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番外編:君の名前にさよならを。 三
「君は、優しいねえ」
「は?」
本気でわかっていない様子の彼におかしくなる。二十八にもなって、この子はまだ友人というものがわかってない。
とっくに天音のことを大事な友人だと考えているようなのに、絶対にそれを認めない。前に由人に聞いたら、学生時代は由人にべったりで友人を作らず、そのまま社会に出ることになったようだから、友人というものがわからないのだろうと言っていた。
「そうだなあ。エッチしてくれたら好きになっちゃうかも」
ちょっとしたいたずら心だ。純粋な彼が、友人のためにどこまでやるのだろうという、好奇心もある。それと、ヒロの死を受けて少し一人になりたいのに、させてくれない八つ当たりだった。
「いいよ。あんたが俺に挿れるの?」
しかし、即答されて瑞希の方が焦る。
「セックスするだけでいいんでしょ? それだけで俺のこと好きになるなら、手っ取り早い。もっと早く聞いとけばよかった」
三年も時間を無駄にした、なんてぼやいている。
馬鹿な子だと思った。好きになったものに、どこまでも尽くす、愚かな子。しかも自分では少しも気づいていない。
しかしその愚かさは、愛しいものだ。
瑞希は笑って、相馬の手を引いて寝室に連れて行く。
「ほんとに、しちゃうよ」
「いいってば。あ、でも突っ込まれんの初めてだから手加減しろよ?」
自らベッドに座り、相馬は服を脱いでいく。シャツ一枚になったところで、瑞希は相馬の前に立ち、唇を重ねた。徐々に口づけを深くしながら、シャツのボタンを外していく。
胸の尖りを摘むと、わずかに声を漏らした。上顎を舐めると、閉じている瞼が震えた。
感じやすいんだな……可愛い。
友人を亡くしてもこうしてセックスできる自分に、呆れる。
「俺が相馬君を好きになったら、付き合ってくれるの?」
組み敷きながら尋ねる。相馬はきょとんとして、瑞希を見上げていた。
その瞳を見て、思う。
ああ、いつものセックスしたい気持ちとは違うのかも。弱気になっているんだ。自分もヒロのように、ある日突然死ぬかもしれない。そしたら、今日俺がヒロに向けた気持ちと同じく、涙も流されずにどこか遠い気持ちでこの子にも受け入れられるのだろうかと……寂しく思ったんだ。温もりを、感じたくなったんだ。
「付き合うっていうのは、両想いになったらでしょう? 俺はあんたを好きにはならないから、付き合うことになんてならない」
なんてことだ。そこまで言い切られるとは。彼は人のどんなところに惹かれるというのだろうと気になった。
「由人君のことは、どうして好きになったの? どんなところが好き?」
「かまってくれた。それに、喧嘩強くてカッコ良かったから」
即答する相馬に、今度は瑞希の方がきょとんとしてしまう。
なんだろう、この繊細で聡明そうな顔とのギャップは。
「俺、喧嘩強くはなれないなあ」
「でしょう? それにあんた、恋人は作らないんじゃなかったっけ?」
「あれ? 話したことあったっけ?」
「先輩が言ってた。付き合ってもAVの仕事は辞められないから、とかなんとか」
そんなことを、話したこともあったかもしれない。瑞希はこの仕事を辞める気はなかったから、その状態で恋人を作れば、自分がヒロといて味わったように、悲しい思いをさせるとわかっていた。恋人が他の誰かとセックスするなんて、誰でも嫌だと思うから。
「うん、そう……。そうなんだ」
「なんでそこで落ち込むの?」
「なんでだろうね」
へらっと笑って、相馬の耳に唇を寄せる。柔らかい耳朶を食む。くすぐったいのか、息を漏らして身動ぎした。
「ふっ、ぁ」
「耳、好き……?」
囁くと、相馬は覆いかぶさる瑞希の胸を押して、機嫌の悪そうな声を出す。
「耳元でくちゃくちゃされてみろ。キモいから」
「キモ……?」
傷つく! ……傷つくけど、楽しいな。
嫌がる相馬を笑って抑えつけ、瑞希は再び耳に、今度は中に舌を差し入れる。
「も、やだって言ってんだろ……っ」
手が震えている。強気なことを言いつつも、やはり受ける側になるのは怖いのかな、などと思っていたら、絞りだすような低い声で「それ以上耳ばかり舐めてきたら気持ち悪くて吐く」と言われて、瑞希は慌てて唇を離した。
「ほんとに? 吐く?」
「うん」
そう言いつつ、相馬の顔を覗き込めば、赤くなっているのがわかる。しかしそこには何も言わずに、今度は鎖骨に唇を落とした。嫌がられると思ったが、構わずに痕をつけていく。そうしながら、相馬のベルトを外し、前を寛げる。わずかに盛り上がったそこを、下着の上から撫でた。
