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第6話
白衣に袖を通す瞬間が、英司は好きだった。
中学に上がって初めて真新しい制服に身を包んだとき、自分が少し大人びたようで自然と背筋が伸びた。白衣もそれと似たようなもので、真っ白にクリーニングされた白衣を纏う度、気持ちがピンと引き締まる感じがする。
だが、今日ほどその瞬間を、陰鬱に感じたことはなかった。
病院に着くなり、更衣室で白衣に着替えた英司は、足早に例の急患が待つ処置室へと向かった。
白衣を着ている以上、今の自分は医者だ。相手がどんな人間であろうと、医者として向き合う以上、そこに私情は持ち込めない。
今だけは機械になれと自分に言い聞かせて、英司は処置室の扉を開けた。
「若先生! 折角ご帰宅されてたのに、すみません」
血圧計を抱えて処置室の中を忙しなく走り回っていた看護師が、英司の姿に気付いてペコリと頭を下げた。
これで処置室に人相の悪い薬漬けのαが居たら、平静を保てた自信が無かったが、英司は足を踏み入れた瞬間、安堵の息を漏らしていた。
診察台に横たわっていたのが、熊のような大男だったからだ。
英司もαなので、その男もまたαであることは匂いですぐにわかった。だが、髪はボサボサ、髭も伸び放題。おまけにくたびれたTシャツと、ダメージデニムなんていう洒落た言い方は到底出来ない、どう見ても着倒して穴が開きかけたジーンズというその姿は、初対面の芳より余程ホームレスのようだ。
唯一αらしい部分が伺えるとしたら、ガッシリと鍛え上げられた肉体だろうか。
この町の住民でないことは明らかだが、この男は藤原ではないと、英司は直感的にそう思った。
目の前の男からは、本能的な嫌悪を感じない。芳があれほど嫌悪感を露わにしている相手なら、自分も見ればそれなりに感じるものがあると思ったのだ。
むしろ、診察台にぐったりと横たわる熊男からは、何故か芳と同じような空気を感じた。華奢な芳と違って逞しい体つきも、αとΩという点も、芳とはまるで真逆なのに。
何故そう思うのだろうと首を捻りつつ、英司は看護師が測定しておいてくれたバイタルをチェックする。
体温は問題ないが、血圧と脈拍数が少し低い。
「彼の所持品は?」
「こちらです」
看護師が、財布と携帯電話が載ったプラスチックのトレイを差し出してきた。
「……これだけですか?」
「駅前で倒れていたのを、三井青果店のご主人が気付いてここまで運んでくれたんですが、これ以外特に所持品は無かったみたいです」
ろくな荷物も持っていない、身元不明の男……どこかで聞いたような話だ。
安心していたのも束の間、今度は別の意味で頭が痛くなってくる。
貧血の有無を確かめる為に閉じた男の下瞼を押し下げると、低い呻き声が聞こえた。
軽度の貧血と脱水もある。
まだ詳しい検査をしていないので断言は出来ないが、彼の見た目と症状から察するに、極度の不摂生───栄養失調の可能性が高そうだ。不安要素があるとしたら、倒れた状況がわからないので、そのときに頭を打ったりしていないかどうか……。
時折うなされるように呻いてはいるが、男はまだ目を覚ます様子がない。
一先ず看護師に採血と点滴の指示を出して、英司は身元確認の為に彼の所持品だという財布を開いた。
その瞬間、小さな塊が財布から零れ落ちて、カツンと床で跳ねる音がした。
「………?」
身を屈めて拾い上げたそれは、小さくて丸い金色のバッジだ。ひまわりを象ったそのバッジの中央には、公正と平等を表す天秤。
「弁護士バッジ……?」
どう見ても浮浪者のようにしか見えない、この男の持ち物なのだろうか。
───この熊男が弁護士?
