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第5話

 穏やかな朝だったはずだ。カラスが飛び回る空の下を抱えられながら歩く。 「サイテーだ、サイテーだよ、アンタ。アンタは、サイテーサイアクだ…人殺し」  同族ではないか。人殺しならば同族だ。エニーズは死なないと言った。本当だろうか。自殺を計っても死んでいないだけだ。真実など分からない。それより何より、フィリーはエニーズを刺したのだ。配偶者の自覚がなくとも恋人のはずだ。 「放せよ…人殺し…サイテーだ、裏切り者…」  口が動く。頭の中では幼い盗人を殺めた時のことが繰り返されていく。ビル風が吹きすさび、フィリーは立ち止まってセルクルを庇う。 「エニーズさん…」 「エミィはいけない。お前を…ッ」  首を振って風の吹くビル郡の中を抜けていく。 「オレを殺すの?エニーズさんが?アンタの弟分みたいに?心臓の病で死んだんじゃなかったから?どういうことスか、神への生贄って…神は生贄なんて…そんな…」  フィリーの足が止まる。 「死んでなどいない!」  ぎらついた瞳に威圧された。強く抱き締め直され、また歩き出す。新しい住まいが遠くなっていく。 「お金も薬も持たずに出ていかないでください」  高層マンションが集中し、立体横断施設から降りていくと目の前にエニーズが立っていた。衣類は血に汚れていたが何事も無さそうだった。フィリーの舌打ちが聞こえる。 「君は飲まず食わずで済むかも知れませんが彼はそうもいきません。薬だって飲まなければ熱と痛みが出てしまう。出て行くのなら私の方です。戸締りにはお気を付けて」  セルクルの手にキーを握らせると、エニーズは去っていく。 「エニーズさん!」  フィリーの肩を押し退ける。人混みの中でエニーズは振り向いた。無表情が柔らかく微笑んで、雑踏に消えていく。 「なんで呼び止めないんスか」  キーを握った手でフィリーを叩く。傷に響く。 「フィリーさん、嫌いっス。大っ嫌い」  筋肉ののった胸を叩く。骨が痛んだ。 「オレにくれるって言ったじゃないスか、エニーズさんのこと。ひでぇっス。アンタはサイテーだ」  サイテーだ。サイアクだ。同じ言葉を繰り返して殴り続ける。骨や傷に響くのも構わなかった。エニーズが明け渡したマンションへと戻ると、リビングのテーブルにセルクルの傷薬と飲み薬の入った紙袋が置いてあった。フィリーはそれを持ってセルクルをエニーズとの部屋に連れ込む。 ◇  鈴の付いた首輪を嵌められ、松葉杖は奪われてしまった。運ばれたマットレスの上で、セルクルは寝かされたまま脚を開く。上半身をビーズクッションが支えている。銀髪がその股座に顔を埋めて、勃ち上がったものを咥える。半ば無理矢理フィリーに勃たされた。首を動かすと鈴が軋み、首輪の重さが骨に響く。根元から舐め上げられる生温かい感触に息を詰まらせた。滲むようなくすぐったさに腰が引けた。定期的に抜け。内側から限界を訴え出したそこをフィリーが本人より先に見つけ、下半身の衣類を剥かれて口内に迎えられたのだった。窓から入る光に唾液のまぶされた茎が照る。 「フィ、リーさ…っん、も、いい…って…ッ」  銀髪を押す。だが根元まで口内に入れ喉奥を締められるだけだった。快感に視界が白くなる。 「ッ、フィリーさぁっ、自分で……ヌける…っ」  掴んだ銀髪が忙しなく上下する。そのたびにじわじわと快感が広がった。大怪我を負ってから放置していたためにすぐに限界がきた。フィリーの凛々しく整いながらも退廃的な顔面を突き上げる。