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第1話

「採血の結果も問題ないし、レントゲンも特に異常ないですね」  細かい文字の並ぶ結果レポートと、パネルに貼り付けたレントゲン写真を交互に見比べて、英司はカルテにその結果を記入する。 「ただ、喉は少し赤いので、恐らく喉からくる風邪だと思います。喉の炎症を抑える薬と、念の為解熱剤も処方しておきますが、症状が悪化したり長引くようなら、早めにもう一度受診して下さい」  英司(えいじ)が手渡した採血結果の用紙を受け取って、マスクをつけた患者の初老女性はホッとしたような笑みを零した。 「ありがとうございます。若先生、もうすっかり立派なお医者さんですねぇ。ついこの間まで、制服着て学校に通ってた気がするのに」  くしゃりと目尻に皺を刻んで笑う女性の顔は、まるで孫の顔でも見るかのようだ。  英司にとっても、生まれ育ったこの町の住人は、皆親戚のような感覚なので、彼女が感慨深い声を上げる気持ちはわからなくもない。  ただ、『若先生』という呼び名には、どうしても慣れることが出来ない。  父である月村昭英(あきひで)が院長を務めるこの『月村病院』では、『月村先生』というと父のことを指す。その為、息子である英司はこの病院で勤務し始めた二年前から、当たり前のように職員や患者には『若先生』と呼ばれている。 「制服着てたのは、もう十年以上前ですよ」  苦笑しながらペンを走らせる英司に、女性は「まあ、もうそんなになるの?」と細い目を見開いた。 「昔から男前だから、いつまでも若く見えるわ」  女性はそう褒めてくれたが、英司の見目が良いのは、αの家系に生まれたことが大きい。αは生まれつき、頭脳や身体能力だけでなく、容姿も秀でているケースがほとんどだ。  英司の場合は両親が共にαなので、子供の頃からどこか垢抜けていて涼しい顔立ちは、町内でも目立っていた。 「でも若先生がまたこの町に戻ってきてくれて良かったわ。最近じゃ若い人たちは出て行く一方だから、もしもこの病院が月村先生の代で無くなっちゃったらどうしようって、町の皆で心配してたんですよ」  もう何度目かわからない話題が振られ、英司は気付かれないよう小さく溜息を零すと眼鏡のフレームを押し上げた。  自分が『若先生』と呼ばれることに馴染めない最大の理由は、こういうところだ。  英司が生まれ育ったこの数田美町(すたみちょう)は、小さな田舎町だ。  かつては駅前の商店街にも活気が溢れ、町のあちこちには工場も点在していた。  しかし英司が生まれて間もなく、隣町に国道が通ると、次第に人々はそちらへ流れ始めた。  それなりに大きな工場や商店は次々に隣町へと移っていき、更に二年前、隣町を通る国道が二本に増えてからは、人口の流出は益々目立つようになった。かつては五千人を超えていたらしい数田美町の人口も、今では半数以下の二千人弱まで減少している。  日中は人通りが絶えなかった商店街は、現在営業している店舗が三分の一ほどしかない。町内を走るバスの本数も年々減り続け、今では平日の通勤通学時間帯には二本になるものの、それ以外の時間帯や土日祝日は一時間に一本のみ。お陰で本来最も人が行き交うはずの駅前ですら、最近はすっかり閑散としている。  そんな小さな町にある、唯一の医療機関。それが、曾祖父の代から続くこの月村病院だ。  細かな補修工事は何度か施されているものの、建て替えもされていない病棟は、決して綺麗だとは言えない。  電子カルテが一般化している中、ここではまだそのシステム導入も追いつかず、カルテも紙媒体。  今は父と、去年結婚した姉に加え、近隣の町から医師や看護師を雇ってどうにか回しているが、それでも人手不足は否めない。  そして何より問題なのは、最新とは程遠い医療設備だ。  