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第1話
この匂いは何の花の香りだろうか。
トオル・ブラックリーは雨に濡れた草木を踏みしめながら、ふとそう思った。
墓園には様々な種類の花が供えられていて、雨の降った翌日などはいっそう香りが強くなる。
だがそれはけっしていいものではなく、強すぎる花の香りはときに人を不快にもする。トオルもまた、この香りが好きではなかった。
霧の街・ロンドン。その郊外にあるこの墓園は、イングリッシュガーデンのような華やかさで有名な場所だが、墓園は所詮墓園である。
雨上がりの朝方はとくに霧が濃くて、数歩先を見るのがやっとだ。しかし、トオルはこの澄んだ空気が好きだった。
トオルは手ぶらのまま目的の墓標に辿り着く。
『ミシェル・ブラックリー』
半年前に死別した妻の名前は、闇に逃げこみそうになるトオルの思考を現実世界へと引き戻すストッパー役となっている。
日系人であるトオルとミシェルが出逢ったのは、いまから三十年ほど前。
カレッジで同じ講義を取ったのがきっかけで仲良くなり、それとなく付き合うようになる。早くに両親と死別し、ひとりで暮らしていたトオルを見かねて、ミシェルが半ば強引に部屋に来るようになり、五年後に結婚。ミシェルの両親は日系人であるトオルを温かく迎え入れてくれた。子宝には恵まれなかったが、トオルは銀行員、ミシェルは主婦となり、ふたりは幸せに暮らしていた。
ともに五十の節目を迎えようとしたある日、ミシェルは突然倒れ、医師の処置もむなしくそのまま旅立つ。食道がんだった。
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