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第5話

  ◆◆◆◆ 「───もういいよ」  浅い呼吸の合間、電車を降りて神社へ辿り着くまでの経緯を話そうとする芳の言葉を、英司はひりつく喉から絞り出した声で制した。  耳を塞いではならないと思ったし、職業柄平静を保つのは得意だと自負していたが、それでもこれ以上、芳の口から話させたくはなかった。  飄々としている芳が、その内側に隠していた深すぎる傷口。その傷は、医大生の頃から数えきれないほど見てきたどんな傷よりも、痛々しく思えた。  もう充分だと目の前の細い身体を抱き締めたいのに、英司は発情した芳にこれ以上近付くことすら叶わない。  腹の奧から、やり場のない怒りと悔しさが止めどなく溢れてくる。  芳のパートナーの藤原という男が、英司とは何の繋がりもない赤の他人でまだ良かった。もしも知っていれば、ジッとしている自信がない。柄にもなく乗り込んで行って、なりふり構わず手を上げてしまいそうだった。  Ωが社会の中で立場が弱いということは周知の事だ。定職に就けず、芳のように身体を売って生活しているΩは、決して珍しくない。  そんなことは、学生の頃から知っていた。……いや、知っている『つもり』だった。  恵まれたαの家系に生まれ、挫折も知らず順調に医者への階段を上がってきた英司には、芳の境遇の過酷さなんて、決して想像し得るものではなかったのに───。  英司が医者を目指して上京していた頃、同じ都内に居た芳が凄惨な日々を過ごしていたのかと思うと、何ともやりきれない。 「ホントは、英ちゃんが言うみたいに、俺はもっと早く、この町から出ていくべきだった」  ごめん、と芳が哀しい声を零す。ギュッと引き絞られるように、胸が強く軋んだ。芳にそんな言葉を吐かせてしまう自分が、無力で口惜しい。 「……謝るのは僕の方だ。貴方のことを、考え無しで軽率な人だと思ってた」 「ハハ、実際その通りだよ」  乾いた声で笑う芳の耳朶で光る、いくつものピアス。それも今はただ痛々しい。  そんな風に軽く笑い飛ばせるような生き方なんてしていないはずなのに、彼は本当に、笑う事しか出来ないのだ。  芳の話を聞いてわかった。何故自分が、これまで機械的な人間だったのか。  家があり、家族が居て、親しい町民に囲まれて育ってきたαの英司は、特に不自由を感じたことなどなかった。  そんな生活を当たり前だと思い込んでいて、そこに特別な感情を持つこともなかった。不自由していないのだから、何かを強く求めることもなかった。  他人と深く関わることがなかったのも、現状に特に不満がないのに誰かに何かを求めたり、求められたリすることの必要性を感じていなかったからだ。  相手の懐へ踏み込もうとせず、目に見えるものしか見てこなかった。過度な干渉なんて煩わしいだけだと、敢えて自ら遠ざけてきた。  情というものに触れようともしなかった英司と、欲しくても与えてもらえなかった芳。  自分が如何に贅沢で、温い世界を生きてきたのか。そのことを、芳が思い知らせてくれた。  人情などこれから育めばいいと父は言っていたが、芳に出会っていなければ、英司はきっとこの先も冷たい機械のままだった。 「正直なところ、貴方がこの町に来たことを、最初は迷惑だと思ってた。パートナーの居るΩが単身やってくるなんて、絶対訳ありに決まってるし、そんな面倒事に巻き込まれるのは御免だって。でも今は、この町に来てくれて良かったと思ってる。牧野さんを───芳さんを、失くさずに済んだから」  芳が上の名前で呼ばれたくないという理由は、彼の生い立ちも関係しているのではと思い、英司は少し間を置いて言い直した。  もしも芳を無理にでも藤原の元へ返していたら、彼は藤原共々、薬に溺れてしまった可能性が高い。