ぐっ、と唸ってから喉仏まで突き刺さすかのように頭を埋め込んだ。 「ぁ、っひ…ッあ…ぁあ…」  精を放つ感覚にぼんやりとした。フィリーは動かず、脈動する茎から口を離さなかった。 「フィリーさっ、ごめんなさ…ッ、」  震える先端部に唇を落として股座から起き上がる。喉仏が動いた。濡れた口を舐める。濡れた片目が挑発的に思えた。 「飲んだ…んスか…?」 「量が多いな、それに濃い。毎日してやる。若いのが溜め込むな」  頭を撫でられる。フィリーが何を言っているのかすぐに理解出来なかった。 「エニーズさんに悪いっス…ホントに、裏切りっスよ…こんなの…」 「そうかも知れないな」  フィリーの意識は飲み薬の紙袋へ移っていた。何か腹に入れろと言って扉の向こうに消えていく。大窓に広がる外を眺め、ビル郡の奥の空へ両手を合わせる。そうしているとトレーを持ってフィリーが戻ってくる。マットレスの脇にトレーを置いた。真っ白な器の中にあるトマトソースのペンネをフォークで刺して、掌を添えながら口元に運ばれる。 「嫌いか。だが腹に入れろ。胃が荒れる」 「自分で食べられるっス」 「そうか」  先の丸い子供用のフォークを渡される。だがペンネの入った白皿はフィリーが持ったままだった。少し辛味の効いたペンネを食べて、琥珀色のリンゴジュースのパックを渡される。アルミの入れ物から錠剤を2つ出されて飲み込んだ。鈴が揺れて涼しく高い音が鳴った。 「寝ていろ」 「フィリーさんは?」 「洗濯がある」 「うん…」  食器を下げるフィリーを眺めて、ビーズクッションに背を預ける。首の鈴がちりり…と呻る。扉が再び開いて洗濯をすると言っていたくせセルクルの真横に寝始める。 「フィリーさん?」 「エミィは物語りでもしてくれたか」 「…してもらう約束したんスよ」  そうか。小さく一言返される。このまま眠れというのは難しい話だった。何の話がいい。数秒黙っていたがそう訊ねられる。 「何の話…フィリーさんの昔話」 「昔話か。小袋、まだ持っているか」 「あっちの部屋の枕元にあるっスよ。ぷらぷら揺れるからずっと下げてられなくて」  フィリーはそうか、と言った。 「右眼が入ってるんでしたっけ」 「見てみたらいい」 「いや…遠慮しておくっスよ…」  そしてまた、そうかと短く返ってくるだけだった。 「大事な人から貰った大事な物だ。お前に持っていて欲しい」  その人はもう生きていないのだと何となく思った。 「う…ん…」 「お前はなんだかんだ優しい子だ。我慢してたこと、沢山あったな。お前は言わないだろ。特に俺は」  照れ臭そうにフィリーは笑った。セルクルは相槌を躊躇う。 「御守りだ。お前は意地っ張りだから」  弟分がふと羨ましく思った。そして胸が痛んだ。故人に向けて送られた言葉はまだ生きている。赤みを帯びて濁り始める空を眺めた。 「このまま、好きなやつができるまでこの生活が続いたらいいのにな。その時はきちんと送り出す。お前を1人で余所へ出すことは出来ないが、お前が選んだやつならば、俺は何も言わない…挙式でも新居でも、蓄えはある。何も気にするな」  フィリーの目が見られなかった。騙しているつもりはない。だが騙しているも同然である罪悪感。若くして逝った顔も知らぬ者への羨望。死者に向けられた生きた言葉の虚しさ。神の生贄になった少年への恐れ。体温を感じるほど近い距離にいたが、遠かった。私情で貧しく幼い盗人を殺め、待っているかも知れない者を自ら怯えて捨て、誰も待つ者のいない立場との圧倒的な差に身が萎んでいく気がした。 「ごめんっス。1人にしてもらって、いいっスか」 「分かった。薬がそろそろ効いてきたか。