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プロローグ
古ぼけたマンションやビルが立ち並ぶ大通り。それに沿って植えられた銀杏の木は、昨日までの雨を十分に浴びて、どこかいつもより生き生きと枝を伸ばしているように見えた。
雨上がりの瑞々しい空気の中、椿由人は鼻歌混じりで機嫌よく事務所に向かっていた。夏の終わりに長く降り続いた雨。その雨が止んで広がった青空は高く澄んでいて、季節が秋に変わったことを知らせていた。久しぶりの自転車通勤に、椿のペダルをこぐ足は軽かった。元々身体を動かすことが好きだから、毎日車での家と事務所の往復では、運動不足でストレスを感じていたのだ。
自転車を駐輪場に止めて、そこから徒歩五分の雑居ビルへ足を向ける。五階建てのビルの看板にはいくつかの会社名が書かれているが、実際営業しているのは椿の勤める事務所くらいである。もっともその事務所も、社員の椿がいつ潰れても可笑しくないと思うほど、経営難ではあったが。
薄暗く埃臭い階段を上り、三階。そこに椿の職場はある。「葉山プロモーション」という文字が薄くなった表札に目をやって、これを作り直して綺麗にしたら、ちゃんとしたところに見えないだろうかと考える。が、すぐにこんなものを作る金がないことに思い至った。
毎日社長が磨くからそこだけは綺麗なガラス扉を開ける。窓を開けているのか、爽やかな風が椿の頬を撫でた。
「おはようございます」
挨拶して入るが、それに返す人はいない。何やら集まって話し込んでいる。ワンフロアしかない事務所の一番奥、社長のデスクの周りに集まるのは、椿を除いた社員四人だった。
「おはようございます!」
声を大きくして再度挨拶してみると、古株の社員、飯塚が振り返った。
「ああ、椿、おはよ」
「どうしたんですか? 何かありました?」
自分のデスクに鞄を置いて、椿も社長のデスクを取り囲む輪に加わった。
「荒木さんが辞めたってさ」
「ええ!? マジっすか!?」
「もうAVはたくさんだー! とか言って」
飯塚は今日辞職してしまったという社員、荒木の真似をしながら陽気に言うが、それを笑う人はいない。椿も笑えなかった。これで正社員五人、アルバイトが二人になってしまったのだから。
一人座っているこの事務所の社長、葉山はしばらく考え込むように腕を組んで黙っていたが、やがて顔を上げ、椿にまっすぐ視線を向けた。
「まあ、しょうがないね。荒木君が担当してた子は一人だったし……椿君、今手が空いてたよね?」
「え、あ、はい」
椿が担当していたアイドル志望の女の子は、先月辞めてしまっていた。だから椿は今、誰も担当していない。
「椿由人君」
「はい」
返事はしたものの、椿は嫌な予感しかしなかった。
「君は今日から志岐天音のマネージャーです」
このときの社長の一言と少しの偶然が、椿と志岐を繋いだ。
柔らかい風、そして暖かな差し込む光は、繋がれた縁への、祝福のようだった。
椿がそんなふうに思い出すようになるのは、まだ先のことだったが。
このときの椿は降り掛かった最難に、項垂れるしかなかった。
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