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第3話
助手席に芳を乗せた英司の車は、来た道を途中で逸れ、舗装もされていない坂道を上がっていく。
緩やかな傾斜の先は林になっていて、更にその奥は車では立ち入ることが出来ない森が延々と広がっている。
「ちょ……ちょっと英ちゃん……? なんか、俺にはここも充分山みたいに見えるんだけど……?」
悪路の所為でガタガタと揺れる車は、完全な山道へと差し掛かっていた。芳が、シートベルトを握り締めながら不安げな視線を向けてくる。
「心配しなくても、もうすぐ着くよ」
「着くって、どこに?」
「貴方の寝床」
「いやいや、寝床ってさっきの神社の方がまだ快適じゃない!? 超大自然なんだけど!?」
「騒いでると舌噛むよ」
生い茂る草を掻き分けるようにしながら車を走らせ、数分走ったところでようやく目的の建物が見えてきた。
車のヘッドライトに照らされて、木々の間にぼんやりと浮かぶのは、台風でも来れば吹き飛んでしまいそうなトタン屋根に、簡素な板でぐるりと覆われただけの、古い小さな小屋。ここへ来るのは、もう随分と久しぶりだ。
小屋は勿論、周辺にも灯りなんて一切ない中、英司は小屋の手前で車を停めた。
「着いたよ」
事態が把握出来ていない様子の芳に言い置いて、先に車を降りる。
ここまでくる道中もそうだったが、小屋の周囲も伸び切った雑草に覆われていた。好き放題に背丈を伸ばした雑草たちが、この小屋の時間が止まってからの年月を表している。
「ここ、何……? 誰かの家?」
助手席から降りてきた芳が、人の気配もない静かな小屋を見詰めながら英司の隣に並んだ。
「僕の親戚の家。とは言っても、もう何年も前に亡くなってるから、今は誰も住んでないけどね」
ここにはかつて、祖父の弟が暮らしていた。独り身だった彼は林業を営んでいて、暮らしていたというよりは、作業小屋として使用していたこの場所に、いつも寝泊りしていたと言った方が正しいかも知れない。
そんな彼が心筋梗塞で亡くなったのは、今からもう五年以上前のことだ。葬儀の後、せめてもの供養にと親族一同でこの場所を訪れたのが、英司にとってはこの小屋を見た最後の記憶だった。
小屋自体は、家と呼ぶには余りにも質素な造りだ。入り口の扉には鍵すらついておらず、それは平和な田舎の象徴でもあった。
主を失ってからは、扉の脇に打ち込まれた太い釘に、ドアノブを固定するようにワイヤーが巻き付けられているが、恐らくそんなものが無くても、きっとこの小屋に近付く人間なんて居ないだろう。
ただでさえ便利とは言えない田舎町の、更に寂れた場所にポツンと建つ古びた小屋へ、わざわざ立ち入ろうとする者はこの町には居ない。
そもそも親族の英司ですら、毎年祖父の弟の墓参りには行っているというのに、この小屋の存在は既に忘れかけていた。宿無しの芳に出会ったお陰で、いつだったか、祖父が放置されているこの小屋をどうしようかと零していたのを思い出したのだ。
「ドアもぐるぐるに固定されてるけど、こんなとこ連れてきてどうするつもり───」
怪訝そうに英司の方を見た芳が、言葉の途中でギョッと目を丸くした。英司が、車の後部座席からバールを取り出したからだ。
「えっ、待って、なんでそんな物騒なモン持ってんの!? 英ちゃん、山に捨てたりしないって言ったじゃん!?」
「勿論、遺棄なんてしないよ。貴方みたいな派手な男、転がしておいたら目立って仕方ない」
「遺棄って言うのやめて!? 英ちゃんが言うと洒落にならないから!」
芳が降参とばかりに、両手を上げて小屋の方へ後退る。構わず英司が距離を詰めると、やがて芳の背中が小屋の扉にぶつかって行き詰った。
「す、ストップ! 取り敢えず、一旦落ち着こう!? 俺が何かしたなら謝るし、それともまだ俺のこと怪しんでるなら、聞きたいことあれば話すから……!」
どうやら英司の持つバールが完全に凶器に見えているらしい芳が、焦った様子でどうにか宥めようとする。
───おかしな人だ。