医者は万能でもなければ、神でもない。  どれだけ最新の医療機器や薬を使っても、治せないケースは必ずある。ましてや満足な設備が整っていない月村病院では、手を尽くすにも限度がある。  けれどそんな月村病院しか知らない町民たちは、かつては曾祖父を、現在は父を、まるで神のように崇拝している。そしてきっと、いつかは英司がその崇拝の対象になるのだ。 『若先生』という呼び名こそ、その期待の表れのように英司には感じられた。 「僕が跡を継いだ途端評判が下がらないように、精進します」 「またそんなご謙遜を」  声を上げて笑った女性が、その拍子に軽く咳き込む。 「今のところ熱はそう高くないみたいですが、喉風邪は高熱になるケースも多いですし、今はしっかり水分を摂って身体を休めるようにして下さい」 「今日は家事も主人に任せて、ゆっくり寝かせて貰うようにします。月村先生にもよろしくお伝え下さいね」  ペコペコと頭を下げながら診察室を出て行く女性に「お大事に」と告げて、英司はその日最後の患者のカルテを看護師に託すと、長い息を吐いた。  身体を伸ばしながら見上げた天井には、いくつも染みが出来ている。  診察室も病室も、どの部屋の扉も建て付けが悪く、誰かがどこかを出入りするたびに耳障りな音が聞こえてくる。  壁にも至る所に細い亀裂が入っているし、自分が新患だったなら、こんな病院、きっと足を踏み入れただけで不安を覚えるだろう。  研修医時代、都内の高度医療センターで最新の医療機器に囲まれて過ごしていた英司にとっては、正に天と地、雲泥の差だ。  この数田美町に戻らず、そのまま最先端の医療機関に留まっていた方が、より多くの症例に立ち会えただろうし、医者としての経験も積み重ねられたに違いない。  それでも英司は、研修期間を終え、更に一年間医療センターに勤務した後、生まれ育ったこの町へと戻ってきた。  父に、跡を継げと言われたわけではない。  そもそも父は、英司に医者になれと言ったことさえ、一度もなかった。  子供の頃から何でも物事は即決するタイプだった英司は、曾祖父、祖父、父が皆医者だったこともあって、自分も当然のようにその道に進もうと思っていた。  昔からあれこれと悩む時間が好きではないので、出来る限り迅速に、かつ最良の判断を求められる医者という職業は、自分の性格に合っている気がしたからだ。    だが、そんな英司が人生で初めて、モヤモヤとした悩みに直面することになった。  今から五年前。  商店街で鮮魚店を営んでいた市川家の娘が、二十五才の若さで乳がんであることが判明した。  月村病院で受けた健康診断で偶然異常が見つかり、精密検査こそ県内の大学病院で受けた彼女だったが、知らない病院は不安だと、医療設備の整った大学病院での治療を、彼女は頑なに拒んだ。  父も、市川家の家族も、ここでは満足な治療が出来ないと何度も他院での治療を勧めたのだが、生まれ育ったこの町を離れたくないという意思を貫き通した彼女は、がんが判明した翌年、月村病院で最期を迎えた。  その後、市川鮮魚店は店を閉め、一家はひっそりと町を去った。この町には、それっきり鮮魚店が存在していない。  市川家の娘が亡くなった当時、まだ研修医だった英司には、彼女の気持ちが理解出来なかった。  自分の命を削ってまで、生まれ育った地や、そこに在る古びた病院に拘るのは何故なのか。  彼女の家族はもうこの町から去ってしまったが、願い通り最期の時を月村病院で迎えた彼女は、満足だったのだろうか。  英司も、研修医時代に患者の最期に立ち会ったことは何度もある。  命を扱う医療現場に置いて、生と死は常に隣り合わせだ。病院の規模が大きくなればなるほど、その数もまた比例して多くなる。  満足な治療が行えない病院で、患者の願いを聞き入れて看取った命と、最新の医療機器やオペや投薬など、最善の手を尽くした末に看取った命。  