ゆっくり休め」  フィリーは起き上がりガーゼや絆創膏の間の頬に手の甲で触れて、昏い顔をしているセルクルにタオルケットを掛ける。 「うん…」  扉の音がして、突然寒くなった。  姉が結婚すると聞いてセルクルは嬉しかった。姉の幼馴染でセルクルにとっても兄のような存在だった。雪が降る地方で、酒で盛り上がることが多かった。その夜は、義兄となる男が長い旅から帰ってきて、妹と先に寝た姉の代わりにセルクルが飲みの相手になった。姉のためのプレゼントを拵えて来たのだと義兄となる男は上機嫌に語った。とにかく貧しい村だった。酒を止める者もいなかった。男は眠り、セルクルもうつらうつらとしてきた時にトランクを抱えた男の子が曖昧な意識の中で認められた。目の前で眠りこける男も気付いたらしかった。酔っ払った男と盗人を追って、その先で揉み合いになる。義兄になるはずだった男は足を滑らせ凍った階段に頭を打ち付けた。幼い盗人はそのうちにどこかへ消えてしまった。男は生きてはいたが眠ったきりだった。姉は悲嘆に暮れ、仲の良かった妹といることも少なくなった。  毎朝、毎夜、毎食、祈ることが明日の衣食住から義兄になる男の目覚めへと変わった。その頃は人を殺めようなどとは考えていなかった。たまたままた見つけたのだ、盗人の少年を。年はセルクルよりいくつか下に思えた。貧しい村の中でも特に薄汚れてみすぼらしい格好をしていた。痩せていて背も低く、もしかしたら同じ年だったのかも知れない。明確な殺意も怒りもなく、悲しみともまた違う飲み込み切れず纏わりつく妙な感情だった。酒など飲ませていなければ、もっと早く気付いていれば、酔っ払いにもっと気を回すべきだった、それらの反省点も全くなく、こうなってしまったことを否定したかった。盗人の少年と再び目見(まみ)えたのは神の導きだと思った。衣服いっぱいにパンや果物を抱えて裏通りを歩いていく彼に近付くことが容易であったこともまた神の導きだと思った。その時もまだ殺すつもりなどなかった。近所の子供が置いていったボールを打つ棍棒が建物の壁に立て掛けられているのを見つけるまでは。  素速い足を潰さなければと思って、それから手癖の悪い腕を折らなければと思った。痛みに喚く口は盗品の在処もトランクの場所も言いはしなかった。トランクの場所はすでにどうでも良かった。ただ姉へのプレゼントなるもののことばかり考えて、半狂乱のまま棍棒を振り上げた。もしかしたら答えていたのかも知れない。それも分からなかった。神の導きだと思った。喚かなくなった身体に散らかったパンや果物を並べて、雪が降り止んで少し経つ空へ両手を合わせた。義兄になるはずだった男を考えた時の言いようのない胸の痛みと、足元で血の池に沈む小さく痩せた身体への哀れみがすっと消えていった。どうでも良くなっていた。義兄が眠ったまま生き続けるのか、目覚めるのか、それとも死んでしまうのか。自治警備団を呼んで、柵越しに見ず知らずの貧相な女と対峙した。髪飾りを投げ付けられて、やっと姉の手に渡った。家族とはそれきりだった。そして貧しい村とも。  移送された先の太陽が眩しい地方ではあまり祈りの習慣がないらしかった。それは刑務所の中でのことだとまだ思っていた。様々な地域から集められた殺人犯や違法物品の密売人、国家転覆を企んでいた者たちと会う機会があった。毎食祈るセルクルを周りは笑った。神様は殺人鬼を救っちゃくれないんだ。神は罪人に笑っちゃくれないよ。神は同族殺しまで見張っていてくれるほど優しくない。刑務所の中の生活は苦ではなかった。