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第4話

 ぬいぐるみと化したセルクルはエニーズの胸に抱き込まれる。優しく淡い香りに包まれる。傷も怪我も腫れも気にせずエニーズの腕はセルクルの腰に回り、掌が背を撫でる。 「だが私は貴方を見殺した。残酷に、凄惨に」  後頭部を押さえて胸へと顔を埋めた。エニーズとフィリーの共通のした香りとは別に、エニーズの匂いがした。フィリーに付き合っていたわけではないらしかった。エニーズもまたエニーズなりにフィリーの弟分に思うところがあるようだった。 「酷い話だな。貴方は彼ではない。だのに貴方を身代わりにして。彼ならきっと鼻で笑う。寂しい人間…いいや、寂しい生き物だ、私たちは。2人で傷を舐め合っていく、これからも」  身動きがとれないほどに力強く締められる。セルクルは口も開かずされるがままでいた。 「しかしきっと、フィリーの目には貴方しか映っていないだろう。貴方だけは彼の傍にいてほしい」  執拗にエニーズも、そしてフィリーも髪や額や鼻を啄む。彼等の中の接触の仕方が垣間見えて居心地が悪かった。 ◇  エニーズの香りと低い体温に抱かれて眠ってしまった。紫に染まる空を頭が冴えるまで眺め、それから光が漏れるリビングまで右足の爪先と左足とで跳ねるように歩いた。リビングには誰もいない。古ぼけたアパートは2部屋しかなかったがこのマンションの高層階は4部屋はある。日給5万クオーレを提示するだけの財力があるらしかった。阿漕な商売かも知れない。訊くつもりもなく興味もない。リビングのソファに座る。背には大窓がありセルクルの生まれ故郷とは同じ国とは思えないほどの建物が並び、ひしめき合い、車が長い道路を走っていく。様々な色の光が暮れなずむ空の下で灯っている。神とはこうして人民を見ているのかと思った。神はいない。エニーズの言葉が蘇った。壁に掛かったテレビを点ける。水上都市の店内にあるのを少し観たくらいで長年自らの意思を持って黒い画面と対していなかった。ザッピングして、消す。子供部屋と対面にある部屋か物音がして2人かいずれか片方はいるようだった。腹が減った。眠りに落ちるまでエニーズといたためか緊張感は薄れてこの環境に慣れつつある。扉越しの連続した音が少し気にはなったがリビングに隣接したキッチンへ床を蹴りながら移動する。引っ越して間もない。冷蔵庫を開いて、リンゴジュースの紙パックが大量に入っているのを確認したと同時に小さな物音がしていた扉が開いた。 「腹が減ったのか」  過保護な銀髪が半裸で現れる。濡れた翠の眸と首回りや胸に散った濃い鬱血痕が物音の正体を告げ、セルクルは目を逸らした。 「いや別に…ちょっと喉渇いただけ…スよ…」  腹は減っている。だがそれが言えなかった。フィリーはセルクルの後ろから手を伸ばしてリンゴジュースを取ると、包帯巻かれた手に握らせる。 「すぐに何か食べさせよう…気付いてやれず悪かったな」  屈んで頭を撫で、また部屋に戻っていく。声が掠れていた。2人の熱い時間を邪魔してしまったらしい。酸味の少なくすっきりとした甘さの琥珀色のリンゴジュースを啜りながらソファに戻る。エニーズとフィリーが部屋から出てきて、セルクルを囲んだ。水上都市の片隅で以前見たことがある喝上げに似ていた。 「少しだけ待っていろ。何が食べたい?お前も行くか?」 「行かないっス…任せるっス…」  2人で行くものと思われたが、エニーズはセルクルの隣に座ってしまった。見張られているのだと直感した。 「2人で行かないんスか…?」  訊ねると、エニーズに抱えられ膝に乗せらる。骨が痛い。 「フィリーにお任せいたした」 「1人で行かせて大丈夫なんスか…」 「貴方絡みでなければ」  リンゴジュースを飲む顎を掬われる。まるで愛猫への扱い方だ。 「風呂入っていいっスか?」 「付き添わせていただこう。その身体では不便だ」 「え、いいっスよ!」  抵抗も空しく、抱き上げられて真新しい浴室に運ばれた。洗面台に座らされる。寝間着の前が開いて乱れた包帯が露わになった。身体中の包帯が解かれ、湿布やガーゼも剥がされていく。浴室は暖かかった。冷たそうに見えて、人肌に馴染む熱の伝わったタイルに座らされる。