バッジをトレイに載せ、財布に入っていた免許証を確認する。
氏名欄には『熊谷勝吾』とある。
住所は都内中野区。生年月日を見ると、英司と同い年だった。
免許は普通車以外にも大型や大型二輪に加え、大型特殊まで取得している。色もゴールド。
だが何より驚いたのは、免許証の写真だ。
写っているのは、精悍で掘りの深い、見目の良いスポーツマンのような男。
診察台で呻いている熊とのあまりの違いに、もしや盗品なのでは…という疑念が脳裏を掠めたが、鬱陶しい髪と髭を取り去ったところを想像してみると、顔立ちも体つきも、信じがたいが写真の男と一致する気がする。そもそも名前に『熊』の字が入ってるじゃないか、とらしからぬことを考えてしまったのは、きっと芳に毒されているからだ。
免許証を財布に戻そうとしたとき、カード入れに紛れるようにして入っていた一枚の名刺が目に留まった。
『熊谷法律事務所
弁護士 熊谷 勝吾』
いかにもαらしい、立派な肩書き付きの名刺。
どうやらさっきの弁護士バッジは、やはり彼のもので間違いないらしい。免許証の写真はともかく、目の前の彼は、到底弁護士という風貌ではないが。
男から採取した血液を、検査室へ運びに看護師が処置室を出て行った直後。大きな身体が身じろいで、男が薄らと目を開けた。
「こんばんは」
診察台の脇に立って、男の顔を見下ろす。最初はぼんやりと宙を彷徨っていた視線が、やがて英司の顔を捉えて目が合った。
「……誰だ……?」
低く掠れた声が問い掛けてくる。
「ここ、どこだかわかる?」
男は気怠そうに視線だけで軽く辺りを見渡し、自身の腕に伸びた点滴のチューブに気付いたのか、「病院……?」と呟いた。
「正解。僕は医師の月村英司。自分の名前は言える?」
「……熊谷 、勝吾 だ」
「生年月日は?」
英司の問い掛けにポツポツと男が答える。それはどれも、免許証の内容と合致していた。
衰弱はしているが、どうやら意識はしっかりしているようだ。
「駅前で倒れてたって聞いたけど、そのときの状況は覚えてる?」
「……あんまり、覚えてねぇな。電車降りた頃には頭もボーっとしてて、改札出たら気が遠くなった」
「ここには、何しに来たの?」
「別に、何も。何となく、景色が気に入ったから降りてみただけだ」
「……つまり、特にこの町に用があったわけじゃないってこと?」
妙な既視感を覚える英司に、熊谷は「ああ」と小さく頷いた。
「知らねぇ場所なら、どこでも良かった」
───またそんなこと。
逞しい体躯が気の毒に思うほど、投げ遣りな発言。
まるで、初めて会ったときの芳みたいだ。この男に、芳と同じような雰囲気を感じたのはその所為なのか。
弁護士という肩書きがありながら、こんなみすぼらしい姿で行き倒れていた熊谷も、どう考えたって『まとも』じゃない。
熊谷に何があったのかは知らないが、いつからこの町は、行くあてのない訳あり放浪者の聖地になったのだろう。
呆れの滲む面持ちで、熊谷の顔を改めて見詰める。
顔色は悪いし、乱れた髪と伸びた髭でパッと見の印象はハッキリ言って最悪だが、こうして目を開けているところを改めて見ると、顔の造りはやはりαらしく整っている。免許証の写真通りにしていれば、弁護士という職業も板について見えるのに、そう見せたくない理由があるのだろうか。
「仕事は、何をしてるの?」
意識レベルや記憶障害の有無を確認する目的も兼ねて、さり気なく問うてみる。
途端に熊谷は、苦いものでも噛み潰したような顔になった。
「……今は、無職だ」
「さっき、身元確認の為に財布の中を少し見せて貰ったんだけど、コレが出て来た。名刺もあったけど、弁護士は前職?」
預かり品のトレイから弁護士バッジを摘んで見せると、熊谷は顰めた顔をフイと背けた。
「もう必要ねぇから、捨ててくれ」
いつかの芳のように、体格にそぐわない小声で熊谷がボソリと吐き捨てた。
本当に必要ない物なら、わざわざ荷物も持たない中、このバッジを持ち歩いたりしないだろうに。