殺意、悪意、敵意を以って人を殺し、陥れ、傷付けた者たちが多かったが同じ枠に放り込まれると気さくなものだった。神への信仰が捨て切れないことを笑われることは多かったが、それでもそこが刑務所であることも自身が罪人で周りも罪人であることも忘れていた。祈り、助け合い、働き、話し合い、模範囚として言い渡された期間より随分と早く刑務所を出て与えられた神のいる世界は、重かった。 ◇  首の圧迫が取れた感覚で目が開く。暗い視界の中で見慣れてきた顔に安堵した。だが一瞬で頭が冴えた。 「エニーズさん!」  マットレスの脇に座るエニーズに怪我の状態に構うことなく飛び掛かる。 「なんでっスか…?」 「さすがに貴方を誘拐してきたというのに途中でさようならというわけにもゆかれない」 「怪我は?」 「ご安心なされよ、もう傷痕すらない」  白く肌理細かい腹部を見せられる。傷が塞がっているどころか跡らしきものも何もない。 「…一緒に居られるんスか?」  エニーズは頷いた。手にしていた鈴付きの首輪を置いてセルクルの背に腕を回す。 「フィリーさんは?」  無言のまま柔らかな匂いに包まれ頭を抱き締められる。 「エニーズさん?」 「今日からここが貴方の部屋だ」  逸れた返答だったがセルクルはうん、と応えた。 「子供部屋は私とフィリーがもらう」 「2人じゃ狭いっスよ」  額にキスされる。1人には広かったが背の高い男2人では窮屈な気もした。 「セルカ」 「なんスか」  貴方は。一度区切る。いっそう力強く抱き締められて骨が小さく痛んだ。 「貴方は天命を信じておいでか」  エニーズの柔らかく花のような香りを肺いっぱいに吸い込んだ。 「信じ……てるっス」  鳩尾に顔を押し込まれたまま少しの間エニーズはセルクルの鼓動に合わせて弱く背を叩いた。 「神がいなければ救えた者が沢山いた。あの子はどうしても神に捧げなければならなかった。それが救いだった。もうどうしようもなかった。別れを知らないことがいいことだと思った。あの子に、彼への別れを言わせなかった。あの子の中に彼はいないのだから」  エニーズが話す。鼓動に合わせたで叩かれるのが心地良かった。快方に向かっている傷に響いておかしな感覚がした。 「私は、あの子の精神を弄んだ。技術の発展に甘えてしまった。でもどうしても、消せないものがあった。あの子が幼い頃から刷り込まれていた、神の生贄になるという意識だけは一度消せた気になってもまた滲んでくる」  フィリーがエニーズを信用出来ないと評するのはそのせいか。 「心臓の病で亡くなったなどと、半分は事実だが、死因としては嘘だ。申し訳ない。あの子は人身供犠としてその天寿を……………すまない。"全うした"とは、言いたくない」 「いいんスよ。真実が知りたいわけじゃないんス。ただ、ちょっとビックリしてるんス。神へ生贄が必要だったことに…」  エニーズの刻むリズムに安心感を覚えるが、同時に理由も分からない悲しみに襲われる。祈りを捧げていたのは彼等にとっては仇のようなものではないのか。 「セルカ」  優しい匂いに包容され自身の名を呼ばれると、このまま全てを委ねたい気になってしまう。 「戻ってきてくれてよかったっス…」  よくやられたように、エニーズの顎へ軋む首を伸ばして唇を当てる。頬に手を添えられて上を向かされ、髪に唇を落とされる。 「私はフィリーのもとにいる。何かあったら呼ぶといい。何か召し上がるか。薬はお飲みになったか」 「うん。ペンネ食べさせてもらったっス。薬も飲んだ」  頭頂部に薄い手が乗って、エニーズは立ち上がる。手にした首輪の鈴が鳴る。マットレスの端には松葉杖が2本重ねて立て掛けられているため移動が出来るようになった。 