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第6話

 夕食が出来たと迎えにきたエニーズに抱き上げられてリビングへ移動する。夕食は全てテーブルに運ばれていた。エニーズは子供部屋に一度戻ってからセルクルの対面に座った。レタスの上にトマトとキュウリ、ハムに彩られ胡椒のかかったパスタサラダ。こんがりと焼かれ、甘い香りのするたれに浸されたピーマンの肉詰め。玉ねぎと鶏肉の浮かんだスープ。エビと枝豆を香辛料で煮込んだ米。習慣として両の掌を合わせたが、途中でやめてしまった。エニーズを見て、いただくっスと言ってスプーンを握った。 「召し上がれ」  まずはパスタサラダに手を付けた。エニーズがじっと見ていた。美味しいっスと正直に言うと、目を逸らされてしまった。 「信仰を捨てろとは言わない。貴方が信じたいのなら、私の言ったことなど気になさるな」  食前の神への感謝を途中でやめてしまったことについて言っているらしい。セルクルは首を振る。 「捨てたわけじゃないんス。迷ってるんスよ。迷ったまま語りかけてた今までがおかしかったんス」  ピーマンの肉詰めの苦味と甘味がちょうど良かった。 「出過ぎたことを言ったな」 「ううん。今度からはちゃんとご飯作ってくれたエニーズさんと、農家とか酪農の人にまずはちゃんと感謝するっス」  刑務所ではそうだった。揶揄や皮肉を込める者や言わない者もいた。まず神に祈ろうとするのはセルクルしかいないらしかった。自分たちで食料を作ったり育てたり、調理していた。幼いながらに働かなければならなかった故郷にいた時よりも様々なことを選び、様々なことを学んだ。 「私は貴方を無理矢理連れて来た。感謝など要らない」 「そうもいかないんスよ。どんな経緯であれ、それはそれとして」  鶏肉と玉ねぎの浮かぶ温かいスープに息を吹きかけて恐る恐る口に入れた。火傷しないくらいの熱さが喉を通った後に身体を温めていく。 「今日はどんなことがあったっスか」 「少し街を歩いた。貴方たちと別れた後」 「何かあったっスか」 「何も…何もこれといって珍しいものはなかった。ただレモンの木を見つけた。あまり緑の多い地域ではない。少し驚いた」  食べ慣れない水気の多い米の料理を口に運ぶ。これもまた美味しかった。 「オレの生まれ、めちゃくちゃ寒いところなんス。しかもド田舎で、雪ばっか。ずっと降ってるわけじゃないスけど、レモンが鮮やかな山の斜面とか緑いっぱいの野原とか遠くまで青い海が広がってるとか、鳥より高いところで暮らす人々とか見たことなかったな」  ピーマンの肉詰めを齧る。聖堂裏で作っていたものよりも苦味がある。肉とタレの甘さ引き立って丁度良かった。 「レモンは育たないな、あそこじゃ…」  つまらない思い出を語ってしまったと、エニーズを見た。空色の無感動ながらも無邪気さも持った美しい顔がセルクルの話を待っているようだった。 「初めてリーネア=ポワン大聖堂に引き取られた時に、だから、オレもビックリしたんスよ。見渡す限りのレモン果樹園」  温くなったスープを飲み干す。 「レモン生い茂る地から貴方を連れ去ってきてしまったのだと思ったが、要らない憂いだったかも知れない」  レタスを巻いてパスタサラダを平らげながら頷いた。 「エニーズさんはあんまり表情に出ないだけで、感受性豊かな人なんスね」  香辛料の効いた豆とエビのリゾットを口に入れた。この1品でも十分食事といえた。首を傾げられる。 「色々考えちゃうってことっスよ」  スプーンで残りのリゾットをかき集め、最後のひとくちを食べる。枝豆の食感が楽しかった。 