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第8話

「月村」  病院の待合で芳の手術が終わるのをジッと待っていた英司は、背後から聞こえた呼び声にすかさず立ち上がった。  声の主は、研修医時代に同期だった西園寺一馬(さいおんじかずま)。  数々のグループ企業を束ねる西園寺重工の若社長を従兄に持つ彼は、生まれも育ちも超一級のαだ。しかし本人はそんな華々しい境遇を笠に着ることもなく、将来独立して開業したいと、英司が去った後も医療センターで医師として経験を積んでいる。  博識で、努力家。おまけに診断も的確なら、オペの腕も研修医時代から優秀で、英司にとって、西園寺は良きライバルでもあり、最も信頼のおける同僚でもあった。  周囲からは「堅すぎる」なんて揶揄われたりもしていたが、英司は彼の実直で寡黙な性格も、付き合いやすくて気に入っていた。  芳が搬送されるとき、咄嗟に浮かんだのが、この西園寺の顔だった。  ある程度融通が利いて、尚且つ信頼できる医者は、思いつく限り彼しか居なかった。  たまたま搬送受け入れに余裕があったので、英司は芳をかつての勤務先である都内の医療センターへ搬送してもらった。 「彼の状態は?」  搬送時、ナイフを抜かなかったお陰で出血量は僅かだったが、芳の意識が無く、傷の深さもわからないことが気掛かりだった。自分も医者でありながら、ただ待っていることしか出来ない時間は、果てしなく長く感じた。  西園寺の言葉を待ちきれずに英司が迫ると、彼は少し意外そうに形の良い黒目を瞬かせた後、表情を和らげた。 「ナイフが比較的小さかったのと、内臓に大きな損傷がなかったのが幸いだった。暫くは集中治療室(ICU)に居てもらうことになるが、命に別状はない」  最後のひと言に、心の底から安堵する。  病院に着くまでの間、ずっと握り続けていた芳の手の力が少しずつ弱まっていくことに、英司は医者になって初めて不安と恐怖を覚えた。  芳のことを、医者としての客観的な目線では見られなくなっていたからだ。  熊谷からの情報がなく、芳をそのまま一人にしていたらと思うと、背筋がゾッと凍り付くようだった。 「本当なら近くで顔を見せてやりたいが、中に入れてやれなくて悪いな」  ICUの入り口で、西園寺が申し訳なさそうに眉を下げた。 「いや。むしろ、僕の我が儘を聞いてもらえただけでも充分だよ」  ICUには、家族とパートナー以外は入室出来ない。裏を返せば、元スタッフでしかない英司は入れないが、パートナーの藤原なら入室出来るということだ。  わざわざ病院までやって来るとは考えにくいが、それでも芳の安全を考えれば、せめてある程度顔が利く場所に託したかった。  西園寺の気遣いだろうか。扉に嵌められたガラス越しでも辛うじて見える一番手前のベッドに、まだ呼吸器を付けられたままの芳が横たわっている。  たった一枚の扉で隔てられた距離が、果てしなく遠い。 「このまま安定していれば、じきに目も覚めるはずだ」  英司の視線を辿るように芳の姿を見詰めた西園寺が、フッと吐息だけで笑った。 「まさか、月村から患者を任される日が来るとは思わなかった。研修医の頃から、お前は何でも自分でやってのけてただろ」 「僕も、君が笑ったところは初めて見た気がするな。……君がまだここに居てくれて良かった」 「なんだ、少し会わない間に、随分変わったな」  英司に視線を戻した西園寺が、驚いた顔をした。  何事にも動じることがなかった西園寺もこんな顔をするようになったのか、と思ったが、すぐにそうじゃないと気付いた。  あの頃はまだ、見えていなかっただけだ。  他人だけでなく自分自身の感情にも、英司は向き合ってこなかった。  お互い、ここで研修医として忙しく駆け回っていた頃。西園寺のことは優秀な男だと認めてはいたが、あの頃の英司なら、きっと芳のことを誰かに任せようなんて思わなかっただろう。  だが、独り善がりでは前に進めないことを、芳が教えてくれた。  何かを、誰かを想う気持ちがあるからこそ、守りたいものが出来る。