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第7話

 月村病院の午後診は、夕方四時半から始まる。  午前の診察は十二時半までだが、時間ギリギリに患者が滑り込んでくることもある為、いつも昼食にありつけるのは早くて一時過ぎになる。  スムーズに昼食を終えても、午後の診察が始まるまでは約三時間。その間に、こなさなければならない雑務は山ほどある。  この日は特に作成しなければならない書類が多く、英司が医局でその記入に追われていると、廊下の向こうから何やらガラガラと喧しい音が響いてきた。  一体何事だ、と顔を上げた英司の耳に「熊谷さん、困ります!」と看護師の慌てた声が扉の向こうから聞こえてくる。 「若先生はお仕事中ですから……!」 「どうしても急ぎの用なんだ!」  続いて聞こえた声は熊谷のものだ。  昨夜とは打って変わって力強さを取り戻している彼の声。どうやら体調は順調に回復しているようだと安堵したが、トイレ以外に病棟を歩き回る許可は、主治医としてまだ出してはいない。  おまけに昨日は生きることにもどこか投げ遣りだったのに、何をそんなに急ぐことがあるんだと、英司は仕方なく席を立って医局の扉を開けた。 「騒がしいと思ったら、こんなところで何してるの。トイレなら病室を出てすぐのところにあるはずだけど」  扉の前には、看護師の制止を必死で振り切ろうとしている熊谷が、点滴スタンドを引き連れて立っていた。  呆れた声を掛けた英司に気付いて、熊谷と看護師が揃って顔を向けてくる。 「トイレじゃねぇよ! このスマホ、アンタのなんだろ?」  ズイ、と英司の前に一歩踏み出した熊谷がそう言って差し出してきたのは、芳に貸しているはずのスマートフォンだった。  何故熊谷がこれを持っているのか。  ざわりと胸の中に、不穏な風が吹き抜ける。 「若先生、すみません! すぐに病室へ戻ってもらいますので……」  熊谷を連れ戻そうとする看護師を、英司は「待って」と強張った声で制した。 「彼には僕が付き添います、ありがとう。……ちょっと、こっち来て」  戸惑う看護師に礼を告げて、英司は医局の向かいにある相談室へと熊谷を誘った。 「……どうして、君がこれを?」  扉を閉めるなり、英司は熊谷の方へ今しがた受け取った携帯を掲げて見せた。 「よくわからねぇが、あの芳って人が俺に預けて行ったんだよ。アンタに返しといてくれって」 「預けた?」  確かに長居はしないようにとは告げたが、携帯を返してほしいと言った覚えはない。  仮に芳の意思で返すにしても、熊谷に託すのは妙だ。同じ院内に英司が居ることはわかっているのだし、会う機会は院外でもあるのだからそこで返せばいい。  英司の胸をざわめかせる風が、次第に強くなっていく。 「自分が寝泊まりしてる小屋をあげるだとか、ワケのわからねぇこと言って帰っちまったから気になってな」 「小屋をあげる!?」  思わず声を荒らげた月村に、熊谷が面喰らった様子で目を瞬かせた。患者の前で、こんな風に声を張ったことなど一度もない。  嫌な焦燥感が、じわじわと胸の奥からせり上がってくる。  芳が英司を避けるときは、決まって何かを抱え込んでいるときだ。  初めて訪れた小屋で、灯りを消したときも。  発情期の最中、英司の本音を遮ったときも。  その胸の内を悟られまいと、芳はいつも肝心なときに英司へ背を向ける。  さっき、熊谷の病室で顔を合わせた芳は、至っていつも通りだった。  ───なら、どうして急に? 「……僕が離れた後、彼と何か話した?」 「話したっつうか、引っ掛かるのが、たまたまテレビで流れてたニュースを見た途端、急に顔つきが変わったんだよ」 「それ、どんなニュース?」 「渋谷のホテルで変死したΩの体内から、覚醒剤反応が出たってヤツだ。そっから妙に風俗店の話に食いついてきたんだが、もしかしてあの人がこの町に来たってのは、その辺が絡んでんのか? 流れ着いた俺と『同じ』だとか言ってたが……」  そのニュースなら、英司も医局で見ていた。  