そんなことになれば、英司はこの先一生後悔するところだった。  英司の言葉に一瞬目を瞠った芳が、ふと懐かしむように頬を緩めた。 「俺さ……神社で初めて英ちゃん見かけたとき、最初は居なくなるまで隠れてようと思ったんだよね」 「僕が、神社の関係者だと思ったから?」 「それもあるけど、英ちゃん、αだったからさ。どうしてもアイツのこと思い出しちゃって。でも、ジッと町の方見つめてる英ちゃんの横顔が見えて、気が付いたら先に口が動いてた。何でだろってずっと不思議だったけど、今わかったよ」  ゆっくりと首を捻って、芳が英司の方へ顔を向けた。 「すごく大事なもの見るみたいに町を眺めてた英ちゃんが、父さんに似てる気がしたんだ」 「父さん……? それって、芳さんに料理を教えてくれた人?」 「そう。もう顔もハッキリ覚えてないのに不思議なんだけどさ。『いつか俺の店を持ちたいんだ』って言った父さんも、あのときの英ちゃんと同じような顔、してた気がする」 「……そんなに大事そうな顔、してたかな」  子供の頃からの日課になっていたし、神社はいつも貸し切りだったから、特に意識したことなんてなかった。  首を捻る英司に、芳が「してた」と即答する。 「俺もこんな風に見て貰えたらなって、子供のときに思ったの、覚えてるから」  その瞬間、初めて神社から朝日を見た日の記憶が鮮明に蘇った。  あの日は珍しく早朝に犬が吠え出して、真っ先に目を覚ました英司が近所迷惑にならないよう、まだ外が薄暗い中、散歩に連れ出した。  元々登校前に散歩に連れて行くのは英司の役目だったのだが、折角早く起きたのだからと、普段は行かない神社まで足を伸ばした。  神社の鳥居には雀が数羽並んでいて、その鳴き声に誘われるように犬が鳥居の方へ駆け出した。当然驚いた雀たちは一斉に飛び立ったけれど、その内の一羽が神社の奧へ向かったのを見て、英司は愛犬に引っ張られる格好でそのまま石段を駆け上がった。  空を自由に飛び回る雀に追いつけるはずもなく、石段を上がりきった頃には雀の姿はどこにもなかった。そこで引き返そうと振り返ったとき、たまたま山裾から太陽が顔を覗かせたのだ。  静まり返った町をゆっくりと朝日が照らし出していく様子は、モノクロだった世界が次第に色とりどりに染め上げられていくようで、思わず瞬きも忘れて見入ってしまったのを覚えている。  誰も居ない神社から見るその光景は、自分だけの宝物を手に入れたような気分にさせてくれた。  そして町を鮮やかに色づける朝日は、そのときから二十年ほど経った今も少しも変わらない。だから英司は、愛犬を亡くした今も神社へ通っている。幼い頃に見つけた宝物の存在を、確かめるように。  芳が気付かせてくれた、失くしたくないもの。年々この町が寂れていっても、昔から変わらない景色。  変わったものがあるとしたら、今はその景色の中に、芳が居ることだ。 「僕は今、芳さんのことも、あそこから見る景色と同じくらい、失くしたくないと思ってるよ」  英司の言葉に短く息を詰めた芳が、僅かに顔を背けた。 「……だから、出て行けないんだ」  どこへともなく視線を向けて、ポツリと芳が零す。 「前も言ったけど、俺ここに来たときは、もうどうなってもいいやって思ってたんだよ。それこそ、このまま野垂れ死のうが、凍え死のうが、アイツの傍じゃなきゃ何でもいいって。でもこの町の人、みんな優しいじゃん。俺がΩでも誰も気にしないしさ。……それに何より、英ちゃん、俺のこと叱ってくれたでしょ」 「叱った?」 「俺が『消して』って言ったとき。俺、誰かに褒められたこともないけど、あんな風に咎めてもらったの、初めてだったんだ。英ちゃん、言葉は素っ気ないけど優しいし、町のみんなも親切だし、こんなにあったかい場所があるんだって思ったら、どうしてもこの町から離れられなかった。