同時に誰かを求める強い気持ちを英司に与えてくれたのも、芳だ。 「……僕を変えてくれた唯一の人を、失くしたくないんだ」  死んだら番って、なんて芳は言ったが、むしろ芳が今度こそ心から笑ってくれるなら、番にでも何でもなってやる。肉体的に番うことが出来ないのなら、自分は芳の心の番であればいい。  その想いを、今度こそ芳に隠さず伝えたい。 「お前からの信頼を裏切らないように努める」  寡黙な彼らしく、深く追及することはせずに、西園寺は芯の通った声で短く言った。  ICUの前は、仄かに甘い、花のような香りが漂っていた。  室内は花やアロマの類は持ち込めないはずなので、室外のどこかに置かれているのだろうか。どちらにしても、入ってすぐのベッドに居る芳になら、この香りが届くかも知れない。消毒薬の匂いが苦手だという芳の気持ちが、これで少しでも紛れてくれることを願う。  本当ならずっと芳に付き添っていたいところだが、家族でもパートナーでもない英司は、芳が目を覚ましても傍に行くことすら叶わない。  それに英司には、芳も好んでくれている数田美町を、医者として守る責務がある。 「それじゃ、僕は一旦戻るよ。あの人のこと、よろしくね」 「ああ。問題無ければ近い内に一般病棟に移れるだろうから、また連絡する」 「ありがとう」  西園寺とは、研修医時代に互いの連絡先を交換している。  とはいえ当時は特に連絡を取り合うこともなかったので、今になってこんな縁が出来るなんて思わなかった。熊谷といい、西園寺といい、ずっと他人に関心がなかった英司に、芳が繋いでくれた縁のように思える。  まだ目を覚ます様子のない芳に、扉越し、名残惜しい気持ちで英司は背を向けると、医療センターを出た。  駅までのバスを待つ間、姉に半日病院を空けてしまったことを詫びる電話を入れた。幸いこの日は患者数も少なかったらしく、事情を話すと姉も芳の身を真っ先に案じてくれたのが有難かった。  時刻は夜の九時を回っている。数田美駅に停車するローカル線の終電には間に合いそうにない。特急の停車駅に車を置いてきて良かったと、英司はバスの時刻表を眺めながら息を吐いた。  もう病院の消灯時間は過ぎているが、協力してくれた熊谷にも取り敢えず事の顛末くらいは話しておこうかと、プライベート用の携帯を取り出したとき。正にこれから連絡しようとしていた熊谷から、着信が入った。 『月村か!? 今どこだ!?』  英司が応答するよりも先に、スピーカーの向こうから怒鳴るような熊谷の声がした。 「これからそっちに帰るところだけど……」 『あの人は? 無事に見つかったのか?』 「無事……と言えば無事だし、無事じゃないと言えば無事じゃないかな。詳しくは帰ってから話すけど、取り敢えずちゃんと見つけ出すことには成功したよ」 『そうか、なら良かった。ちょっと、穏やかじゃねぇ話が入ってきたんでな』 「穏やかじゃない話?」 『まだ詳細は確認中だが、例の藤原って男が───』 「え…───」  熊谷の言葉に、英司は目を見開いて絶句した。  それから熊谷が何と言って、自分が何と返したのか、柄にもなくほとんど覚えていない。  気が付けば、通話が切れた携帯を握り締めたまま英司は院内へと引き返していた。  駆けつけたICUの中には、芳の様子をみている西園寺の姿があった。芳はまだ眠ったままだ。  いっそ扉を蹴破ってしまいたい衝動を必死に堪えて、英司はこちらに気付いて扉口へやって来た西園寺に詰め寄った。 「ごめん。忙しいのはわかってるけど、彼の意識が戻ったら、どうしてもして欲しいことがあるんだ───」  重い瞼を持ち上げると、芳はベッドに横たわっていた。  起き上がろうにも、全身が泥のように重怠くて動けない。まるで全身が、見えない鎖でベッドに縛り付けられているみたいだ。  そんな芳の上に、半裸の藤原が不意に覆い被さってきた。ギクリとして咄嗟に抗おうとしても、相変わらず身体は動かないし、喉に何かがつかえているみたいで声すら出せない。  芳の上でニヤニヤと下卑た笑みを浮かべる藤原の目は、どこを見ているのかわからない。