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第4話

「気分、どう? 少しは落ち着いてる?」  ソファにぐったりと横たわる芳に、英司は一メートルほど離れた位置から問い掛けた。部屋の隅に積まれていた輪切りの木材を、スツール代わりに拝借している。 「……うん。さっきよりは、ちょっとマシ」  力なく頷いて芳はそう答えたが、相変わらず呼吸は苦しそうだ。  彼の細い腕には、英司が病院から持参した発情抑制剤の点滴が繋がっている。  あの後、抑制剤の点滴セットと、往診バッグを抱えて、英司は再び芳の元へ戻ってきた。  英司が離れたときのまま、草むらの中に横たわっていた芳に、英司はその場で点滴の針を刺した。極力手早く済ませたし、医療用の手袋もしていたので直接触れたときほどではなかったものの、その短い時間でも芳は苦しげに呻いていた。  本能がそうさせているのだとわかってはいても、英司を拒んで苦しむ芳の姿は、英司の胸を酷く掻き乱した。その間ずっと、芳が「ごめん」と繰り返すものだから、一層もどかしくて堪らなかった。  抑制剤は内服薬もあるし、それなら英司が触れる必要もないのだが、そちらは薬が効くまでどうしても時間がかかってしまう。それまで芳を地面に寝かせておくのも気掛かりで、英司は敢えて即効性の高い点滴を選択した。  番の居るΩは、そうでないΩに比べると抑制剤が効きにくい。番うことにより、フェロモンの分泌に変化が生じる為だ。それにパートナー以外の人間を惹き付けることも無くなるので、番ってからは抑制剤を服用しないΩも多い。  点滴を開始して少ししてから、芳はどうにか這って小屋の中に戻ってくることは出来たものの、それでもやはり大して効き目はないのか、三十分近く経った今も、かなり辛そうにしている。 「英ちゃん……勝手にこんなことして、怒られないの……」  気怠げに英司の方へ顔を向けて、芳が弱々しい声音で問い掛けてきた。 「急患への応急処置だから、問題ないよ」  英司はそう答えたが、本当なら、よほどの事情がない限り、Ωの発情期に医療行為は必要ない。  そもそも発情期は病気ではないし、その症状を抑える方法も明確だからだ。特に芳のように番の居るΩなら、パートナーとの性行為。これしか対処法はない。  本来なら警察に事情を話し、芳をパートナーの元へ返してもらえば、彼の苦痛も取り除ける。……芳とそのパートナーが、一般的な番であるなら。  だが、芳の場合はきっとそうではないし、何より彼自身がパートナーの元へ戻ることを望んでいない。  だから英司は医者として、せめて自分に出来ることをするべきだと思った。例え芳の苦痛を、ほんの僅かしか和らげてやれないとしても。  決して満たされることのない身体を持て余して胸を喘がせる芳を見ていると、考え無しにフラフラとやってきた軽率な男、という印象は、最早すっかり失せてしまった。  これほど苦しい思いをしても芳が戻りたがらないのは、彼がΩとしての快楽よりも、人としての何かを求めているからだろう。  そんな芳を軽率な人間だと思っていた自分を、英司は密かに悔いた。 「……そういえば、今日、英ちゃんのお姉さんに、会ったよ」  途切れがちの声で、ふと芳がそんな話題を口にした。  話すのも辛いだろうと思うのだが、もしかすると少しでも、発情する身体から意識を逸らしたいのかも知れない。 「姉から聞いたよ。よく、僕の姉だってわかったね。今は結婚して苗字だって違うのに」  英司も敢えて普段通りの口振りで話に乗る。返答を聞いた芳が、フッと目を細めて吐息だけで笑った。 「すぐわかるよ。英ちゃんと、そっくりだった」 「そうかな。小さい頃は似てるって言われることもあったけど、最近はそう似てるとも思わないんだけどね」  苦笑混じりの英司の言葉を、芳は「似てるよ」とあっさり笑い飛ばした。 「クールで、サディストっぽくて……優しそうなとこ」  サディストっぽいってのは内緒ね、と芳が場の空気を和ませるように茶化す。  姉はともかく、英司は自分が優しいなどという自覚はない。落ち着いている、だとか、しっかりしていると言われることはよくあるが、優しいなんて言われたのは初めてだ。  