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最終話

    ◆◆◆◆  芳が月村病院に移り、順調に回復して退院した後。英司はずっと空き家状態だった新居へ、約束通り芳を迎えた。  山手の小屋は今では熊谷の住まいになっており、新しい道を模索している熊谷の為に、町民の協力の元、現在建て替え工事が行われている。  芳の元へ何度か警察がやって来たが、それらはどれも藤原絡みではなかった。Ωの少年が起こした、傷害事件についてだ。  ただ、芳はあくまでも「事故だった」という主張を押し通し、熊谷の助力もあって、あの少年は不起訴処分となった。  黄金色だった芳の髪は、長さこそ変わってはいないが、今では黒髪になり、両耳にいくつもついていたピアスも、全て穴が塞がりかけている。  新居での生活を始めてから、英司と芳は今度こそ本物の恋人同士らしい生活を、ゆったりと満喫していた。  真新しく広いキッチンで、芳は毎日活き活きと料理を作り、時折熊谷を招いて料理を手ほどきしている。熊谷の今後の選択肢を、少しでも広げる為だ。  毎日同じベッドで寝起きし、早朝には二人で神社へ出向くようになった。  朝食の後、出勤する英司を見送って家事を終えた芳は、以前のごとく日中は三井青果店を手伝い、そして夜には二人で食卓につく。芳の豊富なメニューに舌つづみを打ち、リビングで揃って食後のコーヒーを楽しんで、時折じゃれ合うようなスキンシップを楽しむ。  付き合い始めたばかりの、初心なカップルのような時間を堪能しながら、二人は静かに来たるべきときを待っていた。  どちらから言い出したわけでもない。お互い、暗黙の了解のように『運命』のときを待ち続けた。  春が過ぎ、梅雨真っ只中ですっかり蒸し暑くなった、六月の末。  英司と芳が穏やかな日々を過ごしながら、ずっと待ち望んでいたその日が、とうとうやってきた。  帰宅した英司を出迎えたのは、まるで花畑の中に足を踏み入れたのかと錯覚しそうなほど、瑞々しく甘い花の香りだった。  荷物をリビングに投げ出し、階段を駆け上がって寝室のドアを開けると、その瞬間一斉に花びらが舞い散ったように、芳のフェロモンが英司を包み込んだ。これまで英司は反応することが出来なかった、発情期特有のαを誘う強い匂い───。 「英ちゃん、おかえり……。出迎え、行けなくてごめん……」  ベッドに横たわった芳が、上気した顔を向けてきた。  ドク、と心臓が一つ脈を打ち、英司のα性に情欲の火が灯る。 「むしろ、最高の出迎えだよ」  この日をどれだけ待ち侘びていたか。英司も、それから恐らく芳も。  本能に従って、すぐにでも芳の細い身体を組み敷きたい衝動を堪えて、ベッドに歩み寄る。  投げ出された芳の左手に、英司は自身の右手をそっと重ねた。  触れ合う瞬間、ビクリと反射的に身を強張らせた芳の手を、宥めるようにゆっくりと握り込む。 「……良かった。ちゃんと触れる」  前回の発情期では近付くだけでも苦しんでいた芳が、噛みしめるように呟いて英司の手を強く握り返してきた。  ようやく触れ合える。  繋がり合える。  握り合った手で互いの想いを確認して、英司はそこでやっと芳に覆い被さった。  ずっと押し殺してきた感情をぶつけ合うように、どちらからともなく唇を重ねる。  今度こそ二人で発情期を乗り越えることで、ようやく二人揃って、新たな一歩を踏み出せるような気がしていた。だからこそ、英司も芳も今日という日まで、一度も肌を合わせなかった。  身体も心も繋がるのは、本当のスタート地点に立ってから───そうお互いに決めていたから。  吐息ごと舌を絡め合うキスを繰り返しながら、芳が英司の存在を確かめるように、髪をくしゃりと掻き混ぜてきた。甘えるようなその仕草に、英司も芳の長い髪を掬い上げて口づける。  