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第13話 祝福の光

 少年から花撫の不遇な生い立ちを聞いた岳嗣は項垂れた。自らの失言に後悔した。 『さぞかし平和に過ごしてきたんだろうが大人が皆優しいと思うなよ』  これでは真逆ではないか。家族を喪った花撫がどんな苦労をしてきたかなんて計り知れない。  生意気で、擦り切れた面倒な子供だと思った。だけどきっと、花撫は無我夢中で生きていただけなのだ。  ホテルの廊下に出ていた岳嗣と少年は扉を開けて部屋に戻った。少年が唐突に「コーンクリームが飲みたい」と言い出すものだから近くの自動販売機まで買いに行っていたのだ。 「僕ってば死んだ筈なのに、気づいたら子供になって生き返ってるんだからびっくりだよね。あ、別に生き返った訳じゃないけど感覚の話ね? もう白岡霞としての僕って存在しない筈だし」  少年は窓辺の椅子に座るとおしるこの缶を両手に包み込み飄々と口を動かす。「コーンクリームじゃないじゃん」と言うと「気が変わったのさ」と少年はうきうきとプルタブに指を引っかけてぱちんと開けた。何故おしるこ、と思いながら向かいのベッドの端に座った岳嗣も二缶目のコーヒーを開ける。 「僕には『僕』として生きてきた記憶も一昨日まで生きてきた『花撫』としての記憶も両方ある。だから僕にはあの子が何を考え何をしていたか分かっているんだけれどね」  缶の口から唇を離した少年がこちらを見る。そしてにやりと目を細めた。 「君、花撫に随分と気に入られたね。僕はね、あの子に君を会わせてやりたかったんだ」 「え? はは、まさか。……本当に? 何で」  少年の口振りではまるで会う前から好かれていたように聞こえる。  理由が分からず頭を傾げると、少年はにやりと意味ありげに口角を上げた。 「これ以上僕が話すのは流石に野暮ってもんだよ」  はあ、と岳嗣が困ったように眉を下げると少年は柔らかく瞳を細める。 「目を閉じれば『ここ』に花撫がいる事が分かる。こうして喋ってるのは僕だけど、花撫もまたこの目を通して視ているんだよ」  花撫が、と小さく零れる。  じっと少年の灰青の瞳を見つめた。今、花撫もまた岳嗣を見ているのだろうか。  思い出すのは切ない群青。あまりにも辛そうに声を震わせていたあの子供は、今何を思っているのだろう。 「恐らく二重人格みたいなものなんだ。僕という人格は花撫が見た前世の記憶を元につくられた白岡霞のコピー、というのが僕の推論だ。僕自身本人のような心地だけどね。――君の方はどう?」  もう白岡霞としての僕って存在しない筈だし、と先程少年が言っていた言葉を思い出す。つまり彼の言う通りならば彼は白岡霞とは別人という事になるのだ。 「俺もそれは考えました。あとは記憶を引き金に以前の人格が表に出てくる、とか」 「ああ、それね。でもさー、それってすっごい非現実的だと思わない? 記憶という情報が魂に残っていてそれを『思い出す』のは理解出来る。けれど前世の人格が支配するなんてね、そんなの滅茶苦茶ファンタジーだよ。面白いとは思うけどね」 「そういえば思想史専門でしたね、貴方」 「いやあこれはただの僕個人の意見だけどねー。宗教家でも学問オタクでもないしさ」  現時点で既に大分非現実的だし言うてあんた教授にまでなってるからな、と内心思いつつ小さく溜息を吐く。  彼を霞として接してはいるけれど、心の片隅ではいつも疑っていた。そもそも前世というのは嘘か思い込みで、霞の霊がたまたま瓜二つの外見を持つ花撫に憑いている、とか。まあ、これはなさそうな話ではあるが。  結局のところ、こうやって話し合ってもそれらを証明する術は何もないのだ。 「色んな偶然が重なってこの奇跡が生まれたんだろう。きっと『今』でなければ不可能だったし、長く保つようなもんじゃないと分かってもいた。だから花撫の一時的な逃げ場に過ぎない『僕』は、消える前に行動に移す必要があったのさ」  少年はぺろりと唇を舐め缶を傍に置く。そうしてジャッと勢い良くカーテンを開けた。  雨はいつの間にか止み、薄暗い雲間から光が淡く零れる。 「ねえ、周藤君。君は幸せかい?」  椿に訊いた言葉を、利人にもきっと訊こうとしていたであろう言葉を、今度は自分に投げかけられる。  岳嗣は目を丸くした後、思わず苦笑いを零した。 「どうでしょう。でも不幸だとは思ってませんよ。俺は俺のしたい事をしているし、不満なんて……」  そう肩を竦めて言いながら、どこか言葉は薄っぺらい。  