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番外編:君の名前にさよならを。 二
大学ですれ違っても、ヒロは瑞希に視線を送ることさえしなかったし、瑞希からももちろん近寄らないようにしていた。卒業してからは一度も姿を見ることはなかった。
だから、ヒロが瑞希と別れたあと、どのような十年を送っていたのか、瑞希は知らない。
瑞希はというと、ヒロが残した心の黒い染みに引きづられるように、AVという道に足を踏み入れていた。
人としての何かが、ぶれてしまっているのだと思う。無邪気に人を傷つけるヒロの名前を使ったのは、酷いことをされても瑞希の中でいつまでも綺麗な存在に感じるヒロを、汚したかったからかもしれないと思っている。
そして、今日に至った。
ヒロはどうして死んだのか。
瑞希はヒロの死の理由を佐伯に聞かなかった。聞いたら想像してしまう。あの綺麗な愛らしい子が、この世から消える瞬間を。そうしたら自分も、呼吸を止めてしまいそうだった。
なんでだろう。俺が好きなのは、由人君なのに。
それから瑞希は、予定していた相馬の家に押しかけることはせず、家を出てまっすぐに事務所に向かった。
社長とマネージャーと話をして、事務所を出る頃には辺りは真っ暗になっていた。
瑞希は自宅マンションの前に立ちつくしていると、桜がひらりひらりと散った。白く光っているような花弁をぼうっと見上げる。
自分の十年は、なんだったのかなと考える。桜田ヒロという存在は、なんだったんだろう。カッコイイね、抜けるね、気持ちいいね。よくそう言ってもらえた。それでいいと思っていた。でも今、そう言った人たちのうち何人が、自分のことを覚えているだろう。
散っていく桜。足元に落ちている花弁は、踏まれて千切られ、汚れ、見る影もない。自分はせいぜい、この落ちている花弁みたいな存在なのだろうと思った。落ちた瞬間から忘れられる。
らしくもなく感傷的な気分になって、桜の雨の中立ち尽くしていたときだった。
「花見?」
桜に見入っていて気が付かなかった。声のした方を振り返れば、相馬が数メートル先に立っていた。
「相馬君……?」
「何? 他の誰かに見える?」
「あ、いや、うんと……」
頭の中が、ヒロと一緒にいた頃にタイムスリップしていたようで、急に現れた現実に頭が追いつかなかった。
「あんたがへらへらしてないの、珍しいね」
「ちょっと、ぼおっとしてた」
「ふうん」
彼の、由人以外には愛想のないその口調を聞いて、少しずつ地に足がついてくる感じがした。
……うん。大丈夫。俺はここにいる。
「一人?」
「うん。志岐は明日久しぶりに仕事休みだから。今日は先輩の家に行ってるんじゃないかな」
こうして、相馬は瑞希の家によく来る。瑞希も同じだけ、相馬の家に遊びに行っている。
由人に振られたもの同士が、こうして何年も友人でいるのは(友人だと思っているのは恐らく自分だけだけれど)おかしいだろうかと、ときどき思う。特に自分は毛嫌いされているし。
自分が相馬に付きまとうのは、天音や由人になんだかんだと尽くす彼が気になるからだろうと、考えている。それは保護者のように勝手に思うお節介な気持ちで、それをわかっているから、相馬は瑞希のことが気に入らないのだろうということも感じている。
相馬秋良という人間は聡明であると、瑞希は日々感じていた。由人と一緒に勉強をしていてもわかる。学歴は高校中退となっているが、勉強はできるし、物事もよく知っている。
しかし彼は、人付き合いに関しては歳相応などでは決してなかった。いや、人付き合いと言っても、仕事などでは上手くやっている。要領はいい。
彼が不得意なのは友人との距離の取り方だった。
もしかしたら天音よりも、友人の付き合いに関しては純粋な気持ちを持っている子だと思う。それは中学生のときからずっと由人だけを追い、彼への思いで人生を変え、ひたすら彼だけを見ていたからか。
「いいね」
急に笑われて、瑞希は意味がわからず困惑する。
「へらへらしてるあんたはムカつくけど、そうやって落ち込んだ顔してるのを見てるのは気持ちがいい」
「酷いなあ」
「そう言いながら笑わないとこみると、ほんとに何かあったんだ。はは、家行っていい? 今日はじっくり話そうよ」
人が落ち込んでるのを見て喜ぶとは……。
天音や由人のように自分が友人だと思っている人間には優しいが、自分のように友人だと認められてない人間には、相馬は優しさの欠片もみせない。それはそれで、彼の純粋さが現れていると思う。
「桜、綺麗だね」
瑞希のいつもと違う様子への関心はもう薄れたかのように、相馬は桜を見上げた。瑞希もその視線の先を追う。
先ほど見ていた散って汚れてしまった桜でなく、綺麗に咲き誇っている桜。それは、心を引き寄せる。
瑞希はヒロの外見、由人の自慰をする姿に惹かれた。そんな、ヒロのことがあってからも外見で惹かれる自分にしょうがないなと自嘲してしまう。自分がこうだから、余計に天音と由人のようなドラマティックな関係に憧れ、守りたいと思うのだと思う。天音のために一生懸命尽くす由人に惚れたのは、多分それだからだろう。