「ご馳走さまっ!美味しかったっス」 「作り甲斐がある」  エニーズはテーブルから離れ、カップを持ってまた戻ってきた。処方された薬をプレススルーパックから開けらて、セルクルはそれを拾って飲んだ。少し温かい。白湯だった。 「少しゆっくりなされよ。風呂には入られるか」 「いいっスか」  エニーズは頷いた。風呂に入れられるまで食器を洗う音とテレビの音声を聞き流して、大窓から夜になって煌めきを増した街の風景を眺めていた。食器を洗う音が止み、子供部屋に水の入ったボトルを運んで、戻ってきてから浴室に向かった。 ◇  子供部屋にマットレスが移され、その上でセルクルは眠った。丸めたタオルを右脚の下に当て、ビーズクッションに背を預けた。ガーゼ素材の柔らかな掛け布に包まれると心地良さにすぐに意識は呑まれていった。その隣で小さくベッドが軋む。弾んだ吐息に粘着質な音が響いた。獣のような体勢で2つの影が重なり衝突を繰り返す。 「あっ……また、イ……く…っ、ぅ」  声を上げそうになると細い指がフィリーの口内に入った。 『いつもにも増して感じやすいですね』  フィリーの身体が小刻みに震え、エニーズは緩やかに腰を打ち付けた。首に繋がれたら金属と金属がぶつかる。鈴が鳴りそうになってフィリーは痛いほど握り締めた。セルクルが対面の壁の真下ですやすやと寝息を立ている。 『ぅう……あ…』 『ッ…そんな締めないで…っぁ』 『ぅ…あ、中…ぁ…ァ、ッ』  弛緩したフィリーの腰を支えてエニーズは背筋をしならせた。射精の余韻に浸りながら硬い筋肉を愛撫する。そそり勃ったままのフィリーの前を扱くと、掠れた息が抜けていく。後ろで達して収縮を繰り返していた粘膜は一度落ち着いたが前の刺激で白濁を吐き出して間もないエニーズを噛み締める。 『ぅん……ぁ、あっ、前、やめ…っぁ、』 『出さないわけにはいかないでしょう』  くちゅ…、くちゅり…ぬちゅ…と湿った音が荒い呼吸よりもはっきり響き、セルクルが起きるのではないかとフィリーは幼い寝姿から目が離せないでいる。 『…ぁっ、ァ、やめろ……放、せ…っぁ、ぅ、ん、』 『出してください。我慢しないで』 『や、ぁっん、は……ぁッ』  先端部を指の腹で抉り、それから根元から大きく擦り上げる。屹立の真下の双玉がせり上がり、結合した内部が大きくうねる。挑み絡まれ、奥へ誘われるとエニーズはまた穿ちたい欲望に駆られる。 『あぁァ、…あ…っ』  腰を慎重に離して、またゆっくり貫く。汗ばんだ背が強張り、エニーズはフィリーの片腕を掴んで引き寄せる。 『彼が傍に…いるからですかッ…?』  フィリーは眠るセルクルのほうへ躊躇いがちに頭を向けた。その瞬間に内部が大きく引き絞り、エニーズは強く奥を突いてしまった。 『ぁぁっ…っあ…ぅ…イっ…く…』  扱いていた肉茎が爆ぜた。銀髪を揺らし首を垂らす。掴まれていない腕でエニーズの手を退かそうとするが、鈴がかちかちと鳴った。 『…ァ、っあ…あ…』  先端の穴を塞ぐ。少しずつ迸り、粘液を噴き出すたびに身体が波打った。背に覆い被さり、首輪の上から首を押さえ、肩や耳に吸い付く。互いの下半身が潰れることも厭わず押し付け、引いては穿つ。 『…腹……熱…いっぅ、く…ぁッん…』  ガーゼケットに埋まっていた身体が動く。寝返りをうとうとしてから、痛みに呻いた。駄々をこねるように身体へ抗議する、う~んう~んと魘されているような小さな喚き。フィリーは、はっはっと息を乱す。すぐにまたセルクルは安らかに寝息を立てる。フィリーの欲に浮かされた横顔に柔和な雰囲気を醸し出され、エニーズの静かな気性を炙り、最奥をいたぶらずにいられなかった。 『ぁあっ!』  