発情期が来たら、全部壊れるってわかってたのに」  まるで懺悔でもするような、芳の声。  ポタリポタリと滴り落ちる点滴の雫が、泣けない芳に代わって涙を落としているように思えた。 「……離れたくないなら、居ればいいよ」  医者だとか、この町の為だとか。そんな煩わしい外聞は抜きにした、一人の人間としての言葉が、気付けば口から零れていた。  今なら、市川鮮魚店の娘を看取った父の気持ちが、少しはわかる気がする。  この町に居ても、芳と藤原の番の関係が切れることはない。こうして発情期が訪れれば、芳は満たされない欲求に一人、苦しむことになる。  だがそれでも芳がこの町に留まりたいと願うなら、この町で芳の心が癒されるなら、英司はその思いに応えたいと思った。 「……迷惑、じゃないの」  芳が、意外そうに目を瞬かせて英司を見詰める。  その瞳は熱を帯びてしっとりと濡れているのに、芳のフェロモンは決して英司を誘うことはない。 「芳さんは、離れたくないって思ったんでしょ」 「でも、さっき話した通り、俺のパートナーって相当厄介なヤツだし、俺も発情期が来るたびこうなるよ」 「今みたいに苦しい思いしても芳さんがこの町に居たいなら、そうすればいい。苦しんでる芳さんの姿をこうして眺めるくらいなら、僕にも出来るから」  フッと小さく、芳が噴き出した。 「なんだろう。意地悪なのに、英ちゃんにそう言われると、安心する」 「僕をサディストっぽいって言うなら、そういう芳さんはマゾヒストなのかもね」 「……英ちゃんになら、多分何されても苦しくなかったんだろうな」  切ない呟きは、芳が藤原から受けた苦痛の大きさを物語っていた。  ───そもそも僕なら、貴方を裏社会になんて引きずり込まなかったよ。  いっそこの場で無理にでも芳と繋がって、項の傷を上書きしてやれたらどれだけ良かっただろう。藤原と同じαでありながら、それすらも出来ない英司は、芳の前ではどうしようもなく無力だ。  英司に出来ることは、ただ芳を見守ることだけ。けれどそれでも……。 「芳さん、僕も貴方と───」  共に居たい。  そう言いかけた英司の言葉を、芳が「待って」と精一杯振り絞るような強い口調で遮った。 「……ありがと。でもそれ以上言わないで。じゃないと、俺が耐えられない」  早口にそう告げて、芳はソファの上で身体を捻ると英司に背中を向けた。  Tシャツの上からでもわかる、背骨の浮いた華奢な背中が小さく震えている。  芳は、藤原と番ってしまったことを罰だと言った。  それなら、芳の背を黙って見詰めることしか出来ない英司にも、きっと罰が下っているのだろう。  これまで人の心に触れることなく、淡々と過ごしてきたことへの戒め。 「……眠れないだろうから、点滴と一緒に眠剤も打っておくよ。ずっと僕が傍に居るのも辛いだろうし、点滴が終わったら一旦帰るから、何かあったらコレ鳴らして」  芳の身体に触れないよう、英司は腕を伸ばしてソファの背凭れの上に、プライベート用の携帯を置いた。  小さく鼻を啜る音がして、芳がおずおずとその携帯へ手を伸ばす。 「携帯って……コレ英ちゃんのじゃないの? 俺に渡しちゃったら困るじゃん」 「僕は仕事用のPHSがあるし、そっちはアラームくらいしか使ってないから。PHSの番号は、僕の名前で登録してある。仮に鳴ることがあっても、僕以外の相手からなら出なくていいよ」  英司の携帯をギュッと胸元に抱え込んで、芳がより一層背中を震わせた。  堪えきれない嗚咽を聞きながら、姉の言葉を思い返す。 『運命って、残酷だね』  どうせ出会うなら、何故もっと早くに出会えなかったのだろう。  芳は英司との出会いを、「運命の神様の導き」なんて言っていた。  今正にその『運命』に縛られている彼は、一体どんな思いでその言葉を口にしたのだろうか。  