そのまま首筋へ唇を滑らせると、短く息を吐いて芳が身を捩った。 「ちょ……英ちゃん」 「なに」 「電気、消さないの?」 「どうして?」 「……この歳になって初めて、心臓バクバクして超恥ずかしいって、思ってるから」  まるでこれが生まれて初めての行為のように、芳が戸惑いに揺れる瞳で見上げてくる。  ずっと淡白だった英司にとっても、こんな風に誰かと繋がりたいと強く思った行為は初めてだ。  求め合って身体を重ねるというのは、お互いにとって初めてのことなのかも知れない。  とても風俗店で働いていたとは思えない、芳の初々しい態度に、独占欲と支配欲が刺激される。 「じゃあ尚更、消さない方がいいね」  英司の返答に「意地悪」と苦笑した芳の腕が、英司の首に絡む。芳という花の蜜に惑わされて、目が眩みそうになる。  性欲なんて理性でいくらでも抑えられると思っていたし、実際これまでそうしてきた。  なのに、火照る芳の肌に触れているだけで、すぐに喰らい付いて手に入れたいという本能に、押し流されてしまいそうだった。  これまでの欲求を埋めるように何度も口づけながら、芳の身体を覆う衣服を取り去っていく。途中で芳が、焦れたように英司のシャツのボタンを外しにかかるのを手伝って、初めて素肌を合わせた。  直に雄同士が触れ合い、芳がビクリと身を震わせる。芳のそれは、溢れた先走りで滑るほど芯を持っていた。 「……っ、ヤバイ。ホントに待って。余裕無さ過ぎて死にそう」  両腕で顔を隠すようにして、芳が懇願する。 「もう散々待ったよ」  既に固く張り詰めている芳自身に指を絡めて、薄い胸元へ唇を落とす。 「あっ、それ……ダメだって……っ」  胸の先端に舌を這わせながら、ほんの少し手の中の熱を扱いただけで、芳はビクビクと全身を跳ねさせて「ダメ」と繰り返した。  芳の身体は確実に英司を求めているのに、この期に及んで羞恥に震える芳を、何も考えられなくなるほどぐずぐずに蕩けさせてやりたい。  笑顔よりずっと正直な、芳の甘い涙を味わいたい。  身体の奧から湧き上がってくるそんな衝動に、どうにか歯止めをかけてくれているのは、芳の脇腹にまだ痛々しく残る傷痕だ。日常生活にはもうすっかり支障はなくなっているが、それでも最近の悪天候では、時折痛みを訴えている。  この先完全に消えることはなくても、英司が共に背負っていくと誓った傷。  少しでも癒せるようにと、英司が傷痕へそっと口づけると、芳の脚が微かに震えた。 「も……英ちゃん、あんま、焦らさないで……」 「さっきは待ってって言ったのに?」 「俺だけ、イっちゃいそうで嫌だ」  早く、と髪を緩く握り込まれて、煽情的に誘う芳の声に、抗えるだけの余裕は英司にもなかった。  一旦身体を起こしてコンドームを取る。すると、封を切ろうとした英司の手を、細い腕が掴んで制した。 「ストップ。……お願い。そのまま挿れて」 「え?」  思わず面喰う英司の腕を掴む指に、ギュッと力が込められる。 「英ちゃんが守りたいこの町を、俺も守りたい。若い人が少ないなら、俺が産む。俺がこの町の為に出来ることって、それくらいだから」 「芳さん……。だけど、仮に妊娠したら、身体に負担がかかるのは貴方の方だよ。男性Ωの場合は帝王切開になるから、また傷が出来ることにもなる」  身体の構造上、女性に比べて分娩が困難な男性Ωは、母体の安全を考慮して帝王切開手術での出産が義務付けられている。  芳が英司との子供を産みたいと望んでくれるのは嬉しかったが、折角腹の傷が塞がったところでまた新たに傷を増やしてしまうことには、さすがに躊躇いがあった。一緒に背負うと言っても、実際に痛みを味わうのは芳だ。  そんな英司の胸中を察したのか、芳が小さく笑って、掴んだままの英司の腕を引っ張った。