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第2話
「桜井さん、どうぞ」
看護師に呼ばれて診察室へ入ってきたのは、商店街で日用雑貨を扱う桜井商店の奧さんだ。数ヶ月前から高血圧の治療の為、定期的に通院しているが、この日は軽い眩暈を訴えて来院していた。
「今日の診察は、若先生ですか?」
向かいに腰を下ろした桜井の言葉を、単なる挨拶のようなものだと捉えた英司は、軽く頷いて受け流した。
「眩暈がするそうですが、いつ頃からですか?」
「ここ一週間くらいですかねぇ……。時々、軽い眩暈がするんです」
「今、座っている状態だとどうですか」
「座ってるとマシなんですけどね。ただ、立ち上がったり階段を上った拍子なんかに、軽くフラつくことが多くて」
ちょっと診せて下さい、と前置いて、英司は服の上から聴診し、口腔内と、念の為下瞼を押し下げて貧血の有無も確認する。
───どれも特に異常無し。
「頭痛や吐き気はないですか? 手足が痺れるとか」
確認した事項をカルテに書き込みながら問い掛けた英司に、「それはありません」と桜井が軽く首を振る。
意識や受け答えもしっかりしていることを確かめて、英司は待合で測ってもらった血圧の値が記された用紙を桜井に手渡した。
「今、血圧を下げる薬を毎日服用してもらっていると思いますが、今朝も飲まれました?」
「はい、月村先生から毎日飲むよう言われてますので」
「今日の血圧が少し低めなので、薬の副作用の可能性が高いと思います。薬の所為で、血圧が一気に下がり過ぎているのが原因だと思うので、ほんの少し薬の量を減らしましょう」
「……減らしても、大丈夫なんですか?」
「血圧を下げる薬を服用されている方には、過降圧といって血圧が下がり過ぎる副作用が出る方も結構居ます。その場合、桜井さんのようにめまいやフラつきのような症状が出てしまうので、今日新たに処方する薬の量で、一度様子を見て下さい。薬を完全に止めるわけではないので、大丈夫です」
「そうですか……わかりました、ありがとうございます」
ゆっくりと椅子から立ち上がって英司に小さく頭を下げる桜井に、「お大事に」と英司も座ったまま軽く会釈する。すると、診察室を出る直前に、桜井が「あのう……」と遠慮がちに振り返った。
「明日、月村先生の診察はありますか?」
困惑と少しの不安が滲む桜井の表情を見て、英司はそこでやっと、彼女が最初に寄越した挨拶の意味を理解した。
桜井は、落胆していたのだ。自分を診てくれるのが、父ではなく英司であることに。
英司は決していい加減な診断などしていないが、ここでは英司の言う「大丈夫」と、父に告げられる「大丈夫」とでは、同じ言葉でもその重みが全く違う。
町民から歓迎はされていても、皆が安堵しているのは、あくまでも月村病院が存続の危機を免れたことに対してだ。英司が、父と同等に認めて貰えているわけではないことを、改めて思い知らされる。
「……明日は、院長は往診日なので、診察には入れません」
英司の返答に、「そうですか」とあからさまに肩を落として、桜井は静かに診察室を出て行った。
僅かに眉を寄せながらカルテにペンを走らせていると、扉の向こうから「あら、桜井さん」と患者らしき誰かの声がした。
「今日、定期診察の日だったの?」
「そうじゃないんだけど、ちょっと眩暈がしてね……」
建物自体が古いお陰で、閉じた扉の隙間から漏れ聞こえてくる声に、つい耳を傾けてしまう。
「今日、月村先生じゃなくて若先生の診察だったのよ。若先生って、しっかりしてるんだけど、ちょっと冷たい感じがするのよね」
「わかるわぁ。元々垢抜けた子だったけど、確かにちょっと機械的なところがあるわよねぇ。まあ、高校を出てすぐに上京しちゃったし、まだ若いから仕方ないんじゃない? 私も月村先生が居るときは、ついつい先生を希望しちゃうけど」