確かに芳に通ずるワードが複数出てきたので一瞬作業の手が止まってしまったが、社会的地位の低いΩのその手のニュースは、決して珍しいものではない。  亡くなったΩの名前や年齢も詳しくは報道されていないし、偶然『渋谷』という場所が芳と一致しただけだ───と、英司は思っていた。そう言い聞かせた。 「……悪ぃ。ひょっとしたら、俺の所為かも知れねぇ」  突然謝罪の言葉を零した熊谷が、点滴の繋がった手で申し訳なさそうに項を擦った。 「どういうこと?」 「そのニュースが流れたとき、やたらと風俗店の裏事情やら、覚醒剤について聞かれたんだよ。やけに真剣な顔してたし、俺は前の仕事柄、表に出て来ねぇ情報も耳に入ってくるもんだから、つい話しちまったんだ」 「話したって、何を?」 「ちょっと前に似たようなニュースがあったの、アンタなら知ってるか?」 「似たような……っていうと、ホテルで覚醒剤を使用したΩが一時意識不明で搬送されたっていう話かな」 「それだ。メディアでは詳細まで報道されずに終わったが、そのΩを雇ってた『unlock』って風俗店のオーナーが、行方くらましてるらしくてな」 「『unlock』!? ……その情報、確かなの」  思いがけない名前が飛び出して、英司の胸の内を突風が駆け抜ける。慌てて声のトーンを落としたが、悪い予感に騒ぐ胸は一向に鎮まってくれない。  芳が熊谷に携帯を託したのも、「小屋をあげる」なんていう突飛な発言をした理由も、ようやくわかった。きっと熊谷からその話を聞いた芳も、こんな気持ちだったのだろう。 「アンタもそんな反応するってことは、やっぱりその店が関係してんのか。あの人も、『unlock』って名前が出た途端、顔つきが変わった」  昨夜に比べて幾分顔色は良くなっているとはいえ、まだ点滴も外せない熊谷を傍のパイプ椅子へ促し、英司もテーブルを挟んだ向かいに腰を下ろした。  これまでは、藤原が『unlock』を根城にしているとわかっていたから、芳は遠く離れたこの町に留まっていた。だがその藤原が逃げたとなれば、その行き先は英司にも、恐らく芳にも予想出来ない。  藤原の存在に常に怯えている芳にとっては、恐怖でしかないはずだ。  そこで泣き言の一つでも零してくれればいいのだが、ただでさえ芳は本心を隠したがる。英司と過ごす日々の中で、ずっと偽物の幸福を喜んでいたように───。 「芳さん、携帯と小屋の件以外は何も言ってなかった?」 「いきなりだったから、俺も混乱しててハッキリとは覚えてねぇが、『帰る』とか『迷惑』だとか何とか……」 「……本当に考え無しだな、あの人は」  嫌な予感が的中してしまったことを確信して、英司は額を押さえた。  熊谷の話を聞いて、芳は衝動的にこの町から出て行ったに違いない。  英司が最も失いたくないものを、本当はわかっているくせに。  こんなことなら、例え無意味でも芳の項に噛み付いておくべきだった。  愛することも愛されることも許されなかった芳は、きっと愛情の受け方なんて知らないのだから。 「帰る」と言ったからには、芳は元居た渋谷に戻った可能性が高い。その他に、あてがあるとも思えなかった。  だが、問題なのはその後だ。  藤原がどこに身を潜めているのかもわからない以上、渋谷に戻った芳の存在を嗅ぎつけて来る可能性もある。藤原が薬物に手を出しているのはほぼ間違いないのだから、もしも再び芳が藤原に捕らえられてしまえば、今度こそ彼も、ニュースになっていたΩと同じ末路を辿ることになるだろう。  そうなる前に何としても、芳を連れ戻さなければ、今度こそ手遅れになってしまう。 「君はその『unlock』のオーナーの居場所までは、わからない?」 「俺も最近はそう熱心に情報収集してたわけじゃねぇから、そこまではわからねぇな。ツテが無いってこともねぇが……」  語尾を曖昧に濁した熊谷が、渋面を作った。  この町にあてもなく辿り着き、弁護士バッジを捨ててほしいと言った熊谷。  彼は恐らく、何らかの理由で弁護士だった自分に囚われているのだろう。  けれど、英司が知り得る情報には限度がある。