芳の目に、英司がそんな風に映っていたことを改めて聞かされて言葉に詰まる。  むず痒いような、少し気まずい沈黙の後、 「……俺も、この町に生まれたかったな」  数ヶ所雨漏りがするという、傷みの激しい天井を見上げて、芳がポツリと呟いた。 「前にも、似たようなこと言ってたね。故郷があれば良かったって。……帰る場所が無いのは、番になったから?」  今この話をするのはどうかとも思ったが、芳に出会ってから初めて、彼とまともに話をしている気がしたので問い掛けてみた。  英司と違って人当たりの良い芳は、誰とでもそれなりに上手く関係を築きそうなのに、その彼がここまで拒む相手とは一体どんな人物なのだろう。  これまでは、敢えて気に掛けないようにしていた。深入りするべきではないと告げる理性に、英司も素直に従ってきた。  だが、芳の発情期が来てしまった上、そのパートナーへの嫉妬心を自覚してしまった以上、どの道いつまでも目を背けてはいられない。  そしてそれは芳も感じていたのか、彼は目を伏せて一つ息を吐いた。 「……英ちゃんなら、知ってるかな。『運命の番』ってやつ」  思いもよらなかった単語が芳の口から零されて、英司は目を瞠った。 『運命の番』───互いの意思など関係なく、本能で惹かれ合う、番の中でも最も強い繋がり。  ただし、たった一人しか居ないとされるその相手は、発情期に出会わなければわからない為、そもそも遭遇すること自体が非常に稀だ。だから殆どのαとΩは自身の『運命』の相手に出会うことなく、その生涯を終える。  巡り合うことすら難しい『運命』のパートナー、なんて言えば聞こえはいいが、裏を返せば、出会ってしまうと番うことから決して逃れられない『運命』でもある。  相手がどんな人間であっても、出会った以上は番わないことを許されない『運命』。  発情期に苦しんでも尚、パートナーの元へ戻りたがらない芳。  自分の存在を消して欲しいという、彼の言葉。 「牧野さんのパートナーって、まさか……」  英司の中で、どす黒いパズルが次々に組み上がっていく。 「───そうだよ。俺とアイツ、その『運命の番』なんだ」  くしゃりと、芳が泣きそうに顔を歪めて嗤う。  真っ黒な最後のピースが、残酷なほど綺麗に嵌まった。   ◆◆◆◆  芳には、昔から『家』と呼べる場所が無かった。  Ωの母は元々身売りで稼いでいたこともあってか、男にだらしがなく、いつも芳より見知らぬ男に夢中だった。  幼い頃から何度か小さなアパートを転々としたが、どこも昼間より夜の方が賑やかな場所だった。  そんなアパートの部屋には、毎月のように違う男が居た。  与えられる食事は、いつもコンビニやスーパーの冷たいおにぎりや総菜に、菓子パンばかり。  それでもあれば良い方で、芳に無関心な母はそんな出来合いの食事すら用意してくれないこともしばしばあった。  息子の前だというのに、母は昼でも夜でも平気で男と身体を交えた。きっと母にとって、芳は着古した服みたいな存在だったのだろう。目に留まれば時折袖を通すけれど、着られなくなっても特に支障はない。  お腹が空いたと言えば、うるさいと怒鳴られた。だって服は喋らない。  芳が成長するにつれて、母は一層芳に目を向けなくなった。貧相で小汚い服に、興味など湧くわけがない。  だからアパートの小さな部屋は、芳にとっては単なる寝床でしかなかった。  そんな中、唯一芳の記憶に残っている男が居る。  母以外では恐らく一番長い期間、共に過ごした人物だ。  名前も思い出せないけれど、母が連れてきた数えきれない男の中で、芳とまともに話をしてくれたのは彼だけだった。その彼を、芳は父だと思っている。  本当のところは聞いていないのでわからない。ただ、彼が自分の父親であって欲しかったからだ。  将来自分の店を持ちたいと言っていた父は料理が得意で、台所になんて立つことがない母と違い、アパートに来るたびに料理を作ってくれた。父が居た期間だけは、芳は飢え知らずだった。  母は手伝うことすらしなかったが、父は興味津々で見ていた幼い芳に料理を教えてくれた。  初めて教わったのは、玉子焼き。  