───どうして失いたくない僕に、君たちは捨てさせようとするんだ。
「……もうここは『捨命』じゃないんだよ」
「ん……?」
溜息混じりの呟きを拾った熊谷に「こっちの話」と誤魔化して、英司は眩しく光るバッジをそっとトレイに戻した。
「預かり品は落ち着いたら全て返却してサインをもらうことになってるから、捨てたいならその後ご自由に。ところで、意識はだいぶハッキリしてきたようだけど、最後に飲食したのはいつ?」
「……さあ、いつだっけな」
「君の体格からすると、ずっと不摂生だったとは思えないんだけど、最近具合が悪かったりしたの?」
「いや……ただもうずっと、何もする気が起きなかっただけだ」
何を見るでもなく宙を仰いで、熊谷がどこか他人事のように答える。彼もまた、何かに囚われているんだろうか。
今度は番のΩから逃げてきたα、なんていうのは勘弁して欲しいと思いながら、英司は熊谷の身体を一通り診察した。
終わったところで、看護師が採血結果の用紙を持って戻ってきた。やはり軽度の貧血・脱水・低栄養は見受けられるが、それ以外は特に異常な数値は出ていない。
芳もそうだが、熊谷もこんな状態でこの町までやって来たくらいなのだから、本当は失いたいはずがない。口ではどうでもいいなんて言いながら、心の中ではきっと救いや居場所を求めている。
だからこそ、英司は意地でも失わせない医者であり続ける。
「念の為後でレントゲンとCT検査もするけど、どうもその立派な身体に見合った栄養が足りてないみたいだから、数日間は入院だよ」
「さすがに、そこまで世話になれねぇよ。もう充分だ」
診察台の上で身体を起こそうとする熊谷の顔の前に、財布と携帯、そして弁護士バッジが載ったトレイを突きつける。
「弁護士バッジの天秤の意味は公正と平等。ひまわりは、正義と自由だったよね。人は皆、平等に自由なんでしょ。だったら、何かする気が起きるまで寝てたらどう? 君には自由に生きる権利があるし、僕にも僕の正義を貫く権利がある。今は医者として、君をこのまま帰せない。まともに動けるようになったとき、それでも君がまだそのバッジを捨てたいかどうか、寝ながら考えればいい」
虚を突かれたようにぐっと言葉に詰まった熊谷が、躊躇った後、観念したように再び診察台に横になった。
───人は皆、平等に自由。
自分で言っておきながら、そうではない芳の顔が脳裏に浮かぶ。
熊谷が持ち込んだひまわりが、芳にも本当の自由を与えてくれれば良いのにと、自分たちには眩しすぎるバッジを見詰めて思った。
◆◆◆◆
初めて月村病院の中へ足を踏み入れた芳は、その瞬間胸の奧からホッと息を吐き出した。
芳が苦手なアルコール臭はするけれど、それ以上に苦手な相手の気配が無かったからだ。
昨夜、急患が出たと病院へ戻った英司から、その患者が暫く入院することになったので、退院するまでは小屋へは来られないと連絡があった。
その急患は、てっきりこの町の誰かなのだろうと思っていた。
だから今日、午前中に小屋の周囲の草刈りをして、昼過ぎに三井青果店を手伝いにきて驚いた。
店主の三井から、
「昨夜駅前で拾った、見慣れない兄ちゃんの容態が気になるから、代わりに見に行ってくれねぇか」
と頼まれたからだ。
代わりに見舞いに行くのは全く問題ないのだが、「見慣れない兄ちゃん」という言葉に、芳は思わずギクリとなった。
渋谷で店を構えて、手段はともかくそこで収入を得ている藤原がわざわざ自分を追って来るとは思えなかったが、それでももしかして…という不安は拭えなかった。
だから、病院に入った瞬間、藤原の気配を全く感じないことに、芳は心底安堵した。不本意ながら、藤原の気配だけは近くに居ると身体が勝手に察知してしまうのだ。
ずっと病院という場所が苦手で遠ざかっていたが、初めてやってきた月村病院は、建物こそかなり老朽化が進んでいるものの、芳がこれまで訪れた病院の中では最も温かい感じがした。