それはきっと特別なことじゃない。綺麗な桜に心惹かれるのは、当然のこと。
「なんか、変な感じだね。相馬君が花を綺麗だなんて言うの、初めて聞いた気がする」
「そう? まあ、あんまり興味はないかな。でも、あんたがずいぶん真剣に見てたから」
「俺にも興味ないくせに」
笑いながら言うと、相馬は首を傾げた。
「変。何? 俺に興味持ってほしいの?」
「え、あ、うん。そりゃあ、俺は相馬君のこと友達だと思ってるしねー」
確かに「興味ないくせに」なんて言葉、自分らしくなかったかもしれない。そもそも、自分らしいってなんだっけ。桜田ヒロって言うのは、どういう人間だっけ。……駄目だ。完全にヒロのことで動揺して自分を見失いかけていると思った。
「相馬君、ごめん。やっぱり今日俺変かも。また今度食事でもしよ……って、え?」
相馬は瑞希の手を引いて、瑞希の家の方に歩き出す。やんわり帰ってと言っているのに。
「三年見てたけど、あんたが揺らぐ瞬間がなかなかなかった。こんなチャンス逃がすわけがない」
相馬の言っていることは意味がわからなかったが、強く反論するのも躊躇われ、結局そのまま引きづられるように歩く。
ひらりひらりと舞い散る桜の中を。
「鬱陶しいけど、やっぱり綺麗だ」
目の前をひらひら散る桜の花弁を見ながら、相馬が言う。
「散ってるときは白く見えるから、雪みたいだ」
「散り際が綺麗だって言うよね。散ったら綺麗でもなんでもないけど」
相馬が足を止めて振り返る。
「そう? あそこ。落ちて重なればまた色づいて見える。やっぱり綺麗だと思うけど」
散った桜の花弁がいくつも重なった道の隅。それを指さして、相馬は笑った。薄ぼんやりとした灯りの中、淡くピンク色に見える花弁。
──落ちても、綺麗だと思ってくれるのか。
「また変な顔」
何となく声を出せなくて、また歩き出した相馬の後ろを黙って着いていく。
変わった子。
由人を苦しめていたこともある子だから、初めは、分かり合うことはできないと思っていた。なのに、わかりにくいけれど、優しいから。瑞希に向ける言葉は厳しいものでも、彼はちゃんと優しい子だと感じるから。だから、気になってしまう。
部屋の前に着いて、相馬に促されるまま瑞希は鍵を開ける。相馬は遠慮することもなく上がり込む。瑞希も同じようによく相馬の家に行くから、それは気になることじゃない。
気になるのは、相馬が先ほど言っていた言葉の意味。
「ねえ相馬君? さっきの意味って──」
「あ、やっと喋った」
相馬が笑う。
……俺もおかしいけど、相馬君もおかしくないか?
三年間よく会ってはいたが、相馬の発する言葉はだいたい瑞希へ苛立ちをぶつけてくるものばかりだった。瑞希はそれを楽しんでいたけど、相馬は心底嫌がっていたはずだ。嫌なのになんで会いに来るんだろう、自分が会いに行くと家に入るのを結局許すのはなんでだろう、と思っていた。由人や天音が一緒じゃないと、笑うこともあまりなかったのに。
「桜田」
肩から掛けていたトートバッグを落とし、相馬が瑞希を呼ぶ。両腕が正面から瑞希の肩に乗せられ、密着する。
「相馬君?」
「動揺してる。いつもだったら即座に『エッチする?』なんて聞いてくるくせに」
それで殴られ蹴られるパターンを、何度も経験した。
今日は本当に、いつも通りに振る舞えない。
「ごめん。今日はさ……」
「俺を好きにならない? もうだいぶ前に、俺と十年後くらいに付き合っていそうって言ったのは、そういう意味じゃないの?」
耳元で囁かれる。
甘い声ではない。冷たい声でもなかった。
あのとき、天音や由人のことを想って行動する相馬に、そう思った。いつかこの子と、付き合う日が来るのかもしれないと。
しかし。
「まだ由人君が好き。それは、君も同じでしょ?」
「俺のことは関係ない」
「関係ないことないでしょ」
「あんたが俺を好きになることと、俺が椿先輩を好きなことは関係ない」
関係ないことには思えないけど。彼がそう言うのならばそういうことにしておこうと思った。
「どうしたら俺を好きになるの?」
なぜ相馬は、自分に好きにならせようとするのだろうと考える。確実に、彼は瑞希のことが好きなどではない。嫌々会ってくれてるというのは、自分の勘違いじゃないはずだ。
「もう、先輩のことはいいじゃん。俺を好きになってよ」
触れた唇。気持ちのこもっていないキス。一度だけ触れ、離れていく。
「俺は、ろくな人間じゃないよ」
「ろくな仕事をしてない、だろ? 付き合うわけじゃないんだから、そんなの関係ない」
「付き合うわけじゃない……? ほんとに、どうして俺に好きになってほしいの?」
そう問いかけつつ、瑞希は相馬の綺麗な顔に手を伸ばす。頬に触れると、嫌そうに眉を寄せた。
……やっぱり俺の事、好きじゃないよね。
「俺のこと好きになったら、あんたは先輩の名前を解放するんでしょう? そしたらあいつの何年もの憂いがなくなるんだ」
天音のため。
「いい加減、志岐に由人って呼ばせてやれよ」
自分を睨む相馬に、瑞希は思わず頬が緩む。
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