「エニーズさん」 「なんだ」  扉の前で振り向いた。 「フィリーさんと2人きりになるの怖いっスよ。また刺されたら…」 「すぐに治る」 「でも刺されたら痛いっスよね」  刺された時に膝を着いた、茶髪の奥の瞳を肩越しに見た。 「痛みはあるな。死にづらいこの身にはおかしな話ではある…が」  松葉杖を拾う。エニーズはセルクルの傍に戻り、手を貸す。 「痛みの話だけじゃなくて…」  盗人の子供を殺す夢を見た。あれは夢のような過去だったが夢ではなかった。音も感触も、あの子供の喚きも、髪飾りを投げたみすぼらしい女の声も顔も思い出せない。悪意も殺意も無かったから。計画もなかった。成り行きだった。そしてこれは導きなのだ。生贄となった少年の身代わりとなれと仰せなのだ。まだ見張っている。まだ信じている。 「一緒に行くっス」 「分かった…が、あまり貴方が見ていて気持ちのいいものではないかも知れない」  エニーズと共にリビングに出る。対面の子供部屋のドアは閉まりきっていなかった。エニーズは椅子を持ち出して子供部屋のドアを開けた。電気は点いていなかった。 「……ッ」  ぎしぎしとベッドが軋む音がした。両腕を拘束されてベッド柵に括られたフィリーが暴れていた。口元にタオルを咬まされている。翠の瞳がセルクルを見て、眉根が寄る。エニーズは気にした様子もなく椅子を置いて、座るように促した。 「ぐッ…!く、ぅ!」  ベッドが激しく揺れた。エニーズは松葉杖を椅子に掛けるとフィリーの元へ寄っていった。拘束を解くでもなく轡を外すでもなく、白く骨張った手は暴れるフィリーの肌を撫でる。 「ぅ、ぐっ…」 「手荒な真似をしてすみません。暴れないでください。腕が痛いでしょう」  肌を撫でていた手が拘束された腕を摩る。そして先程までセルクルに嵌められていた鈴付きの首輪を、もがくフィリーの首に巻いていった。ベッドが軋み、シーツが擦れ、鈴が鈍く鳴る。 「ぅ、ぐ…ッ」 「何百回、何千回と事に及べば、もしかしたら何か身籠もるかも知れませんね…」  蹴ろうとする脚を受け止めて、膝を撫でる。臀部に向かって掌が辿っていく。 「身籠もらせたいわけではないのです。ただこの行為に何か見出したいだけなのです」  尻を撫で、膝の届かない腹の脇に腰を下ろす。暴れる男とさらにもう1人の男の重さにベッドが大きく軋んだ。 「私たちのセックスには何もありません。愛も恋もない」  尻にゆっくりと掌が這う。上体を傾けてフィリーの顔を覗き込む。轡を外して、噛み付くように口付けた。身を引いたフィリーを追う。 「ぅん…っぐ…ぐぐ…」 「…ッ、…っふ」  保護者2人が重なるのをセルクルは椅子の肘掛けに頬杖をつく。その度に肘の痛みを思い出してやめるが、また忘れて肘掛けに肘をつこうとする。まだ薬の副作用である倦怠感を伴った眠気が残っているらしく意識がふと離れ、また戻ってくる。 「…ァ、っふ…」 「…っく、ぅん」  口元が離れて、唇から伸びる透けた糸が2人を繋ぐ。エニーズが自身の口元を拭った。 「何か飲みますか」 「…要らんっ!」  セルクルが船を漕いでいる間に照明が灯り、目が覚める。口元を真っ赤に染めたエニーズに見下ろされる。言葉を失ったが、無言のまま掛け布を羽織らされた。フィリーもまたエニーズほどではなかったが口元が真っ赤に汚れている。血だ。 「…、大丈夫スか?」 「驚かせてしまったか。すまない。大丈夫だ」  そうっスか。椅子に背を預ける。 「寝るならきちんと寝ろ。身体を傷める」  フィリーはそう言ってセルクルから顔を逸らした。 