3 / 7

第3話

 早朝に岬に着いて、月が出るまで眠るだけだった。草叢に寝転ぶ。身体中の激痛がどこか喜ばしく感じた。松葉杖を撫でる。両手を合わせて、視界一面の青みがかった灰色に祈る。お見捨てください。てんとう虫が真横の草を登っていくのを見つめた。合わせた掌を解いて指を差し伸べる。てんとう虫が指先に乗った。激痛と嘔吐感の中のくすぐったさに集中する。空にカラスが舞う。空間を貫くような鳴き声が響き渡るがセルクルの真上のカラスではないらしかった。まだ見張られている。急かされずとも月が昇れば飛び降りる。導かれたとおりきっちり死にゆく。手の甲を撫でていたてんとう虫が飛び立った。大聖堂の菜園を思った。何か腐らせてしまったかも知れない。酒をかけてやらねばならない。放置された花束を片付けなければ。それくらいしか思い浮かぶことはなかったが、それでもまだあることに驚いたが、疲労感に引き込まれていく眠気には勝てなかった。遠くでぱきぱきと枯れた枝を踏む音がした。野生の動物か。猫がいい。犬は好きだが野生は怖い。うさぎも好きだが野生は怖い。ねずみか。あらいぐまか。舗装道路で血塗れになってよく寝ている。 「何故だ…」  知った声が降る。頭が働くのを嫌がり、誰だったかなどすぐにどうでもいいことにさせた。抱き起こされる。容赦のない力加減で身体を揺すられると痛みに呻いた。胃が痛む。吐きたい。出すものはもう胃液しかないというのに。 「何故…」  他人の体温が熱い。気持ち悪い。何故猫ではない。犬ではない。うさぎでもない。 「帰るぞ」  やめて。やめてくれ。夜まで待って。手だけを動かした。しなやかな肉感と質量感。やめろ、やめて、降ろせ、降ろして。暴れるには身体を痛みが支配した。吐きそうだ。火傷しそうなほど熱い。爛れる。これが咎めの炎か。嗽のような音を立てて胃液が上り詰め、草が鳴る。 「しっかりしろ!」  熱いものが口元を拭う。喉が痛む。気持ちが悪い。熱い。降ろしてくれ。セルクルは呻いた。右足がぷらぷらと揺れて、内部から焼かれていく。 「お、見捨て…くださいまし…」  またここまで来るのは嫌だ。永遠と岬に向かわなければならないのか。それが己が身に与えられた罪か。罪。何の。セルクルは両手を合わせようとした。だが片腕が動かなかった。感覚もない。見放されているのだ。今更何を乞う。ならば罰だ。誰からの罰だ。 「見捨てたくない」  揺すられていく。空を飛んでいる。骨が軋み、傷が開き、腫れが疼く。翼はない。鳥のようには飛べなかったのだ。自由も利かない。彼等は決して好き放題飛び回っていたわけではなかったのだ。見張っていたのは、自身だったのかも知れないと思ったところで耳鳴りに感覚が途切れた。  鈍い音が何度かして、薄汚い天井が見えた。また眠る。薄荷の匂いに鼻が通る。久しぶりにきちんと呼吸をした気になった。鈍い音が断続する。口元に生温かいミルクが運ばれて、運ばれるままに飲み込む。 「いい子だ。おやすみ」  冷たい手の甲で頬を撫でられ、心地良さに首を動かしセルクルから寄せていった。鈍い音がまた響いた。 「すまない。少しお待ちになれ」  冷たい手が離れていった。焼けた壁紙を眺めてぼやけた視界の中でまた眠る。高い音が幾度も部屋の中で響き渡った。ピンポンピンポンピンポンピンポーンと間の抜けた音が空間から細長く余韻が抜けていく。目は覚めきっていなかったが意識は戻っていた。 「すまない、起こしてしまったな」  長い茶髪がいた。美女だと思った。だが背が高く、女体の中では骨格がしっかりしている。声も低い。