「……っ、そういうの、いいから」
「そういうの? 前戯?」
「とっとと挿れろよ」
「挿れるのだけがエッチじゃないでしょう?」
そう言うと、相馬は首を傾げる。
「なら挿れなくてもいいってこと? オーラルセックスじゃ駄目なの? それじゃ俺を好きにならない?」
いいと言えばいいんだけど。でもそれで、彼は自分のことを覚えていてくれるだろうか。俺が死んだらすぐ忘れてしまいそう。
「あ、駄目なんだ? あんた今日はわかりやすいね。すぐ暗い顔するから」
「してた?」
「うん。初めて会ってから、今までで一番わかりやすい。……ほんとに俺を好きになろうとしてんだ?」
相馬が瑞希の髪に指を通す。優しく撫でてくれる。
ただ、甘えたいと、思った。
相馬をぎゅっと抱きしめた。肩に顔を埋め、温もりを実感する。
好きな人がほしい。自分を覚えていてくれる人。桜田瑞希という人間に存在価値を感じてくれる人。
由人や天音はそうだろう。二人とも瑞希を、大切な友人だと思ってくれている。わかっている。でも、一番じゃない。
誰かの一番になりたいなんて、思っていなかったのに。ヒロと別れてから、そう思うことはなくなっていたのに。一番じゃなくていいから、居場所がもらえればいいと思っていたのに。
今、一番がほしい。
「あー、なんかわかった。なんだかわかんないけど落ち込んでるから、縋る奴がほしかったんだ? 俺がちょうどいいとこに現れたってわけね。まあなんでもいいけどね。俺のこと好きになるなら……あれ?」
「ん、何?」
「誰でもいいなら他の奴好きになってくれれば世話ないのに!」
酷い、と苦笑する。俺が落ち込んでるってわかってるのにそういうこと言う? 優しく髪を撫でてくれたのはなんだったの?
「好きになって」
瑞希から溢れた言葉。それを聞いて、相馬が目を見張る。それから、痛みに堪えるような顔をした。
「……好きになれない。俺が好きなのは、先輩だけ。先輩以外の奴を、好きだと思ったことない。多分、なれない。俺だって、先輩を好きでいることが無駄なことだってわかってるし、もう、志岐との中を邪魔しようとかも思ってない。でも、なれない。動かない」
心が。
「好きになってやれる奴しか好きになれない? だったらやめる? 俺はセックスしたところで、あんたを好きにはならないよ。誰でもいいなら、俺じゃない奴に慰めてもらう方がいいと思うよ」
相馬は、存在は気になるが恋愛対象じゃなかった人間だった。きっと、ヒロのことがなかったらこれまで通りの関係が続いたと思う。でも、あのとき、ヒロのことを思い出しもしていなかったあのときの自分の言葉。
“十年後くらいに相馬君と付き合ってる気がする”
あれは自分の心のままの言葉だったと思う。
「相馬君を好きになる。相馬君も、俺を好きになって。付き合って」
「なれないって……だいたい、付き合うのはあんた……」
「辞めたから」
相馬が、瑞希の髪から指を離す。視線を合わせようとしてくれているのか、瑞希の胸を押す。瑞希はそれに従って、身体を起こした。
「事務所、辞めた。今入ってる仕事をこなしたら、もう終わり」
「は?」
「だから付き合って」
「ちょっと待てよ」
相馬の眉間に皺が寄る。
そんなに変なことを言っているだろうか?
「ほんとに何があったの? あんたがAVをやめるなんて」
肌を重ね合わせているからだろうか。今まで瑞希に気遣いなど見せたことがなかった相馬が、瑞希に興味を持っているように感じた。
「んー? 友達が亡くなってね……」
言った瞬間ベッドから蹴り落とされる。
元々そういった荒っぽい絡みに慣れていないし、無防備だった所為もあって、瑞希は見事に転がり落ちた。
「相馬君!? ものすごく痛いよ!?」
相馬もフローリングの床に降り立つ。
あ、これヤバイ? もしかしてボコボコにされるパターン? 何度か相馬君に蹴られたことはあるけど、これはヤバイ感じのときだ。
内心冷や汗をかく。瑞希は蹴られた腹を擦りながら立ち上がる。上から蹴られるよりはマシだろうと思ったのだ。
「桜田……」
「な、なんでしょう?」
怒りがオーラで見えるようだと思った。三年前、十年後くらいに付き合っていそう、と自分が言ったとき以来の激しい怒りだ。
多分あのときすでに、相馬は天音のために瑞希が自分を好きになるようにし向けようとしていた。だから瑞希がまとわりつくのを我慢していたのだと思う。それを、瑞希が相馬の気も知らずに十年なんて先のことを言ったから、苛ついたのだろう。
が、今いきなり怒っているのはなぜだかわからなかった。友人が亡くなったと聞いて、なぜ怒る?