目玉焼きすら母に作ってもらったことがなかった芳は、器用にフライパンでクルクルと玉子を巻いていく父の手つきに見惚れ、同じように出来るようになりたくて何度も何度も練習した。  野菜の切り方や出汁の取り方。煮物の火加減に、油の温度の測り方───いつの間にか一通りの料理がこなせるようになった頃、父は忽然と姿を消して、それっきり戻ってくることはなかった。  その頃には芳も小学生になっていたが、参観日は勿論、個人懇談や運動会などの行事にも、母は一度も顔を出さず、学校や市の人間が何度もアパートへやって来ていた。  毎回母はそれらを適当にあしらい、面倒になれば住まいを移す。  芳は芳で、母や周囲の言う事に笑って従っていれば、いつか父が戻ってきてくれるのではと思っていた。  けれど、芳が中学に上がっても、父が芳の元へ帰ってくることはなかった。  母もまた、アパートを空ける日が多くなった。  そうして中学卒業を二ヶ月後に控えたある日。友人たちと下校していた芳に、初めての発情期がやってきた。  何がなんだかわからないまま、公園のトイレに連れ込まれ、小汚い床に転がされた。  友人だと思っていたβたちに犯されたのだと理解したのは、意識を取り戻して、半裸の自分の汚れた下肢を見てからだった。  その瞬間、何だか色んなことがどうでもよくなった。  愛想よく適当に相手に合わせることに慣れていた芳は、人間関係もそつなく築いてきたつもりだった。  母がろくな人間ではなかったので、それを理由に揶揄われたり苛められたリしたこともあったが、笑ってかわしていれば相手もその内飽きていく。  代わりに親友と呼べるほど、深い付き合いの相手も居なかった。  どうでもいいやり取りをして、笑って「じゃあまた明日」と別れる、その程度の友人しか居ない。  けれど、それでも良かった。  ただ何となく日常を過ごして、ただ何となく生きていく。  母の元では、そんな生き方しか教わらなかった。  だから芳が発情した途端、薄っぺらい友人関係は呆気なく崩れ去った。  芳は所詮、誰にでも合わせる、無難で安っぽい服なのだから仕方ない。そんな服に執着する人間など居ない。  どうせ誰も、芳の存在なんて気にかけていない。  アパートに帰っても、芳を待っている家族は居ない。温かい食事もない。あるのは精々、干されてもいない、未だに子供サイズの固くて薄い布団くらいだ。  発情期がきっかけだったのか、それとももっと以前からなのか。今となってはわからないけれど、自分の存在意義を見失った芳は、面白いことなんて何一つないのに、ヘラヘラと笑うことしか出来なくなった。  それっきり学校には顔を出さず、高校にも進学せずに、芳は幼い頃から馴染んだ夜の街をひたすら転々とした。  まともな飲食店でバイトをしたこともあったが、たまたま声を掛けられて身体を重ねた相手から貰った額の方が多く、バイトの合間に身体を売った。  ───ああ、これじゃあまるで母と同じだ。  そう気付いたら、余計に笑いが込み上げた。  二十歳を過ぎてからは、風俗店で働き始めた。  最初は女性客を相手にする店だったのだが、Ωである芳は大して客も取れず、すぐに男性客専門の店へ移った。  その頃には身体を投げ出すことに既に何の抵抗もなかったが、中にはΩを執拗に嬲りたいだけの厄介な客も居た。ヘラヘラしている芳は特にハードルが低いと捉えられたのか、その手の客に目を付けられることが多かった。  そういう客は羽振りも良かったが、さすがに肉体的に痛めつけられるようになると耐え切れず、芳はその都度店を変えた。  そして複数の店を経て、風俗に足を踏み入れてから五軒目にあたる店、『unlock』に採用が決まった。  渋谷の裏通りに店を構えるそこは、出張ヘルス───所謂デリヘルだった。  客はやはり、男限定。働いている人間も、大半がΩだった。  けれど『unlock』にはたった一人、αの男が居た。オーナーの、藤原克彦(ふじわらかつひこ)だ。  聞いたことがないから正確にはわからないが、歳は恐らく三十代半ば。  αの割には人相が悪く、いつも派手なスーツを身に纏っている。似合ってもいないアクセサリーを無駄にジャラジャラと身に着けているその姿は、ゴテゴテに飾り付けたクリスマスツリーみたいだった。  