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第12話 花撫

 夜中の古びた家の中、戸を開けると暗闇に染まった布団が盛り上がっている。みし、みしりと畳を踏みしめゆっくりと近づけば、群青の瞳がひとりの男の顔を捉えた。  周藤岳嗣。――これが、あの、岳嗣。  いつかこの目で見てみたいと願った男。 (――え?)  突如、ぐいと強い力で腕を掴まれあっという間に大きな腕に抱かれた。  ――あたたかい。  ふるり、心が震えて。  動揺した。まるで愛しい者にするように肌へと触れられ、唇さえ、重なりそうになって。  混乱して咄嗟に『内側』へ逃げてしまったけれど心臓は揺さぶられたままだった。 (すどう、たけつぐ)  この男に会いたかった。 (幻じゃ……なかった)  身体の主導権を霞へ受け渡した花撫は瞼を閉じるように意識を彼方へと遠ざける。 『彼ら』を知った日々へ回帰していた。  ――ごめん。  ――俺は、お前の事が好きなだけなのに。どうしてこんな事になった。どうして、どうして。  ――ああ、俺が、お前を殺したのか。  慟哭のような激しい感情が流れ込む。白鶯花撫(はくおうかなで)は滝のような脂汗と共に目を覚ました。  はっ、はっ、と荒く胸を上下させる。頭が痛い。目がちかちかする。花撫はせり上がる吐き気に耐えかねて思わずその場で吐いた。 (何だ、今の)  口をゆすぎ水を飲んでも重く苦しい不快感は消えない。身体が寒くて堪らなくて、暫く震えが止まらなかった。  一月、正月をとうに過ぎた頃。酷く、酷く疲れる夢を見た。  自分が誰かを殺す夢。――いや、違う。親友だ。すごく好きだった親友。彼が、自分のせいで崖から落ちて死んだ。  まるで本当に自分の身に起きた事のように、それは生々しく乱暴に花撫の心を掻き乱す。  けれどその時限りと思われた夢はそれで終わりではなかった。  奇妙な夢は連日続いた。どうやらそれは自分ではない誰かの生涯を辿ったもののようで、時系列はばらばら、夢の中で自分は霞と呼ばれていた。  まるで昼と夜を別の人間として生きているかのような不思議な感覚。夢の中で自分はまるっきり異なる性格で未知の経験をする。  決して平穏な夢ではない。それでも花撫は夢に傾倒していった。それ程現実は花撫にとってあまりにも過酷だったのだ。  花撫に家族はいない。幼い頃に両親を事故で亡くし、養ってくれていた祖父も死んで遂に独りになった。  引き取り手のいない花撫は児童養護施設に入る事となったが、気難しい花撫は中々施設の人間に馴染めない。  名前こそ品があるように見えるが花撫という人間は粗野でひねくれ者だ。親なし、女みたいな名前、と馬鹿にされれば口より先に手が出てしまう。  それは同じような子供達が多数いる筈の施設であっても変わらなかった。ひそひそと交わされる陰口。陰湿な虐め。大人達にも見放され孤立するのにそう時間はかからなかった。  息苦しくて、生きていても良い事なんかひとつもなくて。  そんな時、あの夢を見た。  霞という男は自分とはまた違う辛い人生を歩んでいる。本気で死にたくなる程の苦しい感情に花撫は同情した。安堵した。まだ、まだこの男より自分の方がましだと思えたから。  でも、それは違った。  彼は貧しい思いをした事がない。彼は常に余裕があって楽観的で、容姿を馬鹿にされても全く気にしない。その上強くて大抵の事は率なく熟す。  彼は人生に絶望していたけれど、彼には親も友人も妻も子もいた。花撫にはいない家族を持っていた。  そう――彼には親しい友人がいた。花撫と違って友人が出来ないのではなくただ興味のない霞が唯一付き合いを続けていた周藤岳嗣という男。  中学生の岳嗣に全身で慕われる感覚はあまりにも新鮮で、そんな風に人から好意を持たれた事のない花撫は衝撃を受けた。そうしてそんな彼を無碍にした霞に強い憤りを覚えたのだった。  岳嗣は度々夢に現れた。それはつまり、それ程霞と付き合いがあるという事だ。それも親友同然のその付き合いは岳嗣が積極的に関わってくるから成立している事で、岳嗣が何もしなければきっと立ち消えていた関係であろう事にも気づいてしまった。  夢を重ねていくうちに、岳嗣を目で追うようになるのにそう時間は掛からなかった。  