昼間は呆気なく自分の存在を消して欲しいなんて言っておきながら、山中でバールを手に追い詰められれば、必死で命乞いをする。
彼の本音は、一体どちらなのか。本当は何を消して欲しいと望んでいるのだろう。
動揺する芳の目の前に立った英司は、冷静な瞳で彼を見下ろしたまま、バールを持つ手をゆっくりと振り上げた。
ヒッ、と小さく悲鳴を上げて、芳がドアに張り付くようにしながら顔を強張らせる。ヘラヘラ笑っているときよりも、こうして怯えている芳の姿の方が、何となく本来の彼に近いような気がして、もっと見ていたくなる。
敢えて顔色を変えないまま、英司は静かに口を開く。
「下手に動くと、却って痛い思いするよ。ジッとしててくれれば一瞬だから」
「注射みたいに言ってもダメ! 英ちゃん、頼むから待っ───」
彼の言葉を待たずに、英司は持っていたバールを振り下ろした。───ワイヤーが固定された、太い釘目掛けて。
ガツッ、という鈍い音が、静まり返った木々の間でこだまする。
きつく目を瞑って身を縮こまらせた芳が、いつまで待っても訪れない衝撃に、恐る恐るといった様子で薄く目を開けた。その視線の先に、英司はバールを叩き付けるようにして強引に引き抜いた釘を差し出した。
「……へ? 釘……?」
「だから、一瞬だって言ったでしょ」
呆気に取られている芳を余所に、錆びた釘を草むらへ放る。ついでに役目を終えたバールを車内へ戻す英司を見て、芳はやっと我に返った様子でズルズルとその場にへたり込んだ。
「もー……勘弁してよ。心臓に悪い」
「僕に襲われるって、勝手に勘違いしたのはそっちでしょ」
「さっきの状況なら絶対そう思うじゃん。ていうか、英ちゃん敢えて俺のことビビらせようとしてなかった?」
英司は端から芳に危害を加えるつもりなど微塵もなかったが、明らかに誤解して怯えている芳を、少し揶揄ったのは事実だ。ようやく彼が、人間らしく見えたから。
英司が機械なのだとしたら、ヘラヘラしている芳は狐の面を被った人形のように思えた。
芳の問いは聞こえなかったフリをして、バールの代わりに、自宅から持ってきた電池式のランタンを片手に、小屋の扉へ手を掛ける。ずっと放置されていて歪みが出ているのか、軽く引っ張っただけでは開かず、扉脇の壁に足を掛けながら思いきり引っ張って、ようやく扉は開いた。
篭っていた空気が一気に戸口へ向かって流れてくる。埃っぽい匂いと共に、独特の木の匂いが鼻をつく。
ランタンのスイッチを入れると、小屋の中を舞う細かい木くずや埃が、無数の星のようにキラキラと光った。
壁際に置かれたスチール棚やその周辺に、チェーンソーなどの工具がいくつも置かれている。部屋の隅には、切り出された細い木材が立て掛けられ、その根元には輪切りにされた分厚いバウムクーヘンのような木材が積み重ねられていた。
小屋の中央には、作業台だろうか、ドライバーやペン、定規などが雑多に置かれた長方形の台が鎮座しており、奥の壁際に、申し訳程度に小さなコンロとシンクがある。
安全面を配慮して水道以外、ガスも電気も止めてあるが、それでも小屋の中は本当に、この家の主が亡くなった直後から、ピタリと時を止めているようだった。
英司は祖父の弟とそう親しかったわけではないし、この小屋に入るのも初めてだったが、それでもここで作業していた彼の姿が、何となく想像出来る気がした。
「取り敢えずちょっと換気した方が良さそうだし、扉開けたままでいいから、入って」
ランタンを作業台に置き、扉口で立ち尽くしている芳を振り返ると、彼は物珍しげにキョロキョロと屋内を見渡しながら、おずおずと英司の傍へやってきた。
「英ちゃんの親戚の人、ここに住んでたの? なんか、ジェイソンが持ってそうなヤツ、いっぱいあるけど……」
「林業で生計立ててた人だったからね。心配しなくても、僕はチェーンソーは使ったことないから」
「使えたらどうするつもりだったワケ!?」
咄嗟に数歩後退る芳が可笑しくて、思わず微かな笑みが零れた。それに気付いた芳が、意外そうに目を瞠る。
「……英ちゃん、笑うとそんな感じなんだ」