医者としてまだまだ駆け出しの英司には、後者を見届けた経験しかない。  ならば父は、何を思いながら彼女の最期を看取ったのだろうか。  英司が父の立場だったなら、自分は一体どういう選択をしただろう。  そもそも父は、どんな思いを抱えながら、数田美町で医者を続けているのだろう。  そう考えて、ふと思った。  自分は一体、どんな医者になりたいのか───。  幸いにも医者になるまでの道のりは順調だったが、父と同じ土台に並んで初めて気付いた。そこから自分は、どんな景色を見ようとしているのか───その答えが、自分自身で全くわからないということに。  どれだけ頭を捻っても答えが見つからず、英司は気付けばこの町へ戻ってきていた。有り難いことに、勤務していた医療センターから継続勤務の話を貰っていたにもかかわらず、それを断ってまで。   盆や正月には帰省していたものの、大学時代も含めると九年ぶりに帰ってきた数田美町は、一層寂れたように見えた。  かつては商店街の入り口に店を構えていた、市川鮮魚店。一家が引っ越して以来、ずっと下ろされたままの錆びついたシャッターが、もの悲しさを漂わせていた。  そして英司が父の病院に勤務し始めて二年。  昔から見知った顔ばかりの患者たちは皆『若先生』と歓迎してくれているが、この町で医者を続ける父の思いや、自身の医者としての信念を、英司はまだ見つけられてはいない。  年々寂れていく町並みと、朽ちていく病棟。  放っておくとどちらもこのまま、いつか静かに消え失せてしまいそうで、それはどうにか食い止めたいと、英司は天井の染みを見つめたまま漠然と思った。   ◆◆◆◆  早朝六時。  キンと冷えた空気の中、英司はまだ薄暗い農道を歩いていた。  人口の少ないこの町は日中でも決して賑やかではないが、時間も時間なので、辺りには人の気配が全くない。  三月に入ったとはいえ、日の出前のこの時間は顔に当たる空気も刺すように冷たく、吐く息が白く散っていく。真冬用のダウンを着込んで丁度良い寒さだったが、英司は昔から早朝の凛とした空気が好きだった。  慣れた足取りで向かった先は、田畑の中にポツンと在る神社だ。そこだけが、こんもりとした小さな森のようになっている。  かつては朱色だったことが辛うじてわかるほどまで塗装の剥げた鳥居を潜り、木々に囲まれた石段を上がる。  年に一度、秋に行われる豊穣祭のときに宮司がやって来るくらいで、普段は町の氏子たちによって管理されているこの神社は、基本いつも無人だ。いつだったか、英司がまだ子供の頃、他県からやって来た男が賽銭箱を盗む事件があった為、今では賽銭箱すらも置かれていない。  早朝の無人の神社にやって来るのは、英司の小学生時代からの日課だった。  今はもう死んでしまったが、当時飼っていた犬の散歩にたまたま朝早く出掛けたとき、この神社の石段の上から綺麗に日の出が見えることを知ったからだ。  今では『数田美』と書くこの町の名前だが、まだ町ではなく村と呼ばれていた遠い昔、『捨命』という字を書いたのだと、幼い頃に祖父から聞いたことがある。何でも、豊穣を願って神社へ生贄を捧げる風習があったことから、その名が付いたらしい。  その生贄というのが動物だったのか、それとも人間だったのか。そもそもそれが真実だったのかどうかすらも、英司は知らない。  けれどそんな言い伝えの所為なのか、この神社に普段人が訪れることはほとんどない。英司自身も、犬の散歩が無ければきっと、わざわざ石段を上がってまでやって来ることなどなかっただろう。  同級生たちは「祭り以外の神社は怖い」と、年に一度だけ並ぶ露店を楽しみにしていたが、英司はむしろ普段の神社の方が好きだった。誰も居ない静まり返った空間の中から眺める朝日は、とても特別なものに思えたからだ。  