まさか張本人に筒抜けだとは思っていないであろう二人の笑い声が、扉越しに響いてくる。
───機械的、か。
正にプログラムされた機械のようにスラスラとカルテを記入する手を動かしながら、英司は小さく息を吐く。
医者は、基本的に患者の前で感情を露わにすることはないし、するべきではない。
大規模な病院になるほど、一日に向き合う患者や症例の数は膨大だ。病気やケガに悲しんだり不安を覚える患者に、その都度感情移入していては、医者という仕事は務まらない。
そもそも、病気やケガを喜ぶ患者などまず居ないのだから、患者やその家族が感傷的になる分、医者は常に平静でいる必要がある。そうでなければ、客観的かつ冷静な判断が出来なくなるからだ。
英司は、子供の頃から感情表現がそう得意な方ではなかった。感情の起伏があまりない、という方が正しいかも知れない。
喜怒哀楽がないというわけではないのだが、同じ年頃の子供たちが大声を上げて走り回っているのを、いつも一歩下がって見ているような子供だった。
大勢で集まって遊ぶより、一人で静かに本を読んだりする方が好きだったし、友人と呼べる人間も居るには居るが、わざわざ休日に誘い合って出掛けるような付き合いはしない。
そんな自分だから、益々医者という職業は適しているだろうと自負していた。───この町に、戻ってくるまでは。
研修医時代から周囲からの評判はそれなりに良かった。
キャリアはまだまだ充分とは言えないが、医者として過ちを犯したことも一度もない。
けれど、今の英司はこの町の住民に必要とされる医者ではない。
『俺、病院ってあんま好きじゃないんだよなー。あの独特の消毒臭みたいなの? アレ、無駄に緊張するじゃん』
ふと、今朝がた神社で出くわした男の声が脳内に蘇って、微かな苛立ちがチリチリと胸を焼く。
「消毒臭」というのが、何となく今の自分と重なるような気がしたからだ。
設備も充分に整った最先端の医療現場で鍛え上げられ、アルコール臭を纏った冷たい機械。
ここへ戻らず、機械の群れに紛れていれば良かったのか。
そうして日々淡々と、症例をこなしていれば良かったのか。
───それが、自分の望む医者の道なのだろうか。
先のことなど何も考えていないような、軽率そうな男の顔がチラついて無性に腹立たしい。
人や物に当たり散らすような性格ではないので態度にこそ出さないが、英司は桜井が午前診最後の患者だったことを確認すると、気分転換の為病院の外へ出た。
重い非常扉を押し開けると、その先は職員用の駐車場へ繋がっている。
扉を出たすぐ脇に自販機と喫煙スペースがあるのだが、万年人手不足な上喫煙者のスタッフがほとんど居ないので、ここは大抵貸し切り状態だ。
自販機でブラックコーヒーを買い、ベンチに腰掛けようとした英司は、視界の隅に映った黄金色に、持っていた缶を思わず落としそうになった。
思い出して苛々とし過ぎた所為で、幻でも見ているのではと思ってしまう。いや、むしろそうであって欲しかった。
どういうわけか、芳が病院の職員駐車場に立っている。しかもそこは、英司の軽自動車の前だ。
もう二度と関わりたくないと思っていたのに、まさか半日もしない内に再び顔を合わせる羽目になろうとは。しかも何故こんなところで。
「……僕は役場に行くのを勧めたはずだけど」
不信感と不機嫌を滲ませて睨み据える英司に、芳は狐色の髪を揺らして相変わらずヘラリと緊張感のない笑みを寄越した。笑うと本当に狐みたいだ。
「一応行くには行ったよ。でもなんか小難しいこと言われて、途中でよくわからなくなっちゃってさ。その後商店街ブラブラしてたら、なんかあちこちの店の人が声掛けてくれたんだよね」
住民は全員顔見知りと言えるくらい、小さな数田美町。そこを、こんな派手な見た目の余所者が歩いていたら、当然目立つに決まっている。
特に過疎化が深刻なこの町は、来訪者に対して非常にウェルカムな空気がある。相手が若者となれば尚更だ。