エニーズはシャワーの温度を調節していた。 「エニーズさん?」 「湯は少し低くしておく。ご安心なされよ」  フィリーに拾われるまでまともな処置もされず、栄養も摂れずにいたため傷は膿んでいた。スポンジを泡立てるエニーズの呑気な姿を見て、抵抗も面倒になり全て任せる気になった。 「邪魔したっスよね」 「何のお話か」  レモンの絵が描かれたボトルのボディソープは甘みのある柑橘の香りがした。 「おアツい時間邪魔したでしょ。ごめんっス」  セルクルの腕を取りスポンジを近付ける。大きな傷が走っているため慎重になっているようだった。 「アツい時間とは…?冷暖房完備のはずだ…が、暑かっただろうか」  泡を肌に触れさせる程度の弱さで肘や傷の近くを洗っていく。 「配偶者との時間ってやつっスか。時間帯的には早いっスけど」 「それか。…弟分が死んでから致していない。触れ合うだけだ。いつでもやめらる。気遣いいただき申し訳ない」 「そんな赤裸々な話は求めてないんスけど…」  反対の腕も慎重に洗われていく。洗剤が肌を苛む前に温いシャワーが泡を落とす。 「お抱きになるか」 「う、…ん。うん?は?」  エニーズは何か妙なことを言ったかといった、きょとんとしたあどけない表情を見せる。衣類が濡れていた。 「何を?なんで?え?」  エニーズは答えないまま脚を洗いはじめる。腿に大きな裂傷があるためそこを避けながら膝裏や膝にスポンジを当てていく。暫く無言で洗い続け、それから口を開いた。 「彼にとって私は罪の化身だ。彼が愛しているのは私の…会ったこともない姉だ。同じ顔をしている」 「会ったことないのに顔知ってるんスか」 「神のお導き…だったか。前の仕事がそういう関係だった。見えてしまう。私は姉を見ていた。だが姉は私を知らない…が、私は姉を知っている」  細心の注意を払って片脚の泡が落ちていく。淡々とエニーズは話した。姉は医者であったこと、その患者が弟分であったこと、フィリーは弟分に使う薬品の被験体であったこと。その姉が事故死した後に会ったフィリーの献身に強く惹かれたこと。弟分を深く傷付けたまま死別したこと。足の裏を洗われ、泡が流れていく。この男が神に関わったという清く貴い職にいたということはどこか納得出来たが、乾涸びてもいて陰湿な現状に納得してはいけない気もあった。 「貴方は殺人の前科に負い目があるようだが、私は直接手を下さず人を殺めたことがある。二度か、三度か…」 「負い目はあるけど、後悔はないっスよ。ただまだ、ちょっとどこか、神は見張ってるんじゃないかって…思うだけで」 「私は神を信じなければならない身で、だが、弟分を召した神を拒みたくなった。見殺さねばならなかったこの身を恨んで、神から離れた」  首に手が回りぎょっとした。泡のついた掌が首を洗う。肩の傷を避けながら洗い流された。茶髪が揺れ、顔は見えない。おそらく無表情であろうことは想像に難くなかった。 「それが全部、全く関係ないオレに向いてるってわけっスか…なんか、う~ん、弟分のこと忘れ去っちゃってるみたいでやっぱなんか……しんどいっスね」 「間違っているのは、分かっている」 「間違ってるかどうかは分からないスよ。気に入らないから、変だから、空しいから、しんどいから間違っているとも限らないっスから。でも、死んだらこんな見ず知らずの小汚いガキに取って替わるんだなって」  セルクルは頬が引き攣るのを感じた。 「弟分の短い人生、何だったんスか…」  エニーズは黙る。エニーズは何も言っていない。どこまで話されているのかも分からない。だが責められているような気がした。 「スリのジャリガキを私情でぶっ殺したオレが言うことじゃないっスね」  やはりエニーズは何も言わず、バスタブに頭を預けさせて髪を洗いはじめる。顔を見られなかった。空色はどうせ何も見てはいないのだ。薄汚れて綿埃にまみれたぬいぐるみがそこにあるだけなのだ。シャンプーの中で髪が鳴る。骨張った指の腹が後頭部を揉み込む。 「貴方のおっしゃることは、痛い。何よりも。正当化の言葉を探しても何も思い浮かばない。その通りだ。全く、その通りだ」  バスタブの中にシャンプーが溶けた湯が落ち、排水口に吸い込まれていく。