開封しかけたゴムが手から零れ落ちて、再び芳の上に引き戻される。 「英ちゃんとの子供が産めるんなら、むしろ嬉しい傷じゃん。俺、英ちゃんやこの町の為なら、十人でも二十人でも産むよ」 「毎年一人産んだとしても、二十人目が産まれる頃には芳さん、五十歳超えてるよ」 「英ちゃんが居たら、頑張れる」  そう言って英司を抱き寄せる、熱い腕。芳から放たれる甘い香りに誘われて、英司の胸から感情が溢れ出してくる。  ───本当にこの人は、僕を引っ張るのが上手いんだ。  誘うように芳が自ら開いた脚を抱えるようにして、英司は自身の先端を狭間の窄まりへ宛がった。まだ解していないにもかかわらず、そこは芳の体液で濡れて待ち侘びている。 「ん……っ」 「慣らさなくて、大丈夫?」 「……わかってるくせに……っ」  敢えて焦らすように何度か入り口を擦ってから、英司はゆっくりと芳の中に挿り込んだ。 「あっ、…───ッ」  最奥に辿り着いた瞬間、腹に熱い迸りを感じた。蕩けきった芳の中が断続的に収縮して、彼が達したことを伝えてくる。そのままこっちの欲望まで引き絞られそうになるのを、下腹に力を入れて堪えた。  ハ…、と浅い息を吐く芳の目尻に、ようやく交わることが出来た喜びが溢れる。同じ想いを伝えるように、英司は唇を寄せてその甘い雫を吸い取った。 「やっと繋がれたのに、もう満足?」  意地悪く少し身を引いた英司の腰に、芳の脚が弱々しく巻きついてきた。 「……どうしよう。気持ち良すぎて、溶けそう……」  吐息に乗せて、芳が譫言のように呟く。  気持ちいいのは、きっと身体だけじゃない。  互いの身体を通して、心の奥まで満たされていくのが英司にもわかる。 「確かに、中は溶けてるかな」 「あっ、や……」  軽く揺さぶっただけで、芳は英司の首に縋りついて嬌声を上げる。  熱く蕩けた内側を掻き回したい劣情を逃すように、英司は芳の精で濡れた彼の脇腹を軽く撫でた。 「傷、痛まない?」  何度も頷いた芳が、苦しそうに笑った。 「っ、なんか……意外。英ちゃんのセックス、もっとサディストっぽいのかと、思ってた」 「何言ってるの。今は芳さんの身体を気遣ってるから、控えめにしてるだけだよ。───その必要がなくなったら、覚えておいて」 「……ヤバイ。ちょっと、楽しみって思っちゃった」  そう言って、芳が肩口へ額を寄せてくる。  髪の隙間から見えるのは、すっかり痕のなくなった細い項。けれどまだ、目には見えない過去がそこには染み付いている。 「芳さん、僕に消してほしいって言ったよね」 「え……?」 「───望み通り、消してあげるよ」  項を覆う髪を払い、英司は芳の唯一の場所へ、今度こそ自身の存在を刻みつけた。  ずっと求め続けていながら、これまで手に入らなかった最後の繋がり。もう二度と失わせない、芳の居場所。 「ぁ……っ」  項に噛み付かれた芳が、小さく声を上げて肩を震わせた。  繋がった部分から互いの身体が溶けて混ざり合い、やがて一つになっていくようだった。 「あの男に縛られてた貴方はもう居ない。牧野芳は、僕のパートナーだ」  失くしたものは取り戻せない。  深い傷痕を消し去ることは難しい。  それでも芳と過ごす日々の中で、きっと新たな幸せはこの先いくつも見つけられる。  心も身体も満たされる幸せも、愛される喜びも、芳が英司に教えてくれたように、同じだけ芳に与えてやりたい。  もう二度と繋いだ手が離れないよう、しっかりと英司に縛られた芳がくしゃりと泣き顔になった。嗚咽を堪える芳の目から、次々に愛おしい涙が零れ落ちる。 「芳さんの泣き顔が好きだから、僕はやっぱりサディストだね。……後悔してる?」  刻んだばかりの番の証を撫でて抱き寄せると、芳が大きく首を振った。肩に、あたたかい滴がじわりと染みる。 「……っ、ありがとう、英ちゃん。