バーコードを翳しただけで受付から会計まで、全ての処理が済んでしまう真新しくて機械的な病院とは違って、月村病院は全てスタッフが対応している。待合には、病院とは思えないほどのんびりと世間話に興じるお年寄りが居るし、もう何年も前に流行っていたJ-POPのオルゴールver.が、ごく控えめな音量で流れている。
初めて来たのに、どこか懐かしいようなその雰囲気が、芳は嫌いではないと思った。自分も診て貰うことがあるなら、こんな病院がいい。
「あのー、スイマセン。三井さんから代理でお見舞い頼まれたんですけど、昨日運ばれてきた急患さんって、面会出来ますか?」
受付の女性に声を掛けると、彼女は「ああ、熊谷さんですね」とすぐに応じてくれた。
機械なら一瞬で判別出来て当然だけれど、人なのにちゃんと瞬時に名前が返ってくるところも、小さな町の病院ならではという感じがする。
三井が運んだ青年は、どうやら熊谷というらしい。藤原ではない名前を聞いて、更に安心感が増した。
「熊谷さんの病室は、201号室です。そちらの階段を上がってすぐ左手の病室ですよ。他に入院患者さんは居ませんから、ごゆっくり」
受付脇にある階段を示して、丁寧に説明してくれた女性に「ありがとうございます」とペコリと頭を下げて、芳は所々滑り止めのゴムが剥がれてしまっている階段を上がった。
言われた通り、『201』とプレートの掲げられた病室は、階段を上がって廊下を曲がった目の前にあった。入り口のドアは開いていて、小さくテレビらしき音が漏れ聞こえている。
「……失礼しまーす」
おずおずと扉口から顔を覗かせると、四人部屋の右奥、窓際のベッドの上に、大きな熊が鎮座していた。
あまりにも平和な町だから、とうとう動物も診てやるようになったのだろうかと、一瞬本気で思った。そのくらい、ベッドに座っている大男は髪もボサボサで、髭ももっさり。もうちょっと顔に毛を足せば、スター〇ォーズに出て来るキャラクターになりそうだ。
その容姿にも驚いたけれど、そんな彼がαだったことにも驚いた。
αというと、大抵は英司のように端正な顔立ちの人間が多い。藤原でも異質なくらいなのに、この彼は一体どうしたことか。
「誰だ、アンタ? 随分派手だが、病院の人間じゃねぇよな……?」
ベッドに近付く芳へ、男が伸びた前髪の奧から不信感たっぷりの眼差しを向けてくる。
遠目に見ると正しく熊だと思ったが、近くまで来ると、髪と髭が残念なだけで、顔の造作自体は整っているのがわかった。おまけに、体つきもガッシリしていて男らしい。
枕元に付けられたネームタグには『熊谷勝吾』と書かれていた。
「プッ……!」
見た目通りの名前に、ついつい噴き出してしまう。芳の視線を辿ってその理由を察したらしい熊谷が、居心地が悪そうに小さく舌打ちした。
二十九才と書かれているから、彼は英司と同い年だ。
人の事は言えないが、この若さでしかもαだというのに、どうして彼はこの町へやって来たのだろう。
「昨日、駅前で倒れてたって聞いたよ。勝ちゃんをここまで運んでくれた八百屋の三井さんから、様子見てきて欲しいって頼まれたんだ」
「駅に着いたとこまでしか覚えてなかったんだが、その人が連れてきてくれたのか。つうか、『勝ちゃん』ってのは、まさか俺のことか?」
「だって、『しょうご』って読むんじゃないの、コレ」
芳が指差したネームプレートを見て、熊谷が「そうだが……」と困ったような顰め面で項を掻く。
そういえば英司も初めて芳が「英ちゃん」と呼んだとき、嫌そうな顔してたっけ、と思い出してまた笑いそうになった。
「俺、牧野芳。芳でいいよ」
「いいよ、じゃないよ」
芳が熊谷に名乗った直後。病室の入り口から、呆れたような声が飛んできた。
「賑やかだと思ったら、こんなところで何してるの芳さん」
白衣姿の英司が、プラスチックのトレイを手に病室へと入って来た。
「関係者以外は立ち入り禁止だって言ったよね」
「今日は三井さんの代理でお見舞いに来たから、関係者でーす」