椿や利人のように分かりやすく満ち足りた幸福感は残念ながらあまりない。それでも幸せの定義は人それぞれだし、きっと自分はこんなものなのだ。  そう、思っていたけれど。 「周藤君は大丈夫だよ」  はっとして顔を上げると、いつの間にか少年が目の前に立っている事に気づいた。 「大丈夫だよ」  柔らかな少年の瞳がガラス玉のように綺麗で思わず息を呑んだ。  その背後では灰色に水色を差したような夜明けの空が雲を浮かべて広がっている。  少年の瞳と、同じ色だ。 (ああ、やっぱり霞さんだ)  まるで心の片隅に潜んでいる小さな陰りを見透かされたようでどきりとした。  いつもそうだった。飄々としていて適当な事を言っているように見えるし実際そうなのかもしれないけれど、それでも岳嗣はそんな霞に救われてきた。  今もまた、悔しい事にどこかほっとしている自分がいる。 「周藤君、これね」  はい、と突然少年から折り畳まれた紙切れを渡され自分の掌を凝視した。不思議に思いながら開くとそこには見知らぬ住所と電話番号など、いくつかの情報が記されている。  それは久し振りに見る、達筆だけれど少し雑な霞の字だった。 「霞さん、これ……」 「施設の住所。知人の家に外泊してる事になってるから、後はよろしく頼むよ」  あ、はい。そう律儀に返しながら懐かしい文字を見つめる。そして視線はその中のひとつに釘付けになっていた。  そうやって紙面に気を取られていると再び頭上から声が降りかかる。 「これは僕らにとって記憶を確かめる旅だった。あの子があんまり凹んでるから気分転換になるんじゃないかと思ったんだよね。でも……」  顔を上げると灰青の瞳と視線が交わった。  控えめで、柔らかくて、どこか儚くて、つくられ慣れた顔。それが岳嗣の知る霞の典型的な笑い方だ。  けれど今、その顔は優しく綻んでいる。 「僕こそが、君達に会いたかったんだねえ」  ふふ、と少年は嬉しそうに眩しく微笑む。  じわりと込み上がる、衝動、歓喜。溢れる切なさに胸を焦がした。  あの頃、会う度にやつれていく霞を見ているのは辛かったけれどお蔭で霞の死を受け入れる覚悟は出来ていた。  だからだろうか。霞の死後、思ったより平気でいる事に自分でも少し驚いた。食事は喉を通るし毎晩泣き腫らす事もない。霞がいなくても日々は滞りなく巡る。  けれど胸にはぽっかりと埋まる事のない穴がある。それは生活が狂う程大層なものではない。岳嗣はとっくに自分の足で立っている。霞がいなくても、霞の世話をしなくても、自分という形が崩れる事はない。  それでもきっと、ずっと足りていなくて。誤魔化し続けてきたけれど、特定の誰かを傍に置かないのだってただ面倒なだけじゃない。  満たされる事を拒んでいた。埋まらない筈の穴が塞がってしまったら、霞を忘れてしまったら――それこそを、きっと、恐れていた。 「か、すみ、さ――」  ぼろ、と涙が零れる。  ああ、涙を流すなんていつ振りだろう。この人が死んだ日以降、映画を観ても猫が死んでも涙なんて流れなかったのに。 「そんな事、今言うなんてずるい。殴りてえ」 「えー? やってみればー?」 「やりませんよ、人の身体の癖してよくそんな事が言えますね……。本当殴り飛ばしてえ」  はあ、と腕で目尻を拭うと目の前に小さな手がかざされる。握られたその手からは小指だけがぴょこんと立っていた。 「君なりの幸せを見つけるんだよ。僕と――いや、僕らとの約束だ」  僕ら、とはきっと霞と花撫の事を指すのだろう。花撫に関してはむしろ彼にこそ向けるべき言葉だろう、と苦笑いを浮かべながら小指を絡める。 「分かりました。貴方達に言われたんじゃ無視も出来ない」  小指が離れ、代わりに手を握り合う。交わされる手の大きさは全く違うけれど、それでも二人は対等だった。 「周藤君、迷惑を掛けたね」 「本当ですよ。でも、また会えてよかった」  この少年がどんな存在かなんて最早関係ない。  この自分が彼を『霞』だと認識した。それがすべてだ。  そうして今この時、新たな一歩を踏み出そうとしている。 「じゃあ、元気でね」  微笑む少年の瞳に深い青が混ざっていく。 「……さようなら、霞さん」  そうして空と同じ灰青が鮮やかな群青に染まった瞬間少年はぐらりと岳嗣の腕の中に倒れ込んだ。  窓辺からは先程まで雨だったのが信じられないくらい温かで柔らかい光が差し込んでいる。  それはまるで祝福の光のようだった。

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