こんなにも傍に居るのに決して繋がることは許されないのなら、『運命』というのは、本当に残酷だ。  嗚咽交じりの呼吸がやがて寝息に代わるまで、英司は目の前にあるのに果てしなく遠い芳の背中を、ただジッと見詰め続けた。      ◆◆◆◆ 「毎回思うけど、この狭いキッチンで、よくこんなに作れるね」  作業台からすっかりダイニングテーブルに様変わりした台の上に並ぶ、一汁三菜の理想的な和食メニューを眺めて、英司は思わず感心した。 「ちゃんと米も土鍋で炊いたよ。ドヤ!」  エプロン姿の芳が、炊きたてのご飯がよそわれた茶碗を仕上げに添えて、得意げに胸を張る。 「『ドヤ』は顔だけでいいと思うけど」 「英ちゃんてば相変わらず塩対応! もうちょっとリアクションしてくれてもいいじゃん」 「ちゃんと感心したよ」 「顔が感心してない!」 「それは生まれつきだから諦めて」  ビシ!、と英司の顔を指差してくる芳を軽くいなして、英司はダイニングチェア代わりになっているパイプ椅子に腰を下ろした。  芳が発情期を抜けて三週間。  四月に入り、ようやく過ごしやすい季節になってきた。  芳は、また以前のように昼間は商店街の三井青果店を手伝いながら、最近は小屋の周囲の草刈りに追われている。小屋は見た目こそオンボロのままだが、中はもうすっかり綺麗になっているし、小屋の下半分を覆い隠すように伸びていた雑草も、今では朽ちかけた外観がハッキリ見えるくらいには刈り取られている。  英司もこれまで通りの生活に戻り、穏やかな日常が戻ってきていた。  あれから変化があったことと言えば、英司が小屋を訪れる頻度が以前より増したことだろうか。  発情期に世話になったからと、芳が英司を夕飯に招いてくれたことがきっかけだった。  芳の料理の腕前は想像以上で、初めて招いてくれた日には英司が好きだと言った筑前煮を用意してくれていたのだが、これが何とも絶妙な煮込み具合で、すっかり胃袋を掴まれてしまった。  それ以来、芳は英司が当直の日以外はいつも夕飯を振る舞ってくれるようになっていた。  この日の献立は、菜の花の辛子和えに、カボチャの煮付け、ネギや大根おろしがちゃんと添えられた厚揚げと、具沢山の豚汁。そして、いい具合におこげの出来た土鍋ご飯だ。 「英ちゃんが和食好きって、なんか意外だよね」  台が広い為、向かいに座ると距離がありすぎるからと、いつものように隣に座った芳が言う。 「そう? 日本人なんだし、別に普通だと思うけど」 「いや、そうなんだけどさ……英ちゃんて何か見た目シュッとしてるし、どっちかっていうとイタリアンとか洋食系が好きそうだと思ってたから、最初に筑前煮ってリクエスト貰ったとき渋いな!って思った」 「僕もまさか、芳さんが筑前煮まで作れるとは思ってなかったよ。……また『爺さん』って言うつもり?」 「あ、まだ根に持たれてる」  初めて会ったときの神社でのやり取りをふと思い出した英司に、芳が肩を揺らして笑う。  そんな他愛ない会話を繰り返しながら、共に夕食をつつく。  傍から見れば、まるで同棲しているカップルみたいな光景だ。英司は、これまで交際した相手の誰とも、ここまで甘い時間を過ごしたことなどない。  実際、芳が番っていることを知らない(というより、恐らく興味がない)町の住民たちからは、英司と芳は恋仲だと思われていた。  けれど、現実はそんな甘いものではなかった。  一見穏やかで、仲睦まじく隣り合って座る英司と芳の間には、目に見えない壁が聳え立っている。決して破ることの出来ない、強固な壁。  互いの姿も、時には心境までも見て取れるのに、恋人同士のようには触れ合えない。  番が居ながらこの町で過ごすことを選んだ芳の元に、英司は決してその壁を越えて近付くことは出来ない。  覚悟はしていたが、それは余りにももどかしい関係だった。  