「だったら三井さんにいい報告が出来るように、極力静かにしてて。何なら芳さんもついでに点滴打っていく?」
「絶対針刺したいだけでしょ、ソレ」
口を尖らせる芳をスルーして、英司が聴診器を耳に引っ掛けた。シャツの上から熊谷の逞しい胸に聴診器を当て、そのまま手を取って脈を測る。
「起き上がってテレビが見られてるってことは、少しは具合良くなってきた? 朝食と昼食のお粥は完食したって看護師から聞いてるけど」
「飯出してもらってありがてぇが、アレ、せめて味付かねぇのか」
「絶食期間が長かったみたいだから、そのツケだと思って我慢して。まあこの調子で食べられるようなら、食事の量も徐々に増やしていけるし、もうちょっと味気のあるものになるよ。……ちゃんと、食べる気になってるじゃないか」
少しだけ意地悪く、けれどどこか嬉しそうに英司が呟いた。気まずそうに、熊谷が鳥の巣みたいな後頭部を掻く。
事情はよくわからないが、熊谷もきっと英司に救われた一人なのだろうと、芳は思った。
「僕は午後診の準備と、まだ雑務が残ってるから取り敢えずコレ、返しておくよ。昨日あのまま君が眠っちゃって、渡せなかったから」
英司が、提げてきたプラチックのトレイを熊谷に手渡した。『預かり品』とテープでラベリングされたそのトレイには、スマートフォンと使い込まれた革財布、それから金色の小さなバッジが入っている。
「あれ、そのバッジ、昔ドラマで見たことある。弁護士がつけてるヤツだ。てことは勝ちゃんて、もしかして弁護士?」
弁護士=頭がいい、という程度の知識しかない芳は純粋に「すごい」と感心の声を上げた。
英司と熊谷が、揃って短く沈黙する。
……何か、マズイところに触れてしまったんだろうか。
「後で看護師が点滴交換のときに用紙を持ってくると思うから、財布とか携帯とか中身を確認して、問題なければサインして渡して。それじゃ、芳さんもあんまり長居しないようにね。三井さんには順調だってよろしく伝えておいて」
先に沈黙を破った英司は、芳の問いをサラリと流してから病室を出て行った。
考えてみれば、弁護士というとビシッとスーツを着込んで身なりもそこそこ整えている印象だが、熊谷はそんなイメージとは正反対だ。
もしかしたら熊谷も、何か理由があって弁護士という職業から逃げてきたのかも知れない。芳が、藤原から逃げ出してきたように。
「勝ちゃんは、なんでこの町選んだの」
突然話題を変えた芳に、熊谷が一瞬面喰ったような顔をする。
「……敢えてこの町を選んだわけじゃねぇ。何となく、ここで電車を降りたってだけだ」
「じゃあたまたまってこと? やっぱこの町、見えないオーラか何かあんのかなあ。俺と同じだ」
「同じ?」
「俺も最近、フラッとこの町に来たとこなんだよ。勝ちゃんと一緒」
「そうなのか? さっきの医者……月村って言ったか。アイツの番じゃないのか?」
熊谷もαなので、やはり芳が番の居るΩだということはバレていたらしい。第二の性なんてつくづく面倒だと、芳は小さく息を零した。
「……そうだったら、良かったんだけどね」
本当に、英司が芳の『運命』の相手だったなら、どれだけ良かっただろう。……いや、別に『運命』じゃなくてもいい。
藤原と番う前に英司と出会えていたら、ままごとみたいな関係じゃなく、ちゃんとした恋人同士になれたんだろうか。
人生は、全然思い通りになんかならない。
「……悪ぃ。余計なこと聞いちまった」
今度は芳が沈黙したのを見て、熊谷が凛々しい眉を下げた。
芳は昔からこんな調子なので、相手によっては「馴れ馴れしい」と嫌悪されることも珍しいことではなかった。Ωだから尚更だ。
けれど、英司も熊谷も、そんな芳を突き放したりしない。
突然病室にやってきて話しかける芳に困惑しつつも、熊谷はこうして相手をしてくれる。
英司と同じαで、おまけに同い年。
見た目や話し方は正反対だが、英司と熊谷には何となく似たものを感じる。どちらも見た目に反して、根っこは優しいところが。