芳の場合、見た目はともかく人当たりは良さそうなので、尚の事誰とでも気さくに話している姿が容易に想像出来た。
しかも場所が商店街となると、最早この町の中心核の人々に、芳の存在が認識されたも同然だ。
額を押さえる英司に構わず、芳はペラペラと勝手に話し続ける。
「商店街にある三井青果店……だっけ? 八百屋さん。なんか箱山積みになってて大変そうだったから、手伝いながら世間話してたら、お礼にって飯食わせてくれてさ。おまけに俺が文無しだって知って、近くの店の人たちに声掛けてくれて、向かいの豆腐屋のおばちゃんから、『息子が着なくなった服だけど』って、コレ貰っちゃった」
そこでやっと、芳の服装が朝と変わっていることに気がついた。
細身な芳にはちょっと余り気味のデニムに、袖と丈がやはり長めのパーカー。更に腕には薄手のダウンジャケットを引っ掛けている。
「みんな超いい人過ぎじゃない? 田舎だけどいいトコだね、ここ」
「それはどうも。ところで、その話から貴方が僕の車の前に居る理由には、どう繋がるのかな」
「あ、コレ? 何となく英ちゃんが働いてる病院、気になってさ。たまたま病院から出て来た人に英ちゃんのこと聞いたら、ここの駐車場で待ってたらその内出て来るんじゃないかって言われて、じゃあ暇だしちょっと待ってみるかーと思って」
……ご丁寧に車まで教えた誰かさんを二十四時間問い詰めたい。
こめかみを引き攣らせながら、辛うじて怒りを抑え込んで、長い息を吐く。こんなにも自分を苛立たせた相手は、どれだけ記憶を辿っても芳が初めてだ。
極力他人と適度に距離を取りたい英司にとって、芳のようにマイペースに踏み込んでくる人間は最も苦手だ。おまけに「英ちゃん」という馴れ馴れしい呼び名もいちいち癇に障る。だがどうせ指摘するだけ無駄な気もして、聞き流すことにした。
「ここは職員専用の駐車場だから、基本的に部外者は立ち入り禁止だよ。それに、病院は嫌いだって言ってなかった?」
「まあ、病院の中じゃないし。それにしても英ちゃん、白衣似合うなー。ザ・医者!、って感じ」
立ち入り禁止という部分は都合よくスルーして、呑気な声を上げる芳に、一時忘れかけていた桜井たちの話声を思い出す。
眼鏡の奧の目を細めて、英司は自嘲気味に薄く嗤った。
「冷徹で血も涙もない、機械みたいな医者だからね。病院内じゃなくても、僕には貴方が大嫌いなアルコールの匂いが、嫌ってほど染み付いてるよ」
「ちょ、ちょっと待った。俺なにもそんなこと言ってない……ってか、なんか英ちゃん、ピリピリしてる? 勝手に入ったことなら謝るよ、ゴメン。看板とか何もなかったから、わからなかった」
正体不明の男に職場まで押し掛けられ、その上勝手に車に近付かれて、それを笑い飛ばせるほど広い心は持ち合わせていない。おまけに会う前から苛立っていたのは事実なので、それをよく知らない芳に見抜かれたことにも腹が立った。
「貴方がここに来たことは今更仕方がないから、今後二度と来ないでくれればそれでいい。この町から早く立ち去ってくれればもっといいけどね。番が居るΩなら、早くパートナーの元に帰らないと困るのは貴方の方だと思うけど」
勢い任せに吐き出した英司の言葉を受けて、そこで初めて芳の顔からスッと笑顔が消えた。
しまった、と英司もらしくない失態に僅かに視線を背ける。
英司の傍に纏わりつかれるのは迷惑だが、彼とそのパートナーに関して口を出すのは筋違いだ。これでは芳のことをどうこう言えない。
「……番ってんの、やっぱバレてたか。英ちゃんαだし、そりゃわかるよなー。でもゴメン。ちょっと色々事情あって、帰れないんだわ」
髪で隠れている項を更に隠すように、芳が苦笑しながら掌で傷痕を擦る。その声音は本当に困惑している様子で、英司も少しばかり毒気を抜かれてしまった。