けれど互いにそれがわかっていたから、英司も芳も何も言わず、何も言えずに傍に居る。  英司の感情を初めて大きく揺さぶったのも。  馴れ馴れしく『英ちゃん』なんていう呼び方をしてきたのも。  親族以外で下の名前を呼んだのも。  英司が自ら傍に居たいと思ったのも。  全て芳が初めてだというのに、その芳は、英司ではないαと遠く離れた場所で繋がり続けている。  決してこれ以上関係が深まることはないとお互いわかっていながら、英司は芳と過ごしている。  不毛で、報われない関係。  だがそれでも、芳はそれを望んで、英司もそれに応えた。  傍から見ると滑稽なのかも知れない。自分たちの選択が、正しいのかどうかもわからない。  けれど芳が幸せなら、それでいいと思った。  芳と共に、ありふれた恋人同士のような穏やかな時間を過ごしていく。それが、芳を失わない為に英司が選んだ答えだった。偽りの恋人ごっこからいつまでも抜け出すことは出来ないと、互いに理解していながら───。 「ご馳走様。芳さん、これだけ料理得意なのに、どうしてそんなに華奢なの。見ただけでも、食事の摂取量が足りてないのがわかるんだけど」  食べ終えた食器を小さなシンクへ運びながら問い掛ける。  一方、まだ半分も食べ終えていない芳が、席を立って水の入ったケトルをカセットコンロにセットした。英司が食後に必ずコーヒーを飲むことを知っているからだ。  食事は和食派の英司だが、毎食後のコーヒーは多忙なとき以外欠かさない。  最初は英司自らドリップコーヒーを持参していたが、いつの間にか芳がそれを覚えて、用意してくれるようになっていた。 「俺、自分一人だとあんまり作る気も食う気もしなくてさ。昔から腹減ってるのが当たり前みたいな感じだったし、感覚麻痺してんのかも。だからこうやって英ちゃんが来てくれると自分の分も作るかーって気になるけど、自分だけならまあいっか…ってなっちゃうんだよね」 「それなら、極力僕がここに通いつめないとね。じゃないとその内、芳さんが嫌いな病院で点滴生活になるよ」 「うえー、それは勘弁……。俺、注射とか点滴って、針刺されるときも嫌だけど、抜かれるときのゾワッてする感じがめちゃくちゃ苦手」 「なら次に点滴するときは、極力ゆっくり抜くよ」 「英ちゃんのドS!」  芳の不貞腐れたような怒鳴り声に合わせて、ケトルが甲高い音と共に蒸気を噴き出した。  カセットコンロの火を止めた芳が、不意にクスリと笑う。 「……英ちゃんて、やっぱり医者だよね」 「サディストっぽいところが?」 「それもある。でもそれだけじゃなくて、簡単には死なせてくれない感じがさ。怖いけど、安心するんだ」 「……怖いのに安心するって、そんなこと言う芳さんはやっぱりマゾヒストだね」  目覚めちゃったかなあ、と軽口を言いながら、芳が英司専用のマグカップを用意する。  簡単には死なせないなんて、そんなもの当たり前だ。  絶対に失いたくない。それが、芳が気付かせてくれた、英司の信念なのだから。  芳を満たせないとわかっていても、英司は今更その手を放せない。  既に藤原に繋がれている芳を、この町に繋ぎ止めている自分は、サディスティックで歪んだ欲望の塊なのかも知れない。  芳がカップに湯を注ぎ、狭い小屋の中がコーヒーの香りに満たされる。  本来の木の匂いと混ざり合って、この古びた小屋が一瞬にして、森の中の小さなカフェにでもなったような気分になる。  少しほろ苦いけれど、心の中を穏やかに鎮めてくれるその香りは、まるで二人で過ごす時間そのものだ。  例え仮初めだとしても、この平穏に浸っていたいと、芳が淹れてくれたコーヒーに口をつけたとき。そんな空気を一瞬で散らすような、無粋な電子音が鳴り響いた。  ソファに引っ掛けていた英司のジャケットのポケットで、PHSが呼び出し音を響かせている。 