それに、一度都会へ出て気付いたことは、田舎特有の自然の音しか聞こえない静けさだ。  この時間、都内ならとっくに電車も動いているし、街は既に動き出している。そもそも二十四時間営業の店舗など、都会には山ほどあるのだから、停電でもしない限り街がすっかり眠りに就くことはない。  大学進学の為に上京したばかりの頃は、都会の人混みや喧騒にうんざりしていたはずなのに、いつの間にかそちらに慣れてしまっていたことを、この町に戻ってきて思い知らされた。  一度でも都会の暮らしを知ってしまうと、この町での生活は決して便利とは言えない。  店といえば小規模な個人商店しかないし、二十四時間開いているコンビニもない。隣町には最近オープンした大型ショッピングモールがあるが、車で三十分ほどかかる為、高齢化が深刻なこの町の住民にとっては近いとは言えない距離だ。  その高齢化に拍車をかけているのは、深刻な娯楽施設不足。  コンビニすら無いこの町に、カラオケやボーリング場など当然存在しない。一軒だけあったパチンコ屋ですら、何年も前に潰れてしまった。  学校も、十年ほど前に町内にあった高校が廃校になり、今では小学校と中学校が辛うじて残っているが、生徒数は両校合わせても三十人ほど。幼稚園や保育園も、直近でも隣町まで通う必要がある。  高校からは電車やバス通学を余儀なくされる為、大学進学や、結婚・妊娠などをきっかけに町を離れる若い世代が後を絶たない。  英司自身も九年間都内で過ごし、欲しいときに欲しいものが大抵すぐに手に入る環境は、正直有り難いと思った。新しい物や娯楽を求める若者なら尚更だろう。  けれど反面、田舎ならではの良さもある。  それは、都会では決して切り離すことが出来ない、第二の性によるしがらみだ。  特に、大学病院など組織の規模が大きくなるほど、その軋轢も大きくなる。αが絶対的優位にあることは勿論だが、更にα内でも権力闘争が絶えず、そこに取り入ろうとするβや、αをやっかむβもまた多く存在する。  だからこそ、人間関係が酷く猥雑で面倒なのだ。  だがこの町には、そんなものは全くない。  そもそも、数田美町の住民は、月村家を除いては全員がβだ。Ωに関しては一人も居ない。  それに月村家も、両親と姉、そして英司はαだが、祖父と月村病院の設立者である曾祖父はβだ。  けれど曾祖父も祖父も、今の父と同じように、町民たちからは常に尊敬と信頼の念を向けられていた。  つまりこの町の住人にとっては、第二の性などあってないようなものなのだ。重要なのは、町唯一の医療機関を担っている医者である、ということ。  きっと父がβであっても、Ωだったとしても、この町の人々は皆一様に父を頼ってきていただろう。  そうしていつの日か、その期待を背負うことになるであろう自分の姿は、今の英司にはまだ見えてこない。  石段の上から見つめる先。山裾から、ジワジワと空が白み始めた。  ゆっくりと山の向こうから太陽が顔を出し、放射状に伸びた朝日が長閑な田畑を静かに照らしていく。その光を畦道に降りた霜が反射して、小さなスパンコールを散りばめたように一斉に輝き出す。寒い時期特有のこの景色は、幼い頃から全く変わっていない。  町は寂れ、病院は朽ち始めていても、ずっと変わらないものもある。  もしかすると、市川鮮魚店の娘が求めたものは、この景色と同じようなものだったのだろうか。  目を覚ましていく田園風景を眺めながら、ぼんやりとそう思ったときだった。 「あれ、もしかして、この神社の人?」  突如背後からのんびりとした声が飛んできて、英司は思わず身構えながら振り向いた。  こんな朝早く、この神社に人が居たことなどこれまで一度もない。それに何より、さっきまで人の気配なんて微塵も感じなかった。  驚く英司の視線の先。