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第1話
思わず空を仰ぐほどに凍てついた風に煽られ、ニール・ティアニーはマントに縫い付けられているフードを被りなおした。
東の大陸随一の帝国から遠く離れた荒野は、雪も降っていないのにとても寒く、馬の背にしがみついていなければすぐに凍死しているだろう。
「はやいうちに、人を見つけないと拙いな」
軍服の布地は分厚いが、それでも身に染みる寒さに気力は折れかけていた。
多勢に無勢の、端から見れば負け戦にもとれる窮地を乗り切ったが損害は大きい。
途中、無念にも力尽きた仲間から頂戴した物資はそろそろ底が見えはじめ、ニールの胸中には焦りが生まれはじめていた。
合流するはずだった場所に本隊はなく、どうやら自軍の劣勢とみて、早々に後退していったようだ。
貴族出身の大隊長の甘い判断が、正しかったか間違っていたか、それともニールを亡き者にするための謀であったかは、現時点で判断できない。
そもそも、他人を疑っている場合ではなかった。
運が悪ければ、死ぬかもしれない状況だ。理由なんて、今はどうでもいい。
(戦場でってならまだ納得もいくが、こんな何にも無いところで野垂れ死ぬなんて御免だ)
軍服の内ポケットには、死んだ仲間の名前を刻んだプレートが忍ばせてある。
名前くらいしか知らない間柄ではあるが、死を看取った手前、帝国に残された家族に渡す義務くらいはある。
いくら軽くとも、棺に何も入っていないよりはずっと慰めになるはずだ。
ニールは馬の手綱をしっかりと握り、寒さに凝る息で銀髪を湿らせながら人が居るであろう東を目指して進んだ。
腰抜けの大隊長が敵に向かって進軍しているとは思えないし、東の方角ならば、物資の搬送と難民を受け入れるための駐屯地が点在しているはずだった。
荷物に入れたはずの地図がない以上、己の運と直感を頼りに進むしかない。
大隊長の意図が帝国の元皇子の暗殺であるならば、助けは来ないだろう。この窮地を自力で切り抜けるしか、ニールには生き残る術がない。
(なぁに、いつものことさ)
帝国から連れてきた愛馬の太い首を撫でて労いながら、ニールは緋色の目で前方を見据える。
太陽は大きく傾き、熔けるような夕陽が空を赤く染めていた。
ここら一帯は遊牧民のコロニーが彼方此方に点在しているような場所なので、大地と山以外には何もない。まだ青みが残る空には、ちらほらと星が輝き始めていた。
平時なら、ずっと眺めていたい美しい景色だった。
国と国との戦争によって住む場所を追われている遊牧民達を、ニールは憐れに思った。
家族と朝を共にし、昼に汗を掻き、美しい景色を眺めながら夜を迎える素晴らしい生活を奪われた彼らに、軍人であるニールに言うべき言葉はない。
帝国の介入がなかった場合、敵国によって奴隷として支配されてしまうのだとしても、狭い世界の中でしか生きてこなかった彼らには帝国も敵国も、どちらも生活を破壊した人災でしかない。
ニールは凍える両手を擦り、軽く頬を叩いた。
仲間は行き倒れている。たった一人であるからこそ、周囲を必要以上に警戒していなければならない。はやく、温かいベッドで体を横たえたいところだが……しばらくは無理だろう。
住む場所を追われた遊牧民たちを、帝国は難民として受け入れている。とはいえ、敵意が向けられないとは限らない。
友好的な人がいるなら、そうでない人もいると言うことだ。駐屯地に行かず、夜盗となって誰彼構わず襲っているという話も聞いていた。
生き残るためとはいえ、最近まで普通の生活をしていた人たちを殺すのはできるだけ避けたい。
一刻もはやく、とにかくはやく。
ニールは何処かにあるはずの駐屯地をめざし、馬の尻に踵を入れた。
「……なんだ?」
ごうごうと唸る風の中から、微かに声が聞こえてきた。
体力はじゅうぶん残っていると思っていたが……幻聴だろうか。ニールはぐるりと周囲を見回して、馬の足を止めた。
「たしかに、聞こえてくる。女の悲鳴だ」
確認するやいなや、ニールは馬の腹を蹴っていた。
手綱を思い切り引っ張って進路を反転させ、片手で剣を抜く。
状況からして、夜盗に襲われているようだった。切羽詰まった悲鳴の中に、子供の声も混じっている。駐屯地に移動する難民だろうか。
己の命を優先するならば、無視して先を急ぐに限る。