藤原は、男性客専門の風俗店を経営している割には大の女好きで、芳たちのような男のΩを日頃から卑下していた。給料だけは良かったので皆黙ってはいたが、芳たちを単なる商売道具としか見ていない、最低の男だった。  まともに育ててもくれなかった母にも従順で居たし、客にどんな要求をされても、余程の無茶でもない限り芳は何でも受け入れてきた。だがそんな芳でさえ、藤原だけは生理的に受け付けられなかった。  藤原と話すときだけは、ヘラヘラ笑うことしか出来なくて良かったと思った。嫌悪感を剥き出しにせずに済んだから。  それなのに、『運命』は無情にも唐突にやってきた。 「あっ、あ、ゃ……っ!」  自分の口からひっきりなしに零れる声に、頭が追い付かなかった。  全裸に剥かれた芳は、ベッドに四つん這いになって、自ら腰を突き出している。  そしてそんな芳に覆いかぶさるようにして、細い身体を奧深くまで貫いているのは藤原だ。  ───なんで? どうして?  お互いを良く思っていなかったはずの自分たちが、何故こんなことになっているのか。  嬌声を上げながら、芳は必死に記憶を辿った。  その日、芳は出勤した直後に、予定より早くやってきた発情期に見舞われた。そのとき店に居たのは全員Ωだったので、「お疲れ様」とでも言いたげな視線を向けられたのは覚えている。  発情期の間は妊娠の可能性などもある為、客の相手は出来ない。藤原に連絡して暫く休みを貰おうと、携帯片手に店を出たところで、丁度やってきたばかりの藤原とバッタリ遭遇した。  その瞬間、まるで互いの間で激しい火花が散ったような感じがした。電流が走ったみたいに、全身がビリビリと痺れて総毛立つのがわかった。  そこから先は、よく覚えていない。  気付いたときには、藤原が居住スペースとして使っている店の二階に引き摺り込まれ、ベッドに組み敷かれていた。  それに何よりわけがわからなかったのは、藤原に対して嫌悪感しか抱いていないのに、彼に貫かれた身体がこれまでにない程快楽を拾って震えていたことだ。  いつも派手な女を傍に置き、芳たちΩを憐れみと蔑みの目で見ているような男に抱かれたくなどないのに、どういうわけか、芳の身体は腹の奧まで咥えた藤原を手放したがらない。  そしてそれは藤原も同じだったのか、 「雇ってやってるってのに、どんだけ卑しいんだ、クソが……っ」  ふざけるな、殺すぞ、などと芳に罵詈雑言を浴びせながらも、激しく突き上げる動きを止めようとしなかった。  一体どうなってるんだと思った直後、項に焼けるような痛みが走った。  嘘だろ、と咄嗟に項を押さえたときには、もう手遅れだった。指先に付いた鮮血が、藤原に噛み付かれたことを証明していた。  こんなにも呆気なく、何が何だかわからないままに、芳は藤原と番になった。  Ωの発情にあてられすぎて、衝動で番ってしまうαも居るとは聞く。だが、日頃から男のΩを心底嫌悪して蔑んでいる藤原が、芳と番ったりなんてするわけがない。そもそも芳が発情していたところで、手を出すことすら考えられないくらいなのに。  なら、どうして───。 「んあっ、ぁ、こんなの、嘘だ……っ、なんで……っ!?」 「それはこっちの台詞なんだよ。ぶっ殺してやる……!」  憎々しげな言葉と共に、藤原がまだ痛む芳の項を押さえつけた。一際高く腰を突き出す格好になった芳の最奥を、藤原が容赦なく穿つ。  自分たちの間に何が起こっているのか、全く理解が出来ないまま、芳は味わったことのない快楽の激流に翻弄され続けた。  二十七才の誕生日を一週間後に控えた夜の出来事だった。  それからどのくらい、藤原と交わっていたのかもわからない。  体の火照りが治まった頃、下肢は泥のように重かったが、散々激しく貫かれたにも拘らず、痛みは全く感じなかった。  ───よりによって、あの藤原に抱かれる羽目になるなんて。  頭は嫌悪と悔しさでいっぱいだったのに、芳の身体は確かに満たされている。そのことが、より一層悔しくて恐ろしかった。  目が覚めて藤原の姿が無かったのを良いことに、芳は逃げるようにアパートへ戻り、自分と藤原の間に起こった現象の原因を、片っ端から携帯で検索した。  