シャワーの音と温度が心地良かった。耳も洗われる。 「取り返しがつかない。もう。走り出してしまった。あの子を蔑ろにして自己満足のために貴方を消費する。あの子は死んでしまった。だのに彼の中では生きている。彼の中で生きているのなら私はその夢幻(ゆめ)に付き添う」  乾いたタオルで髪を拭かれた後に頭をタオルで包み込まれる。バスローブを着せられると、エニーズはセルクルを抱き上げてリビングへと運ぶ。 「それでも私は私なりの情を、貴方を貴方とした上で注ぎたい」  エニーズは手にした小さな紙袋から軟膏を取り出す。まだ新しいらしかった。数度しか使った形跡がない。半透明なものと不透明なものの2種類を擦過傷や裂傷に塗られていく。脚や腕に切り込みの入った湿布を貼られ、真っ白な包帯を巻く。柔らかな安心感があった。他の紙袋から錠剤を出してセルクルの口に運ぶ。飲みかけのリンゴジュースのストローを咥え込まされたため、錠剤を飲んだ。 「医者に診せたんスか?」  茶髪が揺れて首肯した。思っていたより傷や骨が痛まず熱も持っていないのはそのせいだったらしかった。今までどのように服用させられていたのかは訊かないことにする。 「医者には診せた…がその後も3日ほど眠っていた」 「え!そんな寝てたんスか、オレ…」  岬に着いて、フィリーに拾われた後だ。 「あの…、医療費…オレ…」  下唇にエニーズの親指が触れる。端から端をなぞって、感触を愉しんでいる。 「それは貴方の気にするところではない」  指が離れた。着替えを取ってくると言ってエニーズは子供部屋に入っていった。少し大きなサイズの寝間着を与えられ、包帯や折れた指先が引っ掛からないように手伝われながら袖を通す。 「母親みたいだ」  軟膏を塗ったばかりの額の傷の近くに唇が当てられる。目元に落ちたところでフィリーが帰宅した。 「お帰りなさいまし」 「すぐに、何か作る」  フィリーの片目にはセルクルしか映らないでいた。 ◇  何者かの泣いているような声で目が覚めた。リビングに続くドアが開いている。フィリーかエニーズか、どちらかがひとり泣いているのかも知れない。ベッドに立て掛けられている松葉杖を突いて立ち上がる。壁に刳り抜かれたような窓は独居房を思い出させたが奥に見えるのは鬱蒼とした林ではなく煌びやかなビル群と車を挟む街灯の行列だった。まだ見て、夢か否かを確かめたくもあったがリビングに出た。どちらなら良かったのかセルクルも分からないでいる。眩しさに眉を寄せた。人影が2つ。ソファの上で重なっていた。茶髪が揺れてセルクルを見る。ぎらぎらした眼差しは何も映さない空色と同じものとは思えないほどに凶暴な欲の色を灯していた。組み敷かれた銀髪は、隔絶された民の墓地で共に眠る萎れた白百合に似ていた。口の端が一筋光り、悩ましげに寄った眉に経緯を理解する。苦味のある独特の匂いが、湿布と新しい香りに混じり、遅れてやって来る。無言のままでいるエニーズは、冷ややかな美しい顔立ちではあったが穏やかであどけない雰囲気で柔和に保たれていたというのにまるで人を食い殺した獣に見えた。 「エニーズさん?」 「…事態が落ち着くまでは、抱かないつもりでいた…」  後悔を滲ませながらそう言ってエニーズが動くと、下にいるフィリーは小さく呻いた。水面を浅く掻いた時に似た音がして2人の密着した下半身が離れる。ゴムの伸縮して叩く音が鳴って、小さな筒状の袋がはずさるのが見えた瞬間にセルクルは顔を背けた。 「起こして申し訳ない」  寝間着の柄やフローリングの木目を眺めた。淡い影が視界の端を動く。 「何もリビングで……腰痛くするっスよ…?」  何か言ってやらねばと思い、浮かんだことを吟味もせずに喋ってから余計な世話だと悔いた。 「そうだな。気を付けよう」  声がソファの前に落ち着いて、ゆっくりと顔を上げたがまた逸らした。一度見たことはあるが、見慣れたくはない。割れた腹筋の上に滴る精液を片付けている。床に散乱する避妊具のパック。配偶者だ。むしろ遠慮するべきは自身であることをセルクルは分かってはいた。だが身体が固まって動けない。 「…弱った彼を見ると歯止めが利かなくなる。ゴムを着けるので精一杯…情けない…」  エニーズはソファの前で膝を着いて、頭を抱えはじめる。