だが美しかった。 「おねえさん、誰スか」  目が乾いた。空色の瞳が近付く。少しずつ思い出していく。 「そう呼ばれたのは初めてだ」 「…、え…っと、誘拐犯の恋人っしたっけ」  額を押さえたが鋭い痛みに眉を顰める。 「よく思い出してくださったな」 「……えっと…、え~っと…」 「引っ越さなければならない。今はゆっくりなされよ」 「え?」  茶髪の美人はセルクルのいる部屋と扉の奥を行ったり来たりしていた。 「話は後でまとめさせていただく」  扉が開かれ車椅子が押されてきた。無言のまま茶髪の美人はセルクルの目の前にやってくると身体を抱き上げ、車椅子へ乗せられた。 「え、何スか、どういう…」 「とりあえずここから出て行く。近隣トラブルになった」  大きなベビーカーに似た車椅子だった。小さな荷物を座面の下の籠へ押し込み、茶髪の美人は車輪を転がす。この男の名前を思い出せそうだがまだ混乱している。目の前の扉の奥には見覚えのある部屋が広がった。フローリングの床、部屋の隅で銀髪の男が壁に首と背を預けて寝ている。腹に玉ねぎが乗っていたが目を凝らすと小さな猫だった。翠の瞳が揺れてセルクルを見ていた。 「あの人は?」 「お忘れか」 「えっ~っと、すんません、何がなんだか…なんか…大聖堂…違うな、お墓…ミニトマト見なきゃ…えっとぉ…」 「目覚めなさったばかり。あまり無理なさらず」  頭を抱えたが、外部的な痛みに手を放す。車椅子が外に出される。フェンスの奥に花壇が見えた。少しずつ思い出してくる。茶髪の美人は荷物を車椅子のハンドルに掛ける。 「あの人は置いていくの?あれ、エニーズさん恋人いたっスよね」  滑るように口が動いて、この美青年の名を思い出す。柔らかく髪を撫でられた。 「エニーズさん?」 「お久しぶりだ」  無表情な美青年は笑みも喜びも見せないが朗らかだった。 「フィリーとかいう人は?」 「後から来る。ご心配なさるな」  エニーズと入れ違って銀髪の男が現れた。車椅子の前に跪いて、擦り傷だらけの腕をゆっくり取った。大きな傷にはガーゼや絆創膏が貼られ、体液に染まっていた。手の甲に唇を落とされる。 「無事ではないが、命があって良かった」 「アンタがオレを、連れてきたんスか…」  声が同じだ。意識の遠くでぶつぶつと喋っていた声と。銀髪の男はセルクルの首に小さな袋が通った紐を掛けて結んだ。 「これは何スか」 「御守りだ。お前が言ったんだろう。俺の右目を照らしてくれると」  セルクルは勢いよく首掛けられた小さな袋を見た。首がじわりと痛む。頭の傷が疼いた。中身は、右目ということか。付き合いきれないっスよ。エニーズさん、助けて。厚く固い掌に乗せられた手を引こうにも自力では上手く動かせなかった。 「だがいい。照らさなくていい。お前が傍にいてくれるのならこの右目が映すものはもう何もない」  共に埋めてやれずすまない。男は言った。弟分の死に気付いているのか。 「おにいさん、」 「そんなふうに呼ぶな…俺はお前を守ってやれなかった。番犬にもなれなかった」  背中に腕を回され、抱き締められる。背骨が軋み、擦り傷が痛む。 「帰りたいところがあるんスけど」 「ここが帰るところだろう?」 「違うっスよ。リーネア=ポワン大聖堂に……なんでも、ないっス」  管理人の顔が浮かんで、記憶が辿られていく。あの大聖堂にはもう帰れない。離別したではないか。だが他に居場所がないのだ。思い出す。岬から落ちるまで、岬に向かい、結局またどこかへ連れられ、岬に向かう罰を背負っていることを。銀髪が揺れる肩に顎を乗せる。