「寝てないっス」  座り直してベッドを見つめる。フィリーは、ふん、と鼻を鳴らした。これから何が行われるのかフィリーは分かっているようで、セルクルのほうではあまり分かっていなかった。 「連れ出せ」 「…どうなさる?」 「う~ん、分かったっス。気を付けるっスよ、お互い」  肯定の返事に代わり、美しい顔が近付いて鼻先が触れ合った。エニーズのコミニュケーションは少し独特で気恥ずかしい。松葉杖を出され、支えられながら立ち上がるとリビングに向かう。冷蔵庫に大量に入っているリンゴジュースと菓子の袋を渡されて子供部屋は閉まった。テレビを点けて、菓子の袋を開けた。馬鈴薯のチップスを齧る。貧しい子供を撲殺する夢を見た。だがあれが夢でないことを知っている。腹が減っていただろう。雪国に似つかわしくない膝下や肘の出たボロ布を身に纏った姿は、この街を見てしまうとまるで絵本のことのようだった。おそらく母親と思われる貧しい女を思い出しても身籠ってしまったならそのまま産むしかなかっただろう。父親と思われる男はいないのか。貧しい村の外れの小屋ともいえないような、だが人の住んでいるらしき場所があることは知っていた。そこの人なのかも結局は断言出来ないでいたがセルクルはそうだと思っている。盗みが多いという商店の主人の愚痴は確かに聞いたが義憤もなかった。詳細を思い出しても、ただ小さな子供を殺したのだということしか浮かばなかった。チップスを齧る音が頭の中に響く。観てもいないテレビを消した。刑務所に送られるまでテレビというものは噂でしか知らないでいた。 『ぁ、っあぁ…ッ』  子供部屋の奥から悲鳴が曇って聞こえた。チップスが指から逃れて袋へ落ちる。リンゴジュースを啜ってから松葉杖に手を掛けたが、足で慰めた日に聞いたものと同じ類の色を帯びていた。 『なっ…あっァ、あっぁ…っ』  チップスを噛み直すと掻き消される。2人は恋人であり配偶者なのだ。何の問題もない。嚥下の後にエニーズが何か言ったのが耳に届いたが聞き取れはしなかった。 『ひ…っ、っく…あぁ、』  チップスを咀嚼する。下腹部に燻る艶やかな声は反響に消えていく。チップスを食べ終え、テーブルの上のウェットティッシュで油汚れを拭くと袋を畳む。 『ぁ…ぁん、う…っく、』  フィリーの不機嫌そうな顔と柔らかな保護者の表情が脳裏に浮かんだ。どういう貌をして高く蕩けた声を上げているのだろう。興味よりも不思議に思った。 『は…っぁ、ぁっ、あンんっ…!』  ゴミ箱へ向けて狙いを定める。肩の傷が開くような小さな痛みが走った。投げた瞬間に骨に鈍く重い感覚が広がった。ゴミ箱の淵に弾き返される。もう少し大きく投げたなら入っただろう。テーブルに立て掛けた松葉杖を見もせず手を伸ばす。確かに包帯越しの指に触れたが、離れていった。音を立ててフローリングに落ちる。傷付けてしまったかとフローリングの床の白い反射を眺めた。どう立とうかと体重を預けるには頼りないテーブルに捻挫の治りかけた手首に力をかける。密事が繰り広げられている子供部屋のドアが開いた。上半身裸のエニーズが焦った様子でセルクルを見て、それから床に落ちた松葉杖へ空色を移す。 「…大丈夫か」  セルクルは無言のまま数度頷いた。汗ばんだ半裸が近付いて松葉杖を拾う。汗と柔らかなエニーズの香りとフィリーの落ち着いた匂い、それから共通した洗剤の匂いが混ざり合ってセルクルの鼻を交互に掠めた。 「無事そうでよかった」  子供部屋へ戻る途中にゴミ箱の傍に落ちたゴミを捨てた。 「すんません、投げたら外しちゃって…」 「いいえ。気付かず申し訳ない。テーブルの上に置いておくといい。