「へらへらしてんじゃねえよ」
「く、口調が由人君みたいになってますよー……?」
「うっさい」
次の瞬間、視界がぐるっと回った。突然のことに、相馬にベッドへ投げ倒されたのだとわかるまで、少し時間がかかる。相馬が大腿に乗ってきて、やっとわかった。
「友達……死んだって?」
「あ、うん。今日の朝、連絡が来て──」
「言ってくれれば、よかったのに」
静かな声だった。
「言ったら何か、変わった?」
聞けば、相馬は瑞希を抱きしめた。
「温もりくらい、やるのに」
瑞希が今欲しかったもの。
人の温もり。
「駆け引きなしで、セックスくらい、してやったのに」
相馬の言葉に耳を疑う。どうしてそこまで。セックスくらい?
瑞希を慰めるように、相馬がキスをする。触れては離れる、軽く優しいキスだった。瑞希の頭を撫でながら繰り返されるそんなキスに、じんわりと心が温かくなる。
この子は、本当におかしな子だ。
友人を亡くしたと言った瑞希を、自分と重ねてみたのだろう。自分の数少ない友人、由人や天音を失ったらと、その痛みを想像し、瑞希が辛いのではないかと、気遣ってくれているのだろう。
おかしな子。
「なあ、どうしてほしい? 俺でいいの? 先輩呼ぶ? あの人の方が、きっとあんたを上手く慰められる。志岐の方がいい? 志岐はきっと、俺より優しい」
昔も今も、自分の優しさが見えていない。
相馬の泣きそうな顔を、初めて見た。いつも瑞希には無表情か怒っていることが多くて、由人や天音に見せる表情を、羨ましく思ったものだ。それが今、瑞希に初めて見せる表情を浮かべている。
「なんか、言ってよ」
「……相馬君、俺と、一緒にいて」
相馬は目を見開く。
「お、俺じゃ、なくても。椿先輩も志岐も、あんたが落ち込んでるって知ったらすぐ飛んでくるよ」
「相馬君がいいよ」
耳元で囁く。自分から出た声が、泣きそうな声であることに瑞希は驚いた。
「泣くなよ……」
そう言ったあと、相馬は違うか、と一人呟く。
「泣いていいのか。友達が死んだら、泣くよな」
泣いていいの? 友達だと言ったけれど、実際は友達とは言えない関係だったんだ。元彼……それも、ちゃんと付き合っていたと言えるのか。
好きだった人。そうだ、好きだった人、だ。
悲しい。寂しい。
誰かに縋りたい。抱きしめてほしい。抱きしめたい。
「いいよ。今日だけは、甘やかしてあげる」
優しく目を細める相馬を強く抱きしめた。
あとは何も、言わなかった。
瑞希が求めるまま、相馬は瑞希に身体を差し出した。好きでもない男に身体を開きながら、相馬は泣いた。痛かったのだと思う。身体も、心も。
それがわかっていて、瑞希はやめなかった。上手くやろうともしなかった。求めに応じてくれる相馬に、心底甘えた。初めて男を受け入れる彼の身体は、痛いくらいに瑞希を締めつけ、その締めつけに、自分も彼も生きていることを実感した。
長い時間瑞希を受け入れ疲労困憊の相馬に、抱きしめて寝てほしいと最後まで我儘を言うと、力なく腕を回してくれた 。その温もりを感じながら、眠りについた。
──朝、目が覚めると温もりはそこになく、テーブルに置き手紙が一枚。
『あんたのデカすぎ。下手くそ』
とだけ書かれていた。
綺麗な文字にぶっきらぼうな言葉。相馬らしい置き手紙に、思わず笑みがこぼれた。
夜になって、由人に電話をした。
「どうも。お久しぶりです」
その声を聞くと、自然と笑みが漏れる。やっぱり、まだ好きな人なのだと思った。
「今日はあめ、いないの?」
「はい。明日は朝が早いらしくて、もう帰りました」
朝早いのか。相馬もきっと一緒だろう。昨日は相馬の身体のことを考えることもなく抱いてしまったから、大丈夫だろうかと心配になった。
「瑞希?」
「あ、ごめん。由人君は勉強どう?」
「まあまあです。相馬にも教えてもらってるし。瑞希にもまた聞くと思うけど」
「俺でわかることなら遠慮無く聞いてね」
「ありがとうございます」