大好き……」 「僕も、愛してるよ」  しっかりと噛み合わさった英司と芳の『運命』の歯車が、待ち焦がれた末、ゆっくりと回り出す音がした。   ◆◆◆◆ 「おー、凄い! 思ったより賑やか!」  陽が落ちた農道を歩きながら、芳が浮足立った声を上げた。  視線の先には、見慣れた神社。ただしその様相は、普段とは随分違っている。  いつもなら夜の闇にひっそりと紛れているが、この日はむしろ暗闇の中、巨大なランタンが置かれているように神社一帯が明るく光っている。  今日は年に一度の秋祭り。  毎年祭りの日には、神社の石段に提灯が並び、鳥居の周辺には屋台がズラリと並ぶ。  普段は人が出ていくばかりの数田美町だが、この日だけは近隣の町からも屋台目当ての若者や親子連れがやって来るので、唯一町が賑わう日だった。  幼い頃は祖父に連れられて来たことがあったが、さすがにこの歳になると屋台巡りをすることもないので、英司も祭りで盛り上がる神社に来るのは随分久し振りだ。  祭りのことを知ってから、ずっと「行きたい」と言っていた芳に連れ出される形で、英司と、それから熊谷も一緒にやって来ていた。 「俺、こういう祭りって行ったことないんだよね」 「俺も最後に行ったのは中坊んときだったな」  浮かれているのは芳だけかと思いきや、熊谷も満更でもない様子で、二人して目ぼしい屋台を早くも指差している。  そんな二人の後ろに続く格好で歩きながら、英司は小さく息を吐いた。 「芳さん。楽しむのはいいけど、あんまり羽目外さないようにね」 「わかってまーす。でも俺、神社に来ること自体久々だから嬉しくってさ」 「そういや、前は毎朝散歩に来てたんだったか」 「うん。でも今はダメだって、英ちゃんが」 「当たり前でしょ。もうすっかり朝晩冷える時期なんだから。本当なら今日だって、この時間から出歩くのは感心しないのに」 「大丈夫だって。言われた通り、ちゃんと厚着してきたじゃん」  ホラ、と英司を振り返って、芳がコートの裾を摘んで見せる。その拍子に、後頭部で束ねられた長い黒髪が、正しく馬の尻尾のように揺れた。  芳は一時期髪を切ろうか悩んでいたが、英司が芳の髪は綺麗で好きだと言うと、それっきり今の長さから変えることはなくなった。  行為の最中、少し乱れる芳の黒髪が艶っぽくて、それが何より気に入っているという本音は、未だに秘密にしているのだが。  そんな芳の中には、今現在新たな命が宿っている。  十月も終わりに差し掛かり、季節はもうすっかり秋だ。  ずっと日課にしていた早朝の朝日観賞も、芳の妊娠が判明してからは暫くお預けになっているが、無事安定期を迎えたこともあって、今夜は特別に祭りに出向くことになった。  祖父から「結婚」という言葉と同時に新居を贈られたときには、正直なところ、自分が家庭を持っているところなんて想像も出来なかった。  ある程度の時期がきたら、見兼ねた親に紹介された見合い相手とでも結婚するんだろうか、なんて思っていたくらいだ。  それなのに、自分から惹かれた相手と番って、更に子供まで授かるのだから、人生というのはどう転がるかわからない。  人付き合いの上手い芳は、月村家にもすんなり馴染んで、今では英司以上に家族に溶け込んでいる。両親は早くも初孫の誕生に備えて浮ついているし、祖父に至っては「ひ孫が抱ける」と以前より元気になった。  熊谷はまだ、弁護士以上に熱くなれるものに出会えていないようだが、彼の住まいも以前に比べれば随分としっかりした、ロッジ風の小屋に生まれ変わっている。それもまた、町の皆が「若者が増えるなら」と喜んで協力してくれたお陰だ。  芳がこの町に来たことをきっかけに、寂れていた町がほんの少しずつ、活気を取り戻しているような気がする。 「あ、リンゴ飴! コレ憧れだったんだよね。英ちゃん、買っていい?」 