性生活を吐露することに躊躇いがないことは分かっていたことだがまだセルクルは慣れないでいる。松葉杖を動かしてエニーズに近寄った。すぐに座れないため、情事の跡を強く残すフィリーを見下ろす羽目になる。 「エニーズさん…その…なんつーか…」  気休めにもならない言葉しか浮かばなかった。肩を落として散らかった避妊具を片付けている。12個入りが8個になっていた。 「すまない。少し彼と一緒にいていただきたい」  気怠そうに立ち上がりエニーズは浴室に向かっていった。どうしていいのか分からず、フィリーを眺めた。下半身だけ露わになっている。服は胸まで捲られ、真新しい鬱血痕だらけだった。 「…ぅっ、…」  閉じられた瞼が微かに動く。ゆっくりと睫毛が上がった。濡れた唇が小さく知らない名を呼んだ。濡れたタオルを持ったエニーズが戻り、フィリーの身体を拭く。 「これはセックスではなく、レイプだ」  エニーズはそう言ったきり黙った。フィリーは身悶えて濡れたタオルから逃れたがった。雪が降り積もった睫毛が再び開いて翠玉が現れる。 「…ッ、」 「すみません、フィリー…」  エニーズの細く骨張った手がフィリーの手を握った。しかしフィリーはセルクルしか見ていない。濡れた弱い欲を湛える翠に囚われる。厚く逞しい手の甲にエニーズの唇が触れる。何度もされたが(はた)から見ると気恥ずかしいものだった。虚空しか映さない空色が、虚空しか見ていないわけではないことは知っている。 「エニーズさん」  フィリーからの眼差しを振り切って、セルクルの影にエニーズを迎え入れる。横たわった身体の衣類を整え、ソファに掛かっていたおそらくソファの付属品であるブランケットを掛けた。 「ちょっと、歩きに行かないスか」  快晴の空を嵌めこんだ眸子(ぼうし)はフィリーのゆっくりと上下する腹に向けられたままでいる。 「このザマだから、歩くの遅いかもっスけど」 「…そうだな。しばし待たれよ」  部屋に戻っていく背中を見ていると、寝間着を引かれる。 「すぐに、…帰って来るんだぞ…?」  掠れた声で紡がれる。セルクルは頷いた。悪戯に押された印よりも多いだろう薄まった首筋の鬱血痕が目に入った。エニーズの執着心か、それとも孤独感か、ただの癖なのか。 「お待たせしてすまない」  エニーズの瞳よりも淡い色をしたストールを首に巻かれて、外へと出る。行ってきます、おやすみなさい。リビングの小さな会話を聞いた。かちゃり、かちゃりと管理人からの餞別が軋む。ガラス張りの長いエレベーターで下へと降りていく。窓の奥にあった燦々とした夜景が対面や斜向かいの高層マンションの狭間に広がっていた。舗装道路やデパートメント、既に閉まっているハイブランドのショップが並ぶ通りを見下ろしながら人工的に高く上げられた地面を歩いた。暫く沈黙が続く。松葉杖の音だけが2人を繋いだ。窓やガラス張りのエレベーターよりも広く、微かな騒音の中にある夜の都市を望んで、柵の代わりにガラスの嵌め込まれた手摺りに捕まった。 「気を遣わせたな」 「別れようとか思ったこと、ないんスか」  無い。エニーズは即答した。 「彼を壊したのは私だ。何故別れようなどと思う」 「贖罪?」 「違う。私は私の意思として彼を好いている」  茶髪が靡く。セルクルの髪は頬を叩く。水上都市の夜景とは違う風情があった。 「そっか。なら、いいんス」 「彼が被験体だったという話は覚えていらっしゃるか」  頷く。薬を作るためにと話していた。その薬を試用しているという意味だと受け取っていたが、どうやら違ったらしい。体内に薬品を流し込み、採血してから抽出していたという。そして器であった肉体が干渉を受けてしまった。 「彼は人より傷も怪我も治りが早い。おそらく人の…生き物の域を越えてしまったかも知れない。私とてそうだ…神の望みを叶えてから、貴方と同じく飛び降りても、首を掻っ切っても、まだ生きている」 「え…死のうとしたんスか」 「別れようと思ったことはない…が、この生から逃れたいと思ったことは、幾度かある。以前は生命の危機を脅かされていた。だが今では…あの子を見殺して、それで私も逃げようなどと…」  無表情が崩れ去る。憂いた顔の美しさにセルクルは息を忘れた。 