後から片付けよう」  子供部屋へとまた籠り、暫くした後また喘ぎ声が聞こえはじめた。リンゴジュースを啜ってまたテレビを点けた。ニュース番組の映像を暫く観ていた。キャスターの使う言語とは違う字幕が流れている。フィリーの嬌声はテレビの音声の奥で留まる。ニュース番組よりもまだ見飽きない街の果て眺めた。赤々とした空がもうすぐで全て濃紺に呑まれる。大きな川に架かった長い橋を通る車がどこへ向かうのかを、見失うまで目で追った。どこに行くのか。土地勘はまるでなかった。この街に何があるのかも。どれだけ広いのかも。ビル群がどこまで続くのかも。故郷とのあまりの違いに幼い頃の思い出がまるで夢の中で形成されたもののようだった。姉はどうなっただろう。妹もそろそろ年頃だ。母は父は。考えてはみるが空虚だった。姉だと思っていた、妹だと思っていた女性は女児は、姉妹だったのか分からなくなる。両親もまた、夢の中でそうと思い込んだ架空の存在なのではないかと思いはじめた。だとしたら、記憶に残っている義兄になるはずだった男がどうなったのかは少し気になった。  子供部屋が開いて、終わったのかと思った。 「お待たせした。夕食を至急作る」  その前に。出てきたエニーズに抱き上げられて子供部屋の中に運ばれる。両腕の拘束は解かれているが首輪に鎖が繋がれたフィリーがベッドの上に座っていた。その近くに下ろされると、視界を塞がれた。しなやかな腕と締まった胸が目の前にあったが近過ぎて焦点が合わずにぼやける。汗の匂いと、緑の茂った野原を踏みしめた時の匂いがした。額に金属が当たった。首輪の鈴がちりり…と呻く。フィリーはセルクルの髪に鼻先を埋めて、怪我を気にも留めずまるで胴でセルクルを喰らうように抱き込む。怯えているのか、震えている。上半身裸だ。寒いのだ。 「フィリーさん、身体冷やすっスよ」 「追い出して悪かった。やはり傍にいてくれ。肝が冷える」  嗄れた声に哀れみが生まれてフィリーの銀髪へ包帯が巻かれた指を入れる。キッチンの生活音を奥に、近くでしゃらしゃらと銀糸の束の音がした。 「フィリーさん」  脱ぎ捨てられた衣類を摘んで、手繰り寄せる。柔らかな手触りのスウェットパーカだった。 「男同士の目合(まぐわ)いなど、お前にとっては気持ちの悪いことかもしれないが…」  2人の交接より先にも随分と度を超えた接触はあった。故郷でも刑務所で顔や手に唇を押し付けられたり、息苦しくなるほどの抱擁はされたことがない。フィリーはセルクルを軽そうに抱き上げてベッドへと横になった。気遣いは感じられるさたが、怪我人の扱いに全くといっていいほど慣れていない。頭の下にフィリーの腕が敷かれた。 「なんか着たほうがいいスよ」  掛け布を探そうと動こうものなら空いた片手が頭を掴んで、より密着を図ろうとした。口が寂しいのかまだ赤く汚れた口元で額や頬、鼻先を啄む。鎖が鳴った。首輪に付いた鈴よりも透き通った音だった。 「お前がエミィを信用するなら、俺は…」  薄い唇が離れ、言葉は濁っていった。途切れた続きを埋めるように額と額を合わせる。眠いらしく、声は溶けていた。 「家出ならいつでも付き合う…」  ゆっくりと翠の瞳が塞がり、一筋濡れていく。近過ぎたが曲がりづらい肘を引いて濡れた目元を拭った。前髪が落ちて眉間に皺が深く刻まれ、落ちた前髪を払う。2人にやられたように耳の裏にかけてみる。露わになった首や胸元に散った真新しい鬱血痕を数えて、15を越えた辺りから恥ずかしくなってやめた。

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