薄らと苔むした狐の像に寄り掛かるようにして立っていたのは、まるで狐が人の姿になって現れたのかと思うほど、黄金色に脱色された髪を肩口まで伸ばした男だった。スッと筆で引いたような切れ長の瞳が、より狐っぽさを際立たせている。  背丈は身長185センチの英司より、頭半分は小さい。おまけに身体の線も全体的に細めで顔立ちも中性的だが、骨ばった手と、浮き出た喉仏から男性であることがわかった。  長い髪の隙間から、時折銀色のピアスが覗く。パッと見ただけでも、片手で足りないほど両耳にいくつも穴が開いている。  見た目が派手なのでハッキリとはわからないが、歳は英司とそう変わらないように見える。だが、男がこの町の住人でないことは、明らかだった。  顔に見覚えがないのもそうだし、何より、彼がこの村には居ないはずのΩだったからだ。  αは匂いでΩを判別出来る。ただ不思議なのは、目の前の男から、発情期を迎えたΩ特有のフェロモンの匂いがしないことだ。 「おーい、聞いてる? それとも勝手に入ったこと、怒ってる?」  見定めるようにジッと男の顔を凝視していた英司に向かって、彼は緩く首を傾げながら歩み寄ってくる。反射的に、英司は一歩後退って静かに首を振った。 「この神社は普段無人なので、僕は散歩に来ただけです」  相手の年齢も正体もわからないので、取り敢えず敬語で答えた英司に対して、男はプハッと噴き出すと屈託なく笑って見せた。 「こんな早朝に散歩? 見た目若いのに、爺さんみたいだな。でも神社の人じゃなくて良かった。さすがに無断で寝泊まりするのって、罰当たりかなーと思ってたからさ」  初対面で年寄り扱いされたことにはムッとしたが、それよりも後半の彼の言葉が気になった。 「寝泊り……? ここに泊まってたんですか?」 「そうそう。そこのお社の裏でコッソリ」  笑いながら、男が奥にある古びたお社を指差す。裏に居たから気付かなかったのか、と納得しかけたが、男の服装はTシャツにロング丈のカーディガンを羽織っただけという薄着だ。英司の方は、ダウンを着ていて丁度いいくらいだというのに。 「……その格好で?」 「ああ、俺別にその辺で寝るの慣れてるから大丈夫」  飄々と答えて両手を広げて見せる彼は、鞄すら持っていない。この町の誰かの親族や知り合いなら、その人の家を訪ねるだろうし、手ぶらでおまけに神社で野宿している理由が全くわからない。しかも「慣れてる」というのは、まさか外で寝ることに、ということなのだろうか。  明らかに不審者を見る顔をしていたのだろう。英司の顔を見て再び小さく噴き出した男は、細い肩を竦めた。 「実は俺、文無しでさあ。ここまで来る電車賃だけで金使い果たしちゃって、今所持金十二円しかないんだよ。しかも着いたのが夜だったから、だーれも居ないし。結局誰にも出会えないまま、気付いたらこの神社まで来てたから、どうせなら一晩泊めてもらおうかなって」  滔々と話す男の言葉には、最早突っ込みどころしかなかった。 「交通費で所持金使い果たして、その後どうするつもりだったんですか? 見たところ荷物も無いみたいですが、仮に人に出会ったとして、無一文でどうしようと?」 「いや~……まあ、何とかなるかなーって」  悪びれた様子もなくヘラリと笑う男に、呆れて返す言葉もない。  何なのだろう、この男は。新手のホームレスか何かだろうか。  その割には、軽装なのはともかく、身なりは至って普通だ。都会の人混みを歩いていたら、すんなり溶け込んでしまいそうな雰囲気ではある。  だがただでさえ若者が少ないこの町では、彼の派手な容姿はとても異質だ。しかも、飄々としすぎていて全く掴みどころがない。話していることも、どこまでが冗談でどこまでが真実なのかが読み取れない。  言葉もそうだし、初対面の英司に対して軽率に笑いながら近づいてくる行動も、どこかフワフワとしている。