今は熊谷の方が心身共に弱っているのに、謝らせてしまったことが申し訳なくて、芳は重い空気を吹き飛ばすように笑って見せた。
「だから、『勝ちゃんと一緒』だって言ったじゃん。───でも、大丈夫だよ」
「……大丈夫って、何がだ?」
「俺も勝ちゃんも、英ちゃんに見つけてもらえたからさ」
「英ちゃんって、あの医者のことか?」
「うん。英ちゃんは、簡単に投げ出させてくれないから。俺も、ぶっちゃけ苦しいこといっぱいあるけど、それでも生きてなきゃ味わえないものもあるなって、英ちゃんが気付かせてくれた」
英司はこの町の名前がかつて『捨命』だったと言っていた。
何となくその話が気になって、芳は偶然見つけた小さな図書館でこの町の歴史に関する本を色々と読んでみた。
英司は『捨命』の由来を良く思っていないようだったけれど、芳はこの町にはむしろピッタリな名前だと思った。
芳や熊谷のように、生きることに対して投げやりで、捨てたがりな人間がどういうわけか辿り着く町。
そしてそれを救ってくれたのは、この町のシンボルのような月村病院の医者である英司だった。
英司が居れば、少なくともここで『捨てられる』命は無いだろうと、芳は思っている。
「生きてなきゃ味わえない……か。確かに、苦しむことも生きてる意味にはなるのかも知れねぇな」
熊谷が、流れっぱなしのテレビ画面を見詰めて呟いた。
その目は、画面の向こうに何かを探しているようにも見える。熊谷にも、芳にとっての英司のように、この町で救いが見つかればいいと思った。
「随分お堅い番組見てんね。小さいけど商店街に本屋あるし、ちょっと行けば図書館もあるから、何なら本とか差し入れ持ってくるけど」
芳が部屋に来たときからテレビで流れているのは、ゴシップ色の少ない情報番組だ。
きっちりとネクタイを閉めたスーツ姿のコメンテーターが、何やら小難しいことを話している。
芳に言われて初めて気付いたとばかりに、熊谷が筋肉のついた肩を竦めた。
「もう見る必要も無ぇんだが、染み付いた癖ってのは厄介だな。前の仕事柄、ついついこの手の番組でチャンネルが止まっちまう」
前の仕事、というのは、恐らく弁護士のことなのだろう。
綺麗さっぱり忘れ去りたいのに、それが出来ない気持ちは、芳にも何となくわかる。芳も未だに藤原の夢を見ては、飛び起きてそこが小さな小屋の中であることに安堵することが度々あった。
きっといつまでも解けない呪い。いっそおとぎ話みたいに、キス一つでこの呪いが解ければいいのに。
叶うことのない願望に、自分自身で呆れた溜息を落としたとき。
何の気なしに目をやったテレビ画面のテロップに、芳は目を瞠った。
『ホテルで二十代男性Ω変死。体内から覚醒剤』
決して穏やかではない単語の羅列。
しかも、他人事とは思えない言葉がいくつも含まれている。
『───昨日、渋谷区のホテルの一室で、二十代の男性Ωが死亡しているのが発見されました。時間になっても出てこないことから、従業員が部屋を訪ねたところ室内で男性が倒れており、119番通報しましたが、搬送先の病院で死亡が確認されました。尚、亡くなった男性の体内からは覚醒剤の成分が検出されており、警察は共に宿泊していたとみられる男の行方を追って───』
淡々と原稿を読み上げるアナウンサーの声に合わせて、画面がモザイク処理の施されたホテルの画像に切り替わる。
それを見た途端、視線が益々画面に釘付けになった。
モザイク越しでも、芳にはそのホテルの場所も名前もすぐにわかった。何度も客と利用したことがあったからだ。
芳だけでなく、渋谷界隈で身体を売っているΩなら、恐らく皆一度は利用したことがあるだろう。駅からのアクセスが良いこともあって、このホテルを指定してくる客は多く居た。
「……この手のニュースは絶えねぇな」
険しい顔で、熊谷が低く零した。
「そう、なの?」
問い返す声が、不自然に掠れてしまった。元々テレビ自体あまり見ない芳は、ニュースだって滅多に見ることがない。ましてやこの町に来てからは、見る機会すらなかった。
