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第2話

 どうしたらいい。セルクルは下腹部に集まっていく熱を感じた。あの2人が男の自分から見ても見目麗しくなければ。あれやこれやと理屈を捏ねて睡眠から遠ざかっていく。 『まだお胸が弱い?』 『ぁっ……っく、…ぅ』  2人は恋人以上の関係であり法のもとには配偶者であるのだから問題はない。知らされた上で泊まっている。セルクルは身動きが取れないでいた。半分は寝られていたのか、何故ここでやるのかという自問にはそれらしき答えが出てこない。生前の弟分の前でもこういった嗜好があったのか。この2人組は信用に足らないのではないか。破綻している。尋常な状態ではないのでは。片方は確かに尋常な精神状態ではなかった。大聖堂に行くことを勧めたいがこの男たちに来られるのは困る。あの管理人に無表情でどこかあどけない美男と冷たげな美丈夫の応対が出来るとは思えない。 『固くなってきました。気持ちいいですか』 『っぅ、ァ、む、ね……や、め……』  エニーズの少し甘さを帯びた掠れ気味の小声が耳に纏わりつく。やめろ!のつもりで寝返りをうって、2人のいるほうを向いた。 『だ、め…ッだ、やっ、め……はな…、せ……っぅ』 『放しません。少し大きくなりましたが』  開き直って目を開いた。エニーズに背を預けだらりとして、両胸を弄られているフィリーがいた。フィリーの肩に顎を乗せるエニーズとはばっちりと目が合った。男同士で特に恥ずかしがることもなくセルクルは抗議に下唇を噛んで鼻梁に皺を寄せ変顔を送る。 「ほら、彼が起きてしまった」 「え、」  まさかフィリーに告げられるとは思っていなかった。このまま上手いことフィリーを連れ去ってリビングでよろしくやればいいくらいの認識でいた。 「…ぅ、あ……、踏んで、くれ……」  口の端から液体を滴らせ、力無くエニーズの腕へ頭を委ねてフィリーは確かにセルクルを見て言った。踏むって何を。浮かんだ疑問はエニーズがフィリーの高まって膨らむ股座の中心部を寛げることで解決した。 「う、そ…」  分かりはしたが理解しきれず停止したセルクルに構わずエニーズは止めていたフィリーの胸への愛撫を再開する。 「っふ、…ぅん、……っあ、ぅく、」  節くれだった指が胸の小さな突起とその周りの淡い色の上で器用に摘んだり、引っ張ったり、捏ねたりくすぐったりしていた。フィリーは口元を押さえて悩ましげに眉を歪める。 「このまま出しますか。踏んでいただきますか」 「んっ、く、ぅ……っふ…め……ッぁ、」  エニーズが顔を上げてセルクルを見つめる。 「踏むってアンタ…」  ベッドの上から足を下ろしてみる。エニーズから借りた着替えは裾が長過ぎて悔しいほどだった。捲っていたが戻ってしまったらしい。大きく余った裾から素足を出す。不機嫌そうな銀髪の顔が酷く愛しいものを見る目へと変わった。雷に打たれたような驚きに頭の中が点滅する。 「やったことはおありか」 「無いに決まってますよ、そんな。人様のちんこ踏むとか…」  素足の裏が天を仰ぐ猛りに触れた。 「ぅ…っあ、あ…」  びくびく大袈裟なほどにフィリーの身体が跳ね、エニーズに押さえ込まれる。配偶者にやってもらうことだ。否、配偶者だからこそ、してもらうには少し特殊な気もした。きごちなく足の裏でフィリーの昂りを刺激していく。先端部がしっとりしていた。 「ぁ、ァ…っ、く…、あっ、ぁ…」 「胸もまた刺激しますね」  暫くフィリーの股間を注視していたエニーズが耳朶を甘く噛んでから両胸の肉粒を指の腹ですり潰す。 「ぅう、っく、あっ…!ぁ、あぁ、!」  足の裏では硬く熱い肉感への力加減が難しく時折ぐっと力を入れてしまう。張り詰めた双珠がひくひく動いた。足の裏がぬるついて、少し濡れていることに気付く。 「ちょ、こんなんで、イイんスか…」 「あっ…、ぁ、ぐぅ…く…」 「すんません、右足疲れたんで左足に替えるっス」  胸からの刺激から逃れようと背筋を弓なりに反らすがエニーズにやはり抱き込まれ、引っ張られては先端を捏ねられている。