「いいけど、芳さんなら自分で作れるんじゃないの」 「屋台で買うから雰囲気あるんだって」 「俺は焼きとうもろこしにするか」 「あー、そっちも美味しそう。匂いがいいよね。ていうか英ちゃんは、子供の頃屋台来なかったの?」  屋台で買った大きなリンゴ飴に齧りつきながら、芳が英司の隣に並ぶ。 「僕はどっちかというと、普段の静かな神社の方が好きだったからね」 「でも確かに、英ちゃんはあんまり屋台メシってイメージないかも」 「そもそも立ち食いする感じじゃねぇよな」  いつの間にか片手にとうもろこしを持った熊谷が同意する。 「まあ、今は特に家での食事に満足してるしね」  何でもないことのように英司が答えると、隣で芳がリンゴ飴みたいにパッと紅くなった。 「……英ちゃん、そういう不意打ち、狡くない?」 「お前見かけに寄らず、嫁馬鹿で親馬鹿だよな」  熊谷が呆れたような声を零したが、そもそも番いたいと思った相手は芳以外に居ないので、気持ちの度合いがわからない。  ただ、芳は相変わらずよく笑うが、前よりもずっと柔らかい顔で笑うようになった。それに、今のような照れた表情だったり、悪阻が酷かったときには素直に弱音を零したりしていたし、その変化は英司にとって嬉しいものだった。  幸せ、なんていうものを改めて考えたことなんて、芳に出会うまでは一度もなかった。けれど、くるくると表情を変える明るい芳が、英司の前では弱さも涙も見せてくれることは、言葉で表すのならきっと幸せと言うのだろう。 「そういえば勝ちゃん、この間絵画始めたって言ってたけど、どう? なんか手応えあった?」 「いや……あんまりピンと来ねぇな」 「そっか。料理も嫌いじゃないけど、没頭出来るほどじゃないって言ってたもんね」  飴の部分が綺麗になくなったリンゴを齧って、芳が「うーん」と宙を仰ぐ。  英司と芳は確実に少しずつ前に進んでいるが、熊谷の時間は、まだ止まったままだ。英司には、熊谷本人が未だに過去から踏み出すことを躊躇っているように見える。  英司の前にある日突然芳が現れたように、熊谷にも何か救いがあってくれればいいのにと思っていると、突然芳が「あっ!」と目の前の屋台に駆け寄った。 「こら、走らない」  英司の叱責に軽く肩を竦めて、芳が「見て見て」と屋台の中を指差す。 「勝ちゃんが居る!」 「俺?」  熊谷と揃って覗き込んだのは、動物のガラス細工が並ぶ屋台だった。その中のクマのガラス細工が熊谷みたいだと、芳は顔を綻ばせている。  ケーキの上に飾られた、マジパンのようなクマ。それ以外にも、犬や猫、ウサギにブタなど、様々な種類の動物たちが並んでいる。 「芳さんも居るよ」 「ああ、確かに出会った頃の髪色だと似てるな」  英司が示したキツネのガラス細工を見て、熊谷が頷く。 「でも英ちゃんは居ないなあ」 「なんで僕まで動物になってるの」 「つうか、月村は動物だと何になるんだ?」 「英ちゃんは絶対アレ! ユキヒョウ!」 「ユキヒョウって、また随分マニアックな……」  英司が呆れる一方で、熊谷は「なるほどな」と妙に納得した様子で顎に手をやった。 「月村はネコ科のイメージだな」 「でしょ!? でもライオンとかトラはちょっと厳つすぎるしって思ってたんだけど、前に図書館で図鑑に載ってるユキヒョウ見たとき、コレだ!って。でもさすがにユキヒョウは売ってないかー……」  残念そうに肩を落として、芳は最初に見つけたクマのガラス細工を手に取った。 「おじさん、コレ頂戴」 「キツネは買わないの?」 「だって英ちゃんが居ないし」  どうやら英司はすっかりユキヒョウが定着しているらしい。  店主に代金を手渡すと、芳は購入したガラス細工を熊谷に差し出した。 「はい、勝ちゃん。あげる」 「俺に……?」  熊谷が、面喰らったように目を瞬かせる。 「クマだからか?」 