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第14話 おめでとう [完]
気を失った花撫をベッドに寝かせ、ふうと息を吐きながら椅子に腰掛ける。まだ幼さの目立つ顔立ちを見つめて思うのは花撫の事だった。
幸せかい、と口にした少年の言葉が頭の中に響く。脳裏に描かれるのは昨晩の悲痛な花撫の姿。
花撫について簡単にしか聞いてはいないけれど、それでも恐らく彼は自分の人生を幸福だとは思っていないだろう。もしそうでないならこうして花撫がここにいる事も霞と名乗る少年が現れる事もなかった筈だ。
あれは叫んでいた。苦しい、辛いともがいていた。自分ではどうする事も出来ず、頼れる大人もいなくて結果自身を歪めてここまで来た。
(俺の、ところに)
唇を噛み拳を握り締める。
自分を子供好きだと思った事はない。赤の他人に優しくする義理もない。
いくら霞と関係があるとは言っても施設まで送ったらそれで終わりだ。きっともう会う事もないだろう。
そうしたらいつもの平穏な日常に戻る。この数奇な数日間を夢のように頭の片隅に仕舞って、いつものように大学へ行って講義をして現場に行って。
けど、花撫は?
(どうせ独りぼっちなんだろうなあ)
はあ、と深い溜息が零れる。
花撫の問題は何も解決してはいないだろう。心境の変化はあるかもしれないだろうが、あの様子から考えると安心出来る要素は何ひとつとしてない。
こんな厄介な子、関わらないのが一番良い。そう分かっていても、どうしても気になってしまう自分がいる。
(どうしたら、こいつは笑えるようになるんだろう)
思い違いかもしれない。
けれどあの時、まるで助けを求められているような、そんな気がした。
花撫の声が、瞳が、忘れられない。
「ん……」
花撫が目を擦りながら起き上がると、ぼんやりとした顔で部屋の中を見回した。
まるでここがどこかも分かっていないかのようで「花撫?」と様子を伺いながら声を掛ける。すると岳嗣へ向けられた花撫の瞳がゆっくりと瞬きをした。
「……岳嗣?」
ほっと胸を撫で下ろす。そうだ、と頷き床に膝をついて花撫の顔を覗き込んだ。花撫はまだ目覚め切れていないのかぼうっとしたままで、声を掛けようとしたその時花撫の唇が先に動いた。
「夢を、見ていた気がする」
「夢?」
花撫はこくりと頷く。淡い飴色の髪がひと房はらりと彼の目元に落ちた。花撫は掻き上げる事もなく、記憶を辿ろうとするかのように何もない宙を見つめる。
「何だったっけ……。誰かに、会った気がする。女の人とご飯食べて、博物館に行って……。俺も俺じゃなくて、俺じゃ、なくて……」
小さな手がくしゃりと頭を掻き、緩く波打った髪は一層散らばる。岳嗣ははっとしてくしゃくしゃになった飴色の髪を見下ろした。
「昨日や夜中の事、もしかして覚えてないのか?」
「んー……何かぼんやりしててよく分かんねえ。そういえば夜中起きたような気もするけど……」
「……霞さんの事は?」
花撫は眉を顰め首を傾げながら岳嗣へと視線を向ける。
「カスミって、誰?」
静かに、動揺を噛み殺す。
霞に関する記憶が消える事でそれに関係する最近の記憶も曖昧なものになっているのだろう。
(でも、これでいい)
前世の記憶なんて、本来誰も持っていないものだ。少しだけ寂しい気持ちはあるけれど、記憶に振り回されていた花撫にはむしろ不要なものだろう。
散らばった飴色の髪を整えてやりながらふっと眉を下げる。
「忘れん坊の癖して、俺の事は覚えてるんだな」
「そういえば何であんたの名前知ってるんだろう。変だな……俺、あんたの事知らないのによく知ってた気がする。あんた何者?」
やっと目を覚ましたのかぱっちりとした大きな瞳で見つめられ、岳嗣は思わずぷっと小さく噴き出した。
そういえばするまでもなかったから自己紹介もしていなかった。
「俺の名前は周藤岳嗣。五十一歳独身の大学教授だ。俺は……お前のことを、もっと知りたいと思っている」
「俺?」
「そうだ。俺のことも知ってくれ。花撫と色々な話がしたい。……そこから、始めたい」
