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第1話
「にゃ~ん、にゃ~ん」
黒い髪を掻いて、そばかすの散った少年・セルクルは猫の鳴き真似を繰り返しながら野原を歩く。
「にゃ~ん、にゃ~ん」
にぃ、にぃ、と子猫の声は聞こえるが姿が見えない。無事ならばいいのだが、切羽詰まった高く激しい鳴き声に焦ってしまう。
「にゃ~ん、にゃ~ん」
おかしいな。前髪を掻き上げる。 鳴き声は近い。にぃ、にぃ。上からだ。顔を上げる。1本植えられた大樹の幹の上。
「あ~、マジか」
登らねば届かない位置に、皮付きの玉ねぎがそのまま毛むくじゃらになったような、毛糸玉と見紛う生き物がいる。自力で登ったならば自力で降りられるだろう。木登りは苦手だ。セルクルはにぃにぃと鳴く毛玉を見ていたが、切り離す。ふと投げたところにカラスがいた。黒い賢げな目がセルクルを見る。カラスの目は人心を映し、人々を見張る。昔誰かが言っていた。その者の妄想か作り話だろう。だが顔も声も覚えていないというのにその文言はよく憶えている。カラスは黙ってセルクルを凝視している。嘘だと思った。このカラスはあわよくばあの玉ねぎに似た獣を食いたいだけだ。鋭く大きな嘴は閉じられたまま、潤んだ黒の目がセルクルをただ黙ってじっと見ている。観察している。微かに赤みがかって青を帯びつつも淡く緑も反射する羽は艶やかだ。カラスから目を逸らすと今度は枝の上の毛玉を視界に入れてしまう。カラスは無言だ。
「分かったよ!」
空を仰ぐと両手を合わせる。大樹の皮へと手をかける。まだ陸を踏みしめている片足が地を蹴り上げたところで、ばさばさっと音がした。ごわついた大樹の皮から手足が離れていく。温かさに包まれ身体が浮いた。変な浮き方をした。翼も羽根も綿毛もない人間はただ下へ激しく向かうだけだというのに、枯葉のように揺蕩うような。着地して、両足が安定する。目の前に深々とフードを被った背の高い人物がいた。銀の毛先が麻布の下から豊かに伸びている。
「危ないことをするなとあれほど言っただろう!」
知らない男に怒鳴られ、セルクルは近所の人なのだと理解した。
「ご、ごめん…で、も…」
にぃ、にぃと鳴いていた玉ねぎの獣は自力で降りようとしていた。降りられるのか。もう一度大樹に近付こうとするとフードの男に阻まれた。
「え…」
「怒鳴ってすまない。お前に何かあったら俺は…」
阻まれるというよりは、積極的にセルクルの前に出たようにも思った。それは勘違いではなかったらしく、丈の長いフードに包まれる。抱き締められている。変質者だ!セルクルは口をぱくぱく動かした。拒否するより先に膝裏を掬い上げられ、再び身体は陸を離れる。
「帰るぞ」
「え、ちょっと!」
にぃ、にぃ。下に向かったまま背を伸ばし、懸命に樹皮に爪を立てて動けなくなっている子猫が見えないのか、聞こえないのか。フードの男を叩く。野生では怪我をしたら生きていけないのだ。
「離せ!誘拐犯!変態!こいつ犯罪者です!」
暴れるがフードの音の逞しい腕から抜け出せない。近隣住民はセルクルを注目しはしたがくすくす笑ったり、訝しんだ目を向けるだけのようだった。軽々とした足取りで町を歩く。花壇ばかりが手入れされた古びたアパートの角部屋へと連れ込まれる。
「おい!やめろって!」
セルクルは、己の立場で空へと祈りを捧げたことを後悔した。神に見放された自身が頼ったことにお怒りになっているのだ。両手を合わせて空見てただけだろ!きぃきぃ喚いて力強い腕や厚い胸を叩き続ける。
「ただいま。ほら、お前も」