芳が居た『unlock』の場所もわからなければ、土地勘もない。  ならば今頼りになるのは、奇遇にもこの町にやって来て芳と接触した、目の前の元弁護士しか居ない。 「……僕はこれから、君の傷口を抉るような真似をするかも知れない。医者として、それが決して正しいことではないのもわかってる。あの人が言ったように、小屋は君の住まいにしてもらって構わない。だから、医者と患者じゃなく、友人として、君に頼みがあるんだ」  テーブル越しに軽く身を乗り出した英司に、熊谷が一度目を瞬かせた。  これまで見ず知らずの患者を「友人」などと思ったことはない。大抵の医者はそうだろう。  けれど、出会って間もない芳のことを気にかけ、すぐにその異変を察して英司の元へ来てくれた熊谷は、充分信頼に足る人物だと思った。熊谷がこの町に突然フラリと流れ着いてきたというのが、どこか芳と似ていたから、余計にそう感じるのかも知れない。  そんな熊谷に、英司は芳がこの町へやって来た経緯を打ち明けた。 「……なるほどな。てっきりアンタの番かと思ったら違ったのは、そういうことか」  英司の話を聞き終えた熊谷が、重い息を吐いた。 「そうだったら、どれだけ良かっただろうね」  英司の呟きに一瞬目を瞠って、熊谷は何故か突然肩を揺らして笑いだした。  到底笑える状況ではないというのに、一体何だと眉を寄せる。笑い方も豪快で、熊が笑ったらきっとこんな感じだろうと英司は思った。 「そんなに面白い話をしたつもりはないんだけど」 「いや、悪ぃ。ただ、全く同じこと言ってたからな」 「同じこと?」 「その、芳さんがだよ。アンタの番じゃないのかって聞いたとき、あの人も同じこと言ってたぞ」 「………」  互いに押し殺し続けてきた本音を、熊谷相手には零してしまっていたことが、気まずいような、悔しいような。 「アンタ、それあの人にも言ったのか?」 「まさか。無理だとわかってて言えるわけがない」  言えばお互い苦しめるだけだとわかっているから、芳の前では敢えて口にはしなかった。 「どうだかなあ」と、熊谷が椅子の背に深く身体を沈めて宙を仰いだ。 「よく言うだろ。やった後悔とやらなかった後悔なら、後者の方がずっと残るって」 「……叶わない願望を口にしろって言うの」 「叶う叶わないより、それが後々自分の中にどう残るかだ。……俺は惚れてた相手に、それが出来なかった」  熊谷の伸びきった前髪の隙間から覗く瞳が、切ない色を灯して揺れた。この場には居ない存在を探すような眼差しに、まさか…、と英司は無言で熊谷の言葉の続きを待った。 「……亡くなったんだ。死因は、薬物の過剰摂取だった。その人は違法な薬に手を出してたわけじゃなかったが、用量を守らなきゃ例え合法だろうと同じだ」 「惚れてたってことは、付き合ってたわけじゃなかったの?」 「俺が顧問弁護士を任されてた企業に勤めてたΩでな。表向きは接待って名目で営業を任されてたが、裏では上の連中からいいように利用されてた」  熊谷の声に、次第に悔恨が滲み出す。  Ωが社会的に利用されやすいのは、誰もが知っている哀しい現状だ。  それを逆手に取ってαに取り入る者も居れば、Ωに生まれたことを嘆きながら泣き寝入りする者も居る。どちらにしても、第二の性の絶対的カーストからはそう簡単に抜け出せない。  Ωが行う接待、というのが何を指すのかなんて、聞くまでもなかった。  熊谷がそのΩの為に精一杯言葉を選んでいることが、苦々しい表情から伝わってくる。 「俺はそのことに気付いてたのに、止められなかった。自分が利用されてるとわかってて、どっか達観してたあの人を、助けられなかった」 「だから、弁護士を辞めたの?」 「大層な肩書きなんざ、肝心なとこでは何の役にも立たねぇ。人を救いたくて弁護士になったはずが、俺は結局、本当に救いたい相手を救えなかった。……あの人は、きっと俺に『助けて欲しい』なんて言わなかっただろうけどな」  ポツリと零した熊谷の無力感が、英司の胸にもじわりと沁みた。  芳に出会う前の英司なら、熊谷にかける言葉など見つけられなかっただろう。