番、と一言で言っても、恋人たちがやがて結婚するように、互いに想い合って生涯を共にするという甘いものばかりではない。無理矢理番わされてしまうΩも居るし、中には『運命の番』なんていう、互いの意思や感情など一切関係なしに、本能で惹かれ合って番わざるを得ない場合もあると聞く。
芳がどのケースに当てはまるのかはわからないが、わざわざ一人でこんな場所までやってきたということは、少なくともパートナーとそう良好な関係ではないのだろう。
「帰れないって、ずっとこの町に留まるつもり?」
「んー……ぶっちゃけ、ここに来たときはホントに何もかもどうでも良かったんだよ。ただアイツから離れられるなら何でもいいって、それしかなくてさ。かと言ってここに長居するつもりもなかったけど、金は尽きるし、周りは親切だしで、ちょっと居心地良くなっちゃって困ってる」
「貴方がどうするかは勝手だけど、一住民として言わせてもらえば、この町でトラブルだけは起こしてほしくない」
「それなんだよなぁ……。わざわざこんなトコまで追い掛けてくるとも思えないけど、折角親切にしてもらったのに恩を仇で返すの、俺もやだし。……いっそ、俺がもう死んじゃったってことに出来ればいいんだけどな。英ちゃん、医者の力で俺の存在消したり出来ない?」
今にも消えそうな儚い声で呆気なくそんなことを口にする芳の胸倉を、英司は気付けば思いきり掴み上げていた。
英司が嘘でも「出来る」と言えば、芳の存在が一瞬にして目の前から消え去ってしまいそうな気がした。彼はヘラヘラと笑いながら、常に崖っぷちを歩いているみたいだ。
「僕にだって、医者としての矜持がある。僕の前であっさり命を投げ捨てられるなんて、それこそ死んでもお断りだ」
英司の言葉に細い目を見開いた芳が、掴みかかられたまま、ハハッ、と狐のように笑った。
「英ちゃん、いつもそうしてればいいのに。こんな熱い心持ってる機械の医者なんか、居ないでしょ」
穏やかな声で告げられた言葉に、ハッとなって息を呑む。
誰かに掴みかかったことも初めてだったが、芳に言われて初めて気付いた。
───失くすのは、御免だ。
患者の命は勿論、その生活も、町にたった一つの病院も、そして生まれ育ったこの町も、何一つ。
医者に余計な感情は必要ない。そもそも感情表現が得意でない英司は、きっとこの先も淡々とした機械のように見られるのだろう。
だが、感情を抑えることと、感情を失くすのとでは大きく違う。
例え冷たい機械のように見られても、その内に「失いたくない」という魂さえ宿っていれば、それでいいのではないか。
それを気付かせてくれたのが、自分を苛立たせる天才である狐みたいな謎の男、というのが何とも複雑ではあるのだが。
「……すみません。柄にもないことをしてしまいました」
掴んでいた胸倉を解放すると、芳は皺になった服もそのままに、ケラケラと可笑しそうに笑った。
「なんでいきなり敬語? 敬語やめてって言ったじゃん。つーかそもそも、英ちゃんて医者の中では若い方だと思うけど、歳いくつ?」
「……二十九」
受け流せば良かったものを、つい律儀に答えてしまった。完全に芳にペースを乱されてしまっていることが、また腹立たしい。
そんな英司の胸中などお構いなしに、芳が「マジか」と何故か嬉しそうに口端をニンマリと持ち上げた。
「じゃあ俺の方が一つオニイサーン。俺、ジャスト三十路!」
「……それで年上……?」
呆れ果てた声と視線を向けた英司に、芳が細い眉を寄せて唇を尖らせる。
「色んな三十才が居るってことでいいじゃん。……取り敢えずさ、英ちゃんに一言お礼、言っときたくて」
「お礼?」
礼を言われるようなことを言った覚えも、した覚えもないのだが。むしろ今朝だって、相当適当にあしらった記憶しかない。
だが、芳は構わずほんの少し上半身を傾けて英司の顔を下から覗き込んできた。