突くたびにフィリーは身悶えた。のたうち、エニーズの腕から逃れようとする。 『っイ、く…!』  震えて暴れる肉体を抱き締める。フィリーは内部を抉られて吐精した。同時に果てた収縮によってエニーズも奥で達した。ぐったりしながらベッドへ崩れ落ちる夫を支えて、腰を離す。セルクルの寝顔を暫く熱が冷めるまで眺めていた。 「ぅ、ん…」  唸って、セルクルは一度目が覚めた。背を支えるビーズクッションから上体を起こした。ベッドに前を寛げて腰掛けるエニーズの陰が浮かぶ。明るい夜で刳り抜かれたような窓から入る光を背後から浴びる青年の姿は美しかった。 「起こしてしまったか」 「う…ん?水…」  寝呆けたままで呂律が回らずに喉の渇きを訴える。立ち上がろうとして立てず、頭を掻いてから松葉杖を探す。 「待たれよ。至急お持ちする」 「う…ん、うん…」  聞いてはいなかったが適当な返事をする。喉の渇きを忘れてまたビーズクッションへ身を預ける。肌触りの良いガーゼケットを頬まで掛けてまた眠る。故郷の固く厚い毛布とも、刑務所の繊維の粗いざらついた掛け布とも違う。眠りかけたところでエニーズがストローを入れたカップを持ってくる。肩を優しく叩かれて、ストローを口に含む。熱すぎない湯が喉を通った。 「うん…ううん…」  目を瞑ったままセルクルは声を漏らしてストローを啜る。 「どこか痛むか」 「うん…?ううん。大丈夫…」  冷たい手が額や頬、首に触れた。溜息が聞こえて、ゆっくりとビーズクッションに倒される。 「よい夢を」  前髪越しの額に唇を押し当て、エニーズはガーゼケットを直した。  セルクルは松葉杖が必要なくなるまでに回復した。床に着くたび軋むような痛みがあり右足にはまだ湿布を貼っていた。1人で出歩くとフィリーが度の過ぎた心配と干渉を受けるためエニーズと共に散歩に出掛けたり買い物に出掛けていた。フィリーはセルクルが歩けるようになるまでは子供部屋と浴室までの間しか動かなかったが、セルクルが目の届くところにいれば文句も退屈も無いらしかった。自力で歩けるようになってからは首輪を外されたのもありリビングにまで来て、抱き締めたり撫でたりして腕で存在を確かめているようだった。性の処理も一方的に口で行われた。時々、子供部屋の対面の広い部屋のバルコニーで風に当たっていることもあったがその時は決まって不安定で口数が多かった。そして今日もだった。  バルコニーでじっと遠くを眺めて、それから手摺りに背を預けて、部屋にいるセルクルを見つめる。何も用がなくても、セルクルを黙って見つめた。セルクルは求人誌に目を通していた。いつまでも何もせず2人に経済的依存をするわけにもいかない。何よりすることがなかった。テレビを観るか、エニーズと外に出ることくらいしかやることはなかった。見知らないこの地で、逃げるつもりはないことがフィリーには伝わらないようだった。おそらく求人に応募したところで反対されるだろう。出先で何かあったらどうするつもりだ。冷たく、だが過保護にそう言うのだろう。しかしこの生活がいつまで続くのか。エニーズはそのことについて何も考えていないのか、口にしたくないのか、訊くことも憚られる。弟分であることを隠したまま、ある程度の年齢になるまで待ち、恋人を持つまではこのままということもある。恋人。セルクルは考えて首を振った。バルコニーにいたフィリーが戻ってきて、対面に座る。何か言われるのかと警戒する。 「働くのか」 「…うん。もう、ほぼほぼ元気っスから…それに、暇だし」 「油断するなよ。合わなければすぐに辞めろ」  フィリーの顔を見られなかったが、意外な返答にフィリーの顔を見てしまった。 