フードの男は首を伸ばして、セルクルの髪に唇を落とす。フードの下から包帯が見えた。
「おいやめろ!」
鍵のかかる音がした。アパートの中に進み、ベッドの上に降ろされる。フードの男は床に膝を着いてセルクルの両腕を摩りながら顔を覗き込んで、そこで初めて男の顔を知った。銀髪に翠の左目をした凛々しく端整な顔立ちの男だった。右目はガーゼと包帯が巻かれている。
「どこも痛くはないか」
「痛ぇっスよ」
男は眉間に皺を寄せる。
「どこだ、どこが痛む?」
「良心っスかね」
子猫が落下したかも知れない。カラスに食われてしまったかも知れない。男は悲痛に眉を歪めてセルクルを抱き締める。肩に顔を埋めて、背に回る腕が力む。厄介な犯罪者だ。悪意ではなく何か錯乱しているらしい。下手に正気に戻すより、このまま錯乱に付き合い、隙をついて逃げたほうがいいだろう。不気味さに耐えねばならないが刺激して攻撃性を引き出すよりは確実だ。
「お前は何も悪くない。全て俺の所為だ。俺が償う」
誰と勘違いしているのだろう。娘や妹ではないだろう。口振りから母や父、兄でもなさそうだ。可能性があっても父か兄だ。女と見紛うはずがない。濃厚なのは弟か息子と錯覚している。だが男は嬰児や幼児ほどなら分かるが少年の息子がいるほどの年齢には見えない。額に唇を落とされながら考えた。
「腹、減っているだろう?」
髪を撫でられ、男の整っていながらも険し顔立ちが小さく和らぐ。男が立ち上がったところで、鍵の解かれる音がした。誰かが通報したのだ。助けに来てくれたのだ。セルクルは男の脇を通り抜ける。
「だめだ。俺が見に行く。待っていろ」
瞬時に捕らえられ、ベッドに座らされる。扉が閉められる。
『ただいま帰りました』
新しい声が聞こえたが、第一声にセルクルは頭を抱えた。助けに来た者ではなかった!まずい。身の危険を感じる。共犯であるなら逃げられない。
『猫を拾ってきましたよ。これで君の気が紛れるといいのですが』
にぃ、にぃ。曇った会話と鳴き声。
『犬のほうがよかったですか』
足音と鳴き声が近付く。セルクルは頭を抱えたまま、どうやって逃げ出そうか考える。早く帰らなくては。子猫になど気を向けるべきではなかった。やることを済ませたらすぐ帰れば良かったのだ。
『ま、待て』
『どうかしましたか…っ、んッ』
暫く無音だったが、物音の後に扉が開いてセルクルは身を固くした。長い茶髪の美人が入ってきて、生唾を飲む。骨太で長身ではなく、さらに胸があれば今すぐにでも口説きたい美女。共犯者は3人いるのか。
「すまない」
女性にしては低い声だった。空色の瞳がセルクルを見下ろす。暮れなずむ空に似ている。子猫がどうとか言っていた声だった。
「あ、…男?」
美女と見紛う男は頷いた。手には毛むくじゃらの玉ねぎを抱き込んでいる。セルクルを振り向いてにぃにぃと鳴いた。
「あ、その猫」
「貴方の猫か。ならばお返しせねばな」
セルクルに子猫を差し出すが、首を振って受け取りを拒否する。
「すんませんです、オレん家猫飼えないんス」
セルクルの住んでいるところは大聖堂だった。猫は飼えるが生活はかつかつだ。
「では、貴方の猫御ではない?」
美青年は首を傾けながら訊ねる。見た目の割に仕草が幼い。セルクルはまた頷く。少しは話が通じる相手なのかも知れない。
「近付くな」
美青年の後ろからあの気の触れた男が現れる。少し赤い顔をして瞳が潤んでいた。セルクルと美青年の前に割り込む。共犯者にしては空気が張っている。
「彼は?」
「何故すぐ目を離す。木から落ちたらどうするつもりだ」