「英ちゃんが役場へ行けって言って、その場所教えてくれなかったら、俺商店街には行ってなかったかも知れないじゃん。そしたら、今日も飯抜きでいい加減バッタリいってたかもだしさ。だから今朝たまたま神社で英ちゃんに会えたのも、ひょっとしたら運命の神様の導きとかだったかもなーと思って」
「僕にとっては大迷惑な運命だよ」
「えー、酷い。俺ホントに感謝してんのに。……ありがとね、英ちゃん。それと、勝手に入ってきて仕事の邪魔して、ゴメン」
突然萎らしく謝られて面喰らう。
「じゃあまたね」と片手を上げて駐車場を出て行こうとする華奢な背中を、英司は咄嗟に「牧野さん」と呼び止めていた。
コロコロと変わる表情や、いまいち本心の読み取れない言動。
三十にもなって地に足がついていないような雰囲気も、英司はやはり好きにはなれない。
だが、一見明るく能天気に見える彼が何かを抱えているのは明らかだったし、聞いてもいないことはペラペラと喋るのに、自身の境遇については頑なに語ろうとしないことが気になった。
それに、どう見ても三十才の男性の平均体重にはおよそ届かないであろう、骨ばった細い身体も、こちらは医者として気に掛かる。
いっそ芳が、ずっとヘラヘラ笑ってばかりいるような本当にどうしようもない男なら、英司もスッパリ切り捨てられただろう。けれどふとした拍子に覗く、危うく脆い芳の一面が、英司の心にチクリと引っ掛かっていた。
あっさりと自分の存在を消して欲しいなどと言う芳は、英司とは対照的に全てを失くしたがっているようにも見える。本来なら強く求め合うはずのパートナーの存在も、元居た場所も、芳自身さえも───。
まさか呼び止められるとは思っていなかったのか。駐車場の出口で足を止めた芳が、意外そうな顔で肩越しに振り向いた。
「今日も、神社で寝泊まりするつもり?」
「あー……うん。だってあそこ、無人なんでしょ? あ、でも英ちゃん散歩に来るのか。迷惑?」
「そういうことじゃなくて……まだ朝晩は冷えるし、野宿には慣れてるようなこと言ってたけど、その身体つきじゃいつか風邪をひくのが関の山だ」
英司の言葉に、芳はフッと目を細めて笑った。
「英ちゃん、やっぱ機械じゃないよ」
ヒラヒラと英司に手を振って、今度こそ芳は駐車場を出て行った。向けられた笑顔が、どこか寂しげに見えたのは気のせいだろうか。
「あっ、若先生! 外にいらっしゃったんですね。院長がお呼びです」
結局買ったコーヒーを開けることすら出来ないまま院内に戻ると、丁度廊下を曲がってきた看護師が、英司の姿に気付いて足早に近づいてきた。
「ああ……すみません。すぐに行きます」
きっと院内を探し回ってくれていたのだろう。薄ら額に汗を滲ませた看護師に、未開封の缶コーヒーを「良かったらどうぞ」と手渡して、英司はすぐ傍の階段から二階へ上がった。
廊下の突き当たりに、擦れた文字で『院長室』と書かれたプレートと、その真下に焦げ茶色の木製の扉がある。
ここだけ他の部屋と扉の造りが違うのは、別に重厚感を出す為ではない。単に、スタッフや患者が区別しやすいようにという曾祖父の配慮によるものだった。
年季の入ったその扉を控えめにノックして、英司は「失礼します」と前置いてから扉を押し開けた。
ギィッ、と大きく軋んだ音を立てて開いた扉の向こうでは、月村病院の現院長である父がパソコンに向かってキーボードを叩いていた。
部屋に入ってきた英司に気付いて、父は入力の手を止めると、太めのフレームの眼鏡越しに軽く目を細めた。
「昼休みに呼び出してすまないね。食事中だったか?」
何か食べる気分でもなく、結局コーヒーにも口を付けられなかった英司は「いえ」とだけ答える。
「まあ掛けなさい」
窓際にある応接用のソファへ促されて、英司は言われるまま腰を下ろした。院長室だというのに、この部屋の壁にも小さな亀裂や染みがいくつも出来ている。
───いい加減、本格的な改修工事もした方がいいな。
そんなことを考えていた英司の向かいに、父が小さな溜息と共に腰を下ろした。