「反対されるかと思ったっスよ」 「傍に居させるだけではただの自己満足だと、少し考えていた」  松葉杖が必要なくなってから首から下げるようになった小さな袋を認めてフィリーは小さく嘆息する。 「貯蓄はある。その点は心配するな。だから、体調を優先しろ。どんな些細なことでも」 「はい…っス」  セルクルの返事に満足したらしくフィリーは頷いた。そして立ち上がって部屋から出て行こうとしたためセルクルは呼び止めた。 「エニーズさんのお客さん来てるっスよ」 「エミィに?」  フィリーはドアノブに掛けた手を下ろす。訝しんでいるようで、またセルクルの目の前に座った。 「珍しいんスか」 「…多分」  ぐるりと天井を見回して、間を置いてから曖昧な答えた。エニーズはフィリーと長い様子だったがフィリーにとってはそういう意識は無いようだった。 「訪問販売とか営業って感じではなかったみたいっスけど」  フィリーの普段の不機嫌な顔が険しくなる。 「どうしたんスか」 「ここで待っていろ。絶対にリビングへ近付くな」  再びフィリーは立ち上がってリビングへと出て行った。何か大切な話なのか。銀髪の端麗な姿が見えなくなってすぐに両耳を塞ぐほどの騒音が聞こえた。テーブルが倒れた音だと思ったがそれにしては派手だった。エニーズの声が聞こえて、それから訪問者の慌てた声が聞こえた。近付くなと言われたが守っていられる状況ではない。まだ鈍く痛む右足に気を付けながら立ち上がる。ドアノブを捻る直前に怒鳴り声が聞こえた。 『ふざけるな!』  グラスの割れる音がした。鈍い音も聞こえ、それが誰かが転倒したものかと思いセルクルはすっと扉を引いた。 「どういうことだ!」  フィリーはエニーズに馬乗りになり、振り上げた腕を訪問者に押さえられている。 「あいつは何のために…!っくそ!」  フィリーはエニーズの胸に置いた腕で顔を重く打った。エニーズは唇を噛み締めてフィリーを凝視していた。 「フィリーさん!離して!何してんスか!」  呆然としてしまったが我に返ってフィリーの身体に触れる。突き飛ばされんばかりに強く撥ね退けられた。 「フィリーさん!」 「黙れ…っ!」  乱暴な力に怯んだ。エニーズはただフィリーを見上げている。訪問者もまた腕を振り払われた。 「やはり分かっていたのですね。彼があの子でないということくらい」  フィリーの拳がエニーズを打つ。無言のまま鈍い音を立てる。セルクルの頭の中は真っ白だった。気付いているのだ。確信した。 「あいつの人生、何だったんだ…」 「已むを得ません」 「今のお前はただの民間人だろうが!」 「逃れられないのです、出自からは」  フィリーは再び拳を振り下ろす。エニーズの唇が切れて血を流す。すぐに治るといっても、見慣れた赤い血に汚れていく様は痛みの幻の痛みを映す。 「フィリーさん…やめてくださいよ…何してんスか…」  弟分でないと知られている。暗黙の了解であったのかも知れないがもう暗黙ではなくなった。 「セルカ。貴方を大聖堂にお送りいたす。ご支度をなされよ」  エニーズが首を仰け反らせてそう言った。フィリーは殴打をやめ、額に掌を当てた。 「あいつが贄になったというに、まだ足りないと言うか…」  エニーズの上に乗ったままフィリーはがくりと肩を落とした。銀の髪が大きく揺れた。 「…分かった…ス…」 「身勝手だった。謝って済むことではない…が…」 「いえ…」  支度と言っても何もない。管理人から贈られた松葉杖くらいだ。部屋に戻って、首から下げた小袋を外す。新しくこの部屋に買い与えられたベッドへ置く。まだ新品同様だがこうも早く離れることになるとは思わなかった。