美青年は猫を撫でながらセルクルを見て、セルクルは困った顔を浮かべて肩を竦める。
「これは誘拐とそう変わりません」
「誘拐と変わらないというか誘拐っスよ、助けてください」
誘拐犯はセルクルを振り返り、すぐさま抱き締める。
「この子は連れて行かせない」
美青年は猫を撫でながら背を向け、リビングへと行ってしまった。
「ちょっと、助けてくださいっスよ」
「今日は元気そうでよかった」
肩に顔を乗せられ、誘拐犯は背を優しく叩く。
「やめろよ、変態っぽいっス」
誘拐犯を突き飛ばす。離そうとすれば、あっさりと放される。セルクルはリビングに座って猫を愛でている美青年に詰め寄った。
「帰っていいっスか」
「申し訳なかった。外まで送ろう」
「いや、要らねっス」と言おうとしたが、唇に人差し指を当てられた。子猫を抱いたまま促されるようにアパートを出る。
「彼は弟分を亡くしていましてな。貴方にはご迷惑をおかけした。本当に申し訳ない。貴方はなんとなく、その弟分に似ている」
「大丈夫なんスか、それ」
「また誰かを連れ込まないか心配ではある…が、仕方がない」
セルクルは口を噤む。目立つ2人組だ。警備団体に通報しておいたほうがいいのではなかろうか。
「また貴方がいらしてくれたら、助かるのだが」
「無理っスね」
そうか。美青年は静かに言った。セルクルは家へと帰る。
◇
リーネア=ポワン大聖堂にセルクルは住んでいた。両親は存命だが、殺人を犯した手前、帰れない。孤児院に行くには育ち過ぎた。管理人の厚意で大聖堂に引き取られ、そこで行事の手伝いや慈善活動、小銭稼ぎなどをしながら暮らしていた。
「すんません、遅れました」
堂内に入る前に一礼する。管理人の女が奥から出てくる。心配したぞばかたれが。そう叱責されてセルクルはすんませんとまた謝った。苛烈で無愛想だが、セルクルにとっては新しい家族だった。飯だ、要らぬか。管理人は聖堂の奥へと戻っていく。増築して事務所になっている。信心深く祈りに来る者よりも記念式典、結婚式場の下見や観光、家出で訪れる者のほうが多い。記念式典でも結婚式場でもイベント業者が間に入るためセルクルのすることといえば、その対応くらいなものだった。大聖堂はあくまで住居で、深くその建築物の意義に浸ったことはない。人を殺めた日から、人を殺めると決意した日からセルクルは神に見放されたのだ。そして懺悔することなど何もない。後悔はしていない。反省もする気がないどころか、反省することが何も浮かばない。善行を積もうとすらしなかった。
管理人の女はセルクルに卵で包んだチキンライスを出した。
話がある。
対面に座り、管理人は眼鏡の奥の淡いグリーンの瞳をキッと鋭くした。スプーンでチキンライスと掬い上げた手が止まる。もうここには置いておけないと言われたら。どうしよう。行くあてがない。
緊張するな。大したことでない。あるだろ、近くに孤児院が。改修工事で暫く孤児を何人か預かるというだけの話だ。
「もぉ、なんすか、びっくりしたな」
どうする?なんなら、うちに…
管理人は相変わらず無愛想だ。セルクルは笑った。
「はは、じゃあその間、女の家渡り歩くっスよ」
管理人の柳眉が小さく動いた。
「さすがにまずいっしょ、殺人鬼といたいけな子供がひとつ屋根の下じゃ」
管理人は黙っていたが、そうかと呟いて難しい顔のままチキンライスを頬張るセルクルを眺めた。