弟分になりすましている罪悪感。誰かへの甘えたい欲に応じる男。そしてそれには応えられない。 「フィリー。怪我人ですよ、手加減してくださいね」  けむくじゃらの玉ねぎを抱いたエニーズが荷物を持って扉に鍵を掛けた。子猫がにぃにぃと鳴いて、青みがかったグレーの目をきょろきょろと向けた。 「行こう。どこか痛んだらすぐに言え」  フィリーが後ろへ回って車椅子が触れさえしなければ今のところどこも痛んではいない。だが問うことはある。にぃにぃ。エニーズの胸にしがみつく子猫がセルクルを見下ろす。 「どこに行くんスか…?」 「新しい家へ」  居心地の悪い2人と、既に毒されていそうな玉ねぎの子獣1匹と共にセルクルは町の外に止まった大きな車まで運ばれた銀髪の男に抱き竦められてシートに乗せられた。車椅子も畳まれ車内の傍に置かれる。隣の玉ねぎが入れられた籠を支えながら車窓からエニーズと話す見知らぬ男を眺めた。温和そうな中年男性がセルクルの視線に気付き、微笑みかける。濃かった目尻の皺が寄った。会話を終えてその男は運転席に座った。久々の再会だったらしい会話をしていた。玉ねぎの籠の金網に指を入れて、舐められたりじゃれつかれたりしていた。人差し指は折れているのか曲げられた小さな金属の板を添えられて包帯を巻かれていた。爪をしまえない玉ねぎが包帯を引っ掻いて遊ぶ。見慣れた風景が流れる外を眺めていた。一面のレモン果樹園を目で追った。いつの間にか包帯越しの刺激がなくなって玉ねぎの子獣は寝ていた。そろそろ大聖堂の前を通る。帰りたい。 「すまない、大聖堂に寄っていただけないか」  エニーズが運転手に言った。運転手は了承して車は大聖堂の駐車場へ入っていく。 「私用を済ませてくる」  エニーズが髪を結い上げてから降りていく。裏墓地のほうへ向かっている。今日は花束も帽子もないが、墓を訪れていたのはエニーズだったのだ。大聖堂へ視線を移す。管理人に泣きつける最後のチャンスだった。だが、あの不器用ながらも良くしてくれた人にこれ以上の負担はかけられない。管理人には会わず、ここから岬を目指す。近いのはありがたい。玉ねぎが寝ている籠の奥にあるノブに手を掛ける。 「すんません、運転手さん、送迎ありがとうっした。フィリーさんも、エニーズさんによろしくお伝えくださいっス」  痛む右脚を着いて降りようとしたが、逞しい腕が胴に回って抱き止められた。折れた肋骨に響いた。亡霊に縛られた男が簡単に帰すはずがない。忘れていた。 「どこに行く。俺も…」 「1人じゃないと行けないところなんスよ」  ノブを捻っても、開かない。またノブを乱暴に捻る。運転手が、内部からロックをお掛けしております、と小さく言った。 「1人でしか行けないところになど行くな」  幼子がお気に入りのぬいぐるみを手放さない様に似ていた。抱き寄せて頬や耳に唇を落とされる。岬に行かねばならないのだ。岬に行って、夜空に浮かぶ円花窓によく似た輪紋を掴むのだ。ただひとつ残されたことだ。与えられた罰だ。こなさなければならない。 「どこに行きたい。この身はお前の足だ。地の果てでも共に」  罪悪感と甘えでせめぎ合う。身体の限界を分かってしまう。2人でも赦されるのだろうか。 「クレシエンテ灯台の岬…」 「運転手、やつに伝えておいていただきたい」  運転手は、ですが…と渋った様子だった。 「こいつが行きたいと言っている。破壊しても構わないな」  分かりました。運転手の返事の後に、カシャンという音がした。セルクルは軽々と抱き上げられて陽の光を浴びる。瞼を閉じると銀髪の男が背を丸めて日差しから隠す。