左足の裾を捲るがベッドから下ろすと同時にまただらりと垂れ下がる。 「っあぁっあっ…は、ぁっ」  膝の布を引っ張り裾を上げる足首が露わになると、フィリーは悲痛ながらも恍惚とした貌をした。熱芯の上で少し休んでいた右足と左足が交代する。眉に寄る皺が深くなった。 「っぅう、あ……、!」 「大丈夫なんスか…?」 「貴方が大きな服を着ているのが可愛くて仕方がないようだ」 「まずいっスよ、その性癖」  足の裏の雄茎の質量が増した。踵全体を沿わせたり、土踏まずで擦ってみる。これが快感に繋がるのだろうか。闇が深いカップルだと思いながら左足を動かす。 「すまない。初めてだったのだろう」 「いいっスよ、足コキくらい。でもこれキモチイイっスか?」 「…ん、ンっ、い、い……っぁ、あア…」  エニーズに確認したつもりがフィリーが答えた。 「それは良かったっスけど…」  酷い人っスね。言葉にしなかった。出来なかった。エニーズがフィリーの首を曲げて唇に吸い付き、胸の粒を摘んだ。 「やぁ、む、ねや……ぁひッ」  声が高くなったため、少し力を入れて大きく足の裏で擦り上げた。 「んぁ、ッあっ、や、め、あぁぁっ!」  迸り、飛び、撒き散らされていく。足の裏に跳ね返る。 「達してしまいましたね」  唇が届く範囲にキスを落としてエニーズが言った。息を乱してフィリーはぐったりした。 「ご、めんなさい、なんか…罪悪感っス」 「お付き合いいただき感謝申し上げる」  ゆっくりとフィリーを横たえてからエニーズは立ち上がった。そして目前に迫る。 「え、何ス…」 「御々足(おみあし)を洗いなさるだろう、お運びいたす」  自分で歩けると言おうとしたが両足を使っていた。 「いや、でも、あっ、う、」  エニーズと喋っている間に左足が生温かく湿った。膝を着いたフィリーが左足を舐めている。掬い上げられ、飛び散った液体ごと肌を舐め上げる。 「う、そ!いいっス!ちょっ…」 「暴れるな」  傍観するエニーズに助けを求めるが、諦めろと言わんばかりに肩を叩かれた。指まで一本一本口に含まれる。 「ちょっと、くすぐった…」  右足を舐められ終わる頃には内側から疲れてしまい、蒸しタオルで両足を拭かれて眠った。 ◇  洗面所を借りて身支度を整えるとリビングにある虚無の空間だったフローリングで倒れているように眠るフィリーにタオルを掛ける。寝呆けたまま朝一番に発見した時は本当に倒れているのかと思い、朝から気分が優れない目の覚まし方をした。エニーズは見当たらず、だが会いたくもなかったため探すこともせずにアパートの敷地を出た。その線引きは主人(あるじ)によほど可愛がられているらしい花壇だ。大聖堂に戻らなければならない。管理人が心配する。ぶっきらぼうで長く気付かずにいたのがあの者は外観よりも優しい性分だ。  町を出て、舗装道路の歩道を踏む。空っぽの胃が痛んだ。日差しを浴びながら、海と防風林や雑草の生い茂る空き地を眺めた。水都の端から端を歩くより短い距離であるはずだが、体感は町から大聖堂のほうが距離があるように思えた。意識が向くものがなく、道の先を見据えられるからだろう。 「ただいま帰りました」  大聖堂の正面から入って広く静謐な空間へ足を踏み入れようとしたが、子供たちがちらほらと見えた。奥にある、高い壁から浮き出てきた翼の生えた男とも女とも分からない彫像の、胸の中心だが少し左寄りの心臓部に嵌め込まれた紅い石を遠く見ながら恭しく辞儀をする。あれが本物の石なのか染色されたプラスチックやガラス玉なのか知りたくはあったが管理人を思うと確認するわけにはいかなかった。堂内には入らず裏の畑とその隣にある墓地へと回った。畑はいくつか実りがあり、墓地にはそろそろ片付け時の半分以上が枯れた花束が置かれている。  帰っていたのか。  管理人がやってきた。胸元にフリルのついたブラウスとダークグレー地にシルバーのストライプが入ったスーツに角張っていてフレームの無い眼鏡がただでさえ厳しい印象を抱かせる顔立ちをさらに険しく見せた。 「ただいまっス」  飯はちゃんと食え。  痩せたぞと言い添えられて袋を渡された。中にはラップに包まれたサンドウィッチが入っていた。 