「明日なんだが……私の代わりに往診に回ってくれないか」
「え?」
苦い笑みを浮かべる父の顔を見て、咄嗟に桜井の顔が脳裏を掠める。
「もしかして、桜井さんですか」
「どうしても明日受診したいと、受付でしきりに訴えられたと聞いてね」
「……すみません。僕の診察で納得して貰えなかった結果です」
「いや、さっきカルテを確認したが、診断に問題はない。私でも、恐らく同じ診断をしたよ」
「それなら、僕の対応が不十分だったんだろうと思います」
落ち着いた声で、英司は答えた。
医者として、悔しい気持ちがないといえば嘘になるが、父の言葉は思いの外冷静に受け止められた。それは恐らく、つい先ほど芳と交わしたやり取りがあったからだ。よりによってあの芳に、思いがけず背中を押されてしまったことの方が、今の英司には悔しかった。
英司の返答を受けて、ソファの背に凭れた父がふと口許を緩めた。
「私がこの病院に来たばかりの頃も、全く同じだったな」
独白のように呟いて、父は昔を懐かしむように目尻を下げる。
「私がまだ『若先生』と呼ばれていた頃、今のお前と同じような状態だったよ」
「……そうなんですか?」
「あの頃は父が『月村先生』で、診察の度に聞かれたものだ。『今日は、月村先生はいらっしゃらないんですか?』と」
今朝、桜井が診察室に入ってきたときのことを思い出して、英司は父の顔を見つめた。この父にも、そんな時期があったなんて初耳だ。そもそも自分の意思で月村病院へ勤務することを選んだ英司は、父から若い頃の話を聞かされたのも初めてだった。
「酷いときは、私の診察の後、『月村先生の診察を受けるまで帰りません!』なんて、延々と待合に居座られたこともあった」
「悔しいと、思わなかったんですか」
「勿論思ったさ。私の診断が誤っていたならともかく、そうではないのに何故自分は受け入れてもらえないのかと悩んだよ。でも考えてみれば、それも当然なんだ」
「当然?」
「この町の人々が求めているのは、自分たちの健康を唯一守ってくれるこの病院と、それを支える医者だ。町にたった一つしかない医療機関を、彼らは曾祖父の代から大事にしてくれている。私も、そんな彼らを守りたいと思っている。ただその思いは、たった一年や二年で届くものじゃない。この町や、そこで暮らす人たちと一緒に年月を経て、『月村先生』は代々信頼されてきたんだ」
「……でも僕は、恐らく院長のような人情味のある医者にはなれません」
いつも通りの淡々とした声で返すと、一瞬目を瞬かせた父は軽く肩を揺らして笑った。
「まだここへ来て二年しか経っていない、独り身の『若先生』が早くも人情味溢れるベテラン医だったら、まだ現役の私の立つ瀬がないだろう。そんなものは、これからいくらでも育めるものだ。大切なことは、お前の医者としての信念を見つけて、それを見失わないようにすること。それが一番なんだよ」
信念、と言われたとき、何故かふと、駐車場で見た別れ際の芳の笑顔が思い浮かんだ。
今朝のような突風が吹けば、その風に攫われて散ってしまいそうな、寂しげな笑顔。
出会ったときは、余りの馴れ馴れしさにいっそそのまま風に乗って立ち去ってくれればいいと思った。なのに、こうも芳の存在が英司の胸から立ち去ってくれないのは、きっと牧野芳という人物のことを、中途半端に知ってしまったからだ。
笑って軽口ばかり叩きながら、生と死の淵をフラフラと歩いているような危うさに、気付いてしまったから───。
きっと芳は、言葉通りまた人気のない神社で、冷えきった空気の中、夜を過ごすのだろう。少しは厚手の上着を貰ったようだったが、それでもこの時期に野宿をするには到底充分とは言えない。
幼い頃から朝日を見るのが楽しみで、英司にとっては一日で最も好きな瞬間だったというのに、そこで万が一芳の凍死体でも発見してしまったら、それこそ洒落にならない。