「眠りたいと思うことも、食欲もない。味覚も消えてしまった。ただ彼の肉体だけに欲が抑えられなくなる。延々と互いに身体を求め合い生きるのかも、分からず…」  かちゃり、かちゃりと松葉杖を鳴かせてまた進む。新しい住居の位置を見上げる。エニーズが追って来るのを待った。 「ずっと1人でそれ、黙ってたんスか」 「他に言う者もいない。言ってどうにかなるものでも」 「話してみると楽にならないっスか」 「…なる」  あどけない顔を向けられる。親から幼児に戻った顔。 「オレは、エニーズさんたちの弟分に生かされたのかも知れないっスね」 「そのようにお思いになるな。貴方の人生だ」  街の灯りに揺れる双眸と見つめ合う。目が離せないでいた。欲とはまた違う潤みに揺蕩う。目を離すのが惜しかった。 「戻ろう。彼が待っている」  頭を撫でられる頃にはまた親の顔に戻っていた。松葉杖を軋ませ、新しい住処へと戻っていく。月を振り返る。まだ円花窓とよく似た輪紋があるのではないかと思って。だが見えなかった。ビルの奥にあるだろう月はおそらく魅せられた輪紋ではない。しかしおそらくだった。もしかしたら。まだ神は飛び降りろと導いているかも知れない。立ち止まって、迷った。あのビルの奥にあるのは月か、夢幻か現かも分からない輪紋なのか。 「セルカ。どうかなさったか」  この人と生きていくのだ。誘拐犯でも、養父でも、所有者でも。 「ううん。なんでもないっス。行こ」 ◇  朝日に照らされて目が覚める。コンクリートや野原よりもずっと寝心地が良かった。香ばしい匂いに誘われて、松葉杖を突きながらリビングに移動する。 「お早いお目覚めだ」  エプロン姿のエニーズがテーブルへ1人分の朝食を運んでいる。 「召し上がるといい。口に合わなかったら申し訳ない」  ベーコンとスクランブルエッグに小さなサラダとトースト。ココアが注がれたカップ。 「ありがとうっス。いただくっス」  椅子に座って、両手を組むと天井を見上げた。 「神よ、永久に豊穣なお恵みを…」  エニーズがセルクルが食前の祈りをするのを見てからまたふいと逸らした。 「食欲ないって言ってたっスけど、食べられないんスか?」 「食べられる。ただそうする必要がない。飢えた感覚も満たされた感覚もない」  キッチンで洗い物をしている姿を見ながらトーストを齧る。 「エニーズさん」 「なんだ」 「ご飯食べる時、こうして一緒にいてくれないっスか」  カリカリに焼けたベーコンは美味い。スクランブルエッグの絡んだチーズの塩気が玉子の甘みを引き立たせる。 「勿論」  水の音が止まってエニーズはセルクルの対面に座った。家事の邪魔をしたかったわけではない。 「洗い物、あったんスよね…近くにいてくれたら、それで…」 「洗い物はこの後でも出来る」  ミニトマトが口内で破裂する。大聖堂裏の菜園はどうなっただろう。トーストの上のバターが溶けていく。管理人も食事中は対面に座って、無愛想な顔でセルクルの話を聞いていた。あまり口数は多くはなかったが、返事をして意見を述べることもあった。 「夜は何してるんスか」 「本を読んでいる。散歩に出掛けたりもして…」 「エニーズさんの夜は長いっスか」  ホットミルクに溶かしたココアの柔らかな味が芯から身体を温めていく。 「どうだろう。長いと感じる夜もあれば、短いと感じる夜もある」 「エニーズさんが読んだ本とか外で見てきたものの話、寝る前に聞かせてよ」 「分かった。寝付くまで。貴方に聞かせる話を考えていたら案外夜も短いものなのかも知れないな」  スクランブルエッグを平らげる。管理人のよく作り置いてくれていた玉子に包んだチキンライスを思い出す。もう会えない。ぐっと眼球の裏が締まる。眉を寄せてしまうと、エニーズは首を傾げた。 「口に合わなかったか。無理をなさらず」 「ううん。美味しっス、かなり。これからのご飯のこと、頼むっス」  完食すると両手を合わせて再び天井を見上げた。 「神よ、今日のお恵み、感謝いたします」  エニーズは目を伏せる。この家に神への信仰はそぐわないらしい。見放されているのだから、そろそろ諦めるべきだ。環境も変わった。いい機会だ。だがまだ縋りたい。 「ご馳走様でした」  食器を重ねると、エニーズは私がやろうと行ってシンクに持って行ってしまう。 