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皆殺しの天使・三
坂木は椅子に座り直すと、ベッドの中を覗きこんだ。村岡はしきりに目を擦っている。擦っちゃだめだよ、と坂木が言うと、村岡は「はい」と素直だった。声がかすれていた。
いつもはのんびりしている坂木の顔が、このときは引き締まっていた。
「具合はどうなんだ、誠司」
坂木が尋ねると、村岡は眉一つ動かさず、「大丈夫です」と答えた。坂木の眉毛が八の字になる。
「ほんとに大丈夫? せいちゃんはすぐ我慢するからな」
「大丈夫ですよ。痛み止めも、今は効いていますから」
「欲しいものとかある?」
「水が欲しいけど、まだ飲んじゃだめって言われてるんです」
「じゃあおれのキスをあげよう」
そう言って、坂木は自分の手のひらに唇を押しつけ、村岡の手をぎゅっと握った。手は冷たかった。村岡も握り返す。しばしの沈黙のあと、彼は言った。
「どうしてわかったんですか? 安田係長が言ったんですか?」
「いや、おれから安田さんに電話した。安田さんは緊急時に電話を掛けてくるほど、おれたちが深い仲だとは思ってないよ。……きみになにかあったんじゃないかと気になって」
「……よくわかりましたね」
「きみが言い淀んでるの、珍しいなと思ったから。本当は言いたいことがあるのに、言えなかったんじゃないかって。きみはもしものことを考えて、電話してくれたんじゃないのか?」
「お人好しでよく騙されるのに、洞察力はピカイチなだけはある」
村岡のつぶやきを、坂木は聞いていなかった。恋人の手を握り、両目に涙を浮かべた。
「せいちゃん、死んじゃいやだ」
「死にませんよ」
村岡は年上の男の頭を撫でると、微笑みを浮かべた。坂木はその美しい微笑みに見とれた。
「キスしたくなりました」
村岡がぽつりと言った。坂木は椅子から腰を上げ、彼の唇を塞いだ。軽く押しつけるだけのつもりだったが、村岡に唇を舐められて口を開けた。舌がすべりこんでくる。しばらくお互いを味わったあと、坂木のほうから唇を離した。村岡は目を細める。年下の男の恍惚の表情が坂木の肉欲を煽った。
お互いの手を握ったあと、坂木はまた椅子に腰を下ろした。村岡が言った。
「今までは自分が殺してきたけど、今度は逆に殺されるんじゃないかと、ちょっと思いました」
「刺されても三人なぎ倒したなんて、さすが皆殺しの天使だ」
「死ぬのはそれほど怖くない。でも、あなたとあかりのことは考えた。そういうのって、『効く』んですかね? いざという瀬戸際で、踏みとどまれるものなんですかね」
「わからない。でも、今回は効いたと思うよ。……せいちゃん、そろそろ寝たほうがよくないか? きみが死にそうにないのがわかって安心したから、おじさんはそろそろ帰るよ」
「倫太郎さん」
村岡は手を伸ばし、坂木のコートの袖口をつかんだ。
「あなたも皆殺しの天使だ」
坂木は目を丸くした。椅子から腰を上げた中腰のまま、「は?」とつぶやいた。
村岡の目は真剣だった。
「あなたはおれを殺した。過去、現在、未来にわたって完膚なきまでに。だからおれ、いま死んでもいいと思う」
「うれしいけど、そんなこと言うなよせいちゃん」
「その呼び方はやめてください」
「ありがとう、誠司。早く、じゃなくてもいい。自分のペースで元気になってくれ。そしてきみのでっかいアレを咥えさせてくれ」
村岡はかすかに赤くなった。顔を歪め、「いて」と言った。
「いまので傷口が攣りました」
「ごめんよぉ」
そのとき、病室の扉が開いた。安田が部下と共に顔を覗かせる。係長の痩せた顔の上で、鋭い目が一瞬光った。坂木は背筋を伸ばし、扉のほうを振り向いて頭を下げた。安田も頭を下げると、村岡の顔を見て「具合はどうだ?」と言った。
「大丈夫です。でも、疲れてきました。眠らせてください」
