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皆殺しの天使・一

 そもそものところ、すべては坂木倫太郎がとんでもないお人好しだというところに端を発していた。それはこのときも変わらなかった。  十月十八日の夜八時すぎ、編集者に見せる前にと、原稿を読み返していた坂木はその作業がもうほとほと嫌になっていた。四度目だ。四度も自分の書いたものを読み返すというのは、苦痛でしかたがない。おもしろいかどうかもわからなくなってくる。しかしプロとはこういうところを忍耐せねばならないと先輩作家に教え込まれていたから、坂木は指に挟んだ推敲用の赤ペンを回しつつ、書斎でデスクの前に座っていた。  雨の音が眠気を誘う。  ふいにスマートフォンが振動した。画面を見て、坂木の目は眼鏡越しに輝いた。ディスプレイに表示された名前が彼を呼んでいる。  村岡誠司。坂木の恋人だ。坂木はペンを放り出すと着信に出た。 「せいちゃん? どうしたんだ?」 「倫太郎さんですか?」  低く落ち着いた声が答える。村岡は、このときはいつものように、「その呼び方はやめてください」とは言わなかった。しばしの沈黙と呼吸の音がして、「あの」とつぶやく。 「すみません。今夜ですけど、行けなくなりました」  坂木は沈黙したが、すぐにいつも通りの口調に戻った。 「かまわないよ。仕事が忙しいのか?」 「はい」 「じゃあしょうがないよ。残念だけど、また機会があるさ」 「すみません」  坂木は耳をすます。呼吸の音がよく聞こえる。なんだかエロい。そう思うと、今夜はもう会えないのだと強く意識した。 「誕生日おめでとうございます」  妙にくっきりした口調で村岡が言う。坂木の顔がほころんだ。 「もうおじさんになっちゃったよ。四十六だ」 「祝いの言葉だけでも伝えられてよかった。倫太郎さん」 「ん?」 「いえ、なんでもないです。そろそろ仕事に戻ります」 「愛してるって言いたかったんじゃないのか?」  満面の笑みで言った坂木に、村岡は沈黙する。ややあって、「そうです」と言った。 「せいちゃんは可愛いなあ。おれでよかったら、体はいつでも空いてるからね」 「締切りが近いのではないのですか?」 「よく知ってるな」 「あてずっぽうですが」 「なんだ。愛の力で全知全能なのかと思った。今、頑張ってるところだよ。きみも知ってるだろ、作家の秋吉圭子が突然イギリス留学することになって。おれはその穴埋めで原稿を頼まれてるんだ。他に頼める人がいないっていうから、もう二本連載が重なってて苦しいけど引き受けた」 「相変わらずですね」  恋人がなにを言いたいのか、坂木にはわかった。「相変わらずお人好しですね」と言いたいのだ。坂木はそれを知っていても機嫌がよかった。求められたら応えるのが人情だろうと思っている。彼は言った。 「今夜の約束は、気にしなくていいよ。またこっちからも連絡する。仕事頑張って」 「はい。おやすみなさい」  電話は切れた。  坂木はしばらく、通話の終わった画面を見ていた。なんとなく、また村岡から電話がかかってくるような気がしたのだ。しかし、電話は掛かってこなかった。しばしぼんやりしたあと、彼は急に電話のアイコンをタップして、連絡先を調べはじめた。やがて出てきた番号に電話を掛ける。 「あ、こんばんは。突然申し訳ありません。H県警本部刑事部の、安田係長ですか……?」  雨の音が強くなる。それとともに、坂木の胸の鼓動もどんどん大きくなっていった。 〇  坂木倫太郎が村岡誠司と出会ったのは、一年前の夏の日だった。場所はH県警本部が主催する、詐欺撲滅対策のセミナー。  坂木は四十五歳の小説家で、そこそこ売れていて、独身で、あまりにお人好しのため一時期は借金が大変なことになっていた。  この日、つきあいの長い編集者、渡辺守が坂木の性格を本気で心配した結果、やや強引に彼を県警が主催するセミナーに参加させたのだ。この時点で借金は完済していた。坂木は人間不信に陥ることもなく、相変わらずの能天気ぶりで、きのうはゲームをしていて三時間しか寝ていないと大学生みたいなことを言いながら、渡辺がとった席に腰を下ろした。  セミナーに参加しているのは高齢者が多く、講習はマルチ商法や振り込め詐欺、訪問販売などの話が多かった。きれいにレジュメが作られ、県警本部の会議室を使ったセミナーは、冷房も適度に効いていてまったりとした雰囲気だった。  たしかに、坂木は最初から気になっていた。ホワイトボードの前に立った、捜査第二課の太った刑事が心地いい声でしゃべっているあいだ、彼はちらちらとそちらを見た。  その男。部屋のいちばん前の隅、窓際のテーブルに、参加者のほうを向いて座っているので警察の関係者だとわかる。座っていてもそれとわかる背の高さの、ぱりっとスーツを着こなした若い男だ。伏し目で書類を見ている顔が端整だった。警官らしい短い前髪から覗く額が美しい。若いが落ち着きを感じさせる。坂木は気になってそちらばかり見てしまっていた。その若い警察官が、村岡誠司だった。  一方、村岡もまた坂木をこっそり見ていた。  坂木が最前列で、まったく集中していないように見えたからだ。ぼんやりしていたり、しきりにレジュメを先のほうまでめくっていたり、落書きしているらしかったり。