車と離れていく。エニーズは墓で何を考えているのだろう。 「ありがとっス…でも、オレが言うことじゃないっスけど…エニーズさんのこと、もう少し、考えたほうが良くないっスか…」  恋人なんスよね。確認するより先に銀髪の男は困惑していた。 「分からない…肌を合わせたこともある…あの男を好いてもいる…だが…夫婦(めおと)にはなれない…」  肌を合わせたどころではなかったように思う。セルクルから言わせれば、"変態プレイ"もいいところだった。睦まじ過ぎて刺激の足らなくなった(つがい)でも決断に踏み切れない域だ。 「俺はお前の犬だ。お前という飼い主以外、何も要らない」 「フィリーさんが要らなくても、エニーズさんはそうじゃないかも知れないじゃ、ないスか」  そうだな、と肯定は中身が伴っていない気がした。 「オレがエニーズさんを好きって言ったらどうするんスか」 「エミィも同じ気持ちなら仕方がない」 「同じ気持ちじゃなかったら?それでもオレのこと応援してくれるんスか」 「お前がエミィを本当に好いているのなら身を引こう。だが傍にはいさせてくれ」  悩みもせずにフィリーは答えた。仮定の話だと割り切っているのか、それとも既に決まっていたことなのか。 「ごめんなさいっス。傍にはいられないっス」  それきり口を閉ざした。だがフィリーは語りかける。岬に運ばれている間、温かい日差しの中で揺られながら。弟分の話を延々とした。セルクルの知らない話だった。語るというよりは問いかけていた。確認しているようにも。話からすると弟分は心臓を病んでいたらしかった。食事を受け付けずすぐに嘔吐してしまうらしい。治療のため離れざるを得なかったという故郷の話もちらほらと出てきた。もう何も心配は要らないらしかった。何かを不安に思っているのはこの男のほうだ。 「ねぇ、フィリーさん、誰かのために手、汚せる?」 「誰か消したいのか。言え。消してやる」 「言ったっスね?…冗談スよ」  揺られ、岬に着く。フィリーはセルクルを抱えたまま崖の数歩手前で腰を下ろす。 「またここにお前を連れて来るとはな」  治療がつらくなって、この岬で看取るつもりだったとフィリーは話す。お前は何も思い出さなくていい。答えないでいると柔らかな笑みを浮かべられる。見てはいけないような気がした。頭を撫でられて、それからまた唇が下りてくる。治療の一環で記憶が飛んでいるのだと言った。だから仕方ないのだと。フィリーはセルクルの髪を撫でる。お前は何も悪くないのだと繰り返し、本当にセルクルは自分はこの男の弟分なのではないかと思いはじめてくる。 「フィリーさん」 「なんだ」 「ここに置いていってほしいんス。ここまで運んでくれて、ありがとっした」 「断る」 「オレ、ここで飛び降りなきゃならないんスよ。お導きなんス。最期に与えられたんスよ。もう終わらせるんス。じゃなきゃ延々と繰り返すんスよ、苦しいんス」 「ならば犬の俺も殉じよう」  薄い唇の感触が裂けた傷の上に当たる。銀の毛先が頬や首を撫でる。 「何言ってんスか。フィリーさんにはエニーズさんいるじゃん」  まだ日は高い。 「お前を1人逝かせるなら、エミィを1人遺す。あいつだって恨みはしない」  嬰児を扱うようにフィリーはセルクルをゆっくり揺らす。骨が軋み、傷が痛む。弟分は大変だっただろう。そしてエニーズを気の毒に思った。 「恨みはしません。嘆きはします」  エニーズの声がして、フィリーが振り返ったため、日差しがセルクルを襲う。 「行きますよ」 「まだここにいたがっている」  エニーズはフィリーの前に回り込み、セルクルの頬を撫でる。