冷たく突き放しもしないが、過度な同情もしない。客観的に、無難な答えを返すことしか出来なかったに違いない。  けれど今の英司には、熊谷の悔しさが痛いほどよくわかる。 「……そうだね。僕たちは、本当に無力だ」  αに生まれたことも、社会的な地位も。例え周囲から羨まれたところで、『愛』という目に見えない不確かで力強い想いには、何の役にも立たない。どれだけ恵まれていようとも、望んだ相手と想い合うことが許されるわけじゃない。  傷だらけの、何も載っていないテーブルに視線を落とす。まるで自分の心の中みたいだと思っていると、向かいで熊谷が微かに笑う気配がした。 「妙な話だな。昨日は俺の方が死にかけてたのに、今はアンタの方が死にそうな顔してる。俺への頼みごとってのは、あの人を助ける為なんだろ」 「まさか君が、そんな事情で弁護士を辞めたとは思ってなかったから、軽率だった」 「昨日俺に説教したヤツとは思えねぇな」  英司の発言を一笑して、熊谷は椅子の上で逞しい腕を組んだ。 「俺にバッジを捨てさせなかったのはアンタだろ。それに俺だって、何も出来ないまま二度も誰かを失うのは、もう御免だ」  熊谷の言葉が、無力感に満ちていた英司の胸に、小さな炎を灯した。  ───そうだ。  発情期を迎えた芳に、自分は確かに言ったはずだ。芳を、失くしたくないと。  それが自分の、貫くべき信念だった。 「……気が合うね。僕も、失うのは御免なんだ」 「あの人の行く先に、心当たりあんのか?」 「芳さんは割と後先考えないところがある割に、一人で抱えようとするから、一先ずは元居た場所に戻ると思う。ただ、オーナーの藤原が逃げてるとなると、もう店も無くなってるってことでしょ」 「恐らく、そうだろうな。店舗自体はあっても、とっくにもぬけの殻だろう」 「問題は、そこからどうするか……。あの人、野宿も厭わない人だから、その界隈をフラフラする可能性もある」 「なら、とっとと追いかけて捕まえることだな。『unlock』って店の場所はピンポイントじゃわからねぇが、大方この辺りだろうっていう目星はつく」  熊谷が、テーブルの上に自身のスマートフォンを取り出して、渋谷駅周辺の地図を表示した。  メインストリートから少し裏手に入った路地近辺を拡大し、英司の前に提示する。 「この裏路地に、いかにもって風俗店が集まってる場所がある。薬の売買以外にも、Ωを売買してるクラブやら、きな臭ぇ話の絶えない場所だ。アンタに聞いた話からすると、『unlock』もこの通りのどこかに店構えてた可能性が高い」  画面上の地図を指差す熊谷の顔は、髪も髭もそのままなのに、不思議と免許証通りの精悍な男に見えた。 「ありがとう、それだけ絞って貰えたら充分だ。連絡先教えておくから、後でその地図、僕の携帯に送ってくれる?」  お互いの番号やアドレスを交換し合って、ふと気づく。英司の方から連絡先の交換を持ちかけた相手は、熊谷が初めてだ。  そんな熊谷との出会いもまた、『運命』なのだろうか。  だとしたら尚更、英司の『運命』と交わった芳も熊谷も、失って堪るものか。  数時間後には午後の診察が始まる。このまま芳を追いかければ、きっとスタッフにも患者にも、多大な迷惑を掛けてしまう。  ───だけど、失くしてしまったらお終いだ。 「病室まで、一人で戻れる?」  席を立って問い掛けると、熊谷は肩を竦めて点滴のチューブを摘んでみせた。 「俺なら大丈夫だ。何なら邪魔なコイツをさっさと抜いて貰いてぇ」 「もう少し食事量が増えたらね」 「それより早く行ってやれよ。俺の方も、その藤原ってオーナーの情報探ってみるから、なんかわかれば連絡入れるようにする」  よろしく、と頷いて部屋の扉を開けたところで、英司は一度熊谷を振り返った。 「例え弁護士を辞めたとしても、やっぱり君にはあのバッジが似合ってるよ。君は自分の正義をちゃんと持ってる。少なくとも僕は、君に救われた。……ありがとう、熊谷」 「救われたのはこっちだろ」という熊谷の呟きを背に受けながら、英司は医局へ引き返し、白衣を脱いで手早く荷物を纏めた。  