「作ってくれたんスか、ありがとっス」  管理人は呆れたようなどうでも良さそうな態度で大きく鼻を鳴らした。 「あのさ、家族失くしてちょっと気が病んじゃってる人と、その人支えようと必死で自分もちょっと病みかけてる人って、やっぱり大聖堂で祈ったほうがいいんスかね…?」  管理人は、はぁ?と細く鋭い眉を寄せてた。特に考える必要もなく答える。  ここはメンタルクリニックじゃない、勘違いするなよ。 「なるほどっス!全くっス!その通りっス!」  忘れるな、神は無言だ。 「そっスね!…オレの場合は、いないけど…」  管理人はセルクルの腹をぺしりと手の甲で叩いて去って行く。大聖堂の管理人を務めているくせ、あまり信心深い様子はなかった。信心深ければ、人を殺めた者を大聖堂で引き取りなどしない。善行を向けるべきならまだ各々の中に神のいる者へするべきだ。すべき、すべきでない、せねばならないだけで世の中回ってないんだよ。初めて会った時ら管理人は無愛想にそう言った。  袋の中のサンドウィッチを見て少し頬が緩み、畑仕事に取り掛かる前に、大聖堂裏から見える海を眺めて少し遅い朝食にありついた。エッグ、ベーコンレタストマト、ピーナッツバター&ストロベリージャム。心配されている。危ないことはもうしない。あの無愛想を自分のために崩させたくない。鈍感であればよかった。気遣いてしまう。言葉足らずでぶっきらぼうな態度の端々から、気遣いだの心配だの、それだけではなく上機嫌だの、不機嫌だの。  草を毟り、収穫しながら葉を間引いていく。この間引きの作業が苦手だった。相手は葉や育ちそうにない実りであるが、刃物を入れる際に人間の世界を投影してしまう。間引かれる側の人間が、人間というだけで人間でないものを間引いていく。彼等に間引く、間引かれないの概念などないのだ。茎が切断されていく。抜いた雑草の上に放り投げる。単純な作業は物思いに耽ってしまう。ミニトマトとトマト、キュウリ、ナス、ピーマンとニンジンを作っている。今日はミニトマトとナスが少し穫れた。ここで穫れたものは、管理人が調理したり、近場の孤児院に持っていたり、大聖堂を訪れた者たちに配ったり、物々交換したりして会話の機会になっていた。次は墓掃除だ。身元が不明のまま死んだり、身寄りがなかったり、社会的に隠れなければならなかったり、家族から離れたかった者たちが入る。だが訪れる者はいた。野鳥や獣避けに果物の持ち込みは禁じているため、花束や雑貨が置かれていく。雑貨は大きく劣化するまで置いておくが花束は半分以上枯れてしまうと処分していた。数は少ない。帽子の男がこの墓地ではまだ新しいがそれでも数年は経っている墓に4日置きで花を置いていった。白百合が印象的な花束で、セルクルは苦手な白百合の花の香りを嗅がなければならなかった。いくつもの墓石と一緒に暫く海を眺める。おそらくいずれここに落ち着いて眠る。焼かれて灰になり、そのまま海に沈むか、風に乗ってどこかへ行きたい。無理だろうな。分かっている。願いを吐露する相手も、それを実行するだろう相手もいない。神のいない自分には死後のことなど何も分からないのだから生きているうちに心配することでもない。枯れた白百合と何本か別の種類が入った花束を片付けはじめる。名前も刻まれることはない。管理人と以前遠くから訪墓者を眺めた時に、あの人は墓石に名を刻む気はないのかと問うと、断るだろうな、と管理人は言って、長く訪墓している人らしかった。他の墓はやはり人の世から離れたり、離れざるを得なかっただけに花を添える者はいない。  花束を片付け終わると墓ひとつひとつに酒をかける。墓の中の人だったものが酒を好こうが好かなかろうが、子供だろうが大人だろうが。そこに人格は伴わない。墓石が年齢に合わずどれも大体同じ規格で、石材店の最安値を厚意でさらに値引かれている。 「ありがとう、すまないな」  百合の匂いがした。セロファンが揺らぐ音。足音は聞こえなかった。普段は遠目に見ていた帽子の男だ。 「こんちは。いつも綺麗にありがとうございまっす」 「とんでもないことだ」  決まりきった文句を口にして避けた。すれ違い様にブラウンの髪を結い上げ帽子に入れているのが見えた。