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第1話
俺の家は裕福ではないけれど、決して貧乏ではない。
「ただいま」
「理 さん、こちらへいらっしゃい」
実の息子に”さん”付けだなんて他人行儀だと思う。
だけどそんなことは今はどうでもいい。
俺の名前なんてとっくに忘れてしまっていたのではないかと思うくらい久しく呼ばれていなかった名前を母さんが呼んでくれた。
靴を脱ぎ捨て、胸を弾ませながら声のした方へ駆ける。
母さんが俺を好いていないことは幼い頃から気付いていた。
物心がつく頃にはすでに父は亡く、俺には母さんしかいなかった。
母さんに好かれるためなら思いつく限り何でもやった。
家事は完璧にこなし、レベルの高い高校へ進学して常に上位の成績を修めてきた。
母さんが再婚しても、常に笑顔を絶やさず新しい義父さんと血の繋がっていない弟とうまくやってこれていたつもりだ。
それなのに。
「理さん、あなたは今日からこの方にお身請けされるのよ」
目の前が、真っ暗になった。
声のした方の部屋は客間で、そこに行くと母さんとスーツを身に纏った見知らぬ男が机を挟んで向かい合わせで座っていた。
その机の上には、布に乗せられた幾つもの札束がある。
お身請けって、どういうことだよ。
その金は一体何だよ。
色々と疑問が浮かんでは消えていくが呆然と立ち尽くす俺に構わずどんどん話が進んでゆく。
「深谷 理 さんですね。契約は成立しておりますので、参りましょう」
話が終わったのかスーツ姿の男が母さんに一礼して俺の前に立った。
懐から何かを取り出し、俺の手首に嵌める。
冷たくて重量感のあるそれは銀の手錠だった。
「…これは何の冗談ですか」
俺はうまく笑えているだろうか。
声が震えていて自分でも笑えるくらい情けない声が出た。
顔の筋肉が強張って頬がヒクヒク震えている。
母さんはそんな俺に目もくれず、札束を黒い鞄に詰め直していた。
「ッ、嫌だ!嫌だよ!!母さん!俺、もっと勉強頑張るから!!お金が欲しいなら働くし!なんだってやるよ!!だから、母さんッ!」
泣き喚こうが暴れようが、無駄な抵抗だった。
引き摺られるようにして家の外へ連れて行かれ、いつの間に用意されたのか黒い車に押し込められた。
男を見送りに玄関へと出てきた母さんは一度も俺を見ようとせず、視線が交わることは一度もなかった。
車が家の前をゆっくりと走り去る時に最後に車窓から見えたのは、鞄に入れた札束を机の上のへ乗せてそれを数えている母さんの姿だった。
その姿に最後に追いかけてきてくれるのではないかと言う俺の淡い期待は脆くも崩れ去った。
見慣れた街並みが後ろにどんどんと流れて行く。
俺は涙を堪えその景色をじっと眺めていた。
「自己紹介がまだでしたね。私は橋羽 浩司 と申します。分からないことがあれば何でもお聴きください」
「・・・・」
黒服の男が急に話はじめたかと思うと、男はガラス越しの俺と目を合わせつつ名前を名乗った。
分からないことがあれば何でも聞けばいいと言われても分からない事ばかりだ。
何故俺は身請けという事になり、今手錠をされて車で運ばれているのか。
この車は何処に向かっているのかなど聞きたいことは山ほどある。
しかし俺の口は重く言葉が出てくる気配はない。
「これから貴方には主にお会いしていただきます」
「・・・」
「そこで詳しい説明と今後についてのお話がありますので緊張なさらないでください」
男は俺に話しかけるが、俺は相手を一切見ようとしなかった。
橋羽と名乗った黒服の男は俺の態度に怒るでもなく、慣れた様子で説明をしていく。
「あぁ…忘れていました」
窓ガラスに映る橋羽がポケットから何かを取り出すのが見えた。
「え!何だよこれ!外せよ!」
「道を覚えられても困りますので、外すことはできません」
急に視界が遮られ、目の前が真っ暗になった。
俺はそれを外そうとするが引っ張っても取れる気配はない。
しばらく外そう躍起になるが何をしても外れる気配はなく、手からただ俺を拘束している手錠の音がカチャカチャと車内に響いているだけだった。
そんな俺を橋羽は止めることも咎めることもしなかった。
俺が諦めて大人しくしていると車のエンジンの音が止まった。
「さぁ着きましたよ」
橋羽の声の後にドアの開閉音が聞こえ、俺の横のドアも開く音がした。
今更ながら横のドアから降りて逃げればよかったのではないかと冷静な頭で思ったが、あの札束を数える母さんの顔を思い出すと全ての感情がしぼんでいってしまったのだ。
「さぁ足元に気をつけて下さい」
「え…あっ!」
急に肘の辺りを捕まれ、車から下ろされる。
俺は腕を持たれ、引きずられる様にして歩かされた。
どれだけ歩かされたころか、ぴたっと橋羽の歩みが止まる。
コンコン
ドアをノックする音が聞こえる。
「橋羽です。ただいま戻りました」
「どうぞ」
橋羽の声の後にのんびりした声が聞こえ、ドアの開くキィという音がした。
「さぁどうぞ…」
また腕を引かれ、数歩進む。
部屋に入ったのか足下がふかふかとしているから、絨毯がひかれているのかもしれない。
「深谷 理さんをお連れしました」
「うっ…」
目を覆っていたものが取り外され、急に目の前が明るくなり目が眩む。
何とか目が明るさに慣れてくると男がのんびりと煙管を燻らせているのが目にはいる。
「目は慣れたかな?」
「えっ…」
男はゆっくりこっちを向いて俺に話しかけてきた。
長い髪を緩く束ねたものを肩に流し、着物を着てその上から羽織を肩からゆるくかけている。
右手には煙管が握られており、それから細い煙がたちのぼっているのが見える。
「へぇ…」
「・・・・!!」
男を見ていた筈なのに、いつの間にか目の前に来ていた男に俺は身体が硬直する。
ついっと顎を取られ、上を向かされると視線を合わせられる。
「よく見ると変わった目の色をしているね」
「・・・」
無意味だと分かって居ても俺は目線を反らさずにはいられなかった。
俺の目の色は日本人には珍しいアンバーと言う色をしている。
アンバーとはライトブラウンとダークグリーンの中間の目の色で、光にあたると瞳孔に近い部分がライトブラウンに、その周りがライトグリーンに見える瞳の色だ。
この瞳の色は死んでしまった本当の父さんと同じ色らしい。
「前髪は短い方が可愛いよ」
「っ!!」
男にすいっと長く伸びた前髪を退かされてしまった。
俺はなるべくこの瞳が見えないように前髪を長く伸ばして隠すように生活していた。
瞳が目が見える事を母さんが極度に嫌がるからだ。
母さんが俺を嫌いなのは、この瞳が本当の父さんと同じ色だからなのは薄々気が付いていた。
よくある話だが、母さんは名家の生まれでその家が没落の危機に迫られ、父さんと政略結婚をさせられたらしい。
父さんの家は貿易会社をしていて、父さんがまだ生きている頃に遊びに行った祖父母の家は大きかった。
しかし、その父も流行り病であっさりと亡くなり不況の煽りを受け貿易会社もあっさりと傾いた。
当然母さんの家も傾き、俺を抱えて母さんは働き始めた。
慣れない仕事に悪戦苦闘している母さんに手を差しのべてくれたのが今の義父だ。
だから望まない結婚で産まれた、父さんに似た瞳を持つ俺を憎んでいるのだ。
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