「ごめん、病院からだ」  溜息混じりにカップを下ろし、芳に一声かけてから英司はソファの前でPHSの応答ボタンを押した。 『あっ、若先生スミマセン! 今どちらですか!?』  繋がった途端、英司が声を発するより早く、慌てた様子の看護師の声がキンと響いた。 「……家ですけど、どうかしました?」  芳の、という部分は伏せて答える。どうせ車で来ているし、病院から掛かる時間は自宅と大して変わらない。  英司の返答を聞いて、スピーカー越しに安堵の溜息が聞こえてきた。 『申し訳ないんですけど、至急病院まで来て頂けませんか。急患の方が見えてるんです』 「急患?」  聞き返した英司の言葉に、芳が「どうかしたの」とでも言うような視線を向けてくる。どうやら今日は、コーヒーを味わう余裕は無さそうだ。申し訳ない思いで軽く芳に右手を上げてから、英司は通話に応じる声のトーンを少し落とした。 「澤口先生は?」  今日の当直は姉の英里だ。父は明日の学会に備えて泊まりで都内へ出掛けているので今日は不在だが、姉一人で対応出来ないほどの重症者でも来たのだろうか。 『少し前に、松田さんの奥様が喘息で夜間救急外来にいらっしゃって、澤口先生はそちらに入られてるんです』 「他に急患が来たんですか? 名前は?」 『それが、この町の方ではないみたいで……』  ドク、と自分の心臓が大きく鳴るのがわかった。  ───この町の人間じゃない?  思わず横目で、チビチビと食事を口へ運ぶ芳を盗み見てしまう。  芳がこの町へやって来たのは、本当に偶然だ。  たまたま彼がこの町までの電車賃しかなかったから辿り着いただけで、芳はこの町とは縁もゆかりも何もない。  だからこんな田舎の町にまで、『あの男』が追い掛けてくるはずはない。  そう自身に言い聞かせる英司の耳許で、看護師が一方的に捲し立てた。 『ついさっき運ばれてきたところなので、まだ身元確認は出来ていませんが、成人男性のαです』  頭から、冷水を浴びせられたような気分だった。PHSを握る指先が冷えていくのがわかる。  この町の人間ではない、男性のα。  それが何故、こんな町に? 「……すぐに行きます」  辛うじてそう答えて、英司は通話を切った。 「急患って聞こえたけど、病院、なんかあったの?」  事態を知る由もない芳が、ようやく食べ終えたらしい食器を片付けながら心配そうに声を掛けてくる。 「ごめん、ちょっと手が足りないみたいだから、行ってくるよ。ご馳走様」  とても芳の顔が見られず、ジャケットに袖を通しながら口早にそう返すことしか出来なかった。  きっとこの町の住民の中から、急患が出たと思っているのだろう。「気ぃつけてね」と患者のことも案じるような言葉を送ってくる芳に、英司は小さく頷き返すと、急いで小屋を出た。  背中で扉を閉めて、腹の底から深くて重い息を吐き出す。  顔が強張っていたことに、気付かれなかっただろうか。  ───偶然条件が被っているだけで、きっと別人だ。  芳だって言っていた。芳がそうだったように、藤原もまた芳に執着することなどなかったと。  だからきっと別のαに違いない。  自分自身をそう言い含めて、車に乗り込む。エンジンをかけて、ふと思った。  ───もしも、そのαが藤原だったら?  離れても尚、芳を苦しめ続けている男。  どちらかが死ぬまで、決して切れることがない鎖で芳と繋がった、唯一の相手。  芳のことを微塵も愛してなどいない、生涯のパートナー。  ……そんな男を前にしたとき、自分は医者で居られるのか? 「……『運命』なんて、残酷なだけだ」  フロントガラスの向こうを見据えたまま、英司は暗雲のように垂れ込める暗闇の中へ、静かにアクセルを踏み込んだ。

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