声が頭の中に反芻した。まさかな。聞き覚えがある。 ◇  孤児院から預かっている子供たちの夕食を作る管理人の手伝いを終えて、大聖堂を出るが駐車場で呼び止められた。普段ならば自分から来る管理人が、セルクルが寄るまで一歩も動かない。  セルカ、養子に行く気はないか。 「へ?」  視界が震えたような気がした。何か見えないものに頭と肩を掴まれて力任せに裂かれたような、そういう衝撃にちかちかとした。管理人はそれだけ言って、答えをまっている。普段通りの不機嫌そうな顔だ。見慣れているが、それがどこか冷たく感じられた。要らないと言われているのか。必要ない。どこかに行け。立ち去れ。目の前から消えてくれ。大聖堂にそぐわない人間である自覚はあった。殺人の前科があり、16歳では育て甲斐はあるかも知れないが望まれる養子としては育ち過ぎている。変だ。おかしい。碌な家庭のはずがない。引き取り手を探したのか。やはり迷惑だった?答えられずセルクルは管理人のハイヒールを凝視しているしか出来ないでいた。管理人も何も言わない。どれくらいまでなら黙っているだろう。だが二声目が怖い。 「なんで…」  時間を稼ぐ。どう転ぶかも分からない。しかしどう転んでもこの大聖堂に居られないことだけは分かった。諾なら酔狂な引き取り手の家、否ならコンクリートのベッド。ここに居場所はないのだ。  急な話だった、悪かった。泣くな。  言われて瞬き、目から水滴が落ちて行く。目元を拭うと余計に溢れた。 「すんません、オレ…」  何か言われたのかも知れない。大聖堂に殺人鬼など以ての外だと。もとの勤め先は知事本局の役所であるのだから管理人も板挟みだろう。 「1人で生きれるっスから、大丈夫っス。明日まで待ってください、荷物纏めたら、出て行くっス…」  管理人の目を見るのが怖い。厳しい目が優しかったが、考えが甘かった。管理人の言葉を訊くのが怖い。すんません、と重ねてから逃げてしまった。水上都市生活が始まるのだ。踏ん切りがつく。怖い、躊躇いがあるなどと言っていられない。身体を売るしかない。よければ飯が食えるし、布団があるかも知れない。労働力を売るには、そこに経歴が伴ってしまった。学もない。秀でた力も容姿も才もない。かと言って養子に行けばおそらく待つのは奴隷生活だ。自由もなく。引き取ってやった、という認識で一生こき使われる。殺人の経歴がある16歳男性を受け入れるなどろくでなしか好事家の金持ちしか思い浮かばなかった。花を売る浮浪者のほうがまだ自由がある。養い守る者はいない。何度目になるかも分からない溜息を吐く。舗装道路を車が走る。防風林がざわめいて、だがその奥の海は凪いでいた。岬に寄って、明日からは物乞いと花売りになることを漠然と考えた。水上都市が燦燦としていた。高く上る月を眺めて岬に座る。数歩先は崖だった。紺色の中で輝く月に誘われるまま、落ちてみる気になった。あっという間に全てが無に帰すだろう。星空を見上げ、両手を合わせる。神はセルクルにはいないのだ。野原を蹴る。身体が宙を浮かんで、背中や肩、腕に激しい痛みと衝撃が襲う。脚が重くなり、感覚がなくなった。砂浜に落ちたらしい背中の感覚はあった。口の中がしょっぱく、じゃりじゃりとした。まだ生きている。祈るんじゃなかったと思った。祈らずとも変わらない。頭から血が抜けていく。身体中が重く熱く痛んだ。少量皮膚が擦れて傷付きはしたが四肢は千切れたり潰れたりはしていないようだった。まさか生きているとは思わなかった。明日には分からない。満天の星空を飽きても眺めるしかなかった。首も動くがとにかく身体は動くことを拒否している。頬をついた砂を払うことも億劫だ。腹が減った。涙が溢れている。おそらく鼻血も出ているらしかった。社会から隔絶された墓地を思った。漠然とあそこに入るものだと思ったがまず発見もされないだろう。ここで海になる。殺人鬼の終わりにしてはなかなかロマンがあると思った。満天の星空が霞んでいく。解放という甘美なものを見つけた気でいた。  頭の中を引っ張られる感覚に目が覚める。寝違えた鈍く軋む痛みとは違う、痛覚に身体を支配される。