探しても、探しても、探しても。  出てくるのは、決して受け入れたくない単語ばかり。  そんなはずはない。きっと他に原因があるはずだ。だって発情が治まった今、藤原に対しては以前にも増して嫌悪感しかない。  変わったことと言えば、項に残された噛み痕くらいだ。  ───こんなもの、怪我と同じだ。きっとその内、消えてなくなる。  そう言い聞かせて、芳はそれっきり藤原の元へは勿論、店にも戻らず、アパートの自室に篭って過ごした。  だが、もうずっと身体一つで収入を得ていた芳は、貯金などもなく、家賃が払えなくなるのも時間の問題だった。  ただでさえ社会的地位の低いΩが、無職で引き篭り生活なんて続けられるわけがない。  仕方なく、昔のように適当な相手を誘って身体を重ねようとした芳は、安いホテルで挿入された瞬間、全身をぐちゃぐちゃに掻き回されるような激痛と激しい吐き気に襲われた。芳の意思に反して、身体が勝手に相手を拒んでいるようだった。  自分の身体がどうなっているのかわからず、動揺しながら身悶える芳に驚いた相手は、着の身着のまま逃げて行った。相手が離れた直後、あれだけ激しかった症状は何事もなかったようにピタリと治まって、芳はいよいよ怖くて堪らなくなった。  絶対に辿り着きたくない答えに、じわじわと追い詰められている感覚。  いっそ観念して堕ちてしまえば身体は楽になると本能でわかっていたが、芳の心が必死に救いを求めて足掻いている。  やがて住む場所を失くした芳は、夜の街の喧騒に潜んで過ごした。小さな公園や路地裏で眠ることも、藤原の元へ戻ることに比べれば、充分快適に思えた。  けれど、第二の性というものは本当に厄介だ。  芳の都合などお構いなしに、また発情期がやってきた。  いかがわしい店が建ち並ぶ通りを発情したΩがフラフラと歩いていれば、普通なら無事では済まない。なのに、行き交う人々は発情期特有の熱を持て余す芳に、見向きもしない。  いっそ生まれて初めて発情したあの日みたいに、意識が無くなるまで滅茶苦茶にしてくれればいいのに、芳をどこかへ連れ込んでくれる相手は誰も居ない。  そうして気付けば、芳はずっと遠ざかっていた『unlock』の前に立っていた。  芳の意思じゃない。芳の本能が、ここへ───唯一の相手の元へ、芳を導いたのだ。  芳が藤原以外の相手を受け入れられなくなったように、藤原もまた女に手を出せなくなったのだろうか。  約三ヶ月ぶりに入った藤原の部屋は、酷く荒れて散らかっていた。 「なんでてめぇみたいな下等なΩを、抱かなきゃならねぇんだ」  芳の顔を見るなり忌々しげに吐き捨てた藤原に、ビールの空き缶がいくつも散らばったベッドへ乱雑に転がされた。生活も荒んでいたのか、藤原の目の下には濃いクマが出来ていて、人相の悪さに拍車をかけている。  溜まりに溜まった苛立ちをぶつけるように、前戯も無しにいきなり貫かれた。───痛みも苦痛も、微塵も無かった。  身体が壊れるのではと思うほど、どんなに激しく揺さぶられても、芳の身体は待ち侘びた快感に悦ぶばかりだった。  何度も達する芳の頭に、散々ネットで辿り着いた絶望的な単語が浮かぶ。 『運命の番』。  互いの意思など関係なく、本能で惹かれ合う、番の中でも最も強い繋がり。  こっちこそ、なんでお前みたいな男に抱かれなきゃいけないんだ、と頭の中には憎しみしかないのに、藤原と繋がった身体には快楽しかない。  ───これは、罰だ。  母と同じように、フラフラと適当な人生を歩んできた自分に下された、罰だ。  なら一体どうすれば良かったんだ。  誰も教えてなんかくれなかった。  ヘラヘラ笑ってでもいなければ、こんな人生やっていられない。  誰かを好きだとも嫌いだとも思ったことがなかった芳が、唯一藤原にだけは強い嫌悪感を覚えたのは、もしかすると芳の理性が必死で警告していたのかも知れない。この男にだけは近づくな、と───。  何度目かわからない絶頂を迎えた芳の目尻から、涙が伝い落ちた。この時本当に殺されていれば、まだ良かった。 『運命の番』との、地獄の日々の幕開けだった。 