「状況的に、大方風俗絡みだろう。どっちが使ったのかはわからねぇが、デリヘル系の風俗は客と店の外で一対一になれる分、裏で薬の運びもやらせてる店は多いからな」
「え……」
デリヘル、と聞いて芳は思わず絶句する。
「……勝ちゃん、そういう情報詳しいの」
「仕事が仕事だっただけに、その手の情報はある程度入ってくる」
芳は入って間もない内に藤原と番ってしまった為、ほとんど仕事は出来なかったが、『unlock』もデリヘルだった。
オーナーから毛嫌いされている男のΩが、多数雇われている風俗店。
おまけにそのオーナーの藤原は、覚醒剤に手を出していた。
まさか、と嫌な予感に胸がざわつく。
「あのさ……Ωを卑下しまくってんのに、高い金でΩ雇って風俗店やってるって、よくあること?」
「やけに突っ込んだこと聞くな……。アンタもΩだからか? そういう店に居たことあるのか」
「まあ、そんなとこ」
「元々風俗店で働いてる人間にはΩが多いが、卑下してても惜しみなく金払うってのは、それなりの価値があるからだろう。しかも、立場の弱いΩは裏社会の連中にとって、一番利用しやすい。薬の運びや売買をやらせて、仮にバレても簡単に尻尾を切れる。高給で釣りゃあ靡くΩも少なくねぇから、ヤバくなったら店を移せば、またすぐに人手は集まる。当然雇われる側は、まさか薬の売買させられるなんて思ってねぇし、中には先に店のΩに敢えて薬の『味』を教えてから利用する、胸糞悪ぃヤツらも居るくらいだ」
「そんな情報があるのに、そういう違法な店経営してるヤツが、何で野放しになってんの」
「その手の店は、案外官僚やら著名人が手を出してたりするんだよ。出張ヘルスは場所を客側が指定出来る分、すっぱ抜かれるリスクが少ない。店にとっても、大物ほど金を落としてくれる上に、そういう相手とパイプが出来りゃ、いざって時に匿ってもらえる。客の方もスキャンダルを避けるのに必死だからな。結局、裏社会ってのは常にイタチごっこってわけだ」
熊谷の話を聞けば聞くほど、それが『unlock』や藤原のことを言っているように思えてくる。
店に居た誰もが藤原を嫌悪していたのに、稼ぎが良いからと、ほとんどの人間は『unlock』を辞めようとしなかった。藤原の羽振りの良さが、芳にも不可解で仕方なかったが、もしも藤原が本来の風俗以外の『仕事』をさせていたのだとしたら、その見返りに高額な報酬を渡していたことも納得出来る。
だとしたら、仮に藤原と番っていなくても、芳は知らない内に薬に手を出していたということなんだろうか。
想像してゾッと背を震わせる芳に気付いていない熊谷が、思い出したように言った。
「そういや、同じ渋谷区で数週間前にも似たような事件があっただろ」
「似たような事件?」
「ホテルで覚醒剤使って病院送りになったΩが居て、そのΩが働いてた風俗店のオーナーがバックレたって話だ。ニュースや新聞じゃ店の名前も出てなかったが、アンなんとかって店だったか……」
サアッ、と全身から血の気が引くのがわかった。
「……もしかして、『unlock』……?」
「ああ、それだ。なんだ、その店知ってるのか?」
熊谷の問い掛けは、最早耳に入ってこなかった。
───逃げた? 藤原が?
嘘だろ、と縋るような気持ちで、病室が貸し切りなのをいいことに、芳はポケットからスマートフォンを取り出した。「何かあったときの為に」と、英司がずっと貸してくれているものだ。
震える指で、『出張ヘルス unlock』のワードで検索してみる。
出てきた店のWEBサイトへアクセスしてみたが、何度やってもエラーページが表示されるばかりだった。
藤原が渋谷に居るから、芳はそこから逃げてきた。藤原の元から離れたい一心で、この町に辿り着いた。
番っている以上、その繋がりを完全に断つことは出来ないけれど、それでも藤原と離れ、英司とこの町で過ごせるならそれでいいと思った。
なのに、藤原まであの場所から逃げてしまった。
───ならアイツは、どこに行くんだ?