「それもあるけど、勝ちゃんて何となくガラスっぽいからさ」 「ガラスっぽい……?」  熊谷は首を捻っていたが、今度は英司が芳の言葉に同意した。 「確かに、見た目に反して繊細だからね。誰かさんは」  この町にやってきた頃よりは多少スッキリしたものの、ラフに散らしっぱなしの髪や無精髭のお陰で、熊谷の容姿は相変わらずクマみたいだ。  けれど、そんなワイルドな外見とは裏腹に、熊谷は今も過去に囚われ続けている。 「ガラス細工、か……」  受け取ったクマを見詰めて、熊谷がポツリと呟く。大きな掌の上で、ガラスのクマが屋台の灯りを反射してキラリと光った。 「ん? 勝ちゃん、ガラス細工に興味湧いた?」 「……何の知識もないが、手を出してみるにはいい機会なのかも知れねぇな」 「だったら勝ちゃんが、英ちゃんと俺、作ってよ」 「いきなりユキヒョウはハードル高ぇだろ」 「どうせなら目標がある方がいいじゃん」 「ガラス細工のクマじゃなくて、クマが作るガラス細工っていうのも面白いかもね」  英司と芳の軽口に、熊谷が苦い笑みを浮かべながら項を擦った。この冗談めいたやり取りが、少しでも熊谷の新たな出発点に近付けばいいと、英司も芳も願っている。  一晩の祭りの空気を楽しむ三人の間を、澄んだ秋の夜風が吹き抜けていく。 「……来年は、この子も一緒に来られるかな」  隣を歩く芳が、英司にだけ聞こえる声で囁いた。愛おしげにそっと腹へ手を当てる芳の姿に、胸の奧が神社を照らす提灯の灯りのように、フワリと温かくなる。 「芳さんに似たら、来年と言わず、この先毎年来る羽目になるよ」 「じゃあ英ちゃんも、毎年来なきゃね」 「まあ、折角この町が賑わう祭りが続いていくのを見守るのも、悪くないかな」  珍しく人が溢れる道路を歩きながら、英司は密かに芳と手を握り合った。   ◆◆◆◆  ───四年後。 「ただいま」  英司が自宅の玄関に入ると、リビングからギャアギャアと元気の良い泣き声が響いていた。 「あ、英ちゃんおかえり」  ヒョイ、と廊下に顔を出した芳が、泣き喚く我が子を必死にあやしている。 「その声は(つかさ)かな」 「さっすが英ちゃん。大当たり」 「花芳(かほ)(あきら)はもう寝た?」 「二人ともついさっき寝ついたとこ。司だけは、この通りまだエネルギー有り余ってるみたいでさ。ほら司、折角お父さん帰ってきたんだから、笑って『おかえり』しよ?」  ギュッと芳の肩にしがみついたまま、小さな泣き顔がチラリと英司の方を向く。 「ただいま、司」  もうすぐ一才になる息子の濡れた頬を軽く突くと、ほんの一瞬笑いかけた司は、思い出したようにまた目を潤ませて泣き出した。 「あ、これは確信犯だな。このままだと、英ちゃんパパがご飯食べられないじゃん」  末っ子の司は、芳に抱いて貰いたいとき、決まっていつもこの手を使う。勿論本人は無自覚なのだろうが、振り回すのが上手いところが、司は芳によく似ている。 「夕飯だけど、ちょっと今日は病院に泊まり込みになりそうなんだ。取り敢えず、着替えだけ取りに帰ってきた」 「え、なんかあったの? 急患?」  泣きじゃくる司の背を、ポンポンと慣れた手つきで宥めながら、芳が心配そうな顔になる。 「急患というか……二度あることは三度あるというか」 「? どういうこと?」  芳がキョトンと首を傾げたが、実のところ英司も驚いている。  今日の昼間、熊谷が突然見知らぬΩの少年を、月村病院へ抱え込んできたのだ。  何でも、数日前にあてもなくこの町へやってきたその少年が、偶然熊谷の小屋に辿り着いたのをきっかけに、面倒をみているらしい。  まだ高校を卒業したばかりだという少年が、初めての発情期を迎えてしまい、とても傍には居られないからと熊谷は英司に助けを求めてきた。  芳や熊谷同様、またしてもフラリとこの町に辿り着いたというΩの少年。  