朝日が昇り始め、微かに頭を動かすと耳の後ろでは砂浜が鳴った。手を伸ばすと波打ち際で擦過傷が沁みる指先に波が絡んだ。もう少し眠れそうだ。視界の端を大きく阻む真っ白な灯台を見つめる。あまり気にしたことがない。当然として岬の崖の奥にあったものだ。空を見上げたまま、だが合わせる掌は動かない。神への言葉だけでも言おうとして、横を向いて血を吐いた。白い砂に赤黒く染み渡っていく。鼻血が逆流してきたものだった。腹が減った。喉が渇いた。死に損なった。瞼が重い。カラスが真上を飛び回る。見張っていらしたんスか。眠りに落ちていく意識で薄っすらと思う。カモメだったかも知れない。 ◇  髪を撫でられた感覚に目が覚めるが誰もいない。空がない。代わりに天井がある。断続的に無機質な音が響く。指先に弱い圧迫感があった。病院だ。治療費など払えない。明日食らう飯代だってないのだ。盗みを働いてまた牢屋に行くのか。悪くはないが気は進まない。少しは軽くなっている腕で器具を外していく。払えないものは払えない。カーテンレールが泣き叫んでカーテンが開いた。 「ムリっスよ、オレ。素寒貧(すかんぴん)だもん」  相手も見ずに言った。治療費は払えない。出ていきたいが動かない。追い出してもらうしかなかった。  そこまで困窮していて何故何も言わなかった。  管理人だった。不機嫌な顔をさらに不機嫌にしている。顔を見たら一気に感情が溢れ出た。管理人は珍しく不機嫌以外の顔をした。 「ごめんなさいっス…だって…、いや…すんませんっス…」  動く右手の甲で目元を拭う。大きなガーゼが当てられていた。 「セルカ」  管理人の奥からエニーズが姿を現した。セルクルは固まった。知り合いだったのか。管理人が少し避けて、その空間にエニーズはやって来た。  昔の仕事の上司だ。お前を見つけてくれた。 「見つけて…くれた…?」  エニーズは無表情で、昏い空色が浮かぶ眼球だけを動かして、頭を撫でようとしたらしかったが、何に触れることもなく上げた腕は落ちた。 「転落事故じゃなかったってことくらい、分かるっスよね…?」  暗に、何故助けたのかと責める。生命の危機に瀕している者には救いの手を差し伸べよ。神の典籍ではなく条例だった。そのことを咎めるのはおかしい。分かっているが、惜しかった。  たわけが。何言ってやがる。口を慎めくそガキ。  管理人は意味を察したらしかった。声を荒げることはないが怒っているようだった。 「一生借金してろってことっスか。それなら尚更、同じことっスよ」 「すまない、どういう意味だかいまいち理解が追いついていない」  もう一度飛び降りるらしい。飛び降りるとは限らんが。  エニーズは管理人とセルクルの間で空色を泳がせる。説明を聞いて、「それは、困る」とこぼした。 「養子なんて嫌だ…!16で前科持ちの男…(てい)の良い奴隷になるだけだろ…!」  管理人が、顔を上げろと冷たく言った。言われたとおりに顔を上げる。  重傷患者じゃなかったらぶん殴ってるからな。  普段と変わらない調子だった。 「養子は嫌か」  ―だそうだ。双方の合意が認められない。諦めてくれ。 「分かった」  エニーズは頷いた。管理人は小さく溜息を吐く。 「だが死なないでくれ。医療費のことは気にするな」 「気にするなって…言ったって…気にするでしょ…今ならまだ返せる額かも知れないし、退院したいんスけど」 「条例の穴だな。分かった。無理矢理に入院させて、すまない。退院手続きをしてこよう」  エニーズはそう言って去っていく。退院の意思があればどのような状態でも本人の意思が確認でき次第退院出来る。そういうシステムだった。管理人はセルクルを睨む。  悪い話じゃなかったろうに。それにその身体で退院してどうする。 「もう管理人さんに迷惑かけないスよ。テキトーに治してテキトーに生きるっス。今まであざっした。感謝し尽くせないっス」 ◇  餞別だ、管理人から松葉杖2本を贈られた。右足はほとんど感覚がなかったために助かった。別れ際の管理人の顔を思い出して胸が張り裂けそうになって、病院から出た後に決壊した。病院裏にある河川敷公園へどうにか身体を運んでいく。緑に溢れ、ランニングコースや軽い筋肉トレーニングの器具がある。