挟まれるように覗き込まれ、2人の嬰児になった気分だ。 「養子を拒むなら雇わせていただきたい」 「エミィ、」 「どういうこと、スか…」 「日給5万クオーレで貴方を雇う。住込みだ。食費、生活費、光熱費はこちらが」  突然の話に驚いてセルクルは起き上がろうとして、フィリーに押さえ込まれる。5万クオーレといえば水上都市で最も人気の高いレストランの週給相当だ。 「で、も…」 「お断りなさるな」  すぐに返事は出来なかった。当惑を悟られる。 「貴方の思う神はいない。いたとして、見放した者を導こうなどとしない。貴方の夢想(ゆめ)だ」  聞きたくなかった。エニーズさんってこんな怖い人っした?セルクルの身が強張る。フィリーが背後から抱き直す。セルクルは唇を噛んだ。エニーズの鋭い空色から目が逸らせない。そのままエニーズはフィリーを呼んだ。 「君がどうしても欲しがるなら彼を"モノ"として買います。条例違反ですが構いませんね。大聖堂にも絶縁状を書かせますし、家族を探しだして契約書にサインさせます。君が望むなら。どうしても傍に置きたいと望むなら」 「…ッ」  フィリーの鼓動を感じる。エニーズの剣幕に怯んだ。 「お断り、なさるな」  表情の無い美しい顔と虚空の瞳がセルクルに決断を迫る。 「ひでぇ、っスよ…」  エニーズは動じない。 「オレが、要らなくなったら…?今は混乱してるだけっスよね…。あんたたちに必要なのはオレじゃないっスよ。きちんとした治療っス…」  弟分の面影を追うことではないはずだ。 「…おっしゃるとおり」 「お前が要らなくなるとは、どういうことだ?」 「オレはあんたの弟分じゃない。心臓を病んでもない…!」  フィリーの腕の中から抜け出した。身体中が痛んだが、引き戻された。怪我に容赦なく腕がセルクルの身体を締め上げる。 「それに…、手前勝手に人殺した前科一犯で…」 「私たちは貴方の過去を買いたいわけではない」 「共に来てくれ」  包帯が巻かれた背に顔を埋められる。身体中が痛い。 「い…やだ…」  両手を合わせる。空を見上げようとしたが、エニーズに阻まれた。まだ信じている。見放されたと思っていても。 「何も救わないものに祈りなさるな」 「…ッ」 「貴方の居場所はもう私たちのところしかない」 「いや、っス…いやっス…いや…」 「貴方を誘拐する」 「ずっと傍にいさせてくれ」  額を啄まれながら、身体が浮いた。 ◇  セルクルはぬいぐるみと化していた。フィリーもエニーズも何も話し掛けず、何も答えはしなかった。新居は真新しく壁紙は焼けておらず蜘蛛の巣も張っていない。車椅子から降ろされて革張りのソファに寝かされた。エニーズは運転手と何か話し、フィリーとともに先に来たのだった。ソファが軋み、フィリーに覆い被さられる。咥えさせられていた棒付きの大きな飴玉を口から抜かれた。オレンジの味が離れていく。また口に入れられて、掻き回された。歯に飴玉が当たり軽快な音を立てる。 「お前の望みを叶えてやれず、すまない。それでもお前と居たい…」 「ひでぇっスよ…サイテーっス…」  飴玉を口から抜かれて、喋ればまた口に放り込まれる。エニーズも遅れてやって来た。玉ねぎの獣はあの運転手に引き取られたらしかった。それに強い孤独感を覚える。この薄気味悪い男2人と暮らしていかねばならないのだ。そしてその2人は配偶者であるからなお厄介だった。 「随分と金持ちなんスね」  合っていた目を逸らされる。疚しい稼ぎ方でもしていたのだろうか。 「エニーズさん」 「至急ベッドの用意をいたす。