瞬きした直後には、何事もなかったように消えてしまいそうだ。  ただ一つハッキリしているのは、非常に面倒な人物に出くわしてしまったらしいということだ。  彼の言葉が真実であろうがなかろうが、アテも金もないままフラリとこんな田舎の町にやって来て野宿するような男の神経は、英司には理解出来ない。  彼が寝ていたのが道端だったり、民家の庭先だったりしたなら間違いなく通報していたが、英司も立ち入っている神社で寝ていたというだけなら、警察に突き出すことも出来ない。 「駅前のロータリーにある信号を曲がったところに交番があるので、お困りならそちらへどうぞ」  これ以上関わりたくない一心で踵を返した英司の肩が、駆け寄って来た男の手にガシッと掴まれた。 「待った! 警察とかは、ちょっと困るんだよ」 「……は? 何か疚しいことでも?」  友人であってもあまり過剰なスキンシップが好きではないので、肩を掴む男の手を払い退けて睨む。けれどそんな英司に怯む様子もなく、男は英司の進路を阻むように正面に回り込んできた。 「疚しいっていうか、バレたら困るっていうか……。でも、別に俺は犯罪者じゃないから! それは信じて!」  文無し宿無し荷物無しの見知らぬ男を、どう信じろというのだろう。 「信じろと言われても、僕は貴方の事を存じ上げていませんので」 「あ、そういえばまだ名乗ってなかった。俺、牧野芳(まきのかおる)」 「いや、名前を聞いているわけじゃ───」 「ちなみにカオルって、香水の『香』とか、よくある画数多い『薫』じゃなくて、草冠に方角の方って書いて、『芳』だから」 「漢字とか益々どうでもいいです」 「えー、なんで。名前って大事じゃん。今ってどこ行っても、本人確認とかで名前と生年月日確認されるしさ」 「本人確認も何も、知らない相手なら本名かどうかもわからないので」 「偽名なんか使ってないって! ていうか、爺ちゃんみたいなオニーサンは、名前なんての?」 「……名乗る義理はありません」  このまま話していても埒が明かない気がして、英司は目の前の男を肘で押し退けた。英司はこういう、馴れ馴れしいタイプの人間は昔から好きではない。  単に自分が通れれば良かったので、そう強い力を加えたつもりはなかったのだが、牧野芳と名乗った彼の細い身体は、思いの外グラリと大きく傾いだ。その先には、石段───。  うわっ、と短い悲鳴を上げながら倒れかけるその身体を、英司は咄嗟に片手で抱き留めるように支えた。自分より小柄で華奢とはいえ、成人男性の身体を支えきれるだろうかとヒヤリとしたが、抱き留めた男の身体は思いの外軽かった。  危うくこっちが怪我をさせるところだったと、ホッと息を吐く英司を見上げて、男が感嘆の息を漏らす。 「わお、惚れる」 「……倒れずに済んで良かった。すみませんでした」  相変わらずふざけているような物言いに、倒れそうになったのも演技だったのではと訝しんですぐに手を離したが、彼は少しフラつきながら体勢を立て直した。 「こっちこそゴメン。昨日の昼から何も食べてないからさ」 「昼から? ……警察が嫌なら、せめて役場にでも相談に行ったらどうですか。事情は知りませんけど、どのみちそのままじゃ行き倒れますよ」 「だよねぇ。取り敢えず、ちょっとどうするか考えるよ。でも折角俺も名乗ったんだから、名前くらい教えてくれない?」  近い距離から顔を覗き込まれて、思わず言葉に詰まる。  さっきも言ったように、英司は偶然居合わせてしまっただけなのだから、別にこんな正体不明の男に名乗る義理はない。  けれど、ついさっき片手で抱えた相手の身体が見た目以上に頼りなくて、つい医者としての心配が先に立った。このまま放っておくと、彼は呆気なく魂ごと消えてしまいそうで。 「……月村英司です」 「月村……? ん? 月村って、もしかして向こうに見えてる、あの病院の?」  