軽い気持ちで芳を揶揄うつもりが、自分の方が踊らされてしまったようで、すかさず口許を引き締める。芳と話していると、何故こうも調子を狂わされるのだろう。
「貴方こそ、そこまで怖がるくせに、よく僕に消して欲しいなんて言えたよね」
気まずさからつい棘のある物言いになった英司に、芳は乾いた笑いを零した。
「昼間は、ホントごめん。俺昔からどっか考え無しなとこあるから、ついやらかしちゃうんだよね」
確かに先の事を考えずに金を使い果たしたり、寒い中平気で野宿をするあたり、考え無しというところは否定出来ない。だが、彼がそのことをちゃんと自覚していたことも意外だったし、「昔から」という部分が引っ掛かった。
それがどのくらい前を指しているのかはわからないけれど、長い間、彼はこうしてフラフラと生活していたんだろうか。
成人しても定職に就かずに過ごしている人間も少なからず居るだろうが、ホームレスという雰囲気でもないのに、野宿することに慣れているという彼の育ってきた環境が、いまいち想像出来ない。しかも今は、番っているパートナーも居るというのに。
番ったことも、彼の言う「考え無し」な行動の一環だったんだろうか。
───だとしたら、むしろ自業自得じゃないか。僕の知ったことじゃない。
またしても胸の奥に広がりかけた黒い靄を強引に追い払って、英司は小さなキッチンスペースとは反対側にある壁際に歩み寄った。そこにある塊にかけられた布を、バサリと捲る。
最後にここに入った親族の誰かが掛けてくれていたのだろうか。取り去った布の下には、黒い革張りのソファが鎮座していた。
屋内にある全ての物が埃と木くずにまみれている中で、布に保護されていたお陰で真っ黒に光るそのソファだけが、妙に浮いて見える。
水道以外のライフラインが止まっているので心配だったが、取り敢えず神社よりはマシな寝床があったことにホッとした。
「牧野さん、取引しよう」
唐突な英司の申し出に、芳が「取引?」と首を傾ける。
「ここは今、土地も含めてうちの所有物になってる。入り口が封鎖されてたからご覧の通り中は手つかずだけど、外の方は時々祖父が見回りに来てた。ただ、ここへ来るまでの道でわかったと思うけど、ここまで来るには結構な山道を上って来なきゃならない。祖父ももういい歳だし、そんな祖父にこの山道は過酷だ」
「……もしかして、代わりに俺が見回りをしろ、ってこと?」
「ちょっと違う。今日、父を通してこの小屋の管理を僕に任せてもらうことにした。でも僕にも医者としての仕事がある。だから、僕が貴方を雇ってここの管理を任せたい」
「雇う……って、え、でも英ちゃん、俺に早くこの町から出て行って欲しいって言ってなかった?」
「勿論それに越したことはないけど、この町から離れたとして、行くアテはあるの? 次に行き着く先で出会う人が、皆親切とは限らないよ」
「うっ……」
「貴方に依頼したいことは、住み込みでこの小屋の管理をしてもらうこと。電気とガスは無いけど、少なくとも雨風が凌げる分、野宿よりはマシでしょ。それからこの積もりに積もった埃も掃除して貰いたい。ある程度綺麗になれば、電気やガスも通せるだろうしね。それを引き受けてくれれば、日給五千円でどう?」
「五千円!? なんか英ちゃん小難しい言い方してるけど、要は俺ここに寝泊まりさせて貰えるってことでしょ? それでついでに掃除するだけで、日給五千円も貰えんの?」
「昼間はともかく、夜中に勝手に小屋を空けて野宿したり、いつまでも埃だらけなら勿論減給だよ」
ちょっと待ってて、と言い置いて、英司は一旦小屋を出て車へ戻った。バックドアを開け、自宅から詰んできた段ボールと、大きめのブランケットを抱えて戻る。
作業台に下ろした段ボール箱を覗き込んだ芳が、驚いた様子で目を何度も瞬かせた。
カセットコンロにガスボンベ、小さめのケトルに小鍋。それから非常食にもなるレトルト食品類とカップ麺など、最低限必要なものを適当に詰め込んである。
「これは支給品。これ以外で必要なものがあるなら、それは掃除に励んで給料で買って。ちなみにこの小屋、トイレはあるけど風呂は無いって聞いてるから、入浴するなら役場のもう少し先に銭湯があるよ」