故郷から刑務所へ、刑務所から大聖堂へ、大聖堂からこの地へ。移住は慣れている。小さな袋を眺めて、生贄となった弟分に漠然と羨望を抱いた。彼がここで3人で住むはずだったのだ。もっと上手くやれたかもしれない。導きを誤ったのか。バルコニーの奥の狭い空を見上げて両手を合わせた。幾日振りだろう。 「上手くやれず申し訳…ございませんでした」  神に謝罪する。もう必要のない松葉杖だけを持ってリビングに戻る。注射器を持ったエニーズと床に倒れているフィリーを見た。 「セルカ…本当に…」 「いいんス。フィリーさんが気付いてたんなら、よかったっス」  エニーズは小さく息を吐いて、訪問者に合図した。セルクルは先にマンションの一室から出た。外にも複数人のスーツ姿の者がいた。フィリーの様子でも見ていたのか少し遅れてエニーズも出てきた。 「引き払いとフィリーをお頼み申す。大聖堂に向かっていただきたい」  エニーズはスーツ姿の者たちを置いて真っ白い制服に制帽の者を連れて下へと降りた。セルクルは何度かマンションを振り返った。おそらく二度と住めることはない高級な土地。真っ白なショーファードリブンカーに乗せられる。エニーズは助手席だった。広く長い車内だったため茶髪の後頭部とは随分と距離があった。長い間車に揺られ、休憩に小さな町へ寄る。運転手が外に出て一服する。エニーズは助手席に座ったままだった。体勢を変えながら、車窓の奥の風景や運転手が燻らせる紫煙が溶けていく様を見ていた。 「きちんとお話しておくのが筋だと思う。聞いていただけるか」 「はいっス」 「また前の仕事に戻ることになった」 「そうなんスか」  ほぼ軟禁生活に近かったが楽しかった。何があったわけでもなかったが、熱い湯と温かい飯と柔らかな寝床、穏やかな会話があった。2人も過保護なほど優しかった。少し経てば故郷の思い出が霞んでいるように、いずれ濃霧の奥に消えていくのだろう。 「2人にはめちゃめちゃ良くしてもらったと思ってるんス。ありがとうっした。だからあんまり気にしないでくださいっス」 「私はまた、人を見殺す。今すぐにでなくとも…」  エニーズの声で浮き沈みが分かるようになってしまったことをセルクルは悔いた。落ち込んでいるらしかった。何と返していいのか迷い、何も言えなくなった。 「何かあったんスね」 「…最後まで甘えてすまない」 「いいんスよ。最後っスからね。それにエニーズさん、オレに甘えたことなんて無いっしょ」  日が最も高く上がる時間帯だった。眩い空を見上げた。雲ひとつない。エニーズと同じ色をしている。 「甘えていた。甘えていたのだ。認めたくなかったのだと思う、私もフィリーも。貴方を代わりにして、あの子へ向けていたものを向け続けていないと、認めてしまう。それが怖かった。私はあの子を見殺したことを、フィリーはあの子を救えなかったことを」 「そんな似てたっスか」 「段々と彼だって貴方を貴方として、認識していたのではないか。ただ様々な情報と感情が邪魔をした」  そうっスか。フィリーとの関わりが頭に浮かんだ。まだ柔らかな感触を額や手の甲に思い出せる。銀髪の手触りも。いずれ消える。霧がかかり靄の奥に霞むのだ。嫌だなと思った。忘れたくない。 「貴方にあの子を刷り込むことで、あの子を少しでも忘れるのが怖かった。あの子はもういないから、あの子に重ねることで…あの子が穏やかに暮らせている妄想でしか私たちは満足出来なかった。すまなかった。貴方という存在を踏み躙った」  何かを見出せていた。あの生活に。退屈ではあったがそれでも。これからはただ退屈な日々が続くのだ。 