タイミング良く顔を見せた姉の英里に事情を伝えると、意外にも呆気なく「行っといでよ」と背中を押された。  血の繋がった姉弟なので英司の心中を察してくれたのもあるのだろうが、芳がこの町に受け入れられている証のようにも思えた。そのことを、一人で思い詰めてばかりの芳にも、ちゃんと伝えてやりたい。  これまでずっと口に出来なかったが、想いを伝えても伝えなくても、どの道苦しむことになるのなら、熊谷の言うようにいっそぶつけてやればいい。  藤原のように本能で縛ることが出来ないのなら、せめて自分は、藤原には決して与えることが出来ない愛情で、芳を縛ってやればいい。  病棟を出た英司は、駐車場を突っ切って自身の車に乗り込んだ。  ただでさえ数田美駅は電車の本数が少ない。今から電車で追いかけていたのでは、到底芳には追いつけないと踏んで、英司は急行が停車する隣町の駅へと車を走らせた。 「こんなに、煩かったっけ……」  歩き慣れた裏通りを歩きながら、芳はボソリと独り言ちた。  約ひと月半ぶりに帰ってきた渋谷の街は、裏通りに入っても人通りが途切れることはない。  夕方のこの時間。学生らしき若者の姿もあれば、夜の仕事に出向いていく者、開店準備に追われる飲み屋の店員。まだ日が沈みきって居ない中、既に缶ビール片手に座り込んでいる者も居る。  そこかしこから聞こえてくる喧騒。  数えきれない人々が行き交っているが、数田美町と違って、顔を合わせてもここでは誰も挨拶など交わさない。  こんなにも活気に溢れているのに、不思議と生きている感じがしないのは何故だろう。  例えばこの人波の中、誰か一人が突然居なくなったところで、きっとこの街は何も変わらない。  ───機械ってこういうことだよ、英ちゃん。  本当に血も涙もなく、人としての何かが欠けてしまっているのは、この街で育った芳の方だ。そんな芳を、英司は折角叱ってくれたのに、黙って逃げ出してきてしまった。  気を抜くと顔が強張ってしまいそうで、芳はキュ、と一度唇を引き結んでから、やる気のない笑顔に切り替えた。  無機質な人々の間を縫って、馴染みの店へ向かう。  見慣れた『unlock』の店舗は、看板こそ残されていたが、入り口にはシャッターが下りていた。 『unlock』は、二十四時間営業の店だった。  夜の方が指名は多いが、様々な客のニーズに対応する為だ。その『様々な客』がどんな相手かなんて、この店に入ったばかりの頃は、考えもしなかったけれど。  店舗を構え、夜にはいかがわしく光る看板を掲げてはいるが、店内は実質、指名を待つΩたちの控室兼事務所になっていた。入り口に小さなカウンターと、指名用の名簿がある。基本的には外からの指名が殆どだが、近くに飲み屋街がある為、稀に酒を引っ掛けた客がその足で店にやって来ることがあるからだ。  その為、『unlock』のシャッターが下りているところを、芳はこれまで見たことがなかった。  熊谷が嘘を吐いているとは思わなかったけれど、こうして目の当たりにすると、本当にもうここには何も無くなってしまったのだと思い知らされる。そしてひっそりと静まり返った店舗の前を通り過ぎていく人々は、つい最近まで営業していたはずの『unlock』になんて、見向きもしない。 『unlock』の存在も、この店で働いていたΩたちも、それから芳も。この街にとっては、失われても何の影響もないのだ。  それなのに、何故自分は解放して貰えないのだろう。  気配を感じないのでもうこの場に居ないとはわかっていたが、芳は鉄製の外階段を上って藤原と過ごした店舗の二階へ上がった。  室内は、ベッドやソファ、テーブルといった大きめの家具は残されていたが、衣服や小物などはごっそり無くなっていた。  警察の捜査が入った後なのか、それとも藤原が持ち出したのかはわからないが、まるで夜逃げでもした後みたいだ。  最低限置いてあった芳の衣類や携帯もなくなっている。それらがもしも警察に押収されていたとしたら、益々英司の元を離れて良かった。あの平和な町に、物騒な話題を持ち込みたくはない。  