次々に女の名前を連呼していたが、次第に呂律が怪しくなって、うまく聞き取れなくなった。  圧し掛かられている所為なのか、下腹が痛い。  身を捩ることすら出来ないので、何とかして声を発しようとする芳の口許へ、白っぽい錠剤を摘んだ藤原の手が伸びてきた。 「………!」  薬なんか嫌だ。  藤原と同じ道になんて、堕ちたくない。  飲まされて堪るかと顔を背けようとしたが、それも叶わない。せめてもの抵抗に口を閉じたいのに、何かに抉じ開けられているみたいに、芳の口は開いたままだ。  芳を見ようともしていない藤原の手が、ゆっくりと近づいてくる。  ───嫌だ。  飲みたくない。  これ以上、こんな男に振り回されたくない。  本当はずっと手を伸ばしたかったのに、自分に嘘を吐き続けていたから、とうとう声すら出せなくなったんだろうか。  逃げてきた自分にそんな資格はないとわかっていても、浮かぶ名前はただ一つ。 『……助けて、英ちゃん……』  声の代わりに目尻から言葉が溢れた瞬間、パッと視界が明るくなった。  真っ先に飛び込んできたのは、見慣れない真新しい天井。  周囲からひっきりなしに聞こえてくる、時報みたいな心電図のモニター音。視界の端にぶら下がる、複数の点滴のパック。  それから、鼻をつく消毒薬の匂い。  ───病院……?  咄嗟にそう思ったが、ここが月村病院ではないことはすぐにわかった。  天井も壁も、目に入るもの全てが小綺麗で新しくて、機械的だ。  それに月村病院は、こんなに消毒液の匂いは強くない。  なら一体どこなんだろうと一度目を瞬かせた直後、視界ににゅっと白衣が映り込んできた。  一瞬英司かと期待したが、芳の顔を覗き込むように見下ろしてくるその相手は、見知らぬ男性だった。  胸元の、顔写真入りのネームプレートには『西園寺一馬』と書いてある。  背の高い男前で、熊谷ほどではないが、程よく鍛えられているのがわかる体つきのαだ。  金持ちそう…、と名前の印象だけでぼんやりと考える。英司をクールな医者と表するなら、目の前の男は堅物な医者、という雰囲気だ。  目が覚めてもずっと口の中に違和感があると思ったら、何やらプラスチックの筒みたいなものが突っ込まれている。 「気がつきました? 息、吸い込めますか」  芳の反応を確かめるように、しっかりと目線を合わせたまま、西園寺というらしい医者が言う。  言われるまま息を吸い込んでみると、呼吸は出来るが、やはり喉に違和感がある。 「大丈夫そうなので、抜去しますね」  ……バッキョ?  何それ、と芳が思うより早く、西園寺はあっという間に芳の喉から管を抜き取った。同時に口の中の異物もなくなり、その拍子で軽く咳き込むと脇腹がズンと疼いた。 「ゆっくり深呼吸してください」  息をするたびに、まるで酷い風邪でもひいたみたいに喉が痛む。 「息苦しいとか、ありませんか」 「……息より、喉痛い……」  擦れた声を絞り出して訴える。それでも芳が声を発したことに安堵したのか、西園寺は少しだけ表情を緩めた。 「喉に管を通していたので、今は違和感があるかも知れませんが、じきに治まると思います」  そのまま芳の全身状態をチェックした西園寺が、枕元へ立った。 「この場所、どこかわかりますか」 「……どっかの、病院?」 「M区にある総合医療センターです。月村が研修医時代を過ごした病院で、俺はその同期、と言った方がわかりやすいですか?」 「英ちゃんの……?」  そこでやっと、ぼんやりとしていた頭に、気を失うまでの記憶がポツポツと蘇ってくる。  腹に刺さったナイフ。泣きじゃくるΩの少年。そして、切迫した顔で駆けつけてくれた英司。  いつもより重く感じる片腕を、ゆっくりと持ち上げてみる。  点滴の繋がった手の指にハッキリと残っている、英司の唇の感触。 『絶対に、死なせたりしない』  力強いあの声に、また救われたんだと目の奥が熱くなった。 「貴方の意識が戻ったら、真っ先にして欲しいと月村から頼まれていることがあります」  そう言った西園寺が、胸ポケットから取り出したPHSを操作して、芳の耳許へ宛った。  