溜息を吐く。管理人の言葉に甘えるわけにもいかなかった。一人暮らしならば一人暮らしで男女2人で数日住むというのも躊躇われ、家族がいるならばそれもまた気を遣わせる。新しい居場所が必要だったが、セルクルの思う「真っ当な手段」ではそれが叶わないことを知っている。経歴についた反射することもなく光を吸い込んでいく真っ黒なシミを塗り潰すことは不可能なのだ。街の片隅にある浮浪者と娼婦たちの住処に腰を下ろす。朝と昼は大聖堂の外で畑をいじったり、無縁墓地の清掃をし、夜は街で寝て入れば孤児たちには会わないだろう。気を遣ったわけではなかった。子供が苦手なのだ。
大聖堂から南東にある、水上都市の娼婦街は煌びやかだ。星空は見えないが綺麗な光が灯っている。その裏通りにある明るい暗闇の中で浮浪者たちは眠り、店に雇われていない娼婦たちは貧相でも客が来はしないかと、街の暗部と化した広場で屯っていた。売春婦と浮浪者と物乞いの溜まり場だった。活気のいい街が真横にあるものだから時折共同募金箱に硬貨や札、賞味期限の切れた菓子パンや農作物が入っている。飯には困っていない。金にも困っていないがいつまでも大聖堂の管理人に世話になるわけにもいかない。コンクリートの上に寝て、明るい空を眺めながら寝る。子供たちが目覚める前に大聖堂に戻りシャワーを浴びて、また畑仕事と清掃だ。やることがなければ、町に行って…だが町にはあの誘拐犯が住んでいる。
固いコンクリートのベッドでは寝られず、夜が更けても明るい繁華街を歩く。水路がと歩道が入り組み、あちこちに橋が架かっている。レストラン街や商店街もあり、芸術も発展しているため観光する人々が絶えなかった。水上広場から見える岬を少し眺めた。野原になっている。水上都市に来たものの、コンクリートの上ならば雑草の上で寝たほうが少しは楽な格好になれそうだ。途中町に寄った。誘拐犯に警戒しながら、あのアパートがある方向とは反対の、娼婦館の並ぶ区画だった。ずっとあの大聖堂には居られないのだと強く実感した。昼間に足を運んでは、なかなか覚悟がつかないまま大聖堂の敷地内で眠った。だがどこかで踏み出さなければならない。男でも女でも、他人を喜ばせる技術など持ち合わせてはいないが、金が入るならば、体得していくしかない。そういった宿で勤められたなら教え込まれはしただろうが、殺人の前科者を雇うだろうか。案外物好きはいるのかもしれない。人を殺めた者を性的に扱うことで悦に浸れる者が。口にしなければいいのだ。背中に貼って歩くわけでもない。分かっていながら、蟠り結局帰るのだ。
そのようにして3回目の夜、また今日ならば出来そうだを繰り返して、広々とした野原のベッドに夜空の掛け布団に向かうのだ。いつかは今からなのだと分かっていても、躊躇いに踵を返してしまう。暗いがぽつぽつとカーテンの奥が光り、道には困らない町の明部を歩きながらきっと明日の夜も来るのだろうなとセルクルは思った。背後でじゃらじゃらと低い鈴がいくつも鳴って扉が開いた。乱れた靴音がする。千鳥足の酔っ払いらしい。足音が止む。
「いくらだ」
背後から声を掛けられる。背中と耳に微かな体温を感じる。
「いくら…」
噎せ返りそうな酒の匂いにくらくらした。接近した体温に炙られる。この声を知っている。無視して足を出そうとすると腹に手が回った。
「いくら、だ…」
腹に手を回され、身体が密着した。酒の匂いが強くなる。
「アンタ、昼間の誘拐犯…っ」
腕を払って、振り返る。銀髪の男が翠の瞳を眇めて真っ直ぐにセルクルを射抜く。浅く呼吸しているが、今にも倒れそうなどこか儚げな様子があった。
「いくらだ。一晩買う」
銀髪の男は有無を言わさなかった。肉食獣が被捕食者に喰らい付くような素早さでセルクルは抱きかかえられる。身形は良く清潔感もあるが、誘拐犯が相手となると、己が身も忘れてセルクルは消極的だった。