一方的に捲し立てて、英司は持っていたブランケットを芳に押し付けた。受け取ったそれを呆然と見詰めて、芳がポツリと零す。
「……なんで、ここまでしてくれんの」
ランタンの明かりしかない上に彼が少し顔を伏せているので、表情がよく見えない。けれどその声は、今にも泣き出しそうに震えていた。
───そんな声を出すくらいなら、軽薄な笑顔の裏に隠した本音を吐き出せば良いのに。
柄にもなく踏み込んでしまいそうになって、英司は芳から逃れるように背を向けた。
……本音なんて聞いてどうするんだ。
彼とパートナーの間に何か痼りがあるのだとしても、英司にそれを取り除くことなど出来ない。
「あのまま野宿してたんじゃ、遅かれ早かれ身体を壊すし、最悪命の危険だってある。この町は、今でこそ『数ある田んぼが美しい町』だから『数田美町』っていうけど、昔は『捨てる命』と書いて『捨命町』なんて言われてたって話もあるんだ。でも僕は医者として、この町で命を捨てさせたくないっていうだけだよ」
「英ちゃんは、この町でずっと育ったの?」
背中に飛んできた芳の声は、もう既に明るいトーンに戻っていた。
「高校を出てから医者になるまでは東京に居たけど、生まれ育ちはこの町だよ」
「そっか。大事にしてんだね、この町のこと」
「まあ、一応故郷だからね」
「……いいなあ、そういうの」
英司に向けて、というよりは、独り言のような芳の言葉に、思わず肩越しに振り返る。芳は英司の渡したブランケットを抱え込んだまま、ジッとランタンの明かりを見詰めていた。
「俺にもそんな場所、あれば良かった」
言葉の意味を問い返す前に、パチンという小さな音に続いて辺りが一気に暗闇に包まれた。
芳がランタンのスイッチを切ったのだということに、彼が動く気配でわかった。これ以上聞かないで欲しいという芳の意思表示のように、英司には思えた。
英司の目的は、あくまでも医者として芳の身を最低限守ること。それ以上は干渉するべきじゃない。だからこそ、英司も芳に背を向けた。
そして芳もまた、英司に踏み込まれることを拒んでいる。
なら、もうこれでいい。
暫くはここで凌げたとしても、番っている相手が居る以上、芳もこの先いつまでもこの町には居られないだろう。αとΩの本能的な繋がりは、それほど簡単なものではない。
だったらそれまで、英司は芳と交わした口先だけの安っぽい取引を続けていればいいだけだ。
「さすがに慣れない肉体労働したから疲れちゃった。寝床まで与えてくれてありがとね。起きたら、ちゃんと掃除するから。おやすみ、英ちゃん」
突然明かりが無くなった所為で英司はまだ目が慣れないというのに、難なく壁際のソファへ辿り着いたらしい芳が、ドサリと横たわる音がした。
「……おやすみ」
他人に対してあまり言い慣れない挨拶を返して、英司は足元に置かれた工具に躓かないよう、慎重に歩いて小屋を出た。
芳には英司のように生まれ育った故郷がないのだろうか、とか。
だったらここへ来る前はどんな場所に住んでいたのだろう、とか。
八百屋の手伝いを「慣れない肉体労働」と言う彼はどうやって収入を得ていたのだろう、とか。
胸の中に余計な埃がどんどん積もっていく。きっと、長年放置された小屋に立ち入ったからだ。
車のキーを取り出した手に、ポツ、と水滴が落ちてきた。
空を見上げると、英司の顔目掛けて空から更に数滴、冷たい雨が滴ってくる。車に乗り込んだ途端、雨はあっという間に本降りになった。
どうやら天気予報は見事に的中したらしい。
降り出す前に芳を神社から連れ出せて良かった。気掛かりがあるとすれば、ずっと放置されていたこの小屋が、雨漏りしていないかどうかということだ。それでも、野宿に比べれば濡れずに済むはずだが。
一先ずこれで、芳の安否を気に掛ける必要も無くなった。
時折確認に来る必要はあるだろうが、明日からは英司もまた、いつも通りの日常に戻ればいい。
───もしも芳が、パートナーの居ないΩだったら、どうなっていただろう。
ふと浮かんだ無意味な疑問を、馬鹿馬鹿しいとばかりにフロントガラスに叩きつける雨が洗い流していく。