「別に、そうは思ってないスよ、オレは」 「きっと私たちは、たとえ貴方を連れ去る時に戻ったとしても同じことを繰り返すだろう。何度も。私はあの岬で貴方を連れ去る」 「それが天命なんじゃないスか。いいんすスよ、都合の悪いことは全部、天の上の誰かのせいにしましょ。その方が楽っス。エニーズさんが後悔しなくていいんス。背負わなくていいんス」  エニーズは黙った。運転手が戻って来て、また車は動き始める。セルクルは盗人の少年を撲殺した時のことを考えていた。おそらくあの時に戻ってもまたやるのだ。条件が揃ったことを全く関係のなかった天空へ感謝して。また長い距離を車は進む。見慣れた土地に来た時には空は緋色が呑まれはじめている頃だった。大聖堂の駐車場に着いて、運転手が車のドアを開ける。 「長い距離ありがとうっした」  礼を言うと運転手は辞儀をする。エニーズも降りた。 「ここで大丈夫っス」 「いいや、貴方を途中で放り出すのだ。きちんと話す」  大聖堂へ入る途中にエニーズは暗く浮かぶ墓を一瞥した。 「寄って行くスか、お墓」 「いいか」 「うん」  冷たい風が吹いてエニーズに庇われる。海の果てに緋色は寝そべって紺色にもうすぐで呑まれそうだった。 「ここにはもう来られない。私の言えることではないが、この地を頼む」  墓石の前に屈むエニーズの背。茶色の豊かな髪が風に揺れる。何度も見た後ろ姿を、脳裏に焼き付ける。 「貴女の遺した大切な御人を守れず、また貴女を裏切ります。……さようなら」  潮風が攫っていく。辞別の言葉を紡げないところを見ると、よく知らない相手なのかと思われたが、セルクルはこの者がここへ足繁く通っていることを知っている。白百合の豪奢な花束を携えて。エニーズはそうして立ち上がり、大聖堂へと向かった。 「た、だいま…帰り…ました」  大聖堂に踏み入れる前にセルクルは久々の挨拶を交わした。孤児院の改修工事はすでに終わり、子供達の姿はない。エニーズは堂内奥の彫像を見上げていた。 「あの石って本物だと思うっスか?それともガラスっスかね」  エニーズは興味深そうに堂内を見回す。3体の像が連なった席の両脇に2体と1体に別かれ、対峙して置かれていた。列席者を見下ろしているようにも見えるがセルクルには2体で1体を叱りつけているように思えた。 「おそらく偽物だろう」  エニーズは数テンポ遅れてそう返した。セルクルは堂内を眺めるエニーズを横目に管理人のいる裏の事務所を覗いたが電気が点いていなかった。不在らしい。 「管理人さん、いないみたいっス。だからここでお別れっス」  事務所への扉から身を引くとすぐにある偽物らしい紅い石を像の側面から見上げて言った。エニーズの顔を見られなかった。別れるのだという実感があまりなかった。それほどまでに2人の配偶者の空気に馴染んでしまっていた。 「…そうか。では改めて書面での挨拶といたそう」  真正面に立たれて、息苦しくなった。緊張感に似ている。顔を上げられずにいると、置いてきたはずの小袋を首に掛けられる。 「フィリーさんのやつじゃないスか。ダメっすよ、これは例の弟分に渡した気なんスから、あの人」  慌てて小袋が通された紐を外そうとした。エニーズはその手を押さえて首を振る。 「これは誰でもなく、貴方へ贈ったものだ」  セルクルは納得出来ないでいた。身に覚えのないことを言ってあの男はこの小袋を渡した。躊躇いがちに頷いて小袋を握る。 「フィリーさんによろ……フィリーさんもお元気でいるといいっス」  エニーズは昏い空色を伏せ、それから、といって封筒を渡した。 「日給5万クオーレの話をしたのは覚えておいでか。小切手だ。水上都市で下ろせるだろう」 「……はいっス」  エニーズの手は震えていた。