「離せよ!」
男は黙っていた。酒臭さに包まれる。
「何もしない。傍にいてくれるだけでいい…」
暴れると膝裏や背に回された腕が力む。時折苦しそうに呼吸をする。
「誘・拐・犯!」
顔を突っ撥ねるが男の足は進んでいく。仰々しい花壇が見えた。古びたアパートがその奥で暗闇に淡く浮かぶ。
「おい!やめろ!」
「一生の客になってもいい」
男の手は震えていた。アパートの扉が開いてオレンジの光に照らされる。床へ降ろされたが扉は銀髪の男に塞がれている。
「お帰りなさいまし」
挟まれる形で、セルクルの後ろから茶髪の美青年が姿を現した。銀髪の男は固まる。セルクルを眺めて、ばつが悪そうに、特に汚れてもいない口元を拭った。
「貴方は…」
「連れて来られたんスけど。買うって…」
茶髪の美青年は無表情のままだったが微かに眉根を寄せた。
「フィリー、どういうつもりですか」
「買った。一晩」
「嫌なんスけど…っていうかオレ、そういうつもりじゃ…」
茶髪の美青年に肩を抱かれて、部屋の奥へ通される。だが茶髪の美青年はまた銀髪の男の元へ行ってしまった。
『分かっていますか。これは誘拐ですよ』
『…そうか』
茶髪の美青年の肩を押し退け銀髪の男はリビングへやってきた。セルクルを見つけると強く抱き締めて後頭部に手を回す。
「すまない。怖い思いをさせた。何もしない、本当に…」
茶髪の美青年は無表情のまま抱き締められるセルクルを見つめ、セルクルはその仄暗いブルーに助けを求めた。
「ご自宅は何処に。連絡いたす」
「あ~、いいっスよ。自宅とか、無いし」
リーネア=ポワン大聖堂に連絡されるわけにはいかない。管理人は帰宅しただろうし、孤児院の職員と孤児院の子供たちが今頃眠っている頃だろう。大聖堂で最も見放されるべき人間のために、大聖堂で最も受け入れられるべき人間に迷惑をかけるわけにはいかなかった。
「無い、とおっしゃられると」
「無いものは無いんスよ。今時珍しくないっしょ、土地税も家賃もかからない、クレバーな生活してんスよ」
茶髪の美青年は無表情を向け続け黙ったが、了承したようだった。
「腹は空いてないか」
「…空いてないっス」
「遠慮するな」
空腹ではあるが、酒臭さに掻き消えてしまう。茶髪の美青年に助けを求め続けるが届かないらしかった。
「フィリー。寝ますか、それともシャワーですか」
「シャワーを浴びる…お前は」
優しく頭を撫でられる。何もしないと言ったではないか。フィリーと呼ばれた銀髪の男が信じらず、首を振る。分かった、と顔に似合わない清々しさで微笑まれ、浴室へと消えていく。
「気を付けてくださいね」
茶髪の美青年の声は浴室のドアにぶつかった。
「重ねて謝罪申し上げる。本当に申し訳ない」
「寝るところに屋根あるのはありがたいっスけど…」
振り回される側の人間を見ていると胸が苦しくなった。セルクルは振り回した側の人間だった。
「あの人とどういう関係なんスか」
話題を変えようとして訊ねてみる。
「法制度のもとでは配偶者だな」
「えっ」
茶髪の美青年が自嘲的な笑みを浮かべ、表情筋あったんスね、と口が滑りそうになった。同性婚が法で認められてから少し経つ。結婚式場にいるだけあってイベント会社と話に出されたことは何度かあった。パンフレットに載せる写真の話だったようにも思う。
「彼の中では恋人か…はたまた知り合いか…場合によってはもっと…」
「なんでそんな意識の違いがあるんスか」
リビングのテーブルに大量に積まれたリンゴジュースを茶髪の美青年はひとつセルクルに手渡す。