帝国の英雄と持てはやされてはいるが、不死身のように強くとも所詮は人間だった。多勢に無勢の状況、物資は乏しく体力は底を突きかけている。死にに行くようなものだ。
もしかしたら、死ぬかもしれない。
ニールの脳裏にちらっと死の影がちらつくが、すぐに追い払い真紅の隻眼に闘争の色を乗せて、一声……吠えた。
ニール以上に好戦的な愛馬は主人の気配を敏感に察し、高らかに嘶いて力強く乾いた土を蹴り上げた。
「ああ、そうだ。一人じゃない、お前もいる。……なんとかなるさ!」
危険は大きいが、挑む価値はある。
追われているのが難民であれば、ここら一帯の地形に詳しいはずだ。己の勘と強運を頼りにふらつくよりもずっと、生存率が上がるだろう。
もしかしたら、食べ物も分けてくれるかもしれない。
理由はいろいろととってつけられるが、一番にニールの心を突き動かしているのは、放ってはおけないという余計な情ではあったが。
緩やかな丘陵を駆け上がり、駆け下りると。
案の定、襲われていたのは遊牧民だった。
数えられる範囲で五人、すべてが女性だった。
夜盗は彼女たちを人買いにでも売り払うつもりなのだろう。
傷つかないよう抵抗せずに、身を固くしている女たちを取り囲んで、夜盗は手入れのされていない髭面で、胸くそ悪くなる汚い笑みを浮かべていた。
夜盗は、本隊ではないのかもしれない。
多勢に無勢の状況を予想していたニールは、僅かに緊張を解いた。女を取り囲んでいる夜盗は三人。
もう一人、見張りと思われる銃を抱えて騎乗している男がいる。
奇襲をかければ、どうにか処理できる人数だ。
ニールは暗くなり始めた周囲から浮いて目立つ銀髪を隠すためにフードをさらに深く被り、馬から飛び降りた。
受け身を取ったまま地面を転がり、岩の後ろに身を潜めた。
気取られないように息を殺し、そっと様子を窺う。
夜盗は女たちに夢中で、ニールに気付いた様子はなかった。
戦地から離れた、ただの荒野に帝国の鬼と呼ばれる軍人が命からがらふらついているなんて、思いもしないだろうが。
ニールは軍から支給された剣を左手に持ち替え、右手で愛用の刀を抜いた。
戦場に出る前、ニールはこの刀を預けてくれた美しい友人の加護を得るため、眼前に翳して祈りを捧げた。
勝利ではなく、無事に生きて切り抜けられるようにと祈り、深く息をついて呼吸を整える。
皇位継承権を返上しても、ニールは他の皇子に命を狙われ続けている。命を賭けて、帝国の存続のために闘っているのにもかかわらず、だ。
「大丈夫。うまくいくさ」
生まれたときから生き残ることを誰にも望まれていなくとも、だからといって、大人しく死ぬつもりもない。
小さく息を吐いて、ニールはポケットの中にある名札をとんとんと叩いた。
足掻いて、足掻いて……行けるところまで行って。
そうしたら、もしかしたら……何もない自分でも、何かを残して逝けるのではないか。
何も持ちえない自分になりたくないからこそ、ニールはおぞましい運命に脅える女たちを見捨てられなかった。
偽善と、無謀と笑われたって構わない。自分にはできるから、やるだけなのだ。
◆◇◆◇
「助かりました。有り難うございます」
快活な少女の声に、ニールは焚き火から顔を上げた。
「君は、えぇと……ダーニャ、だったかな? どうだい、気分は? 吐いていたろう?」
日に焼けた浅黒い肌の少女は「大丈夫です」と口の端を持ち上げた。
「その、死体を間近で見たのは初めてだったので。すこし、動転しただけですから」
焚き火が吹き上げる炎で黄金色に輝く肌をそっと押さえ、ダーニャはニールが腰掛けている丸太に腰を下ろした。
「男の人なのに、とても綺麗な肌をしていますね。帝国の人はみんな、ニールみたいに綺麗なのかしら」
「さあね。ひとによるんじゃないのかい?」
ダーニャは骨張った体格に、小麦色の肌をしている。露出の多い服でなければ、少年のようにも見えただろう。
ダーニャ至近距離でニールの頬を睨み、荒々しい風に吹かれて厚ぼったくなった自分の頬を撫でて溜息をついた。
「綺麗だったら、こんなに恐い思いをしなくてすんだのかしら。姉さんたちはみんな、お嫁に行ってしまったのよ。今頃は、きちんとした屋根の下で眠っているのかなっておもうと……羨ましくなっちゃう」
ダーニャは、腰に巻いていた鞄から缶を取り出した。
焚き火の傍に置いてあった鍋を手元に引き寄せて、動物の胃袋で作った入れ物からミルクを注ぎ、缶の中身を振り入れた。