雨漏りもしないし、バスルームも完備されているこの部屋より、英司が用意してくれたボロボロの小さな小屋の方がよほど居心地が良かった。  小屋だけじゃない。  誰もが声を掛けてくれるこぢんまりとした商店街も、訪ねる度に世間話をしてくれる配達先の人たちも、芳にそっと寄り添ってくれていた英司も───そのどれもが温かかった。  まるで長い夢でも見ていたみたいだ。  温かくて、幸せで、永遠に醒めなければいいのにと思う夢。  なのに目を覚ました途端、それらは呆気なく芳の掌から零れ落ちていく。  もうあの温もりの中には戻れない。  けれど、戻ってきたところで藤原がどこに居るのかもわからない。  ───じゃあ、俺の居場所は?  ガランとした室内を見渡している内に、自然と乾いた嗤いが漏れた。  ……そんなもの、どこにもない。子供の頃から、ずっとそうだったじゃないか。  藤原との繋がりを手っ取り早く切る方法なんて、最初からわかっている。  死ぬまで切れない繋がりを切る手段は、たった一つしかない。  なのにそれが出来なかったのは、ほんの僅かな期待を捨てきれなかったからだ。  子供の頃から、心のどこかに僅かな希望があった。  いつかこんな自分を大事にしてくれる人が現れるのではないかと。  たった一人でいい。親にも必要とされなかった芳に居場所を与えてくれる、ただ一人の人が居れば───。  けれど、ただ一人の『運命』の相手は、居場所をくれるどころか、芳から容赦なく奪っていくばかりだ。  ……だったらいっそ、店と一緒に俺のことも消してくれれば良かったのに。  そう思った瞬間。  無人だと思っていたバスルームから、突然小柄な人影が飛び出してきた。  身構える隙もなく、ドスッ、と重い衝撃と共に誰かがぶつかってきた。  よろめく視界に映った人物には見覚えがある。まだあどけさなさが残る顔立ちのΩ。誰だっけ…と芳が思い出すより先に、突っ込んできた相手が芳の顔を見て、愕然と大きな目を見開いた。 「カオルさん……!?」  驚いた様子で叫んだ彼が、一歩後退る。身体が離れたのに、下っ腹に残る鈍い感覚が取れない。そんなに強くぶつかられたのか、と何とはなしに目をやると、脇腹にバタフライナイフが突き刺さっていた。  ……何だ、コレ。  こんなダサいピアス、ゴメンなんだけど。  そういえばこんな風にあちこちに剣を刺してくオモチャがあったな、なんて場違いな考えばかりが頭の中をぐるぐる回って、状況が飲み込めない。  そんな芳よりよっぽど真っ青な顔をした彼が、「どうして……」と震える声を零した。 「俺、てっきり藤原が帰ってきたんだと思って……!」 「……藤原?」  声を出すと脇腹に響いて、そこでやっと自分が彼に刺されたのだと認識出来た。 「アイツが……藤原が薬の売買なんかやらせるから……! だからアキラだって、入院した上に捕まる羽目になったんだ! 俺らは何も知らなかったのに、自分だけ店閉めてさっさと逃げやがって……!」  泣き叫ぶような彼の声を聞いて、ようやく思い出した。芳が藤原の元を出ていく半年ほど前に『unlock』に採用されたΩだ。同じバイト仲間のアキラというΩにやたらと懐いていた、まだ十代の少年。  もしかして、熊谷が言っていた病院送りになったΩというのが、そのアキラだったんだろうか。 「ハハ……アイツ、どんだけ恨み買ってんの……」  そこまで言って、とうとう足に力が入らなくなり、芳はその場に崩れ落ちた。  痛いというよりも、ナイフが刺さったままの箇所がドクドクと脈打っている感じがする。 「カオルさん……っ!」  加害者のはずの少年が、動揺しきった様子で芳の傍に膝をつく。その目からはボロボロと涙が零れていた。  あの男は、一体どれだけ人の人生を踏み躙れば気が済むのだろう。  目の前の少年よりも、藤原への憎しみの方が一層強くなる。 「……あんなヤツ、殺す価値もないって……」  むしろ彼が刺したのが藤原ではなく芳で良かった。あんな男の為に罪を背負うなんて、それこそ馬鹿馬鹿しい。 「早く……人、来ない内に、行って」  これ以上藤原に人生を狂わされる人間なんて、見たくない。  