貯水施設があり暑い日には噴水になっていた。寝間着姿に点滴を引く者もちらほらと目に入る。管理人が持ってきた数少ない荷物を肩に下げる。肩の骨が軋んだ。全身擦り傷と打ち身、捻挫だらけではあったが、大きな怪我は数箇所ほどで落ちた高さや場所を考えると軽傷といえる。病室から病院を出るだけでも一苦労で、そこから裏の公園に着く頃には疲労感と痛みで動けなくなっていた。吐気もある。今日の寝床は決まったも同然だった。動けない。石のベンチにゆっくりと腰掛ける。片方の腿が歪んでいるような気がして腰が痛んだ。鼓動が速まり、額が大きく疼いた。頭が包帯に締められているせいなのかと思って外してみるものの、治まりはしない。厳寒(げんかん)と厳暑が同時にやってきて身を凍えさせながら汗ばんだ。胃が気持ち悪い。吐気を抑えながら大きく息を吐いてベンチの上にゆっくり横たわる。骨に響いた。厳暑に寒さが勝ち、歯を鳴らす。鳩がベンチの周りに集まっていたが、一斉に飛び立った。代わりにカラスが翼を鳴らして舞い降りる。ベンチの周りを歩き回っている。死体になるのを待っているのか。鳥葬されるはずがない。おそらく知事本局か役所が回収するだろう。大聖堂の裏墓地に埋められるものだと思っていたが、別の墓地かも知れない。暫く眠ってから、体調次第でどうするか考えることにした。  岬の夢をみる。岬の夜空にリーネア=ポワン大聖堂にある円花窓によく似たものが月の代わりに浮かび、セルクルはそれを取ろうと必死だった。手にしようと必死で、岬から落ちるのだ。足を踏み外すたびに、岬の上で鮮やかな円形の輝きを眺めて欲しがるところから繰り返しやり直す。初めて大聖堂に届けられた日、逃げ出したくなって紅い石の像へ背を向けた時に目に入った円花窓。暫く見上げていた。  神だの教えだのは気にしなくていい、雨風凌げる場所だとでも考えればよろしかろう。  管理人を初めて見た。どこか楽になった。救われた気がした。男とも女とも言えない紅い石の彫像よりもずっとありがたい存在だと思った。両親と姉妹のことを消すのが当然としていた胸の内にまた様々な彩りが戻ってきた。虚無の夜空に浮かぶ、その円花窓の模倣がやはり欲しかった。手にしたかった。取り戻したかった。  人の足で向かうどころか怪我した足で向かえる距離ではなかったがセルクルは取り憑かれたように岬を目指した。円花窓と同じ意匠の輪紋を取りに行かねばならない。岬にある。何日でもかけるつもりだった。頭の傷口が疼き、右足は腫れ上がっていく。構わないでいた。岬に行くしか残されていないのだ。他に何もない。家族もない。友もいない。夢もなく金もない。住む場所もない。情を傾ける相手もいない。あるのは借金だ。そして人を殺めたという事実。悔いはない。やることをやった。罪だとも思っていない。罪だとしたら家族の中から消えたことだ。神を顧みなかったことでもない。ひとつ残した何かに執着する性分でもなかった。2日かけて、岬のある東へ歩く。休めそうなところで寝ている時間の方が長かった。気が向き次第歩いて、すぐにまた休む。夢のない眠りか、輪紋を取ろうと岬から落ちる夢。飛び降り直せという最期の導きなのかも知れない。たとえ死ねと言われていても消えていた神がまた灯っているのなら従うだけだ。この身が岩肌に削り取られ、叩き付けられた先に何があるのだろう。生まれ直すなどあり得るのか。永遠の苦痛などあり得るのか。無に帰して安らかに眠るなど。そうは思わない。思わないが、思ってしまう。疑念を抱いたことさえ、両脇の3本目4本目の脚がなければ空へ謝辞していた。3日目の夕暮れにやっと見慣れた防風林と雑草だらけの空き地ばかりが広がる殺風景な舗装道路が見えてきた。遠くの斜面に点々と見えるレモン樹園ももう暗くなって見えなかった。安心感に空き地に転がる。油断していた。身体の痛みは相変わらずだった。飲まず食わずだったが身体は何も訴えてこない。もう死んでいるのかも知れないとふと思った。だが死んでいたとしても岬は目指すのだ。

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