『運命の番』は、その相手に巡り会う確率自体が非常に低い。  Ω側が発情しているタイミングで出会う必要がある上に、相手はこの地球上のどこに存在しているかすらわからないからだ。  人生の中で数えきれないほど発情期を迎えるΩでも、その最中にどこの国に居るかもわからないたった一人の人物と出会うことなど、まずないだろう。  だからこそ、報告例自体が少ない『運命の番』は、まるで夢物語のように語られていることが多い。  だが、実際はそんなロマンチックなものじゃない。  中には本当におとぎ話みたいな『運命の番』も居るのかもしれないが、芳はずっと、『運命』なんて最初に言い出した人間を一発くらい殴ってやりたいと思っている。  自分の意思など一切関係なく、否応なしに番わされてしまう『運命』なんて、望んでいなかった。  芳と藤原が『運命の番』なのだと気付いてしまってから三年。  最初はどうしても認めたくなくて、何度か藤原以外の相手と関係を持とうと試みたが、やはり毎回酷い拒絶反応に襲われて、今では芳は藤原の部屋に見えない鎖で繋がれている。身体で稼ぐことも出来なくなってしまったので、不本意ながら芳は藤原に飼われている状態だった。 『unlock』なんていう店の経営者に縛られているなんて、とんだ皮肉だ。  単なる番であっても、互いの合意なしに衝動的に番ったというケースもある。『運命』だろうがそうでなかろうが、番ってしまえばαもΩも、互いにパートナーの身体しか受け付けなくなる。  特にΩに関しては、発情期の最中はパートナー以外の人間にほんの少し触れられただけでも、身体が強い拒絶反応を示す為、迂闊にパートナーから離れられない。  その代わり、パートナーであるαとの行為は、Ωの欲求をこの上なく満たしてくれる。  だからこそ、始まりは不本意でも、本能的な欲求を満たされる快楽に流されて、次第に絆されていく番も多い───と、ネット上には書かれていた。そのくらい、第二の性の本能に、人は抗えないのだと。  けれど芳は違った。  三年経った今でも、藤原との行為には相変わらず嫌悪しかない。  身体を重ねれば、身体は勝手に快感を拾う。だが、元々藤原という人間が嫌いな芳は、そんな自分自身にすら、嫌気がさしていた。  感情が伴わないセックスは、酷く苦痛だ。身体ではなく、心が辛くて堪らない。  いっそ、発情期なんて一生来ない身体になればいいのにと思う一方で、発情期がちゃんと一定間隔で訪れることに、芳はホッとしていた。  藤原と身体を重ねている以上、妊娠の可能性があるからだ。  抑制剤は殆ど効果が無かったので飲むのは止めてしまったが、避妊薬だけは必ず服用していた。藤原との子を身籠ることだけは、絶対に避けたかった。  発情期がやって来るということは、芳が妊娠していない証でもある。  来るな来るなと願う一方で、毎回発情期が来るたびに安心している自分が滑稽だった。  藤原と身体を重ねる度、ズタズタに引き裂かれていく胸の痛みを打ち消すように、芳は耳にピアスを開けた。お陰で今では両耳が穴だらけになった。  項の傷痕を見るのも見られるのも嫌だったので、髪も伸ばして、黒かった髪を別人みたいに明るく脱色した。  無意味だとはわかっていても、藤原と番っているΩは牧野芳とは別人なのだと、思い込みたかった。  いつまで経っても、絆されるどころか藤原に対して嫌悪感しか湧かないのは、元々彼のことが嫌いだったからというだけではない。  藤原の部屋に縛られるようになっても、借りだけは決して作りたくなかった芳は、自身の生活費を稼ぐ為、近隣のクラブでキッチンスタッフのバイトをさせて貰っていた。そのクラブのスタッフ仲間と話している中で、藤原がどうやら反社会勢力と繋がりがあるらしいという噂を聞いてしまったからだ。  おまけに最近では、覚醒剤の売買にも手を出しているようだという、きな臭い話も耳にした。  言われてみれば、藤原自身もカタギの人間には見えない風貌だし、部屋にいかにもといった風体の男が訪ねてくることが度々あった。  自身が経営していながら、『unlock』のスタッフを常に卑下している藤原は、当然スタッフからの評判も良くはない。