「わかった。明朝十時にまた来る。きみが逮捕した男たちがなにやらわめいていた。ここにいるかぎり安全だろうし、ムショにぶち込むから心配しなくていいぞ」
村岡は微笑んだ。
「お決まりのスイート・ソングというやつですね」
「スイート、なんだ?」
「英語でそういう表現があるんですよ。悪党どもの脅し文句ってやつです」
坂木が引きとって説明すると、安田はにっこりした。
「なるほど、スイート・ソングか。知らなかったな」
「海外ミステリーなんかで出てきますよ」
「村岡の言葉を通訳するには、先生、あなたがいちばんですな」
坂木は笑った。ベッドの方を振り向いて、「じゃあ村岡君、お大事に」と言った。
「はい。わざわざお越しくださりありがとうございました、坂木先生」
坂木が病室に出るときには、一階のロビーから戻ってきたあかりと鉢合わせになった。彼女は坂木に缶コーヒーを渡しお釣りを返すと、安田と部下の刑事に会釈した。
村岡は目を閉じ、かすかな寝息を立てていた。
〇
四日後、坂木は村岡の病室を訪れた。ほんとうはすぐにでも訪ねたかったのだが、安田たちがしょっちゅう顔を出していると聞いて、鉢合わせしてはと避けていたのだ。
病室に見舞い客はいなかった。村岡はベッドに起き上がって、肩にベージュのカーディガンを掛け、本を読んでいた。坂木がおずおずと入ってくると、顔を上げてうれしそうな表情をした。
「具合はどうだ?」
「わりといいですよ。倫太郎さんは、締切り大丈夫なんですか?」
「うん、もう出してきた」
坂木はベッドの脇の椅子に腰を下ろすと、手の甲で恋人のこめかみを撫でた。唇に軽くキスをする。村岡は坂木の手の甲に手を重ねた。
しばらく他愛ない話をしたあと、坂木は気になっていることに切り込んだ。
「きみを傷つけた犯人たち、おとなしくしてるかな。安田さんも言ってたけど、もう危険はないんだよな?」
村岡は小首を傾げた。
「犯人のひとりがわめいてるそうです。仲間はまだいるって」
「嘘だろ」
「燃えますね」
微笑んで、静かに言った恋人の手を、坂木は握った。
「おれが怖くなるよ」
「また、皆殺しにしますよ」
「せいちゃん、ほんとにほんとに大丈夫なのか? 死んじゃだめだよ!」
「おれは大丈夫です。あかりのことは心配だけどイギリスの祖母の家に向かわせたし、祖母は警察関係者に知り合いがいっぱいいるから、向こうの警察も気にかけてくれるって約束してくれました」
「ミス・マープルみたいなおばあ様だな」
目を丸くする坂木の顔を、村岡はじっと見つめた。
「それよりも、怖いのはあなたが死ぬことだ。倫太郎さん、おれとつきあってること、絶対誰にもばれちゃだめですよ」
「ちょっとロマンチックなシチュエーションだな」
「あなたはお人好しだ。だから、のろけてはいけない。誰も信じてはいけない」
「わかってるよ。今も、我慢してる。きみがこんなに素敵な恋人なのに、あかりちゃんしか知らないんだ」
「あかりが知ってくれてたら、おれはじゅうぶんです」
坂木は村岡の短い前髪を撫で、伸びた髭を指先でなぞった。村岡はベッドに横になった。目を閉じて、黙っていた。坂木も黙って窓の外を見た。空は灰色で、窓から見える光景も広々とした駐車場が広がっているため、灰色だった。
窓の外を見つめたまま、坂木は言った。
「なあ、せいちゃん。いつか、あかりちゃんを呼んで、結婚式がしたい。同性でも結婚できるところで。でも、国籍移すにしてもさ、おれはそこででも作家の仕事ができるけど、きみは刑事の仕事ができなくて嫌かな。皆殺しの天使だもんな」
振り向くと、村岡は眠っていた。かすかな寝息の音が穏やかだった。
坂木はしばらく寝顔を眺めたあと、年下の男の額にそっとキスした。
天使って生きてるんだなと彼は思った。
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