誰かを呼び出すコール音が聞こえる。  なに、と問うより先に、呼び出し音がプツリと途切れた。 『───芳さん?』  待ち兼ねたとばかりの英司の声がして、目を見開く。 「英、ちゃん……?」 『まだ話すのは辛いだろうから、このまま聞いてて。本当は傍に居たいけど、芳さんが今居る場所に僕は入れない。だから、そこに居る同期の西園寺に、貴方のことを任せてある。何日かしたら一般病棟に移れるってことだから、それまでちゃんと大人しくしておくように』  身勝手に逃げ出した上、藤原絡みのトラブルに巻き込んでしまったのに、英司の声はいつも通りだ。  無駄がなくて、冷静で、けれど芳の身を案じてくれる頼もしい声。  傍に居られない分、すぐに声を届けてくれた英司の気遣いに、鼻の奧がツンと痛む。  英司の落ち着いた口調は、いつも芳を安心させてくれる。いい歳をしてフラフラしてばかりの芳に、真剣に向き合ってくれる人は、英司だけだ。  なのにどうして、この声から逃げ続けていたのだろう。 「……英ちゃん、俺のこと、怒ってる……?」 『当たり前でしょ』  擦れた声で問い掛けた芳に、優しく叱る声が返ってくる。 『勝手に小屋の所有権は譲り渡すし、黙って突然居なくなるし、見つけたと思ったら刺されてるし。ICUを出られたら、最初の見舞いはバールとチェーンソー、どっちがいいか決めておいて。言っておくけど、そこはセキュリティも厳しいから、そう簡単には逃亡も出来ないからね』  藤原から逃れられないとわかったときは絶望しかなかったのに、英司に言われると嬉しさで胸が詰まって苦しい。  黙って逃げてごめん。  巻き込んでごめん。  心配かけてばっかりでごめん。  謝りたいのに、口を開くと先に嗚咽が漏れてしまいそうだった。 「英ちゃん……っ」  辛うじてその名を呼ぶと、スピーカー越しに英司が小さく息を吐いた。 『芳さん。面会が可能になったら、すぐにそっちへ行く。一番大事なことはそのときに伝えるから、待ってて』  発情期を迎えたときも、同じ言葉を残して英司は病院からすぐに戻ってきてくれた。「待ってて」なんていう擽ったくなるような約束をくれて、しかも必ず守ってくれる。  何かを期待するだけ無駄だと思っていたのに、英司と居ると、捨てたはずの希望が蘇ってくる。  今度こそ、その希望に手を伸ばしてもいいだろうか。  ここには居ないはずの英司に、強く手を握られた気がした。   ◆◆◆◆  五日後。  芳が無事一般病棟の個室へ移ったと西園寺から連絡を受け、英司は無理を言って丸一日休みを貰い、医療センターへやって来ていた。  この五日間。英司なりに、考えることも色々あった。  芳の怪我の具合が何より気掛かりだったが、同じくらい気になったのは、熊谷が仕入れてくれた藤原に関する情報だ。  熊谷の情報網は、そこいらのゴシップ誌なんかよりはよほど信用出来るとは思ったが、それでもその真偽を確かめる術は、英司にはない。  何よりもそれを聞いた芳が、どう受け止めるのか。  離れていた所為で余計に考え込んでしまったが、芳の病室の前に立ったとき、不安は覚悟に変わった。  病室の前は、やはり甘い香りが仄かに漂っている。英司がここで働いていた頃には、感じたことがない匂いだ。  数回扉をノックして、英司が病室に入ると、芳はリクライニングを起こしたベッドの上に大人しく収まっていた。 「英ちゃん……」  首だけを起こした芳が、入ってきた英司の顔を見て、驚いたような戸惑ったような、複雑な顔になった。  まだ点滴は繋がっているが、顔色は搬送時より随分良さそうだ。 「バールとチェーンソー、どっちにするか決めておいてくれた?」 「第一声、物騒すぎない!?」 「それだけ声が出せるなら、順調に回復してるのかな」  これまで通りのやり取りに、芳がホッとしたように息を吐いた。  芳の顔を見て、声を聞いて、安心したのは英司も同じだ。本当ならすぐにでも抱き締めて、懇々と説教してやりたい。けれどそれは、今度こそお互いの本音を晒し合ってからだ。  