だがそれでも羽振り良く金を払ってくれるので、辞めていく人間は少ないが、考えてみればそれも何だか妙だ。  極力関わりたくなかったので関心も持たなかったけれど、同じ場所で過ごしていても、藤原がまともな仕事をしている様子はない。  昼前に起き出し、いつも誰かと電話をしては、相変わらず派手なスーツで出掛けていく。そして数時間で戻ってくることもあれば、翌朝まで戻らないこともある。後者の場合、酷いアルコール臭を纏っていることが殆どだ。  そんな生活をしている藤原が、何故忌み嫌うΩを雇って風俗店を経営しているのだろう。その資金源は……?  考えれば考えるほど噂が信憑性を増していくようで、芳は思わず身震いした。  その直後。まだ午後四時前だというのに、藤原が部屋へ戻ってきた。  挨拶どころか、お互い視線すら交わさないのもいつものことだ。  藤原が、提げていたアタッシュケースを無造作に部屋の隅へ置き、そのままシャワーを浴びに奥のバスルームへ向かった。  数時間前、部屋を出て行ったとき、藤原は手ぶらだった。  ───反社会勢力。覚醒剤。  物騒な単語が頭を過ぎる。  バスルームから水音が聞こえ始めたのを確認して、芳はそろりとアタッシュケースを開けてみた。 「………っ!」  中を覗いた瞬間、危うく声が出そうになって、寸でのところで飲み込む。  アタッシュケースの中には、ビッシリと隙間なく札束が敷き詰められていた。  ───なんだよ、この金。  こんな大金を、一体どこから?  そもそもどうやって?  思わず大量の札束に目が釘付けになってしまったが、ふと見ると蓋の裏側には、白い砂糖のような粉末が入ったチャック付きのポリ袋が四つ、貼り付けられている。 「……なにコレ……」  どうして金と一緒にこんなものが…と手を伸ばしかけて、ハッとなる。  テレビでよく見る、警察のドキュメンタリー番組に出てくる覚醒剤に、似たような粉末があった。  藤原が最近手を出していると言われている覚醒剤。そんなものとは無縁な芳には相場なんてわからないが、それでも相当な高値で売買されているということくらいは知っている。  謎の粉末と、大金。  そんなものを揃って持っているということは……。  背筋をゾッと冷たいものが駆け抜ける。  見てはいけないものを見てしまった気がして、芳は急いでアタッシュケースの蓋を閉めると、元の場所へ押しやった。  ───俺は何も見てない。知らない。アイツが何を持ってたって、俺には関係ない。  何度も自分にそう言い聞かせながら、気を逸らそうと携帯を手にソファへ腰を下ろしたが、ドクドクと騒ぐ胸が一向に鎮まらない。  程なくして藤原がバスルームの扉を開けた音にビクリと肩が跳ねてしまい、芳は気付かれないよう、興味もないニュース画面をひたすら眺め続けた。当然、内容なんて頭に入ってこない。  下着姿でバスルームから出て来た藤原は、やけに上機嫌だった。別に芳に声を掛けてきたりはしないが、珍しく鼻歌なんて零している。  ひょっとして、あのアタッシュケースが関係しているのだろうか。  これまで藤原の持ち物になんて興味も示さなかった芳が、まさか中身を見ていたとは思ってもいないのだろう。藤原は顔を強張らせる芳に気付く様子もなく、脱ぎ捨てていたジャケットのポケットから白っぽい錠剤を取り出して口に含んだ。テーブルに置きっぱなしのミネラルウォーターで、ゴクリと飲み込む。  ……薬?  随分機嫌は良さそうなのに、具合でも悪いのかと不思議に思ったが、あまり意識しているとケースの中身を見たことも勘づかれてしまいそうで、芳は無意味に携帯を弄り続けた。  同じ場所に居ても、互いに干渉しないのはこの三年間、少しも変わらない。外で何をしているのかは知らないが、藤原が毎日どこかへ出掛けてくれることだけは有難いと思っていた。  ───そうだ。これでいい。  今までも発情期に身体を重ねる以外、お互い話をすることもなかった。藤原との生活は、母と居た頃の暮らしを思い出させた。  お互いに、ただ同じ空間に居るだけの存在。  だからさっきのケースの中身だって、芳はこの先もずっと見なかったことにして、黙って過ごしていればいい。  そう思って素知らぬ顔を決め込んでいた芳の二の腕が、不意に強く掴まれた。  