そう答えつつも、相馬の名前が出てどきりとする。この様子だと、相馬からはまだ、由人に何も話していないようだ。
まあ、話しにくいか。俺とセックスしてしまったなどとは。
「それで、今日はどうしたんですか?」
「うん……えっと、AVをね、やめようと思って」
「マジすか!?」
もう三十路だしね、と気にもしていなかった年齢のことを言い訳にすると、由人は少し疑問に思いつつも納得してくれたようだった。
「瑞希も、ちゃんとした俳優とか目指せばいいのに。俺あなたの演技好きですよ」
簡単に好きとか言うから困ってしまう。意味はもちろん違っていても、彼から出る「好き」という言葉には、いちいち胸がときめいてしまうから。
「うーん、そう言ってくれるのは嬉しいんだけどねー」
「普通の仕事するんですか?」
「うん。友達がやってるカフェがあってね、実は何年か前からそこで接客をやってほしいって頼まれてたんだ」
しつこいくらいに誘われているから、きっと瑞希の数少ない女友達である彼女は喜ぶだろう。
そう言うと由人は残念そうな声を出したけど、瑞希が新たに決めた道を、応援すると言ってくれた。
「桜田ヒロは、もういなくなるよ」
何気なく出た言葉を聞いて、由人は黙る。
「瑞希、何かあった?」
「うん……由人君」
「はい」
今までありがとう。君の中に俺の居場所をくれて。君を好きになって、本当に楽しかった。今も、大好き。
「あめに、由人って、呼んでもらって?」
ねえ、だけど、新たに歩き始めることができると、昨日思ったんだ。新たな恋を、したんだ。
「それって、瑞希……、誰か好きな人……?」
「うん。好きになっちゃった」
身勝手で、由人を長く苦しめた彼。そういう自分勝手に好きな人を苦しめる人間が、嫌だった。
なのに、自分勝手なのに、相馬君は優しい。いや、優しくなったんだ。好きな人さえ苦しめてかまわない、いや、苦しめたいと思っていた子が、俺みたいに気に食わない奴にまで優しくしてくれるようになった。
優しくなったらなったで、心配になるくらい友達に尽くす。友達だとは思っていないだろう俺にまで、身体を差し出して。
ねえ、そんな彼に惹かれずにいられると思う?
「まだ片思いだけどね」
「瑞希はいい男だから、そいつも絶対好きになりますよ。相手って誰か聞いてもいい?」
「うん。相馬君」
ゴン、と電話を落としたような音が聞こえた。しばらくして、由人がやっと声を出す。
「そ、相馬? ってあの、相馬?」
「相馬秋良君。由人君の後輩で元ストーカーの」
絶句している。面白いくらいに。
「もう告白はしてるんだ。本気にはとられてないみたいだけど」
「そ、そうなんすか……いや、相馬、俺にはああだったけど、今はいい奴だし、いいと思うんだけど……」
「けど?」
少し間があってから、由人は言いにくそうに言葉にする。
「あいつに好かれたら、監禁されることは覚悟してくださいよ。他の奴に好意なんか見せたら……あ、そうなると一番危険なのは俺か。好意なんかみせたら、あんたも俺も、無傷ではいられないから。だから相馬と上手くいったら、絶対俺にも天音にも好きとかなんとか言わないでくださいよ!?」
「あはは」
「笑い事じゃないですからね!」
そんな風に執着されてみたいな。そんなに強く激しく、想われたことってないかも。
彼の愛が欲しい。
──ヒロ、君にされたことを嘆くつもりは、もうない。ただ君の愛をもらえなかったこと、それは俺の一生の悲しみだと思う。
そしてまた、君は俺に悲しみを与えた。
俺に悲しみだけを残して逝ってしまった君。友人として最期まで再会できなかったことを、嘆くよ。
どうか、今は心安らかに眠っていますように。
ずっと使わせてもらっていた、君の名前にさよならを──。
番外編 君の名前にさよならを。
終
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