紅茶のようだ。
ダーニャはバッグに紅茶缶を戻し、小さな木筒を代わりに取り出した。不思議な香りのするスパイスを振って、鍋を火に掛ける。
「夜は冷えるからね、体を温めておいたほうがいいと思って」
遊牧民と思っていたが、ダーニャたちは大陸を渡り歩くサーカス団の団員であった。
帝都に向かう途中に一団とはぐれ、途方に暮れていたところを夜盗に襲われたらしい。
遊牧民でないと知って一度は落胆したものの、幸運にも、ダーニャたちは荒野の地図を所持していた。地図を見れば、帝国の駐屯地の位置もわかる。
なにより、彼女たちは食べ物と寝るためのテントを所持していて、窮地を救ったニールに惜しみなく提供してくれた。
まさに、幸運の女神たちだ。
「さっきの、夕食に出たもちもちした食べ物は、君の故郷の料理だってきいた」
「美味しかったかな?」と聞いてくるダーニャに、ニールは頷いた。
「甘塩っぱくて、香ばしくて……すごく美味しかった。戦地にいると、どうしても乾いた食べ物ばかりになるから、とても新鮮だったよ」
「コメを潰して、串に塗りつけて形を作ったものをじっくり丁寧に、特別なタレを塗って焼いていくんだ。本当なら、もっと精の付くモノをご馳走したかったんだけどね。肉とかあれば良かったんだけどさ」
ダーニャはおたまでミルクティーを掻き回し、マグカプによそった。
「これを飲んだら、赤い旗が付いているテントに行くんだ。焚き火の番は私がするから、すこし休んだほうがいい。ニールには、駐屯地に着くまで私たちを守ってくれないといけないんだから」
差し出されたマグカップを受け取ると、その暖かさに「ほっ」と息が零れた。
ダーニャが言うように、気付かないうちに体が冷えかかっていたのかもしれない。
「ニールになら、いいかな」
ぼそっと呟いてミルクティーを啜るダーニャにニールは「なにがだ?」と尋ねたが、思わせぶりに首を振るだけで、ダーニャはなにもこたえてはくれなかった。
凍える気温の中、野宿を強いられていたニールにとって、風を防いでくれる分厚い布地のテントは、とても心強く思えた。
ぴりぴりと心地良く舌に残るスパイスとミルクティーの余韻に温まる腹を抱え、ニールはダーニャに言われたように、赤い旗が立つテントに入っていった。
月の光も遮られ、テントの中は濃い闇が広がっている。
安心しきって深く眠ることはできないにしろ、テントの中に敷かれたマットは思っていたより柔らかく、体に染みつくような疲労を軽減させるには充分と思えた。
ニールは本能に突き動かされるまま、マットレスに飛び込んだ。
軍の寮にあるマットレスに比べれば、安物も良いところではあるが、それでも横たわっていると気持ちよくてたまらなかった。自覚していた以上に、疲労が溜まっていたようだ。
「軍人とは思えない、無邪気なお顔をなさりますねぇ」
聞こえてくる女の声に、ニールは驚いて飛び上がった。
てっきり、一人だと思っていたので油断した。
「入るテントを間違えたかな?」
するすると衣擦れの音がして、芳しい匂いが近づいてくる。
「安心してくださいまし、私は、ハラファ。あなたが救ってくれた娘たちの、面倒を見ているものでございます。貴方が来られるようにとダーニャに言いつけていたのです」
燐の匂いがして、暗かったテントに淡い光が灯った。
「オイルランプが在れば良いのですが、あいにくと蝋燭しかなくて」
ゆっくりとした動作で台の上に蝋燭を置くハラファに、ニールは「その気はないよ」と先手をうった。
しっとりと濡れたような長い黒髪が絡みつくように体に流れ、局部を隠しているとは言えども、全裸だ。
女たちを襲った夜盗だったら、問答無用で押し倒していただろう。
ハラファは「あらまぁ」と、困った顔を作って微笑んだ。
「年増はお気に召しませんでしたか? それとも、女を抱く嗜好のないかたかしら?」
深い藍色の目を細めたハラファは、男の視線を捉えて放さない蠱惑的な肢体と違い、童女のようなあどけなさが宿っている。
荒野を彷徨う芸人一座ではなく、どこか金持ちの……それこそ王族の後宮に囲われていてもおかしくない美貌だ。
「気を害したなら、謝るよ。あんたはとても綺麗で素敵だし、女が抱けないわけじゃない。……男とやるなんてまっぴらだしね。まあ、ただ……本当にそういった気分に、今はなれないってだけさ」
酷く疲れていると言うこともあるが、ダーニャの表情が頭にちらついている。