この町で、おまけに医者である自分の目の前で、死なれるなんて冗談じゃない。
白衣の上で軽く手を握り締めて、英司は正面の父を真っ直ぐに見据えた。
「院長───いや、父さん。ちょっと、個人的なことで相談があるんだけど」
すっかり陽が落ち、外灯もない真っ暗な田んぼ沿いの道を、車のヘッドライトがぼんやりと照らす。
油断すればあっという間に脱輪してしまいそうな細い夜道を、英司の運転する軽自動車は慣れた走りで突き抜けていく。
英司は排気量の大きい車の方が好みなのだが、ただでさえ細く入り組んだ道の多いこの町では、小回りの利く軽自動車以外はほとんど役に立たない。
田畑の間を抜けて神社の鳥居の前に車を横付けし、英司はドアをロックすると、暗い石段を上がる。
今日は、昨夜よりも更に気温が低い。朝方にかけて、二月初旬並の冷え込みになるだろうと、車中で聞いていた天気予報が告げていた。しかも、夜間には雨の予報も出ている。
石段を上りきると、一対の狐の像が出迎えてくれる。
石造りな上に少し苔むしたその像は、色こそ本物の狐とは程遠いが、その横顔はやはり芳によく似ている。実は夜はこの姿なのだと言われても、芳のどこか浮世離れした雰囲気を思うと、納得出来るような気がした。
空一面に広がった雲のお陰で月明かりすらなく、神社は一層暗く、不気味なほど静まり返っている。
正面から見る限り、お社に人の姿は見えない。
隙間から雑草の伸びた石畳を進み、足音を殺して裏側へ回ってみると、地面から一メートルほど高くなったお社の縁の部分に、こんもりとした影が横たわっていた。
ちゃんと人間だったのか、と馬鹿げた感想を抱きつつ静かに近づいてみると、今日貰ったらしいダウンジャケットに包まるようにして、芳が身体を丸めて寝転がっていた。微かな寝息が聞こえてきて、思わずホッと息が漏れる。
よくもこんな寒い中で眠れるものだ。
別に運動が苦手というわけではないが、アウトドアとは縁遠い英司には、そもそも外で寝るということ自体理解し難い。
こんな状況に慣れているなんて、一体どういう環境でこれまで過ごしていたのだろうか。
英司に背を向ける格好で横になっている芳の髪が床に流れ、細い項に刻まれた番の証がくっきりと見てとれる。
芳が『アイツ』と呼んでいた、この傷痕の主。後先も考えず逃げ出してきた上に、自身の存在を消して欲しいとまで言わせるパートナーというのは、どんな相手なのか。
───いや、そんなことはどうでもいい。
突然フラリとやってきた馴れ馴れしい男の番相手がどんな人間だろうと、英司には関係のないことだ。番っている以上、例えその関係性がどうであれ、それは当人同士の問題であって、周囲が口出し出来ることでもない。
この先芳がどれだけ逃げ回ろうと、どちらかが死ぬまで、番の関係が途切れることはない。芳が発情したとしても、そのフェロモンに反応するのはパートナーのみ。そして発情した芳を満たせるのもまた、パートナー以外には居ない。
そんなことはわかりきっているのに、何故だろう。
芳の項に刻まれた傷痕が、痛々しく見えるのは。
子供のように丸められた細い身体が、酷く儚く見えるのは。
───この男は、見知らぬαのものなのに。
そう思った瞬間、胸がザワリとざらつくような不快感を覚えた。心のあちこちがささくれ立っていくようなこんな感覚は、これまで感じたことがない。
そもそも他人に対して執着する性質ではないので、こんなにも感情を振り回されたことなど、芳に出会うまでは一度も無かった。
気が合えば適度な友人関係を築く程度で、合わなければ関わらない。学生時代、交際した相手も何人か居たが、元々干渉するのもされるのも好きではない英司は、結局誰とも長続きはしなかったし、申し訳ないがその別れを惜しむこともなかった。
英司のことを「機械じゃない」と、芳は言った。
けれど芳に出会うまでの自分は、恐らく淡々と日々を過ごすだけの機械だった。感情の起伏もなく、やるべきことをこなすだけ。
