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皆殺しの天使・二
知り合って、夜になると何度かいっしょに酒を飲むようになった。村岡はいつも仕事帰りにスーツで駆けつける。誘うのはいつも坂木で、村岡が休みのときは、悪い気がして誘わなかった。
村岡はどうやら下戸らしく(そして甘党で)、いつもビールを一杯飲んだあとはウーロン茶になる。坂木が遠慮してそれに合わせようとすると、若い刑事は「先生は飲んでください」と言った。
先生なんて呼ばなくていいよ、と坂木が言うと、村岡は「なんて呼んでいいのかわかりません」と答えた。
「坂木さんでいいよ、村岡君。そうだな、おれはきみのことをせいちゃんって呼びたいけど」
村岡は目を丸くしたが、すぐに元のクールな表情に戻った。
「ふざけているんですね」
「よくわかったね。いや、おれの友達の息子さんに清一郎君って子がいるんだ。小さいときはみんなでせいちゃんって呼んでたから、それを思いだした」
そうですか、と村岡は言って、おれはもう子どもではありませんとか、同一視しないでくださいなどとは言わなかった。
村岡はいつも物静かだった。落ち着いた声でしゃべり、挙措もまた落ち着いている。読書が好きで、坂木が酒の席でついうとうとしてしまい、十分間の睡眠から覚めたときには、この刑事は黙ってアガサ・クリスティーの『ポケットにライ麦を』を読んでいた。坂木が「おれもその本好きだよ」と言って、村岡は目を輝かせた。
自分からは、そんなにしゃべる方ではない。聞き上手で、坂木が突然プレイしているゲームの話などをはじめても、黙って聞いている。そして、とても的確な合いの手を入れた。自分のことはほとんど話さなかった。
語ったのは二十七歳であること、妹と二人暮らしであること、そしてゲイだということ。最後の項目については、坂木につられて話した。彼が酒を飲みながら、気楽に「おれ、独身でバイなんだ」と言ったからだ。村岡は「おれはゲイです」と言って、あとは黙っていた。
口がすべったと思って後悔してないかな。坂木は心配になったが、村岡は見たかぎり平気な顔をしていた。「この揚げ出し、うまいですね」と言って、豆腐を食べていた。
憧れの小説家がバイだとわかったからと言って、のこのこついていくような軽率さを村岡は持ち合わせていなかった。坂木も誘ったりしなかった。
村岡は自分から言った。
「今まで、八人とつきあってきました」
坂木は目を丸くする。レモンチューハイを飲む手が止まった。
「意外と多いんだな」
「それなりに経験はしています」
「あの……全員男?」
「二人は女性でした」
「おれより恋愛経験あるのでは」
「でも、さほど興味はないんです」
そう言って、村岡はウーロン茶を飲んだ。
その日はそれで別れた。坂木は、ゲイなんですと告白したときの村岡の乱れのない端整な表情と、揚げ出し豆腐がうまいと言っていたときの熱心な口調を長々とリピートしながら帰った。
それから半年ほどして、二人はつきあうことになった。それまでの経緯はのちに譲るとして、坂木は村岡とつきあうようになって、彼のこれまでは知らなかった一面を知った。
村岡は職務の際、それは非人間的なほどの切れ味を見せるらしい。この非人間的という言葉のうちには、凄まじいパフォーマンスを発揮するということ以外に、非情という意味も含まれる。
村岡は非情だった。犯罪と犯罪者に対して容赦がなかった。彼のあだ名は誰が言ったのか、ガブリエル・シャネルを意識して「皆殺しの天使」である。
「おれは天使ってがらじゃない」村岡は平静な顔でそうコメントした。「皆殺し」の部分は否定しない。
案外、怖い男だということを坂木は理解した。村岡は眼光鋭く、一八三センチの身長で威圧感があり、普段は愛想がない。それだけでもじゅうぶん怖く、また男前ときている。それが、職務では本質を突く鋭い頭脳と度胸、それに裏をかき欺かれることのない駆け引きで、皆殺しをしているという。
「安田係長が教えてくれたよ。せいちゃんは意外と怖い男なんだな」
「その呼び方はやめてください」
坂木の家でデート中のとき、そう言ったあと、村岡はココアを飲みながらこうつけ足した。
「おれは別に、怖い男ではありません。ただ、犯罪が許せないだけです。それに、おもしろいし」
「おもしろい?」
「謎を暴いて、犯罪者を追い詰めるのはおもしろいですよ。狩りのようで」
「誠司は肉食獣のようだね」
「本物の肉食獣には言われたくありません」
坂木は目をしばたいて、やに下がった。
「可愛いことを言ってくれるな」
「褒めてはいませんよ。それから、のろけでもない。そういうのは、苦手なんです」
「わかってるよ」
そう言って、坂木は恋人の肩に頭を乗せた。村岡がぎこちなく背筋を伸ばした。
「誠司が凶暴で賢い肉食獣だと、おれも燃えあがるってことを教えておくよ」
「なぜ燃えあがるのか謎ですね。調教したいとか、そういうことですか?」