英司は、壁際に立て掛けられていたパイプ椅子を開いて、芳の枕元へ腰を下ろした。 「傷の具合は?」 「超痛い。直後より、何日か経ってからのが痛い」 「痛みを感じるのは正常な証だよ」 「けど傷よりも、ずっとベッドに居んのが苦痛。だって何もすることないし、食事は毎日三食きっちり同じ時間に来るし、消灯時間も早いしさ」 「することがないのはともかく、後の二つはむしろ芳さんが健康的になる、いい機会だと思うけど」 「夜九時はさすがに早いよ。あとアレ。この病院、消毒薬の匂いがめちゃくちゃキツイ」  ───やっぱり。  その瞬間、ひび割れていた芳と藤原を繋ぐ鎖が、静かに砕け散るのを感じた。 「……僕にはずっと、甘い匂いがしてるよ。───芳さん、貴方の匂いだ」 「え?」  ポカンと目を丸くする芳に、英司は荷物の中から取り出した新聞を広げて差し出した。  社会面の片隅に掲載された、下手をすれば読み飛ばされてしまいそうなほど小さな記事。 『マンションから男女遺体。覚醒剤か』  簡素な見出しの記事を読み進める芳の目が、次第に大きく見開かれていく。  渋谷区内にあるマンションの一室で、全裸の男女が死亡しているのが発見され、互いの体内から覚醒剤反応が出た。部屋は死亡した女性が借りているものだったが、男の方は覚醒剤所持の疑いで警察に追われていた風俗店経営者とみられる、という旨の内容だった。  多くの人は、この記事を見てもきっと関心すら寄越さないだろう。英司も、熊谷からの情報が無ければ読み流してしまっていたかも知れない。 「それ、芳さんが搬送された翌朝の朝刊。僕のところに熊谷から情報が入ったのは、丁度芳さんに付き添ってこの病院に居たときだった」 「……風俗店経営者って、まさか……」 「───藤原克彦、三十九才。貴方のパートナーだった男だよ」  震える芳の手から、バサリと新聞が零れ落ちた。 「うそ……アイツ、死んだの……?」  呆然と呟く芳の声もまた、震えている。 「僕も、熊谷から聞いたとき、すぐには受け入れられなかった。彼を疑うわけじゃないけど、この手のニュースでは氏名まで公表されないケースがほとんどだ。でも、今日ここに来て確信出来た。これまでずっと感じられなかった芳さんの匂いを、今は強く感じるから」  芳が搬送されたあの日は、それが芳自身の匂いだとは思いもしなかった。けれど今日、こうして芳の傍に居ると、その甘い香りは以前よりずっと強く、ハッキリと感じることが出来た。  芳という名前に相応しい、花のように芳しい香り。 「熊谷からの情報だと、女性の方は数年前にも覚醒剤所持の現行犯で逮捕歴があるそうだから、二人とも常習だった可能性が高い。状況的に二人は行為に及ぼうとしていたと推測出来るけど、芳さんも知ってるように、番っている相手が居る以上、藤原も芳さん以外の相手には拒絶反応が出るはずだ。女性はともかく、藤原の死因が覚醒剤だったのか、それとも拒絶反応だったのか、あるいはその両方か───そこまでは熊谷にもわからないそうだよ」 「じゃあ何……アイツはもう、どこにも居ないってこと……?」  まだ信じられない様子で声を震わせる芳の前に、英司はハンドミラーを掲げた。  恐らくずっと、見ないようにしてきたのだろう。鏡に映った自身の顔に小さく息を呑んだ芳が、恐る恐る項を覆う髪を払った。 「……薄く、なってる」  細い項に痛々しく刻まれていた傷痕は、英司の目から見てもわかるほど、この数日間で既に消え始めている。 「何だよそれ……。俺のことも、『unlock』の連中も、散々振り回したくせに。なのに、こんな呆気なく居なくなんの?」  ポトリと布団の上にミラーを投げ出して、芳が片手で顔を覆った。 「……死ぬほど大嫌いだったけど、それでもずっと耐えてきたのに、どこまで勝手なんだよ……っ」  溢れ出る感情を必死に抑え込んでいるような、芳の悲痛な声が病室内に響く。  今日ここへ来るまで、英司もずっと考えていた。  藤原との番の関係を絶つことが出来ればと、英司も芳もずっと願っていた。だがその願いがこんな形で叶うことを、望んだわけじゃない。  