そんな英司が芳の目には「機械じゃない」と映ったのなら、英司を良くも悪くも『人間』にしたのは、不本意だが芳だ。
芳に出会っていなければ、掴みかかるほどの苛立ちも、この町で医者を続ける道を選んだ理由も、得体の知れない感情も、きっと知ることはなかっただろう。
───どうして、出会ってしまったんだ。
こんな田舎で。
Ωなんて一人も居ないこの町で。
いつもなら誰も居ないはずの早朝の神社で。
視界に入るとどうしても目が行ってしまう傷痕を隠すように、英司は何とはなしに剥き出しの項へそっと掌を宛がった。
その瞬間。
「───っ!」
ビクッ、と大袈裟過ぎるほど全身を大きく跳ねさせて、芳が勢いよく跳ね起きた。
零れそうなほど見開かれた瞳に、尋常じゃなく強張った顔。暗がりでもその顔が青褪めているのがわかって、英司も思わず言葉を失った。
英司の姿を認識したらしい芳が、驚きを誤魔化すように、すぐに薄っぺらい笑みを浮かべた。
「ビックリした~……誰かと思ったじゃん。寝込み襲うとか、英ちゃん思ったよりケダモノだね」
「貴方は相変わらず、そういう物言いしか出来ないのかな」
何となく、触れてはいけない部分に踏み込んでしまった気がして、英司も何でもない体を装って呆れた声を返す。
だが、脳裏には明らかに何かに怯えきっているような芳の顔が、しっかりと焼き付いていた。
今朝は一刻も早くこの町から立ち去って欲しいと思っていたのに、今は何故か、芳を見失ってはいけない気がする。彼はもしかしたら本当に、一歩踏み出せば二度と戻れない崖っぷちに、追い詰められているのかも知れない。
「そんなに寝た気しないんだけど、もう英ちゃんの散歩の時間?」
「まだ夜の十時だよ」
「え、そんな時間にも散歩してんの?」
「さすがにそこまで散歩好きじゃない。それより、今夜は雨だから野宿には向いてないと思うけど」
「あー、そう言えば曇ってんなー。でも一応ここ軒下だし、どうにかなるっしょ」
灯りがない所為で、地上より明るく見える曇天を見上げて、芳は呑気な声を出す。ほんの少し英司が触れただけで飛び起きたことが、嘘だったみたいに。
「牧野さん、低体温症って知ってる?」
「聞いたことはある」
「じゃあそれが命に係わるってことは?」
「……ひょっとして、俺のこと心配して来てくれたの? しかも寝込み襲われちゃったし、もしかして俺愛されてる?」
「この町から身元不明の凍死体が出たなんてニュースになるのは御免だから、せめて県境の山にでも捨てに行こうかと思っただけだよ」
「さすがに山の中はやめて!? ゴメン、ふざけ過ぎました」
英司に向かって正座した芳が、深々と頭を下げる。その拍子に髪の隙間からまた項の傷がチラリと覗いて、チリ…と胸を掠める苛立ちに眉を顰める。
見ているだけで苛立つくらいなら、いっそ関わらなければいい。
どうやら他の住民たちには上手く溶け込んでいるようだし、わざわざ英司が世話を焼く義理もない。
けれど、英司は芳の細い手首を捕らえて、強引にお社から引き摺り下ろした。驚いてよろけた芳の肩から滑り落ちたダウンジャケットが、バサリと地面に落ちる。
「え、英ちゃん……?」
掴んだ手首は、すっかり冷えきっていた。少し脈が速いのは、動揺している所為だろう。
「山に捨てられたくないなら、ついて来て」
唖然としている芳の代わりに落ちたダウンを拾い上げて、英司は掴んでいた手首を解放すると、先に石段の方へ歩き出す。少し遅れて、パタパタと芳が追いかけてくる足音がした。
明らかに厄介事を抱えていそうな芳にこれ以上関わらない方がいいと、英司の理性が警鐘を鳴らしている。
だがこのままフラリと芳が町から去ってしまったら、父に言われた英司の医者としての信念まで、見失ってしまうような気がした。
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