芳との番の関係を解消したくても出来ないのは、恐らく藤原も同じだ。
なら、開き直って芳を連れ戻しに来るか───それとも、今度こそ殺されるか。
どちらにしたって地獄だ。
「……『薬』なんざ、本当にろくなもんじゃねぇな」
何かを悔やむような声で呟いて、熊谷がテレビの電源を切った。
「ホントに、『運命』なんて、ろくなもんじゃない」
「運命?」
噛み合わない会話に、熊谷が怪訝そうな顔を向けてきたが、その顔をまともに見られなかった。
この町で英司に出会えて、自分の『運命』にもまだ救いはあったのだと思うことが出来たのに。
こんな自分を「失くしたくない」と言ってくれる英司と共に居られる『運命』が、残されていたのだと思えたのに。
なのに藤原と繋がった忌々しい鎖は、英司も、彼が大事にしているこの町も、絡めとって飲み込んでしまう。
あんなろくでもない男にこの町を踏み荒らされることだけは、絶対に耐えられない。
このタイミングで、救いを求める熊谷がこの町にやってきてくれたのが、せめてもの幸いだった。英司が失くすものが、一つでも少ない方がいい。
「……勝ちゃん、ごめん。やっぱり差し入れ、持って来られない」
「差し入れ? 何言ってんだ、世話かけたのはこっちだろ。むしろ礼を言うのはこっちの方だ。俺をここまで運んでくれたってのは、三井さん……だったか?」
「近くの商店街にある、三井青果店のおじさんだよ。退院したら、顔見せてあげて。それから勝ちゃん、俺の頼み、聞いてくれる?」
ポカンとした様子で目を瞬かせている熊谷の手に、芳は英司のスマートフォンを強引に握らせた。
「これ、英ちゃんに返して欲しいんだ」
「ん? コレ、アンタのじゃないのか? つうかそもそも『返して』って、なんで自分で返さねぇんだ。俺よりアンタの方が断然親しいだろ」
「俺、帰らなきゃ。この町に居たら、いつかきっとみんなに迷惑かける」
「おいおい……いきなり何言ってんだ? まさか、さっきの『unlock』って店に何かあるのか?」
熊谷が突然厳しい顔つきになる。
ボサボサの髪とむさ苦しい髭がなかったら、きっと格好いいだろうに。
英司もそうだ。笑うと思いの外優しい顔になるのに、大抵いつも涼しい顔をしている。
───いや、違うか。
芳との関係が、所詮はまやかしだとわかっているから。
芳の苦痛を知ってくれているから。
だから、英司は笑わない。……笑えないんだ。
「勝ちゃん。俺が寝泊まりしてた小屋、勝ちゃんにあげる。場所は英ちゃんが知ってるから、退院したらそこ使って」
「は……? さっきから、一体何の話───」
「勝ちゃんなら俺と違って力仕事も得意そうだから、ここじゃきっと重宝されるよ。偶然でも何でも、勝ちゃんが自分からこの町に辿り着いたんなら、せめてここで生きてあげて」
失くすのを人一倍嫌がるのに、すぐに一人になりたがる英司が、これ以上何も失わずに済むように。
熊谷が、平和で穏やかなこの町で希望を見出せるように。
……だってこの町は、芳の永住の地には出来ないのだから。
話が飲み込めないのか、引き留めようとする熊谷の手を振り切って、芳は病室の戸口へ走った。
───思い出せ。
ヘラリと、薄っぺらい笑みを顔に貼りつけて振り返る。
「勝ちゃん、お大事にね」
それだけを告げて、芳は月村病院を飛び出した。さすがに英司の前で笑い続ける自信はなかった。
嘘ばかりの笑顔が消えてしまう前に、商店街へ立ち寄って、三井に熊谷の容態を報告した。「ありがとう」と付け加えた芳に怪訝な顔をする三井へいつも通り手を振って、芳はその足で駅へと向かった。
やって来たときも手ぶらだったから、荷物を気にする必要すらない。
皮肉なのは、芳が遠慮しても英司が頑なに与え続けてくれていた『給料』のお陰で、交通費の心配がないことだ。
古い駅舎の前から振り返ると、人気のない寂れたロータリーの向こうに、月村病院の看板がニュッと突き出している。初めてこの駅に降り立ったときも、真っ先に目に付いたのはあの看板だった。
あの日は夜だった所為で、この町はちゃんと生きているんだろうかなんて思ったけれど、今となってはひっきりなしに人が行き交う都会より、すれ違うたびに皆が挨拶を交わすこの町の方が、余程生きていると感じる。
初めて、芳自身が「生きている」と感じたのも、この町だった。英司がそれを教えてくれた。
それなのに礼の一言も告げずに去ろうとしている自分は、どこまでもいい加減な薄情者だ。
「英ちゃん、ごめん……」
届くはずの無い謝罪を無人のロータリーへ落として、芳は改札を潜った。
このまま時が止まって、永遠に電車が来なければいいのにと思ったのに、そんなときに限って本数の少ない電車はすぐにやって来た。
何年も過ごした渋谷を去るときは何も思わなかったのに、二ヶ月にも満たない期間しか居なかったこの数田美町を離れるのが、こんなにも寂しいのはどうしてだろう。
この町が好きだ。
この町で暮らす人たちが好きだ。
英司のことが───とても好きだ。
そう思い続けることくらいは、せめて許されるだろうか。
乗り込んだ車内から見える町並みが、じわりと滲む。
せめてこの目にちゃんと焼き付けておきたかったのにと思う芳の前で、静かに電車のドアが閉まった。
笑ったままの頬を、生温い雫が音もなく伝い落ちた。
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