「手負いのときに面倒見てあげたいから」
村岡はもたれかかってくる、自分よりも背の高い男の横顔をちらと見た。
「相変わらずお人好しですね」
「おれの恋慕を博愛主義に貶めないでくれ」
「……倫太郎さんは、ほんとうにいいひとだ」
そう言って、村岡は恋人の頭を撫でた。
それに、ベッドの中でこのけだものの歪んだ顔を見てみたいから。坂木は思ったが、言わなかった。
「言っておきますが、タチはおれですからね」
そうつぶやいた村岡に、坂木はわかってるよと彼の手を撫でた。
そして今、そんな会話を交わした日もずっと昔になっていた。坂木と村岡は一年を共に過ごし、お互いをかけがえのないものだと思ったり、嫌なところが目についたり、存在に慣れたりしはじめていた。
雨の音が激しくなる。
坂木は安田係長と電話で話したあと、すぐに行動を起こした。デスクに広げた原稿をそのままに、コートをつかんで羽織り、外に出る。激しい雨が降り、真っ暗で、星は見えない。車に乗りこむとタイヤがすべる音をさせて、通りを突っ切った。
坂木が訪れたのは市内にある警察病院だった。駐車場に車を乗り入れる。受付はしまっていたが、中に入った。エレベーターで五階にあがり、教えられた病室の扉をノックする。はい、と女の涼やかな声がした。
坂木は恋人がいる病室の中へ足を踏み入れた。
〇
一人用の病室の中はカーテンが降り、気が滅入るほど殺風景だった。ベッドの脇の椅子に、村岡の歳の離れた妹、あかりが座っていた。
「おじさま」
あかりは坂木のことをふざけてそう呼ぶ。肩まである髪を後ろで結び、人形のような美貌を強張らせていたが、彼の顔を見てほっとしたようだ。あかりは立ち上がり、坂木に椅子をすすめた。
「おじさま、座って。手術はうまくいきました。お兄ちゃん、さっきまで起きてたけど、また寝ちゃった」
坂木は椅子には座らず、立ったまま眼下で眠る村岡の顔を見つめた。
青白い肌に、睫毛が影を落としていた。首まで布団を掛けられている。その布団の端から、点滴の管や排尿カテーテルの管が伸びていた。酸素マスクはつけていなかった。
「危ないの?」
見下ろしたままつぶやく坂木に、あかりは首を横に振った。
「ううん。大丈夫だろうって。でも、刺されたまま犯人逮捕まで頑張っちゃったから、出血がひどかったみたい」
あかりはそう言って体を震わせた。坂木は振り返り、彼女の目を見た。
「せいちゃんが死んだら、おれは生きていけないよ」
「大丈夫よ、おじさま。お兄ちゃんは死なない。ただ、起きたら言ってやって。いくら空手の有段者だからって、その場には他の刑事さんもいたのよ。一人で刺されたまま三人も相手にしたなんてほんとにばか」
「言う。言って聞かせる」
坂木はどさりと椅子に腰を下ろした。あかりはベッドのそばに立ち、眠る兄の顔を見ていた。
「お兄ちゃんの仕事に恨みをもった人の犯行だって、安田さんが言ってたわ」
「せいちゃんは、ほんとうに皆殺しの天使だな」
ぽつりとつぶやいた坂木のほうを振り返り、あかりはふしぎそうな顔をした。
「きみのお兄さんのあだ名だよ。元はガブリエル・シャネルのあだ名だけどね。彼女はこれまでの窮屈で装飾過剰だった女性服を葬り去り、新しいスタイルを生み出し、それまでのデザイナーたちを用なしにした。それで皆殺しの天使と呼ばれたんだ。きみのお兄さんは、その切れ味で悪党どもを皆殺しにする。だから彼も皆殺しの天使と呼ばれる」
「ガブリエル・シャネルはかっこいいけど、お兄ちゃんは彼女みたいに美人じゃないし、天使みたいに可愛くもないわ」
「たしかに、可愛い天使もいるな。ほら、『フランダースの犬』でネロとパトラッシュの周りを羽ばたいてたみたいな。でも、強くてかっこいい天使もいる。大天使ミカエルみたいな。この天使は天の軍団を率いる天使長だよ」
「おじさまの目には、天使長に見えてるの?」
「おれの目には……」坂木は眠る顔を見下ろした。
「ただの可愛い男の子だよ」
うめき声がして、村岡の顔が歪んだ。坂木が椅子から立ち上がる。村岡は目を擦り、彼を見上げて、「倫太郎さん」と言った。
「お兄ちゃん、大丈夫? 看護師さん、呼ぶ?」
問いかける妹に大丈夫だと言い、坂木を見てつぶやいた。
「来てくれたんですね」
坂木は椅子から立ち上がると、コートのポケットに手を入れて財布を取りだし、あかりに千円札を渡した。
「あかりちゃん、しばらく二人っきりにしてもらってもいいか? これであったかいもの飲んできて」
「わかった」あかりは千円札を受け取ると、「おじさまはなにがいい?」と尋ねた。
「おれはコーヒー。売店はしまってる?」
「自販機があるわ。じゃあわたし、しばらく下にいる。それから、気をつけてね。安田さんや部下の人がこっちに来ると思うから」
わかった、と言って坂木はあかりを送り出した。スライド式の扉が音もなく閉まると、しばらくあたりは沈黙に包まれた。
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