「眠らせていた。長いこと。弟分を亡くした現実と向き合わせるのが哀れで仕方がなかった…が、間違っていたのかも知れない。記憶が混濁しているらしい」
「…結構ヤバめなやつっスね」
「弟分を亡くしたこともおそらく、彼の中には無い。整合性を保とうと必死ではあるようだが。今は貴方を別人と理解しているようだが、またいずれは…。巻き込んでしまい大変申し訳なく思う」
酸味が抑えられたリンゴジュースを啜る。
「そんな似てるんスか」
「背格好だろうか。私はそう似ているとは思わないが。匂いか、声か、雰囲気か、顔立ちか…私はもう覚えていない」
面倒な事情に首を突っ込みかけている…というよりは首を突っ込まされているようだ。気が触れた凛々しく麗しい男と、その配偶者である美青年。煌びやかな2人とは不釣合いなアパートも不気味だった。
「名前をお訊きしても?私のことはエミィズと呼んでほしい」
「あ、エニーズさん?分かった。オレはセルクル。セルカって呼ばれてるっスよ」
「では、セルクル氏と…」
変な人っスね、と言うと幼い仕草で首を倒す。
「セルカちゃんとか、セルカくんとか他に呼び方あるっスよね。セルクル氏って畏まり過ぎっスよ、エニーズさん」
エニーズと名乗った美青年は空色の瞳を泳がせる。
「一晩お世話になるっス。あの…でも、だいじょーぶっスよね…?」
「フィリーが妙な真似をしでかすのではないかと?」
頷く。
「傍にいてほしいだけかと…私も気を付ける」
「恋人以上配偶者以下なんスよね?いいんスか、オレ、滅茶苦茶お邪魔じゃないスか」
エニーズはあどけない目を向ける。きょとんとしている。虚空を映した瞳はカラスの目にも似ていた。
「已むを得ないことゆえ。私は彼に、弟分を見殺しにさせた。その結果は背負わねばならない」
「ふぅん。ハードな事情があるっぽいことは分かったんスけど、エニーズさん、オレはエニーズさんの気持ちが訊きたいんスよ」
「邪魔なわけがない」
「ホントっスかぁ?恋人以上配偶者以下が別の男連れ込んでるんスよ?」
エニーズの泳いだ目は止まったが沈んでいくようだった。
「彼が大切にしているのなら私にも大切なものだ。それが家族だと思っている。段々と私が大切にしていくものになってしまう」
両肩を確かめるように触られ、空色の瞳に射抜かれる。上っ面だけで並べ立てるにしても薄っぺらなことを言う。あまりに薄っぺらく、大聖堂にもある典籍に書かれたような答えに闇の深い人だと思った。しかし浅いところで引き返したい。
「まぁ、大切にはしてないと思うっスよ。いくらちょっとワケありっぽくても、なんか、鳥籠みたいな人だった。違うな…牢屋みたいな人っスね」
エニーズは静かに「そうか」と言った。腹が鳴りそうになり押さえているとエニーズは簡単な夜食を作った。食べている間に浴室から出てきたフィリーという銀髪の男がセルクルの対面に座った。引き締まった肉体や均整のとれた筋肉に、長いこと眠っていた話を疑った。
「食欲が戻ってよかった」「あまり無理して食べなくていい」「少しは体重が戻るといいが」。眉目好いが冷涼な容貌に柔らかな笑みが滲み、咀嚼しながら気恥ずかしくなる。弟分は病死したらしかった。見殺しにさせたなどとエニーズが言っていたものだからてっきり突然の離別かと思っていた。そっスね、と適当に返すと、固まってから小さく謝られた。エニーズがシャワーを浴びている音がする。
「エニーズさん、めちゃくちゃ美人っスね」
セルクルを愛しそうに眺める銀髪の男の眉が寄った。俺のだからな、とかそうだろう、とかいう返答を期待していた。だが黙っている。
「女性だったら口説いてた」
