2 / 2

第2話

 思いも寄らなかった名前を耳にして、エフレム・エヴァンジェンスはほんの少しだけ、我が家にどうしてか入り浸っている若き英雄殿の株を上げた。  持ち上げたといっても、小指の爪の先程度ではあるが。 「まったく、誰から聞いたんだかな。春市に《オラシオン》の出張店舗がでるなんて」  帝都は多くの人が集まり、物流の中継地点も担っている。  毎年、冬の終わりと夏の終わりの季節に、行商たちが旅団を組むようにひとかたまりになって帝都を訪れる大きな市が立つ。  大陸最大の都である帝都ですら冬季は物資が不足がちになるので、春市が開催される一週間は、一年でもっとも賑わう市でもあった。  太陽が昇り朝露が残る早朝を、エフレムはのらりくらりと歩いていた。  春市にいくのなら馬車を使うのが一番賢いが、なにぶん早朝だ。  ぐっすりと寝ている御者をたたき起こすほどの用事でもないので、エフレムは眠気覚ましにと、市場に続くゆるい坂道を歩いていた。  若き英雄殿、ニール・ティアニーが口にした《オラシオン》という言葉は、山を一つ越えた先にある街に居を構える菓子店の名前で、チョコレートで有名な店だ。  毎年、春市のときにだけ帝都に出張店舗を出すのだが、本店のある街でも入手困難な代物だ。遠く離れた帝都では、黄金よりも高い逸品となっている。 「あぁ、アレか。後宮にいた頃に食べたのかもしれないな」  だとしたら、可哀想に。と、エフレムはまだベッドで寝息を立てているだろうニールを憐れんだ。《オラシオン》のチョコレートは、一般人の口にはめったに入らない代物ではあるが、皇族に献上品として出されている可能性は大いにあった。  疎まれていたとはいえ、肯定の実子だ。それなり以上の環境にはいたはずだから、口にするものも一般人とは違っていただろう。  幼い頃に至高の味を覚えてしまったら、ありとあらゆるものが砂を食んでいるように思えてしまうのではないだろうか。  そう考えて、エフレムは首を振った。 「前線に立っている時間の方が長いはずだ。だとしたら、折角肥えた舌も痩せちまっているに違いない」  行軍用の、乾いた保存食ばかりを食べる生活を強いられていたはずだ。だからこそ、何を食べても幸せそうな顔をするのだろう。  あまりにも良い反応をするからついつい作りすぎて、食材にかかる費用に財布を圧迫されつつあるが。 (市にいくんだから、昼食の足しになるもの買っていくかな。野菜は……持って坂道を上がるのは嫌だな)  ハムか、チーズか。  普段の朝市よりもずっと珍しいものが並んでいるはずだから、目に付いたモノを買えば良いだろう。 エフレムは、テントの軒先にぶら下がるソーセージに髪を惹かれながら、春市の奥へと進んでいく。  朝も早いというのに、春市はすでに多くの人が訪れていた。  買い物はもはや趣味の領域となっていて、普段から好きで市場をふらついていた。  ここ最近は食べる相手を見つけたとあって、食材選びにさらに没頭している自分に、エフレムはどうしようもないヤツだと頭を抱えていた。  いつも、代金を支払うときになって気付くのだ。  自分はいったいなにをやっているのだろうか、と。 「現在進行系で、なにをやってんだかな。ほんとうに、オレはどうかしちまった」  ニールとの関係は、極めて複雑だ。  みずから複雑にしてしまった所もあるかもしれないが、エフレムは意地の悪い運命の女神に煙草のけむりを吐きつけてやりたいもんだと嘆息をする。  第三皇妃と現皇帝の間に生まれたニールは、幼い頃に行方不明となった父違いの兄を探し出そうと、エフレムに近づいた。  ニールの兄アルファルドは、皇帝が滅ぼした国の王の子だ。明らかに曰くがついていそうな失踪に関わるのは危なすぎる橋であったし、あえて渡る理由も利害もなかったが……気付けば訳のわからない深みに嵌まっていた。 (……酷くした、詫びってわけじゃあない)  すぐに羽目を外してしまう馬鹿な癖は四十を過ぎても直らず、昨晩は酒も入っていたせいで、いろいろと無体を働いた。  へんに記憶があるせいで、ニールが泣いて縋ってくるまで攻め立てた己の鬼畜な所業がいまいち実感できなくて、悪夢を見ているような気分だった。  どれだけ欲求不満が溜まっていたのかと、乾いた笑みさえ浮かんでくるが、朝目覚めたベッドに全裸で死んだように眠る銀髪の青年が転がっていては受け入れざるをえない。 「いやぁ、オレもまだまだ若いって事かね」  冗談でも嘯いていないと、気分がどん底に落ちてしまいそうだった。  エフレムは春市にならぶ質の良い野菜に目を奪われつつ、目当てのテントを見つけて「うわぁ」と頭を抱えた。  開店時間まで三時間あるというのに、すでに《オラシオン》のテントには長い行列ができていた。  春市での盛況っぷりはきいていたのでずっと早めに来てみたのだが、それでもまだまだ甘かったようだ。  エフレムは朝食を買うのも忘れ、急いで列の最後尾へと走った。 (やれやれ、これからはこっちの方面でもコネを作っておかなきゃならないかな)  甘い物は苦手なので《オラシオン》も、軍病院で装具義手の作成をしている友人から教えてもらっただけで、じつはあまり詳しくなかったりもする。  途方に暮れそうになる長い列を睨み、エフレムは空腹を誤魔化すために煙草を咥えた。  周囲からの視線が痛くて火をつけられず、ぴょこぴょこと煙草を揺らし、諦めるべきか誠意を見せるべきかと頭の中で揺れる天秤に、エフレムは首の裏を掻いた。

ともだちにシェアしよう!