そもそも芳に番相手が居なければ、彼はきっとこの町にも来ていないだろうから、英司と芳は一生出会うことすらなかったはずだ。
英司の知らないαに繋がれていたからこそ訪れた、芳との出会い。
どうしてそんな不毛なものに、人生で最も振り回されているのだろう。
得体の知れない、この不快で陰鬱とした気分ごと全て雨が洗い流してくれれば良いのにと思いながら、英司はぬかるんだ山道を駆け抜けた。
◆◆◆◆
午前の診察を終え、この日も貸し切りの喫煙スペースで英司が食後のコーヒーを飲んでいると、目の前の駐車場に『月村病院』とロゴが入った軽自動車が滑り込んできた。
最奥の定位置に駐車された車から降りてきたのは、今日の往診担当だった姉の英里 だ。
「お疲れ様」
ベンチに腰掛けたまま声を掛けると、こちらに気付いた英里が「丁度良かった」と往診バッグ片手に歩み寄ってきた。ベンチの隅にバッグを下ろし、自販機でミルク入りの微糖コーヒーを買ってから、英里は英司の隣に腰を下ろした。
「さっき往診に行った先で、『あの子』に出くわしたよ」
姉の言葉に、缶を傾けかけた手が止まる。
『あの子』というのが誰のことを指すのかなんて、聞くまでもない。
芳がこの町にやって来て二週間。
初日から既に商店街の人たちに溶け込んでいた芳の存在は、派手な容姿の所為もあってか、今ではすっかり町中に知れ渡っていた。
三十才の男を『あの子』などと呼ぶのは如何なものかと思うのだが、高齢者の多いこの町では英司や芳なんてまだまだ若造扱いだ。お陰で芳は町の人たちから『どこからかやって来た子』だとか、『あの金髪の子』なんて言われている。
芳をあの小屋へ連れて行って以来、英司はこれまで二度、様子見に訪れている。
最初は、野宿せずに小屋で寝起きしているかどうかを確かめる為。
そして二度目は、ちゃんと取引に応じて小屋の中を掃除しているかを確かめる為だった。
その際、芳とは少しの間話もしたが、その内容は本当に他愛もないことだった。
初日に気に入られてから、日中は三井青果店を手伝っていること。
そこで町を探索してみたいと言ったら、ついでに配達を任されるようになり、自由に使って良いと自転車を貸し与えて貰えたこと。
相変わらず、商店街の人たちからは売れ残った食材などを恵んでもらっていること。
役場の隣に小さい図書館があることを知って、二日に一度は通っていること。
銭湯のお湯が熱すぎるということ───等々。
どれも、英司は「へぇ」とか「そう」という相槌を返して終わってしまうような会話ばかりだ。
彼に関して新しく得た情報というと、この町へ来る前は渋谷に居たということと、実は料理が得意らしいということくらいだろうか。
料理については素直に意外だと思ったが、芳が「渋谷に住んでいた」とは言わず、「渋谷に居た」と言ったとき、ふと小屋で聞いた言葉が頭を過ぎった。
『俺にもそんな場所、あれば良かった』
あの言葉には、どんな意味があったのだろう。
芳には、「住んでいた」と言える場所が無い、ということなのだろうか。
だが英司は敢えてそれを問い詰めることはしなかったし、芳もそれ以上話そうとはしなかった。お互い何となく、これ以上踏み込んではいけない一線を認識していて、その手前で踏み止まっている。このままの関係が、この先ずっと続くことはないと認識していながら───。
「噂には聞いてたけど、ホントに派手な子だよね。しかも私の顔見るなり『もしかして英ちゃんのお姉さんか妹さん?』って聞かれて、ビックリしたよ。子供の頃はともかく、大人になってから英司と似てるって言われること、あんまり無くなったのに」
喜んでいいんだか、と英里が苦笑しながら缶のプルタブを引き開ける。
芳の方は散々町内で噂になっているので、姉が一目で気づくのはわかる。だが、芳が英里を一目で英司の姉だと見抜いたというのは、正直英司も驚いた。
姉弟なので二人並んでいればそこそこ似ている部分もあるが、既婚者の姉は胸元の名札も新しい性の『澤口』になっているし、英司は姉の存在を芳に話したこともない。
「……それで、何か話したの」