ハラファは、女たちをとりまとめる中心人物だ。詳しく聞いたわけではないが、見ているだけで自ずと知れてくる。
詮索するつもりはないが、荒々しい旅路の中で幾度となく今回のような危機に遭遇し、文字通り体を張って生き抜いてきたのだろう。
「あんたたちを助けた代価なら、もうじゅうぶんもらっているから。そういったのは、いいよ。気にしないでくれ」
「……これはまた、変わった軍人さんですねぇ。良いでしょう、信じます。こちらこそ、気分を害してしまっていたら謝ります。子供たちに手を出すような人には見えませんでしたが、見た目と中身が正反対の男なんてざらに居りますしね。それに……」
ハラファは、銀糸が編み込まれた薄いストールを体に巻き付け、テントを出ようとするニールに手招きをした。
「ただ純粋に、あなたと寝物語を語り合っても良いなと思ったものですから」
色気をかくしきれていないストールにひとつ咳払いをして、ニールは浮かせた腰をマットレスに据えた。
「あんたたちは、どこから来たんだい?」
「とても遠いところから来て、とても遠いところに行くのです。宛てのない根無し草は、死んでも骨を拾うものはいない。それでも……留まれずに私たちは旅をしています」
歌うような声は心地良くて、耳が蕩けてしまいそうだった。
誰にも従わずに旅をする女たちの自由と孤独は、ニールの心の中にある扉を強く打った。
「寂しそうな顔をしていますね、ニール・ティアニー。戦場の鬼と噂されているはずなのに、迷子の赤子みたいだわ」
「あんたたちみたいに、か?」
「遠からず、近からずといったところかしら? あなたは私たちに同情こそできても、私たちと共に歩む道を選べない。少なくとも、今は」
そっと、体を寄せてくるハラファ。ストール越しの体温は性欲ではなく、肌が触れあう安堵感をニールにもたらした。
「まるで、占い師みたいだな」
「よく言われます。長い旅路の中で、いろいろな人に出会って別れてきたせいでしょう。あなたは進む力を持っているけれど、目指す場所をまだ見いだせないでいる」
「このまま、あんたたちと自由きままに旅をしていれば、俺でもなにか見いだせるのかな?」
ハラファは「あらまあ」と笑い、そっと体を離した。
「自由だなんて! ニール。この世界に生きている限り、自由なんてあやふやなものは何処にもありはしませんのよ。運が悪ければ惨殺されるか、人買いに売られてしまうかもしれない危うい娘たちがいなければ、私は歌うこともままならない。だから、守るために何だってする。なににもとらわれずに生きるなんて、できないわ」
ひとしきり笑い、ハラファは「若い頃の私を見ているよう」とニールの肩をバシバシと叩いた。
「国を持たないことが、自由ではないわニール。あなたは、芸人一座の護衛なんてつまらないしがらみは似合わない。だから、私たちと一緒に旅をする未来はないでしょうね。でもそれは、きっと良いことです」
ハラファは蝋燭立てを置いた台の抽出を引っ張り、装飾の施された小瓶を取り出した。
「お酒は飲める?」
「……ま、まあ、少しなら」
よろしい。と頷いて、ハラファは小さなグラスを二つ取り出し、瓶の中身を注いだ。
「肌を重ねないというのなら、寝物語の肴はこれしかないでしょう。素面でおとぎ話をしてもつまらないもの。ふふ、とっておきの甘いお菓子もだしてあげますね。付かれているときは、甘い物がいちばんよ」
「なんか、まるで母さんみたいだ。……っていっても、よく知らないけど」
「帝国の英雄でも、甘えたのねんねになってもいいのよ。私の胸は、そのためにあるのだから」
柔らかいハラファの笑みにつられるように口の端を持ち上げて、ニールは己の目と同じ赤い色の酒を湛えたグラスへ手を伸ばした。
「遠慮しておくよ。あんたの胸に縋ったら、埋もれて起き上がれそうにない」
「面白いことを言うのね、ニール。賢い子は好きよ。そうね……どこか遠くへ行きたいあなたと共に、どこまでも付いてきてくれる人が現れるといいわね」
自分を殺そうとしている帝国から、いつか離れられる時が来るのか。その前に、命を落とすのか。
(いま考えたって、しかたない)
グラスから漂うアルコールの香りに中てられながら、ハラファが出してきた綺麗な小箱に書かれた文字を見て、ニールは期待に胸をときめかせていた。
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