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第3話 バッドモーニング〈後〉

 時刻は八時、土曜日の朝。長閑な食卓にはトーストにベーコンエッグ、そしてマグカップがふたつずつ並んでいる。  少年は「汚いなあ」と言ってホットミルクの入ったマグカップを口に運んだ。コーヒーを飲みたがってはいたが、そこは流石に譲れない。 「でもまさか君にペドフィリアなんて嗜好があったとは知らなかったからさ、僕も用心が足りなかったと反省してはいるんだよ」 「いやいやいやいやそんな嗜好は一切ありませんから誤解ですから。あれはちょっとその、猫と間違えたっていうか、いや知人と間違えたんですけど」  若い頃はやんちゃをしていた岳嗣ももう五十一歳。恋人よりも仕事に熱心なワーカーホリックである岳嗣は、今となっては猫を癒しに時折セックスフレンドと夜を共にする気楽な付き合いに落ち着いていた。その猫ももういないのだけど。 「えっ……君、猫……」 「言い方が悪かったです違いますからね。その『うわこいつやべえ』みたいな顔やめていただけませんかね」 「ふふ。君が道を踏み外してなくて良かった」  完全に遊ばれている。はあ、と本日何度目か分からない重い溜息を吐いてトーストに齧りついた。  霞は物腰柔らかく品はあるが、飄々としていて時々殴りたくなるような性格をしている。以前もよく振り回されたものだが、その性質は今も変わらないらしい。岳嗣もまた人を揶揄うのは好きな為霞と一緒になって若者を弄って笑う事も少なくはなかった。  相変わらずの彼の様子にかつての時間が巻き戻ったようで何だか若返ったような心地になる。 「それで、霞さんは前世の記憶とやらが戻ったばかりなんでしたっけ?」 「そう。少しずつ思い出してね、何だか変な感じだよ。僕はまだ八歳なのに気持ちの上では四十三だからね。見た目は子供、中身は」 「おっさん」 「辛辣だよねー」  そうなんだけどねえ、とあっという間に朝食を平らげた少年はへらりと笑う。  ベーコンを口の中に放り込み咀嚼しながら目の前の少年を盗み見る。彼は「ご馳走様でした」と両手を合わせると椅子から降りて食器をキッチンへ運んでいった。  彼から聞き出せた情報は少ない。  小学三年生の八歳。大学までは電車でひとりで来た。――たったそれだけだ。どこで生まれ、どこに住み、誰と暮らしているのかさえ「内緒」という憎らしい言葉ひとつで済まされている。  家出じゃないだろうなと念を押すと「君が誘拐の疑いで警察に捕まるような事にはならないから安心したまえ」なんて宣う。  あまりの怪しさに幽霊なんじゃ、と非科学的な事も頭を過ぎるがその観点で言えば前世とか言い出す時点でもう今更だろう。  きっと彼は何か目的があってここにいる。  ならば彼が満足するまでとことん付き合ってやろうじゃないか。 「良い家だね。君は高層マンションに住んでいたと記憶しているんだけど」  陽の光が差し込み少年の飴色の髪がきらきらと輝く。窓辺に立ち庭先を眺める彼を岳嗣は目を細めて見つめた。 「七年位前に引っ越して来たんです。親戚がこの家を持て余していて、俺も丁度広い家が欲しかったんで」  へえ、と少年が頷くとからからと窓を開いて一畳分の大きさのウッドデッキに出る。  平屋一戸建ての古い家屋。建物自体は相当古いが水回りは新しいものに変えているしマンション住まいだった頃に比べて部屋数も多い。  考古学教授という職業柄かとにかく蔵書や物の多い岳嗣には今の家が合っていた。マンションより古いし大学に通うのにも多少遠くはなったが、思ったより頑丈につくられているらしく床が抜ける心配は今のところない。 「猫は? グレーの子だったよね」 「シーナならちょっと前に亡くなりましたよ。結構長生きしたんですけど、病気で」 「そう」  背中を向けている少年の顔は見えない。  灰色の毛並みと宝石のような琥珀の瞳が美しい猫だった。今でも家の柱には爪研ぎの痕跡が残っているし別室にはキャットタワーも押し込まれている。  あ、まずい思い出したらちょっと涙が出そうになってきた。猫が唯一の癒しと言っても過言ではなく、とても利口でいつも傍にいたシーナを岳嗣はこよなく愛していた。  そんな岳嗣の胸中を知ってか知らずか――まあ知らないだろう――少年は「さて」と徐に立ち上がると意気揚々と振り返った。 「さあ、出掛けるぞ!」 「へ?」  少年の突然の誘いに岳嗣はきょとんと目を丸くする。 「君、この週末の予定は?」 「大学で資料整理をする予定でしたが。明日はジムの予約を」 「ふんふん。じゃ、キャンセルしといて」 「は?」  にっこりと軽やかにそう言い放った少年に岳嗣は怪訝そうに眉を顰めた。  彼がいる以上今日は彼に付き合うつもりではいたし、それが休日である明日まで続くのも想定内ではあった。  ただあまりにも彼が悪びれもなく勝手な事を言うものだから溜息を吐いてしまうのも仕方のない事だろう。 「あと今夜泊まるホテルも手配しといてね」  よろしく、と少年は無邪気に笑う。 「新潟に行くよ、周藤君!」  新潟――それは岳嗣と霞が生まれ育った故郷の地。  霞が死んだ場所だ。

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