そう、一から。
花撫の白い手を取ると華奢なその手はすっぽりと己の手の中に収まった。
花撫の大きな群青に自分の姿が映っている。それが真剣でいて少し柔らかにも見えたものだから、何だか少し可笑しかった。
跳ねっ返りで、厄介で、寂しがり屋な小さな少年に絆されている。
放っておけないのだ。
憐れな子供を救いたいだなんて高尚で傲慢なことを考えている訳ではない。ただ、花撫という人間を無視して元の生活に戻るなど、もう出来そうになかった。
宝石のような群青がゆらゆらと光を散らす。不機嫌そうに花撫の眉がきゅっと寄せられ唇が小さく震えた。涙が零れるのを堪えるように。
「……別にいいけど」
天の邪鬼な花撫の頬が薄らと赤らみ岳嗣はくはっと笑った。
「何か欲しいものはないか? 俺が与えられるものなら何でも買ってやる」
「何だよ急に。そんなことしてもらう義理なんか……」
「だって誕生日だろ、お前」
はっとしたように花撫の胡乱に刻まれた眉間の皺が消える。
霞から渡された紙に綴られていた花撫の情報の一部、誕生日の日付は今日だった。
「誕生日おめでとう、花撫」
岳嗣にとって死を冠する日でしかなかった今日という日にこの少年は生まれた。
――生まれたのだ。
「……んで、あんたが泣くんだよ……」
久しく人に祝われることのなかった花撫がこの瞬間言葉にならない想いを募らせていたことを岳嗣は知らない。
ただただ、途方もなく胸が温かくて、堪らなかった。
忍び寄る寒さに肌を震わせ温かな布団の中で身体を丸くする。まだ眠っていたい気持ちを揺さぶるように、肉を焦がす美味しそうな音と匂いがしてきたら起床のサインだ。
怠惰を名残惜しむ中侵入者にざらりと頬を舐められれば擽ったさに身を捩り唇を綻ばせる。
「おはよう、からし」
掠れた低音と共に滑らかな黄茶色の小さい塊を抱き上げ、鼻を擦り合わせればそれはにゃあと愛くるしく鳴いた。髪を雑に掻き上げベッドを抜け出せばなぁんなぁんと子猫も岳嗣の後をついてくる。
そうして匂いの動線を辿るようにキッチンへ向かえば、岳嗣を追い越した子猫がしたたとコンロの前に立つ少年の足元に駆け寄った。
「ご苦労、からし。寝ぼすけを連れて来てくれたか」
学生服の上に青いエプロンを着た花撫は子猫を抱き上げ温もりに頬を擦り寄せる。そして半分伏せられた瞳が大きく開かれると鮮やかな群青が岳嗣へと向けられた。
「はよ、岳嗣。もうすぐ出来るぞ」
花撫は十三歳になった。雪が解ける頃には中学二年生になる。共に暮らし始めるようになってから五年の月日が流れていた。
これは花撫を養子に迎える為に戸籍を調べて分かったことだが、何と花撫は霞の遠い遠い親戚に当たるらしい。そっくりな容姿にも合点がいく。これも因果だろうか。
とはいえ花撫と霞ではまるで違い過ぎていて、見た目も似なくなってきたのか花撫に霞の面影を重ねることはもうない。
からし、は少し前に花撫が拾ってきた子猫だ。からし色だからからし、と名前をつけたのも花撫。まるで弟が出来たかのように花撫はからしを可愛がっている。
「おはよう、花撫。今日授業参観だろ、行くからな」
「げぇ、何で知ってんの。いいよ別に、大学行けよ」
「行きませーんもう休講にしましたー。お前親呼ぶ系のお知らせ隠すのいい加減やめろよな、気ぃ使うな恥ずかしがるな」
「は、そりゃ恥ずかしくもなるわ! 目立つんだよあんたは!」
花撫の隣でコーヒーを煎れればパチパチと小さな音と共に深く香ばしい匂いで満たされる。
花撫との暮らしは決して易しくはなかった。山程喧嘩もしたし悩みもした。それでも沢山話をして、不器用ながらに互いに歩み寄ってきた。
「かーなで」
ぽす、と後ろから抱き込めば花撫は赤い鼻をつんと上へ向けて眉を顰める。
「誕生日おめでとう」
「……ん」
天の邪鬼な子供と小さな子猫との賑やかな日々を、岳嗣は何だかんだ気に入っている。
薄明かりの朝日が雪に反射して周藤家をきらきらと照らしていた。
――了。
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