それまで辛抱なされよ」  茶髪を揺らしてエニーズは部屋を出て行ってしまう。覆い被さったままのフィリーが何度も飴玉に突き刺さった紙製の棒を摘んだまま髪や額にキスした。猫の毛繕いに似ている。だが恋人以上配偶者以下の関係の者の前でするには躊躇われる。 「エニーズさんのこと、訊かせてよ」 「本気で好いているのか…?」 「だったら…どうするんスか」 「別れる。お前の恋路を邪魔するはずがない…」  硬い指がセルクルの髪を耳に掛けていく。翠の左目が柔らかく眇められた。大聖堂裏に現れた親愛なる野良猫にされた目付きだ。 「安心している…お前が、誰かを好いているのなら」 「ホントにサイテーっスね!」  睨み上げるとフィリーの顔がほんのりと赤らんで、セルクルは眉を潜めた。足で撫で摩って果てさせた時の直感がまた働く。この男に難儀な性癖があることは知っていたはずだが、まだ明確なものではなかった。それが輪郭を引いていくような。 「寝取られシュミと被虐シュミがあって、こんな年下に萌えてるとかヤバくないっスか?あんな綺麗な人捕まえといてさ」 「そう、だな…」  目元を染めてフィリーは肯定した。 ぎらぎらとした目でソファに横たわるセルクルの髪や耳の裏や頬を撫で回す。指先が熱くなっているのが生々しかった。 「まぁどうでもいいっスけど。どうせオレは飽きるまであんたらのぬいぐるみなんスから」  隣の部屋からエニーズが出てきて、ベッドの用意が出来たと告げに来た。動こうとすると抱き上げられてしまう。セルクルはその環境からあまり発育がいいとはいえなかったが少なくとも人1人分の体重はある。この奇怪な2人は軽々と、本当にぬいぐるみを抱く要領でセルクルを抱き上げてしまう。リビングの隣の部屋は明るく濃い色味の壁紙や絨毯、カーテンに彩られていた。幼い子供が過ごすための部屋といったインテリアで、ベッドだけが地味に納まっている。柔らかなベッドの上に乗せられる。 「このまま眠るか?」  フィリーが額に額を当てて訊ねる。傷周辺の腫れが圧迫されて痛んだ。寂しさを滲ませゆっくりと支えながら背が空気を多く含んだ質感の布団へ近付いていく。 「まだ寝ないっス…」  落ち着かない内装だった。ベッドにも既にぬいぐるみが並んでいる。部屋を見る限り養子を迎える予定はあったようだが、16歳を誘拐してまで連れ込むには幼い子供向けの部屋だった。起き上がるのも億劫で仰向けのままフィリーを見上げる。翠の目がやはり、よく懐いた野良猫がしてきたように潤みながら照り、眇められる。野良猫は親愛や信頼の意だったようだがこの男からは不気味なものを感じる。一度あられもない姿を見せられただけの、にわかな関係だった。 「エミィには、話しておく」 「何をっスか?」  眉間に皺が残ったまま、柔らかな表情でフィリーは視界の端に消えていく。セルクルの問いに答えることもなく子供向けの部屋は閉まって行った。青空に車や風船が浮かぶ壁紙。目盛りの刻まれたキリンのウォールステッカー。青空と白い雲が描かれた天井からぶら下がる月や雲、太陽のモビール。カラフルなクッション性のあるパネルが敷き詰められた床。壁の低部には部屋を囲うように緩衝用のクッションが並べられている。薄気味悪い。弟分の亡霊として"誘拐"してきたのなら、年は同じ頃のはずだ。生きていれば同じくらいという話だったか。新しい環境にも、部屋に広がる鮮やかな光景にも落ち着かず、しばらく壁に刳り抜かれた窓から、本物の青空を眺めていた。ドアがノックされてエニーズが入ってくる。 