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第2話 バッドモーニング〈前〉
徹夜続きのせいで疲れ果てていた岳嗣は、どうにもこうにも眠くて堪らず泥のように眠っていた。
ああ、何だかとても心地良い。温かくて、ふわふわしていて。
そうか、これは猫のシーナか。大きくなったなあ、でも今はまだ遊んでやれそうにないから一緒に寝るか。そう目を閉じたまま腕に抱くとそれは猫よりずっと大きい事に気づいた。
ゆらゆらした意識の中、愛猫は数か月前に死んだ事を思い出す。途端に悲しい気持ちが押し寄せて腕の中の温もりに顔を埋めた。
鼻先を掠める仄かに甘い匂い。吸い付くような滑らかな肌を掌でなぞると下腹部がずくりと疼いた。
ああ、そういえば最近は忙しくて自慰すらしていない。細い腰を抱いてもう片方の手で柔らかな髪を梳く。手触りの良いその感触を味わいながら探り当てた額にそっと口づけを落とした。
指先と唇だけで肌を探り幾つめかの口づけを落としていると親指の先で薄くて小さな唇を見つける。
形を確かめるようにふにふにと指の腹でなぞると慣れた仕草で唇を寄せた。夜の相手にこんなに小さな唇をした男はいただろうか、なんてぼんやりと記憶を引き寄せようとしたその瞬間。
ばちん、と頬に衝撃が走った。
「君、ペドフィリア?」
夢うつつの状態から強制的に叩き起こされた岳嗣は目の前にいる少年のにっこりとした微笑みを見て青ざめた。
「か、か、かす、」
「おはよう、周藤君。気持ちのいい朝だね?」
卒倒しそうだった。
寝ぼけて相手を間違えた。間違ってはならない相手に、決してしてはならない事をしてしまった。いやまだ未遂だ、キスはしていない。それでも色めいた触れ方をしてしまったのは事実であり、岳嗣はもう心が死にそうだった。
しかも今、岳嗣の下腹部は子供には見せられない状態になっていて。
「――ッすみませんでしたぁ‼」
とりあえず謝った後、速攻で風呂場へ駆け込み持て余した身体の処理とひとり大反省会を行う岳嗣であった。
「あー……やっちまった……」
岳嗣の肩は重く項垂れ、何度も長い溜息が零れた事は言うまでもない。
岳嗣は特殊な性的嗜好のない常識人でありその上教育者だ。一度面倒な事になって以来教え子にだって手は出していないし未成年は若過ぎて守備範囲外。
そんな自分がいくら寝ぼけていたからと言って年端もいかない子供に手を出すなんて。
(しかもあれは、あの人なのに)
なんて最悪な朝なのだろう。
時は遡り金曜日、つまり昨日。
霞の生まれ変わりだと自称する限りなく怪しい少年は泊まらせろと迫ってきた。
いやいやそもそもおかしいから。子供は家に帰れと勿論言ったが、少年はふふんと笑ってこう言い返した。
「君は僕を信じざるを得ないよ。決定的な証拠があるんだからね」
そうして少年は白岡霞が死んだ日の事を事細かに話してみせたのだ。
岳嗣が霞の家に泊まっていた日の明朝、霞に誘われてふたりで出掛けた事。周囲に人は誰もいない。そうして岳嗣が運転する車内で霞は安らかに永遠の眠りについた。
ふたりきりで交わした会話を、行動を、岳嗣は誰にも話していない。岳嗣が霞を連れ出した事実だけは知っている者もいるが、その詳細に至っては岳嗣が誰かに話さない限り誰も知り得ない筈なのだ。
死人は何も話さないのだから。
非現実的だし到底信じ難い事だと今でも思う。それでも少年の『霞』らしさはそれを裏付けるようで、もう彼を信じて付き合うしかなかった。
そうして岳嗣の自宅へ少年を連れ帰り買ってきた弁当を食べると岳嗣は早々に布団に入った。ただでさえ肉体的に限界なのに彼のせいでとっくにキャパオーバーだ。
少年には客室を使わせ岳嗣は自分の寝室ですべてを忘れて睡眠を心ゆくまで貪っていた。
――その筈なのに。
「ていうか勝手に男の布団に入るのもどうかと思うんですけど。これ俺だけの責任じゃなくない?」
「やだなあ、僕はトイレの帰りに部屋を間違えただけだよ。言っておくけど人の腕を引っ張って布団の中に引きずり込んだのは君だからね?」
げほ、と咽て飲んでいたコーヒーが跳ねる。テーブルの上に零す事は何とか免れた。
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