「別に? 姉です、って答えたら『英ちゃんにいつもお世話になってます』ってそれだけ言って走り去っちゃった。三井青果店手伝ってるって聞いたことあるけど、自転車のカゴに段ボール積んでたから、配達中か何かだったんじゃない? それより英司、あの子に『英ちゃん』って呼ばれてるんだねぇ」
出来れば流して欲しかったところに案の定食いつかれて、英司はげんなりと顔を顰める。その顔を見た英里が、くつくつと押し殺した笑い声を漏らした。
「英司にしては珍しいじゃん。あの山小屋、あの子の宿にしてあげてるんでしょ? 父さんも『いきなり小屋を譲って欲しいなんて、一体どういう風の吹き回しかな』なんて首捻ってたよ」
「父さん、僕の前では何も言ってなかったけど」
「父さんなりに気遣ってんじゃないの。だって英司が他人にそこまで干渉することって、今までなかったしさ」
「どうせなら、若い人に管理してもらった方がいいと思っただけだよ」
「ふぅん……まぁ、英司がそう言うならそれでいいけど。……でもあの子、番ってるでしょ」
英里の声のトーンがほんの少し低くなって、英司も缶を握る指先に軽く力を込めた。
姉もαだ。芳がΩであることに、気付かないはずはない。
「この町の人は全然気にしてないだろうけど、番の居るΩが一人で行くアテもなくやって来るなんて普通じゃない。あんただって、まさかそれに気付いてないわけじゃないよね? あの子がどうしてこの町に来たのか知らないけど、番ってる以上、長い間パートナーと離れているなんて簡単に出来ることじゃないよ」
「………」
そんなことは、言われなくてもわかっている。
だから英司は、自分にとって何のメリットもない強引な取引を芳に持ち掛けた。それは、情という不確かであやふやな繋がりを持ちたくなかったからだ。
英司にとって、芳は単なる取引相手だ。
素性もよくわからない芳に店を手伝わせたり、施してやったりしている商店街の人たちのように、善意で世話を焼いているわけではない。
そう言い聞かせていなければ、腹の底から次々に味わったことのない感情が湧き出してきそうだった。唯一の相手が居る芳には、決して抱くべきではない感情が───。
「……僕は別に、野宿して野垂れ死にされるのが御免だっていうだけだよ」
機械的に答えて、英司は静かに腰を上げると空き缶を自販機脇のゴミ箱へ放り込んだ。そのまま院内へ引き返す英司の背中に、ボソリと零された英里の呟きが届いた。
「……運命って、残酷だね」
夜診を終え、病院を出た英司は、その足で山手へと車を走らせていた。
昼に交わした英里とのやり取りが、それ以来ずっと頭から離れなかった。
芳がいつまでもこの町に居られないことくらい、英司にもわかっている。芳はパートナーとの間に何らかの事情を抱えているようだし、その揉め事を持ち込まないで貰いたいという思いもある。
なのに、昼間姉から報告されたように、患者や町の誰かから芳の話を聞くたび、彼がこの町でマイペースに過ごしていることにどこかホッとしている自分が居る。
続くはずのない時間。
そんなものを願ったところでどうしようもない。
なのに何故、今もこうして仕事を終えて疲れている中、自宅にも戻らず山道を走っているのだろう。
───何故もなにも、前回訪ねてから今日までの賃金を支払う為だ。
冷静な自分が淡々と告げる。
───そんなものは建前で、本当は彼が今日も小屋に居ることを確かめて、安心したいだけだ。
知らない自分が、ゆっくりと頭を擡げる。
どちらの声に耳を傾けるべきなのかがわからない。
そもそも自分はもっと淡泊な人間だったはずだ。まだ出会って日も浅い上、よく知りもしない相手に執着するような人間じゃない。
芳のヘラヘラと笑う顔を見るたびに、呆れて、安堵して、苛々する。
こんな自分は知らない。知りたくなかったし、知る必要性もわからない。
小屋の前で車を降りると、英司は少し荒っぽくドアを閉めた。こんな風に苛立ちを露わにする様子を家族が見たら、きっとまた「珍しい」と目を丸くされるのだろう。英司自身でさえ、らしくないと思う。
なのに、抑えきれない。
───いっそ小屋の中に芳が居なければ。