「無理強いしたゆえ、謝れない身だ…が、せめて、ひもじい思いも寂しい思いもさせない」  エニーズは無表情だが気分は沈んでいるらしかった。 「人に囲まれてれば寂しくないと思ったら大間違いっスよ。あんたみたいな人が寄ってきそうな美形には分からないかもっスけど」  寂しそうに見えたのか。セルクルはエニーズを一瞥する。管理人がいた。畑があった。枯れた白百合の花束と墓地があった。懐いた野良猫もいた。紅い石の彫像もあった。寂しさは特になかったように思う。 「寂しいわけないっスよ」  言われてみて、口にしてみてから自身で捨てようとしたものが浮かぶ。闇夜に上がる大聖堂の円花窓と同じ輪紋に縛られていた。何を考えていたのか今では思い出せない。 「管理人さんいて、ご飯食べさせてもらって1日のこと話して、手振って別れてまた明日会って、朝にはトマトとかピーマン穫れてさ…花束片付けて墓石に酒かけて、海見てさ…何も寂しくなかったっスよ、今になって…」  解れて乱れた包帯を直される。 「リーネア孤児院だと養子にもらう子選べないんスよ。年齢も性別も。子は親を選べないし親も子を選べないから」  大聖堂の近くにある、今頃改修工事の進んでいる孤児院だった。 「血縁関係ないんだから、せめて選べてもいいんじゃないかって思ったんスけど、そう思ってる時点でもう養子迎える資格ないのかも知れないっスね」  エニーズは黙っていた。 「厳しいと思うんスよ、もらってから酷い扱い受ける子だって少なくないっスよ、家出して帰って来ちゃう子も何人かいたんスから。でもお導きなんスよ。その家が子供欲しがってるのも、その子供がもらわれていくのも、戻って来ちゃうのも」  聞いているのかいないのか。だが喋れていればセルクルは構わなかった。 「オレは大聖堂でほぼ個人的に面倒看てもらってるから多分何歳で前科持ちでどういう病歴とか職歴とか学歴とか知らされちゃうと思うんスけど」  そこで「そうだな」と相槌がうたれる。 「オレは拒んで、それでもあんたらはオレを連れて来た。それがどういうことか分かってるんスよね?雇うとか雇わないとかの関係なら、断ったはずっス。それでも連れて来た。もうあんたらのぬいぐるみっスよ。気遣うな」  ああ。小さな返事が聞こえる。 「寂しいのはあんたらのほうだ。寂しいあんたらにオレが癒されると思ってるんスか。虚しいだけっスよ。あんたらの虚しさに触れて、オレはただ寂しいだけっス。ひもじい野良ガキにも、ひもじいなりに生きてきたんス…」 「そうか。不躾だった。しかし、神のお導きに背いた大罪人でも、人の尊厳を踏み躙る極悪人でも喜んで受け入れよう。今更だ。では拾ったぬいぐるみの意思は尊重しないことにいたす。その方が楽だな?私も、貴方も」  フィリーがよくやる口付けをエニーズも額に落とした。柔らかく肌を撫でられ、髪を梳かれる。投げ捨てられた言葉に反して丁寧で慎重な触れ方に鳥肌が立つ。 「私も誰かの代わりだ」  包帯や絆創膏の上にひとつひとつ形の良い唇が落ちる。指の背を唇で甘く噛まれる。 「エニーズさ…、ん?」 「貴方を癒やそうなどと考えない。だが私を癒しなされ」  抱き起こされ、寝かされ直す。隣にエニーズも乗った。添い寝される。 「私にとっても可愛い子だった。気難しくて、神経質で、懐かない。意思疎通が難しく手を焼いたが、可愛い子だった」  身体が痛むがエニーズは容赦なく抱き締める。本当にぬいぐるみとして扱うらしかった。 「私の姉の、大切な家族だった。血の繋がりはないが、私の姉の大切な…家族で患者で、親友だった」

ともだちにシェアしよう!