え?、と驚いて顔を上げると、藤原が芳を見下ろしている。発情期でもないのに、藤原が芳に触れてきたのは初めてのことだ。  まさか勝手にケースに触れたことがバレたのかとドキリとしたが、そうではなかったらしい。  強い力で芳を無理矢理ソファから引っ張り起こした藤原は、芳の細い身体をベッドへ放った。そのまま発情期のときのように圧し掛かられてギョッとする。 「ちょ……俺、まだ発情期じゃないんだけど……!」 「そんなことは、どうれもいいんだよ。アケミ……いや、ミホらったかぁ……?」 「は……?」  呂律の怪しい口調で意味の分からないことを言われて、状況がすぐには把握出来なかった。  普段の藤原なら決して触れようとしない、芳の薄い胸を服の上からまさぐられ、そこでやっと、藤原の顔が不自然に紅潮していることに気が付いた。心なしか、目の焦点も合っていない気がする。  一瞬酔っ払っているのかと思ったが、芳が不愉快になるほど酒の匂いをさせていても、藤原がこんな風に酔っているところは見たことがない。それに何より、これだけの至近距離に居ても、藤原からアルコールの匂いは少しもしなかった。  発情期のときでさえ、こんな甘ったるい触れ方はしてこないのに、ありもしない芳の胸を揉みしだきながら、藤原は延々と知らない女の名前を呼び続けている。  ───まさか、さっきの薬……!  芳の予想を裏付けるように、藤原は「ああ、そうだ」と呟くと、どこか浮足立った様子で一旦ベッドを下り、ジャケットから先ほどの錠剤を手に戻ってきた。 「お前も飲めよ……気持ちいいぞぉ?」  藤原が、一見すると市販の頭痛薬のようにも見える錠剤を、芳の顔の前に差し出してくる。  そういえばまだ藤原と番う前、客の男から『エクスタシー』と呼ばれる錠剤タイプのセックスドラッグがあると聞いたことがあった。そんなものに興味がなかった芳は何の気なしに聞き流していたが、謎の錠剤を勧めてくる藤原の下肢を見ると、下着越しにハッキリと彼が興奮しているのがわかった。  発情もしていない芳に対して、藤原がこうも欲情するはずがない。いよいよ藤原自身も薬に手を出し始めたのかと、全身から血の気が引くのがわかった。  いつも見ようとしなかったからわからなかったが、久しぶりに正面から見据えた藤原の目許は以前にも増してどす黒くくすみ、頬も少しこけている。  もしかして、芳が気付くもっと以前から、薬に手を出していたんだろうか。  こんな薬を服用させられたらどうなるのだろう。  藤原と番っているのはΩである自分であって、心だけは決して奪われて堪るものかと思ってきた。なのに、その心まで壊されてしまったら、自分は一体どうなってしまうのだろう。  あと半月ほどで、恐らく次の発情期が来る。  発情するとただでさえ身体が制御出来なくなるのに、そこへ更に薬なんて使われたら、いよいよ芳は底の見えない谷底へ落下して、もう二度と戻れなくなる。 「…………いやだ」 「あぁ?」 「……お前に堕ちるくらいなら、死んだ方がマシだよ」  芳の口へ錠剤を押し込もうとする手を払い除け、芳は藤原の腹を蹴り上げると、相手が怯んだ隙にその下から抜け出した。  こんな男と番ったまま生涯を終えるくらいなら、自由になって死ぬ方がいい。望んでもいない『運命』なんかに、これ以上振り回されるくらいなら───。  よろめきながら伸ばされる藤原の手をかわし、芳は大した額も入っていない財布だけを掴んで、部屋を飛び出した。  薬の所為なのか、藤原が意味不明なことを叫んでいたが、構わず階段を駆け下りて駅へと走る。窓口で、芳の僅かな所持金で行ける、ここから最も遠い駅までの切符を買った。  駅員に告げられた駅名は『数田美』。聞いたことも無ければ、どこにあるのかすらもわからない。所持金も片道の切符代で使い果たしてしまった。  けれどもう戻りたくないのだからそれでいい。  いっそのこと、知らない駅に向かう電車が、この項に繋がれた忌々しい鎖を千切ってくれればいいのにと思いながら、芳は数田美駅を目指して電車に飛び乗った。

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