例え藤原がろくでもない人間だったとしても、医者としてその死を喜ぶことは出来ない。芳だってそうだろう。  藤原の元に縛られ続けた芳の時間は、戻ってはこない。  利用された『unlock』の人間も、芳を刺したΩの少年も、藤原に狂わされた彼らの人生は、決して無かったことにはならない。  どんなに失くしたくないと握り締めていても、指の隙間から零れ落ちてしまう欠片は必ずある。  けれど───。 「芳さん。もしも『運命』っていうものがあるんなら、この結果も含めて、芳さんが今ここに居ることも全て『運命』なんじゃないのかな」  指先が白むほど、布団を握り締める芳の手に、英司は自身のそれをそっと重ねた。 「え……?」  ピクリと肩を跳ねさせた芳が、濡れて揺らぐ瞳を向けてくる。  減っていく町民。  朽ちていく病院。  父が静かに看取った命。  零れてしまったものはいくつもある。  だが、数田美町は今も尚存在している。  月村病院は変わらず町民の健康を担っている。  父もそこで医者を続けている。  失くしたものは取り戻せない。だからこそ大切なのは、せめて今目の前にあるものを、守り続けること───。 「芳さんがあの男と番っていなかったら、僕らは出会っていない。貴方に会って、柄にもなく感情的になって、その過去も知った。……芳さんが言ったんでしょ。僕との出会いは『運命の神様の導き』だって」 「でも……アイツが居なくなっても、俺がアイツの番だった事実は変わらないよ。あんなヤツに関わってた俺が居たら、英ちゃんだけじゃなく、町のみんなにも迷惑かけるかも知れない」 「散々人を振り回しておいて、今更何言ってるの。仮に何かあっても、それはその時に考えればいい。それに、今は強力な助っ人も居るでしょ」 「助っ人?」 「そういえばその彼から、芳さんがまだ尻込みするようならこれを渡してくれって言われたんだ」  出かけに熊谷から託されたメモ用紙を、ポケットから取り出す。おずおずと受け取った芳が、畳まれたメモ用紙を開いて目を瞠った。 『アンタが帰って来なきゃ、俺の肩身が狭い。  それに、生きてなきゃ味わえないものもあるんだろ』  見かけの割に、達筆で少し硬めの文字で綴られた熊谷の伝言。 「さすがは元弁護士だね。ちゃんと貴方の出方を想定してる。熊谷だけじゃない。三井さんや、商店街の人たちも、みんな急に居なくなった芳さんのことを心配してるよ」  皺が寄るほど強くメモを握って、芳が顔を伏せた。長い髪が滑って、その顔を隠す。髪の隙間から、堪えるように強く噛み締められた唇が覗いている。 「……俺、戻ってもいいの」 「貴方は確かに考え無しだけど、それは自分を大切にする方法を知らないからだ」  自分を押し殺して周りに合わせることでしか、居場所を見つけられない哀しい人。  本音を隠した笑顔しか、見せてはいけないと思い込んでいる不憫な人。  英司が追ってこなければ、芳は都会の喧騒に、静かに溶けてしまっていたような気がする。けれどその手を再び握ることが出来たのだから、今度こそ、二人で進んでいけばいい。 「芳さん、あの町に生まれたかったって言ったよね。だったらあの町を、芳さんの故郷にすればいいよ」 「……でも俺、勝ちゃんに小屋あげるって言っちゃった」 「こんな怪我までして、放っておくとどうなるかわからない貴方を、僕がこれ以上一人にしておくと思う?」  芳の手からメモを引き取って、代わりに掌へ、英司は芳の居場所を握らせた。  そろりと掌を広げた芳が、そこに乗っかった真新しい鍵を見て戸惑いがちに顔を上げた。 「……この鍵、なに?」 「祖父が、いつか僕が結婚したときの為にって、持ってる畑の一つを潰して去年家を建ててくれたんだ。独り身だから新築のまま持て余してたけど、やっと祖父に孝行出来るよ」 「待って……それってつまり、俺がその家で、英ちゃんと一緒に住む……ってこと?」 「電気・ガス・水道も通ってるし、キッチンも小屋よりはずっと使い勝手がいい。勿論、ちゃんと風呂もあるよ」 「でも……結婚したときの為にって……」 「先にプロポーズしてきたのは芳さんでしょ。