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第1話 キャラメルショコラ紅茶シフォン
バレンタインの日がすごく好きだった。
うちのおやつは毎日が和菓子で、家が和菓子屋だから仕方がないんだけど、ケーキとかチョコとかのほうが好きな俺にとって、確実にチョコレートが食べられる二月十四日は朝からちょっとワクワクドキドキしてしまう日で。
――これ、あげる。
でも、あの日、小学一年のバレンタインにもらったチョコレートは今まで食べたチョコレートの中でも一番美味しく感じたんだ。世界一って、そう思ったんだ。
って、当たり前だよな。洋菓子屋の子が作ったチョコレートが美味くないわけない。ツヤツヤしてて、丁寧なテンパリングをしても俺はあんな艶のあるチョコレート作れたことがない。
「あ、みっちゃん、チョコ、どーぞ」
「ありがと、小坂さん」
「どういたしまして。いっつも英語のノートありがとうを込めてっ」
帰りのホームルームが終わってすぐ、まだざわつく教室で、俺と一緒に図書委員をしている小坂さんが男子にはひとつ二十円のチョコを、そして女友達にはちゃんとラッピングまでされた可愛いチョコを配ってた。友チョコってやつ。これから教室で放課後チョコの食べ比べをするんだってワイワイ賑やかにやっている。
「みっちゃんは作らなかったの?」
元気で、活発で、どっちかっていうと図書委員よりも学級委員とかやって、クラスをまとめたりとかしそうな女の子。俺と同じバスケ部なんだけど、彼女の掛け声は隣のコートで練習している男バスのほうにまだ余裕で聞こえるくらい、笑い声も大きくて、その場にいると場が和む、そんな子だ。
「え? 俺? 作らないよ」
「和菓子屋さんだから?」
そういうわけじゃないけど、でも、うーん、そうかも。和菓子を作る厨房でチョコの香りなんてさせたら、きっと父さんは嫌がるだろうし。かといって家のキッチンでやれば、ばあちゃんが洋菓子なんぞって怒りそうだし。
「みっちゃんの作ったチョコ、食-べーたーいっ!」
「あ、俺も食-べーたーいっ!」
「は? 益田になんで俺があげるんだよ」
同じくバスケ部に所属している、ごっつい体の益田が、女バスの小坂さんの真似をして可愛い仕草をしたりするから、一瞬で胃もたれしたじゃんか。
今日はバレンタインだから、教室が朝から一日中ほんのりショコラの香りに包まれてて、なんか気分が良いっていうか、あれ、チョコレートって大昔は薬に用いられたりもしたらしいから、元気になるんだろうな。この匂いに包まれてると、自然と気分が高揚してくるっていうかさ。
うん。すごく好きな香りだ。
「いいじゃんか、お前、チョコとかすげぇ好きじゃん」
「俺が好きなのに、どうしてお前にあげるんだって言ってるんだ」
「だって、菓子屋の息子じゃん! いいじゃん! ひとつくらい!」
菓子屋は菓子屋でも、うちは和菓子屋なんだっつうの。洋菓子屋は――
「宇野(うの)!」
教室から廊下へと出た途端、呼ばれた。
声のするほうに視線を向けると、キャラメルみたいな色のふわりとした髪に、ミルクチョコレートみたいな色の瞳。
「ぁ……ぇ?」
「覚えてる? 俺のこと」
「ぁ……う、ん」
それに、紅茶のシフォンケーキ、みたいな色のニット。
「あはは、返事が、うん、だか、ううん、だか、わかりにくいよ」
「覚え、て、る……あの、あお」
もうきっと、この呼び方はおかしいよな。そう思って息と一緒に飲み込んだ。
「深見青葉(ふかみあおば)」
もうあの頃とは違う。笑った声もビターチョコみたいに低くダークな響きに変わってる。
「うわ、マジで覚えててくれたんだ」
覚えてるも何もずっと同じ学校だった。忘れるわけない。小中高って、全部一緒だったんだ。ただ、小学校に上がって、クラスが分かれて、それぞれ別の友達ができて、一緒に遊ぶ機会が減って、会うことも減って、もっと、どんどん減って、気がついたら他人みたいになってしまったけど。
名前の呼び方だって、「みっちゃん」から苗字の「宇野」になってる。充(みつる)だから「みっちゃん」、仲が良かった頃はそんなふうに呼ばれてたけど、今はもう。
「忘れられてるかもって、ちょっとビビってた」
でも、忘れるわけない。保育園に行ってた頃は毎日一緒に遊んでたんだから。
「あのさ、これ、もらって?」
「……え?」
「チョコ、バレンタインだから」
「ぇ? あ、あの」
「そんじゃ!」
びっくりした。びっくりしすぎてほとんど話せなかった。青、くん、に話しかけられるなんて思ってもいなくて、驚きすぎて言葉が上手く出てこなくて、気がついたら手の中には透明なビニール袋の口を青いリボンで結んで閉じたチョコレートの包みがあった。
そして、顔を上げると、紅茶のシフォンケーキみたいなニットの背中が見えた。
「あれって、洋菓子屋の、じゃねぇの」
うん。そう。洋菓子屋の息子で、同じ保育園に通っていた、青君。
「仲良かったっけ?」
「……」
仲、どうなんだろう。俺もわからないよ。昔はすごくよかったけど、今は廊下ですれ違っても挨拶ひとつ交わさない。それが、「仲が良い」っていうカテゴリーに入るのかどうか、俺はわからない。
「……チョコ」
もらっちゃった。自分のベッドに横たわり、天井のライトの光が眩しいから、遮るようにさっきもらったチョコをかざした。
「ふたつ、みっつ……いつつ」
チョコを青君にもらっちゃったよ。友チョコ? でも、俺と青君って今、友達、じゃないよな。
ホント、気まずいんだ。子どもの頃はあんなに仲良かったのに、今はもう全然でさ、廊下で会うのとか、本気で気まずい。挨拶するっていうのも微妙だし、クラスは離れてて接点なんてひとつもないし、かといって、お互いに存在は認識してるだろうから、っていうか、向こうは俺のことなんて忘れてるのかもしれないけど、俺はしっかり覚えてて、だから余計に気まずくて、視線をどこに向ければいいのかわからなくて。
目が合っても対処に困る。
完全無視をするのはどうも申し訳ない気がする。
ということで、いつもあのキャラメル色の髪を発見すると逃げ回っていた。時計はしてないから、手元にあった何かを眺めてみたり、足元をやたらと注意深く見つめてみたり。もっと前もってわかった時は別に用事もないのに、急に方向転換してどこかへ急がしそうに向かったり。
つまりは仲なんて少しも良くない。
それなのに、友チョコをもらってしまった。あ、でも、友達じゃないから。
「これ、何チョコ?」
思考は振り出しに戻る。
なんでくれたんだろう。だって、青君、チョコ好きじゃないよな。小さい頃、ずっと家の中がこの匂いだから飽きたって、キライだって言ってたのに。
「うわ、綺麗な仕上げ」
ツヤツヤ光るチョコレートはまるで宝石みたいに輝いていた。それこそ食べてしまうのがもったいないくらいに艶めいている。
「……美味しい」
口の入れた途端広がる、ほろ苦いショコラの香り。鼻先でふわりと香って、胸のところがドキドキした。高揚感は上質ショコラがもたらす効果。
――これ、あげる。
記憶の中の小さな青君。
――これ、もらって?
でも、今、目を閉じるとショコラの香りと一緒に、グンと大人っぽくなった青ちゃんがそう言って、笑っていた。
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