、岳嗣にとっても気のいい先輩で、明るく元気な人だった。  その太樹が事故死したのは霞と太樹が喧嘩し乱闘になった直後の事だ。太樹の死に霞は直接関わってはいなかったが、暫くして会った霞は見ていられない程酷い有様だった。  身体はやつれ顔は青白い。霞の髪を彩っていたあの美しい飴色は輝きを失い、霞の心を映したように沈んでしまっていた。  そして霞は岳嗣に何も告げる事なく遠くの地へ転校した。突然心の支えを失った岳嗣の中では悲しみややるせなさ、裏切られたような複雑な気持ちがぐちゃぐちゃに掻き混ぜられただただ涙を流して叫ぶ事しか出来なかった。  そんな霞と再会したのは大学二年の時。  実家から離れもう霞の事は忘れようと生きていたのに、ひとりの男の虜となったあの日々はあまりにも濃密でそれを切り捨てるなんて出来る筈もなかった。  あの頃より広く見渡せるようになり随分落ち着いた岳嗣は、かつて抱いていた程の強い憧れをもう霞に抱く事はなかった。あれだけ夢中になれたのは岳嗣のうら若き青さ故、というのも大きいのだろう。  再会した霞は大学こそ通ってはいるが毎晩のように酒を飲み男を抱く散々な生活を送っていた。否、性が奔放なのは今に始まった事ではないがあの頃より悪化しているのは間違いない。  霞は太樹の死をずっと引きずっている。セックス依存症になる程の理由なんてそれしかないだろう。  呆れながらも霞を見放す事は出来なくて、文句を言いながら何だかんだと世話を焼くのが当たり前になっていた。  そうやって見張っていたのだ。相変わらず馬鹿みたいに力は強い癖にいつでも折れてしまいそうな儚さのあるこの男が今度こそ手遅れにならないように。  岳嗣にも度々恋人はいたけれど、何かと心配の種である霞を優先していたものだから当然長続きはしない。岳嗣も霞もお互いタチ専なものだから一緒にバーに飲みに行ってそれぞれ良い相手を見繕う事もしばしばだ。  霞が結婚し婿入りした時には大層驚いたが、何やら訳ありのようで彼の生活スタイルは変わらない。霞は自分達の生まれ故郷の大学に配属され再び別れる事となったが、今度はあの頃のような心臓を握り潰されたような苦しみを覚える事はなかった。  齢を重ねた為か岳嗣が丁寧に手を掛けた成果か、霞は随分穏やかになった。結婚というしがらみも彼の命の重みになってくれると期待して以前程心配ではなくなった。  それでも度々仕事や帰省で戻る度霞と会ってはその生を確認する。変わらぬ霞の様子にほっと胸を撫で下ろす。  そうやって霞が四十三という若さで病死するまで、岳嗣はついぞかつて募らせた恋情を一言も伝える事なく生涯の友として陰ながら霞を支え続けた。  霞への感情は一言では言い表せない。もう恋ではないけれど霞という人間に最期まで惹かれ続けた。  岳嗣にとって霞は何者にも代えがたい『特別』だったのだ。 「君達のせいで、僕は今とても満たされているよ」  霞を看取った岳嗣が聞いた最期の言葉。その言葉で岳嗣もまた救われていた。  途方もなく悲しいし淋しい。けれどもう思い残す事はなかった。  だからこそ思う。  何故、今になってまるで亡霊のようなこの男が目の前に現れたのか。  この奇妙な再会の意味を岳嗣はやがて知る事となる。

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