何も反抗はせずセルクルは封筒を手に取った。喜ぶべきだった。新しい居場所を見つけられる。殺めた者と同じことをせずに。性を売らずに。他人の善意に身を委ねずに。 「ありがとうっス。大切に使うっスよ…」  あまりの高額に震えているのか。笑いかけてやると、エニーズは視線を逸らして俯いた。暮れなずむ空の色が泳ぐ。 「貴方に礼を言われることなど何ひとつない!後悔で身を焼かれるようだ!これを何度繰り返せばいい?」  静寂の聖堂に響き渡る、穏やかで長閑な男の咆哮。 「繰り返すって、どういうことっスか」 「…っ」 「部外者には言えないっスよね。すんませんっス。でもあんまり背負いこむと肌荒れるし、毛抜けるし、胃に穴空くっスから…」  エニーズは項垂れたままだった。滑りやすい大理石の接ぎ目をセルクルも見ていた。 「背負いこむなって言ったって、背負わなきゃならないこと、山程あるんスよね。嫌ほどあるんスよね。この大聖堂で何人も見たっスよ。でも結局どうにも出来ない中で生きるしかないんスよね」  そういう不条理の中に生きてるんスよね。死んだ少年の姿が浮かんだ。 「人の世のことは人の世でどうにかするものだろう。だのに何故神は黙らない…!」  肩を震わせてエニーズは膝を着いた。無表情な男の決壊にセルクルは驚いて、セルクルも膝を着いた。 「あの子の命は無駄だった…!」 「え…?」 「私はあの子の命を1つと考えた。1つと考えて、何千、何千万、何億という命が救えると…思っていた」  両手がエニーズの額に爪を立てる。その両腕を押さえた。力強い。白い腕に軽々と身体を抱き上げられていた。 「神はまた生贄を欲している…人の手で抗わない生贄が…」  セルクルはついていけずに口を噤む。 「フィリーはあの子を救うために身体に様々な薬を流し込んだ。副作用にも苦しんだ。姉はあの子を守るために命を賭して、私の命令の前に散った。私はあの子を生かしたくて、あの子の心を弄んだ…私のしたことは許されない、だが…あの子を純真に守りたかった彼等彼女等を、許さないというのか…」  涙を零す顔も無表情だった。双眸が濡れて、頬を伝って落ちていく。大聖堂の交差リブを見合げて、水色の濡れた瞳が燃えがった炎を映す。彫像奥の壁を一面のステンドグラスが映り込んだか、幻覚かと思い、目を凝らす。 「従わぬ…公職には戻ってやろう。だがお前には従わぬ…!」  瞳の奥に燃え滾った炎が走っていく。高い天井を見上げている。 「エニーズ…さん…?」  エニーズは背を丸めた。苦しみはじめる。目の前のセルクルの腕を掴んだ。短く切り揃え磨かれていたはずの艶やかな爪が黒ずみ鋭く伸びていく。 「『…っセ、ルカ…』」  エニーズの心地良かった美声と異質の高い声が重なった。背筋が大きく光り、真っ白な翼が伸びていく。腕に鋭い爪が刺さっていった。 「エニーズさん…?」  エニーズがどこかへ行ってしまう。レモンの木の話をした。故郷の話を聞かせた。作ってもらった知らない料理の味。巻かれた包帯の安心感。額に触れる唇の感触。過去のものになる。きっといずれ忘れてしまうこと。だがこの身に刻まれたものだった。丸めた背から光を纏わせ伸びていく白い翼と肌を刺す黒ずんだ爪。苦しそうに歪んだ顔がセルクルの額に近付いて、額と額が合わさった。頭の中に閃光が走る。 「『神もまタ、威力を以ッテしカ決着のつケられヌ存在ナノだ』」  そう言ったエニーズの胸を真っ白な光の柱が貫いた。羽根が舞う。セルクルはただ見ているだけだった。

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