背の高い建物などないこの町では、四階建ての月村病院はほぼどこからでも見える。田畑の先にある住宅街の向こうに突き出した『月村病院』と書かれた看板を指差す彼に、英司は無言で頷き返す。 「え、じゃあひょっとして英ちゃんって、病院の先生?」 「英ちゃん……?」 「あー、でも言われてみれば医者っぽいかも。αだし、インテリっぽいし。だけど俺、病院ってあんま好きじゃないんだよなー。あの独特の消毒臭みたいなの? アレ、無駄に緊張するじゃん」  医者を目の前にして堂々と病院嫌いを主張されても反応に困るし、何より『英ちゃん』という未だかつて聞いたことのない呼び名はまさか自分のことなのだろうか。 「牧野さん……って言いましたよね。僕が知り合いの精神科へ貴方を突き出す前に、どうぞ役場へ行って下さい。役場は商店街を抜けた先にありますので」 「あ、俺上の名前で呼ばれんの好きじゃないから、芳でいいよ。それに堅苦しいから敬語もやめよ?」 「敬語はともかく、生憎僕は、過度な慣れ合いは友人であっても好まない。取り敢えず、貴方が一日でも早くまともな人間生活が送れることだけは祈っておくよ、『牧野さん』。僕と、この町の平穏の為にも」  そう告げた直後、二人の間を突如強い風が吹き抜けた。余りの強さに、お互い目を眇めて顔を背ける。  強風の所為で芳の金髪が大きく靡き、隠されていた項に刻まれた傷痕に、英司は思わず突風のことも忘れて目を見開いた。  ───番の証。  彼の項にくっきりと残された噛み跡は、αがΩと番う際に残す証だ。彼から発情フェロモンが全く感じ取れないのは、彼に番が居るからだ。番の居るΩのフェロモンには、パートナー以外のαは全く反応しなくなる。  だが、だとしたら益々妙だ。  番というのは、本来恋人や夫婦などよりももっと強い、本能的な繋がりだ。互いにパートナーのフェロモンにしか反応しなくなる為、パートナーとは切っても切れない間柄になる。それこそ、どちらか一方が死ぬまで、その関係は決して切れることはない。  なのに、番の居るΩが一人でアテもなく彷徨っているなんて、聞いたことがない。  互いに意思疎通をしないまま番ってしまい、それが傷害事件や、最悪の場合殺人事件に発展するというケースもままあるが、社会的地位の低いΩは大抵パートナーが出来ればαに付き従うことが多い。例え一時の衝動で番ってしまった場合でも、発情期が来ればパートナー相手でないとお互いに満たされない為、本能的な欲求が互いを引き寄せるのだ。  それなのに、芳は番っている相手がいながら、フラリと単身、荷物も金も持たずにこんな田舎町へとやって来た。  それは一体どういうことなのだろう。  衝動的な家出や、最悪自殺志願者という可能性も考えたが、芳からはそんな思い詰めた様子は窺えない。むしろここに来るだけで所持金を使い果たしてしまうくらいなのだから、能天気にも程がある。  いずれにせよ、訳ありなΩであることには変わりないだろう。……これはどうやら本当に、随分と厄介な相手に関わってしまったかも知れない。  無言のまま、今度こそ石段を下り始めた英司の背中に、「英ちゃん、またね!」と陽気な声が降ってきた。  やはり『英ちゃん』というのは英司のことらしい。  出来れば「また」なんて来なければいい。面倒事には昔から極力首を突っ込まないようにして生きてきた。  おまけにここは、超が付くほど長閑で平和な町だ。皆が穏やかに過ごしている中、揉め事なんて起きて欲しくはない。  石段を下りきった英司の頬に、また一度、冷たい風がザアッと吹き付けた。  それはまるで、この先起こる小さな嵐の前触れのようだった。  三月初旬の早朝。  これが、英司とそのパートナー、芳との出会いだった───。  

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