どうせ最後まで一人なら、せめて目の前にいる少年の未来くらい救いたかった。何の存在意義もないまま死んでいくより、ずっといい。  それにもう、さすがに笑っていられる自信がなかった。  ようやく藤原との忌々しい繋がりが絶たれるのだと思うと嬉しいはずなのに、勝手に身体が震え出す。  自ら帰って来たはずなのに、「失いたくない」と言ってくれた英司の声が何度も蘇る。  いつだって考え無しな自分には、何が正解だったのかわからない。  ただ一つ、今になってわかるのは、一人で死ぬのがこんなにも心細くて怖いのだということ───。 「でも、カオルさん……」  狼狽える少年が、どうすればいいのかわからないといった様子で、芳の腹に刺さったナイフへ震える手を伸ばした。  ───その時。 「触るな!!」  張り詰めた声が割り込んできて、芳と少年は同時に目を瞠った。  床に横たわったまま、信じられない思いで視線を向ける。  遠い田舎町に居るはずの英司が、肩で息をしながら険しい顔で室内へ駆け込んできた。 「……英ちゃん……なんで……」 「喋らないで」  芳と少年の間に割り込む形でしゃがみ込んだ英司が、呆然と呟く芳の言葉を強い口調で制した。極力芳の身体を動かさないようにしつつ、腹部の傷を確認する。  なんでここに居るの。  なんでこの場所がわかったの。  なんでいつも、俺を一人にしないの。  すぐ傍にあるはずの英司の顔がよく見えないのは、意識が遠のいているからなのか、それとも目の奧から込み上げてくる熱い何かの所為なのかがわからない。 「救急車は僕が呼ぶから、君は警察呼んで」  ポケットから、芳が熊谷に託したスマートフォンを取り出して、英司が少年に告げる。 「……英ちゃん……そいつ、悪くないよ……。全部、藤原の所為……」 「芳さんの言いたいことは何となくわかるけど、今は自分のことを第一に考えて」  早く!、と緊迫した声で少年を促してから、英司もすぐさま携帯を耳に当てた。 「───すみません、救急車お願いします。怪我人です。腹部にナイフによる刺し傷。三十才男性Ω、現在意識はあります。……いえ、抜いていません。場所は───」  淀みなくやり取りする英司の傍で、少年は相変わらず青褪めた顔をしたまま、電話越しにポツポツと単語だけで応対している。  そんな顔することないよ、と笑ってやりたいのに、慣れているはずの笑顔が作れない。  先に通話を終えた英司が、芳の脈拍や顔色を確かめる。けれど脈を測り終えたはずの手を、英司は決して離そうとしなかった。 「英、ちゃん……なんで、ここ、わかったの……」 「喋らないでって言ったでしょ。……熊谷が、大体この辺りだろうって教えてくれた。店の看板がまだ残ってて助かったよ。そしたら二階から声がして、慌てて駆け付けたらこの有様だ」  呆れた声とは裏腹に、芳の手を握る英司の手は力強い。  もっと早くに、この手の温もりを知りたかった。 『運命』の相手なんかじゃなくてもいい。  ただ普通に出会って、ただ普通に恋に落ちて、ただ普通に隣に居たかった。  もう息をするだけで、脇腹に響いて苦しい。  上手く動かせない指に精一杯の力を込めて、芳は英司の手を握り返した。 「……英ちゃん。……俺が死んだら、番ってくれる……?」 「馬鹿言わないで。───絶対に、死なせたりしない」  か細い声で問い掛けた芳の手を握り込んで、英司がその指へ口付けた。  触れた箇所から英司の愛情が流れ込んでくるようで、一気に視界が滲んで見えなくなる。  ───やっぱり英ちゃんは、簡単には死なせてくれない。  英司と過ごした時間がどれだけ幸せだったか。  英司のことが、どれほど好きか。  どうせなら全部打ち明けてしまいたいのに、身体が少しも言う事をきいてくれない。瞬きすら出来なくて、勝手に瞼が落ちてくる。  じわじわと溶けていく意識の中、遠くにサイレンの音が聞こえた気がした。  

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