好きだと言ってくる男や女がいた。けれどその誰よりも岳嗣の眼差しが一番優しかった。大事にされていると感じた。恋なんか碌にした事はないけれど、愛されるってきっとこういう感じなのかもしれない。岳嗣の瞳に映る事が心地良かった。  それが夢だと、岳嗣の視線に移っているのが自分ではないと分かっていても、息苦しい世界の中で呼吸がほんの少し楽になったのは事実だったのだ。  けれど夢は唐突に終わりを告げる。  霞の最期。病に侵され、ついに岳嗣の隣で静かに息を引き取った。  花撫の目尻からは一筋の涙が零れ落ちていた。霞と同化していたから花撫には分かる。死の間際だったというのに霞は臆する事なくただ満ち足りていた。人との関係を蔑ろにしてきた癖に、最後の最後には岳嗣や身近な人間に心から感謝していた。 (そんなの、あんまりだ)  どうして泣いているのか、自分でも分からない。  悔しい。良い事の筈なのに、良かったと思っている筈なのに、死を悲しむ心だってあるのに、それ以上にこんな結果を受け止めきれずに愕然とした。 (幸せなんじゃないか)  そんなのずるい。  早死にが何だ。最期はかけがえのない友人が看取ってくれたんじゃないか。独りで居たがった癖に、結局独りなんかじゃなかった。 「どうして、不幸でいてくれなかったんだ」  ぽたりと震える拳に滴が落ちる。  何を期待していたのか。頭の中はぐちゃぐちゃで、ただ蹲る事しか出来なかった。  あの夢は一体何だったのか。  またあの夢を見たいと願っても、もうあの世界に入る事は出来なかった。 「ねえねえ、前世って本当にあると思う?」  かじかむ手に本を握り、ざくざくと施設周りの雪道を歩く。すると近くで雪遊びをしていた少女達の話し声が聞こえた。 (阿呆らし)  前世? そんなもの、誰かが都合良く考えたつくりものじゃないか。  そう思うのに、何故だろう。その言葉が妙に胸に引っ掛かった。  花撫の部屋は四人部屋でプライベートなんてないに等しい。だからひとりになりたい時はよく施設の裏側に行く。屋根の下だから雪は少ないし、少し寒いけれど着込めば何て事はない。  白い息を吐きながらブロックの上に座ったその時だ。ばしゃん、と頭上から大量の水が降ってきた。  二階の窓からはくすくすと笑い声が重なって聞こえる。てめえら、と声を張り上げようとすると咽喉が引き攣った。  全身ずぶ濡れで酷く寒い。痛い。がちがちと身体が震えて、図書室から借りてきた本もじっとりと濡れている。  こんなの、全然大した事はない。些細な事だ。 「あーあ……本、まだ読み終わってねえのに」  本を開こうとして、感覚の失った手からぼとりと落とす。  別に平気だ。辛くなんかない。こんな事でめげていたらとても生きていけない。  だから、だから――。  落ちた本が雪と泥で汚れている。  ぷつりと、擦り切れた糸が、切れた。 「もう、つかれた」  嗤われても、虐められても、絶対に涙は見せなかった。負けるものかと踏ん張って、踏ん張って――もう、すべてが嫌になった。  霞だったらこんな事何でもないのに。  霞だったら岳嗣が居てくれるのに。  霞だったら、霞だったら、霞だったら――。 (そうだ、霞になればいいんだ)  自分を抱き締めるようにして小さく蹲った。  深い哀しみはやがて眠りを誘う。酷く寒くて、眠くて、もう自分がどうなったって構わない。  ――前世って、本当に――……。  不意に先程の少女の声が頭の中に浮かんだ。  ああ、あれが前世なら。それなら、彼らは本当にこの世界にいた事になる。 (そうだったら、いいな)  ぼんやりと意識が遠ざかっていく。身体軽くなるような、冬なのに暖かいような、不思議な心地だった。 (そうしたら、岳嗣に会えるのかな)  岳嗣に会ってみたい。今彼は何歳なのだろう。生きているだろうか。よぼよぼのじいちゃんになっていたりして。 (ああ、それでも)  会いたいなあ。  花撫の心はもう限界だった。器用な生き方なんて出来ない。誰かに助けを求める事さえ出来なかった。  だからこれは、花撫のささやかな願いが紡いだ奇跡、だった。

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