扉の前に立ったとき、一瞬そんな願望が脳裏を掠めた。
これで幻みたいに芳の姿が消えていたら、きっと自分は狐に化かされたのだと今ならまだ思えるだろう。こんなにも感情が揺さぶられるのも、正気ではなかったからだと受け入れられる。
居て欲しいのに消えていて欲しい。
あまりにも矛盾が過ぎる願いと共に、英司はノックもなしに鍵のない扉を引き開けた。
小屋の中に、芳の姿はない。
木の匂いは相変わらずするものの、初めて足を踏み入れたときと違って、埃っぽさがほとんどなくなった屋内。
作業台に置かれたカセットコンロと、その上に乗せられたケトル。
壁際のソファには、雑に畳まれたブランケット。
それらを、芳が天井から吊り下げたランタンが照らし出している。
なのに、その空間に芳の姿だけが無い。
自分で願ったくせに、いざとなるとその現実が受け止められず、可笑しくもないのに乾いた笑いが漏れた。
「ハハ……まさか本当に、化かされてたのかな……」
ほんのついさっきまでこの場に居たかのようなのに。
頭が上手く働かず、英司がフラリと扉に寄り掛かったとき。
ドサ、と小屋の裏手の方で何かが倒れるような物音がした。
反射的に顔を上げ、外へ飛び出して小屋の裏側へ回る。
暗がりの中、伸び放題の雑草の隙間から、細い脚が二本伸びている。
相手の荒い息遣いが聞こえる距離まで近付いて、やっとそれが倒れた芳の脚だったことがわかった。
「牧野さん!」
倒れている芳の姿に驚いたのと、それから芳が居なくなっていなかったことへの安堵と。それらがない交ぜになった叫び声と共に、英司は伸びた草を払い退けるようにして駆け寄った。
「……英、ちゃん……?」
苦しげに胸を喘がせて浅い呼吸を繰り返しながら、芳が絞り出すような声で英司の名を呼んだ。
咄嗟に脈を取ろうと芳の手首を掴んだ瞬間、
「待って……! 触らな───っ」
慌てた様子で身を起こしかけた芳が、言い終わらない内に地面に嘔吐した。
「牧野さん!?」
「ゲホッ……、ごめ……ちょっと、触んないで……」
弱々しく英司の手を振り払い、這うように英司から少し距離を置いて、芳は再び苦しそうに地面へ転がった。
「……こうなる前に、出てかなきゃ、いけなかったのに……間に合わなかった。……ごめん」
芳のその言葉と、荒い呼吸。それに、さっき一瞬触れた手首の、異様な熱さ。
それらがやっと英司の頭の中で組み合わさって、一つの答えに繋がった。───発情期だ。
本来、発情したΩから強く放たれるはずのフェロモンが感じられなかったので、すぐには気付けなかった。
だがそれも当然だ。番の居る芳のフェロモンに、英司は反応しないし、気付けない。芳が英司から離れたのも、彼の身体がパートナーではない英司を強く拒んでいるからだろう。
英司は医者で、目の前には苦しんで横たわる芳の姿がある。それなのに、英司には苦しむ芳に触れることすら出来ない。
見えない鎖に縛られた芳を、解放してやることも出来ない。
汚れるのも構わず、芳が地面を掻き毟りながら身悶える。そんな芳を捕らえて離さない、項の傷痕。
この時ようやく、英司は自覚した。腹の奧から込み上げてくる、溶けた金属のように熱くて重い感情が、激しい嫉妬心であるということを。
「………っ」
二十九年生きてきて、初めて零した舌打ちと共に立ち上がる。
これまで、芳の内側へ踏み込むことを躊躇っていた理由。それは、自分が決して芳のパートナーに敵わないことがわかっていたからだ。
芳が発情すれば、その事実を嫌というほど突きつけられてしまうから。英司では駄目なのだと、思い知らされてしまうから。
そしてきっと、芳もそれをわかっていた。
だからこそ、互いに本心を隠し続けてきた。
「……牧野さん。すぐに戻るから、ここで待ってて」
触れられない代わりに、せめて着ていたジャケットを芳の身体にかける。そのまま身を翻して車に飛び乗り、英司は病院までの道のりを急いだ。───ようやく気付いた感情を、失くさない為に。
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