「至れり尽くせりっスね」 「私がそういたしたい」  そのまま洗い物を再開する。 「フィリーさんは」 「鬱ぎ込んでいる」 「入っていいスか」  エニーズは頷いた。セルクルに与えられた部屋の対面のドアをノックする。手を拭きながらエニーズがやってきてドアを開く。松葉杖を鳴らして踏み入った。 「入るっスよ」  子供部屋2つ分の広い空間だった。片側はバルコニーで片側はベランダになっている。フィリーはベランダに足を出して床に座っていた。逆光を縁取る日差しが銀糸を輝かせる。 「おはよっス、フィリーさん」  生活感のない殺風景な室内を見回す。少ない荷物はまだ解かれていない。 「ああ。体調はどうだ」 「元気っスよ」 「そうか。ならば良かった」  振り返りもせずフィリーは独り言ちと思うほどぼんやりと喋った。 「隣、来るか」  フィリーは振り返る。セルクルを見ると、不機嫌そうな眉根が深まった。大窓の脇に置かれた椅子をフィリーは隣に引いた。 「どうかしている」  松葉杖を置いて、差し伸べられた手を借りゆっくり腰を下ろす。手が引っ込められると、顔を逸らされそう呟かれた。鋭い横顔をセルクルは眺めた。 「お前は誰なのだろうな」  フィリーは一瞬だけセルクルを見て、顔を背ける。首筋の執拗な鬱血痕は全て消えていた。回復が早いという話を思い出す。 「俺は何をしている…」 「フィリーさん?」  フィリーは頭を抱えた。 「何も考えたくない…」  大きく息を吐いて項垂れる。抱えた頭が乱暴に髪を乱す。 「エミィは信用出来ない。逃げよう。このままではあいつはお前を殺す…俺はお前を見殺す…」  翠の瞳が迷って、立ち上がる。セルクルを椅子から抱え起こす。疑ったくせ、見下ろす顔は今にも泣きそうに歪み、淀んでいた。 「町に戻るのがいい。ここは空気が悪い。身体に障る」  ドアを開いて、エニーズはソファに座っていた。 「どうなさいました」 「出て行く」 「まだ引っ越したばかりっスよ!」  腕の中でもがくが力が強まるだけだった。エニーズに助けを求めようとするが阻まれる。 「お待ちなさい」  ソファから立ち上がったエニーズはフィリーの肩を掴む。反動がセルクルの身体に響く。 「行かせません。落ち着いてください」 「お前を殺してでも連れて行く」  セルクルはキッチンの壁に掛かったナイフを認める。思った通りにフィリーはそこへ向かった。柄を掴んで、宙へ放ると刃がエニーズのほうに回ったところで握り直す。慣れた手付きだった。 「フィリーさん!何してるんスか!」  フィリーを叩く。びくともせずフィリーはエニーズにナイフを向ける。エニーズは動じていなかった。無表情で刃物よりもフィリーを見ている。 「やめて…嘘でしょ…ありえないっス…」 「お前はこの男に記憶をいじられている。どこで道を違えた。ただ互いにお前が幸せに生きられることを望んだというのに…」 「はっきり言いましょう。あの子は死にました。君は知らないでしょうけれど、当初の予定通り、人身御供としての任を全うしました」 「は?」  声を上げたのはセルクルだった。人身御供とは何の話だ。 「心配するな」  髪に顔を埋められて囁かれる。 「君を止めるだけの資格が私にはありません。ですが彼はあの子とは何も関係がない」  2人を交互に見る。彼等の弟分は病死したのではなかったのか。 「心臓の病で死んだんじゃ、ないんスか…」 「私は貴方に嘘を吐いた。あの子は神への生贄だった」  神への生贄。復唱する。その身代わり。神に見捨てられ、見放されることを選んだ自身が。エニーズはフィリーに近付く。セルクルを取り戻そうとして、空いた腹に刃物が入る。 「エニーズさん!」  フィリーに抱えられたまま、膝を着いたエニーズが遠くなっていく。 「放せよ!放せ!サイテーだ、アンタ!サイテー!」  肩や腕を噛む。エレベーターに乗り込んむと乱雑に全てのフロアボタンを押した。 「エニーズさんはアンタの配偶者のはずだろ?アンタの家族だろうが!サイテーだよ、アンタ!サイテー!」  そうだな。フィリーはそう呟いた。

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