あげく、自分のことをちらちら盗み見ているようで気になった。  坂木は村岡の目に、得体の知れない男として映った。太く黒々としているのに、どこか困ったような眉毛に、眼鏡の奥の目も眠そうだ。無精ひげも伸びている。全体的にだらしない中年男性である。それでも村岡が嫌悪感を持たなかったのは、男が意外にも上品なおっとりした雰囲気を身にまとっていること、そしてほのかに薫る色香(らしきもの)に興味をそそられたからだ。  坂木と村岡の目が合った。坂木は慌てて逸らしたが、村岡はじっと見つめ返した。それが二度。  隣の男がよそ見しているのに気がついて、渡辺はひそひそ言った。 「先生、集中してくださいよ」 「あ、ごめん」  こそこそ話していると、講師の咎めるような視線を浴びることになる。坂木はもう村岡のほうは見ないようにした。  ただし、二人はそこで別れたのではない。  セミナーの終了後、帰っていく参加者のあとに残り、坂木は講師の刑事にインタヴューすることになっていた。「今度刑事ものを書いてください先生」という渡辺の要望が通ったのだ。警察ドラマは見ない、ミステリーは好きだが海外ものばかり読む坂木が、踏み込んだ国内の警察ものを書くには的確な準備が必要と考えた渡辺は、このセミナーをきっかけにインタヴューの約束を取りつけた。坂木も途中からはやる気が出て、警察機構やその仕事に関する入門書を熟読してこの場に臨んでいる。  坂木と渡辺は会議室に残っていたが、職員たちが片づけをしはじめたので脇にどいた。見ると、村岡も片づけを手伝っている。坂木は渡辺を小突いて、「ありがとうございます」と職員たちにしきりに礼を言われながら片づけを手伝った。  片づけが終わり、テーブルと椅子の形が整えられたころ、刑事部捜査第一課の第二強行犯捜査第四係の係長、安田礼一が部屋に入ってきた。五十がらみの、頭の薄くなった猫背の男で、しかし眼光は鋭い。その目に愛想のいい色を浮かべ、彼は坂木と渡辺に向きあった。 「初めてお目にかかります、坂木先生」安田の声は物柔らかだった。 「安田と申します。セミナーはいかがでしたか?」 「よくわかりました」  手ごたえのない感想を返しながら、坂木は注意を奪われていた。セミナーのあいだじゅう気になっていた警官、村岡が安田の後ろに立って、鋭い目をこちらに向けているのだ。まるで護衛のようだった。安田は言った。 「関口とお話のご予定だと思いますが、彼は今からどうしてもしなければならない職務ができまして」  関口と呼ばれた、セミナー講師の刑事はぺこりと礼をした。 「代わりにこっちの村岡とお話しください。このことは、彼にはさっき話したばかりですがね。村岡も立派な刑事です」  そう言って、安田は後ろに立っている青年のほうを振り返った。また坂木と村岡の目が合った。 「ただ、関口は捜査第二課、村岡は捜査第一課です。お話しできる内容は異なってきますが、先生、いかがでしょうか?」 「かまいません。第二課は詐欺や偽造などの知能犯を扱い、第一課は殺人などを扱うんでしたね。ぜひお話を聞かせていただきたいと思います。……初めまして、村岡さん。坂木倫太郎と言います」  村岡の目が静かにきらめいた。口を開け、話しだした声は低く落ち着いていた。 「初めまして、坂木先生。光栄です。わたしはあなたがお書きになられた本のファンなんです。第一作からすべて読んでいます」  坂木は意外だとでもいうように目をしばたいた。安田はにこにこして引きとった。 「村岡は愛書家なんですが、ほんとうに坂木先生の御本の大ファンなんですよ。なんと言ったかな、とても珍しい本も持っているとか」 「『ソマリアの魔女』です」  村岡が言うと、坂木は目を丸くした。 「たしかに珍しい本だ。その本、出版社の都合でごく少部数しか刷られていなくて。すぐ絶版になったし。出た直後に買ってくださったんですか?」 「いいえ、出たときには買えなかったんです。あとで、古本で入手しました」 「高かったでしょう?」  村岡はやや黙り、うなずいた。 「ええ。実を言えば。でも、すみません。定価で、書店で買えたらよかった。そのほうが先生の印税になるのに」  坂木は笑った。疲れが体から抜けていくような気がした。 「いいんですよ。おれはファンの人が読んでくれるというだけでうれしいです。じゃあ村岡さん、今からいくつかインタヴューさせていただきます。お時間を少しいただきますが、よろしくお願いします」 「はい。よろしくお願いします」  まじめな青年だな、と坂木は思った。それに、物静かだ。その、夜の木のような村岡のたたずまいが、坂木の心にかえって鮮烈な印象を残した。それに、自分が書いた本を愛読してくれているというのが素直にうれしかった。  村岡は少し驚いていた。坂木はこれまで近影を本に載せておらず、雑誌などにも顔が出たことがないため、今初めて本人と会って――刑事の癖で本当に本人かとまず疑ったが、事実だった――硬派な作風とは違う、ゆったりとしてだらしなく見える人柄を意外に思った。しかし、それを残念には思わなかった。  こうして二人は知り合い、半年経ったころには恋人同士になっていた。

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