言い逃げなんてさせるつもりはないよ。それとも、僕に縛られるのが怖くなった?」 「そうじゃないけど───」 「鍵よりも、鎖で縛られる方がいいのかな」  いつもみたいに笑えずに、芳の顔がくしゃりと歪む。  お互いずっと同じ想いを秘めていたはずなのに、どこまでも不器用な芳が愛おしい。  ギュッと大切そうに鍵を胸元で握り込んだ芳の拳に、ポタリと水滴が落ちた。 「……英ちゃんに縛られるなら、何だっていい」 「だったらもう観念したら? 芳さんの『運命』に関わった以上、貴方が抱えるものは僕が一緒に背負う。だから貴方もいい加減、幸せになってもいいんだよ」 「………っ」  幾重にも巻き付いていた鎖の破片が、透明な雫になってポロポロと芳の眦から伝い落ちていく。  笑顔ではないその顔を、芳はもう隠そうとしなかった。 「俺……英ちゃんと一緒に居たい。───俺の居場所は、あの町がいい」  涙と一緒にようやく零された、芳の本音。  まだ起き上がれない芳に覆い被さるようにして、英司はやっと向かい合えた芳の後頭部を抱き寄せた。  この泣き顔をもっと見ていたいと思ってしまう自分は、やはり芳の言う通りサディストなのかも知れない。けれど偽りの笑顔より、隠さない彼の涙の方が、ずっと綺麗だ。 「許可が出たら、うちに転院させてもらうように西園寺には伝えてあるから、点滴の針を山ほど用意しておくよ」  英司の軽口に、胸元で芳が嗚咽の合間に小さく笑った。  「あのさ。英ちゃん、あの町は『捨てる命』で『捨命』だったって言ってたじゃん。でも俺、図書館で調べて知ったんだけど、『捨』って漢字には、施し、とか、みんな平等に、って意味もあるんだって。だとしたら、それこそあの町にぴったりな名前だと思う。あそこに居たら、命ってみんな平等に与えられてるんだなって思えるから」  ───平等に与えられた命。  ふと、神社から見る、朝焼けに染まった数田美町の景色が思い浮かんだ。  眩しいネオンも、賑やかな喧騒も、全てが無縁な町。決して便利ではないが、第二の性による軋轢や差別とも、無縁な町。  まるで身を捨てるようにやってきた芳も熊谷も、数田美の町でもう一度、新たな道を踏み出そうとしている。  もしかすると、それを見届ける為に、真っ先に町へ導かれたのは英司なのかも知れない。  「……だから僕も、あの町に戻ってきたのかもね。何もない小さな町だけど、帰ってきたから芳さんに出会って、守りたいものに気付けた。貴方が、僕を人間にしたんだよ」 「英ちゃんは、最初から機械なんかじゃなかったよ。出会ったときから世話焼きで、優しかった。俺、多分初めて会ったときから、英ちゃんのこと好きだった気がする」  英司の胸に額を摺り寄せるようにして、芳が呟くような告白を寄越した。  甘くて蠱惑的な香りが、一層強く匂い立つ。芳の匂いは、英司が好きな早朝の清々しい空気の中で咲く花に似ている。澄んだ空気の中でしか感じられない、だからこそ特別な香り。 「ひょっとしたら、貴方に散々苛々させられてた時点で、僕も芳さんに惹かれてたのかな」 「俺、そんな苛々させてた?」 「させてたよ。僕をあんなに苛々させたのは、人生で芳さんくらいだ」  苛々して、怒って、心配して、嫉妬して───そして誰よりも傍に居たいと思った。 「相変わらず、意地悪だよね」  そう言う芳の声は、どこか嬉しそうだ。 「苛々するのは御免だから、もう二度と、僕の前から居なくならないって約束して」  コツ、と額を合わせた英司に、芳が何度も頷く。その拍子にまた一筋、新たな涙が芳の目尻から零れ落ちた。 「約束する。死ぬまで英ちゃんの傍に居る」 「僕は死なせないから、丁度良かった」  まだ薄く傷が残る芳の項へ、労わるように掌を宛がう。  今はまだ傷だらけの芳の身体も心も、共に過ごす時間の中で、少しずつ癒えていくといい。そう願いながら、英司はようやく隔てる壁のなくなった芳の唇へ、偽りのない本心と共に口づけを贈った。

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