セルクルをじっと見つめ、見つめ合い数秒、先に逸らしたのはセルクルではなかった。
「…そうだな」
銀髪の男は雪が降り積もったような睫毛を伏せた。
◇
リビングの隣の部屋にベッドがひとつあるだけで、それが生々しいと思ったが古びたマットレスがあるだけで使われた様子がなかった。それが異様でこの2人はここに住んではいないのでないかと妙な考えが浮かぶ。不法滞在の人々が。イメージとは違う身形の小綺麗さと暮らしぶりの良さは見せかけなのか。柔らかなタオルをマットレスの上に敷かれ、その上に眠った。普段はどこで寝ているのだろう。2人はリビングで寝るらしかった。リビングは広かったが半分ほどしか生活しているらしき空間がなく、フローリングが剥き出しで家具も何も置かれていない、まるで認知されていないかのようなスペースがあった。そこで寝ているのか。このベッドと、最低限の生活必需品と、リビングにテーブルと2つの椅子と調理器具、最低限の家電があるくらいなものだった。緊迫感が隅々まで張り巡らされ、コンクリートや野原のベッドよりも良い環境であるはずだったが少しも休まる気がしなかった。不気味なカップルだ。本当に何もなく帰れるのだろうか。1食抜いた程度の空腹で眠れない夜のほうがどれだけ短かったろう。
リビングとを繋ぐドアが小さく開いてセルクルは慌てて寝たふりをする。光が漏れて、取って食われる気がした。
「起きたらどうする。あいつは神経質なんだ」
開けたのはエニーズらしかった。ドアが閉まって、安堵する。頭が冴えている。帰りたい。買われたとはいえ何もしていないのだから帰ってしまったって。野原やコンクリートの上で寝ておけばよかった。リビングの電気が消え、生活音も無くなった。上の階の足音が微かに聞こえるくらいで閑静だ。少しずつ気分が落ち着いて眠気が訪れた。深く眠れそうにはなかったが、朝が待ち遠しくて仕方なかった。寝返りをうってドアに背を向けた時、ちょうどそのドアが再び小さく開いた。
『何をする気です』
『放せ』
『彼は元気です』
『お前は信用できない』
小声で話しているが、セルクルに訪れた眠気を蹴散らすには十分だった。牽制の意を込め再び寝返りをうつ。銀髪の、フィリーとかいう美丈夫がベッドの真横に腰を下ろした。寝るに寝られない。酔っ払いはさっさと寝ろ!と内心で叫ぶ。フィリーはベッドに両腕を曲げ、突っ伏した。
『ここで寝ては彼が休まらない』
エニーズの小声が近付いた。
『…っ、ここで寝る…。ずっと、傍で…寂しがりだから…』
『分かりました』
いや分からないで連れて行け!セルクルのエニーズへの期待は大きく裏切られる。
『ではここで』
置いていく気なのかと思ったが、エニーズも留まっている。セルクルは固く目を瞑り、寝落ちるのを待つ。
『…ぅ、ん…っ、』
可愛らしい声が出て聞こえた。真後ろで物音が聞こえる。服の擦れる音だ。
『ぁ…ッァ、ん……は、』
何をしている。リップ音がして、くちゅ…ぴちゃ…という音が混じった。眠りに就きたい頭に艶っぽい考えが浮かんだがおそらく勘違いだろう。頭を抱えて厚手のタオルに潜り込む。マットレスと柔らかなタオルが下に敷いてあるためそれで心地良いくらい温かさだった。
『ふ、…ぅ…ぁ、う…』
聴覚が冴えてしまい、起こそうとする。このまま眠りたい。今ならばまだ朝には忘れられる。
『…ん、』
『ぁ、…ッ…ぅん』
エニーズの漏れた吐息と美丈夫の声が高く抜けていく。生々しさに何も見てはいないが顔を覆う。
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