その偶然だけでも驚きだが、更には彼が、町の人間でもまず立ち入らない山手にあるあの小屋を訪れたということに、英司は単なる偶然では片付けられない『何か』を感じずにはいられなかった。  誰も居ないはずの神社で居合わせた、英司と芳の出会いを思い出す。  それに、発情期のΩを見るのは初めてではないはずの熊谷が、まだ十代の少年の発情に酷く動揺していたことも不可思議だった。  それらの経緯を芳に話すと、彼もまた「へえ」と興味深げに声を上げた。 「もしかして、勝ちゃんもやっと前に進めるのかな」 「さあ、どうだろうね。相変わらず、見た目はクマで心はガラスだから」  四年前に芳から貰ったクマのガラス細工をきっかけに、熊谷はそれからガラス工芸に打ち込み始めた。どうやらそれが彼の心に響いたらしく、今ではあの見た目からは想像出来ないほど、繊細なガラス細工を日々作り出している。  けれどそれらはずっと、熊谷が失くしてしまったものの為だった。救えなかった命を弔うように、熊谷は作品を作り続けている。  いい加減、自分の為に生きても良いのに───。 「……大丈夫だよ、英ちゃん」  泣き疲れたのか、少しウトウトし始めた司の身体を優しく揺らしながら、芳が微笑む。 「英ちゃんに救われた人は、みんなもう一回歩き出せてる。だからきっと、勝ちゃんも、そのΩの子も、この町でならちゃんと前に進めるよ。ここは、みんなが平等に生きてる町なんだから」 「……そうだね。僕に出来ることは、信じて彼らを見守ることだ」  司を刺激しないよう、英司は着替えを取りに二階の寝室へ上がった。  音を殺してドアを開けると、ベッドの上では長女の花芳が、そして壁際に二つ並んだベビーベッドの一つでは、司の双子の兄である英が、それぞれ静かに寝息を立てている。  芳の二度目の妊娠は双子だった為、一気に三人から五人家族になったこの家は随分と賑やかになった。  英司と芳、それぞれの血と名前を受け継いだ我が子たちの愛らしい寝顔を焼きつけて、英司は手早く荷物を纏めるとリビングへ引き返した。  夕飯を食べる時間がなかったことを詫びようとした英司の前に、芳が「はい」とタッパーの入った紙袋を差し出してきた。  片手にはまだ司を抱いているのに、一体いつの間に詰めたのか。透明の蓋越しに、英司の好きな筑前煮を含めた何種類ものおかずが詰め込まれているのが見える。 「着替えもだけど、夜食も必要でしょ。ちゃんと栄養摂らないと」  時折子供たちと羽目を外しすぎてヒヤッとすることはあるものの、芳は今ではすっかり頼もしいパートナーかつ母親になっている。  英司にとっては、生まれたときから当然のようにあった温かい家庭。そんな家庭が、芳と共に築けていることを、心から嬉しく思う。  子供たちに慕われ、英司に愛される芳の居場所が、この家には確かにある。 「気ぃ付けてね。いってらっしゃい」  玄関まで見送りに出てきた芳が、眠りかけている司を起こさないよう、囁くような声音で送り出してくれる。  行ってきます、と囁き返して、英司は最愛のパートナーに、労いと愛情を込めたキスを贈った。  シューズボックスの上には、少し形がいびつなユキヒョウとキツネのガラス細工が仲良く並んでいる。ガラス工芸にようやく慣れ始めた頃、熊谷が作ってくれたものだ。  今度はクマの隣にも、寄り添う存在が出来るといい。  少しずつではあるけれど、新たな命が育ち始めている数田美町。  そんな中、一人過去に取り残されたままの熊谷の元に吹き込んできた、新しい風。  ───この町に居る以上、僕は絶対に失わせない。  平和な数田美の町を、眩しい朝日が変わらず照らし続けてくれることを願いながら、英司は今日も、愛する人と暮らすこの町で白衣に袖を通す。

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